たけもとのぶひろ(28回)– 月刊極北

今月のラッキー

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日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(6)

 世界史的視野でみたとき「憲法9条および前文」は先進的な意義を有しています。そのことは前回も書きましたが、その際にぼくが念頭においていたことは、史上初の、前代未聞の思想を体現している、というほどのことでした。
 それは、しかし、「憲法9条および前文」を目の前に置いて、単に自分の外にあるものとして見たばあいの、いわば “評価” みたいなものの域を出ていないのではないか――いま思うとそんな気がしてくるのでした。もう少しポジティブな言い方をすると、「憲法9条および前文」について、もっと自分に引き寄せて、自分自身のこととして、主体的にとらえないといけなかったのではないか――みたいなことなのですが。

 気がついたのは、ソチ冬季五輪における女子フィギュアースケートの選手・浅田真央さんの「3回転半」ジャンプをめぐる、インタビュー記事に接したのがきっかけでした。
 記者のインタビューに応えていたのは、振付師のローリー・ニコルさんだったと思います。(ただ、関心のあるその部分だけを抜き書きしたメモが残っているだけなので、ニコルさんかどうか断定はできないのですが)。とまれ、その部分のQ&Aを以下に引用します。

――浅田が3回転半を捨てればもっと楽だったと思うか。
「チャンピオンだからこそ、簡単な道は選びたくなかったはずだ。「なぜやらないのか」と、
 みなさんも必ず聞いてくるでしょう。先進的な技に取り組むことには責任が発生する。」

 女子フィギュアスケーターのなかで「3回転半」ジャンプを飛ぶことができるのは、浅田選手ただ一人だそうです。唯一人挑戦権をえた孤高の存在であるとの自覚があったからこそ、浅田選手は、「3回転半」を避けて通ってはいけない、挑戦し続けなければいけない、と自分に言い聞かせてきたのだと思います。発生した責任を引き受けるというのは、そういうことではないでしょうか。

 同じく、「憲法9条および前文」の先進性についても、日本国憲法を公布・施行したその時点で責任が発生したと考えざるをえません。そして、それ以来ずっとその責任が問われ続けてきて、いまなお問われているのだ、思います。

 では、先進性とともに発生した責任、問われている責任を果たすとは、どうすることなのでしょうか。早い話、「3回転半」を飛んでみせるのと同じことだと思います。
「憲法9条および前文」を、自分たちの政治・経済・生活のなかで引き受けて、生きてみせる。国際社会における、自身たちの思想と行動として実践してみせる。そういうことではないでしょうか。

 しかし、それにしても、わが「平和憲法=憲法9条および前文」は、その先進性とともに発生した責任の引き受け手を、いったいどこに求めればよいのでしょうか。ここにいう「責任の引き受け手」は、単に引き受けるだけでは済まされません。それを生きて「みせる」必要があります。それを実践して「みせる」ことが問われています。
 だれに「みせる」のか? 世界中の人々、国際社会の同時代人の目の前で、やってみせる、ということです。だって、テーマが「世界の戦争か平和か」ということなのですから。

 世界中の人々・国々を相手に責任を果してみせなければならないのは、日本国憲法――とりわけ「憲法9条および前文」の起草を主導した当事国、草案決定に協力した当事国はもちろんですが、その制定に承認を与えた関係国も上述の責任を免れることはできません。ここで主導した当事国とは米国・占領軍です。決定に協力した当事国が日本政府であることは言うまでもありません。また関係国とは、「極東委員会」(=連合国による日本占領にあたり日本を管理するための政策機関)の委員国です。委員国は11カ国、英・米・ソ・中・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フランス・フィリピン・インドです。

 新憲法制定へといたる日本における動きを見ておきましょう。敗戦後いまだ4カ月に満たない1945年12月8日――因縁の日です――松本国務相が憲法改正4原則を発表します。それからおよそ2カ月後の1946年2月13日、占領軍はこの憲法改正松本案を拒否し、司令部案を日本側に交付します。同年11月3日、議会は占領軍の書いた憲法草案をほぼそのまま可決します。
 つまり、「憲法9条および前文」をかかげる新憲法は、米国・占領軍が草案を書き、日本の議会が可決し、極東委員会を構成する11カ国がその制定に承認を与える、という国際社会レベルの手続きをへて作製された、れっきとした「国際的文書」です。米国など11カ国と日本との間で取り交わしている以上、新憲法は「国際契約」の文書でもあると言わねばなりません。それが上山憲法論の立場です。次の議論を見てください。

 「あの憲法は、一種の国際契約だと思います。こうした憲法というものは、かつてなかったのではないでしょうか。そういった意味で、これはまったく新しい形態の憲法だと思います。これは、単独の国家主権の発動によって成立したのではありません。複数の主権国家の協力によってつくられた国際契約なのです。」

 日本国憲法ということですから、まずは、日本国人民による・日本国人民のための・日本国人民の「統治」に関する、権力-人民間の契約事項を束にしたもののはずですが、しかし同時に、それにとどまらない可能性をも秘めているのが、新憲法の新憲法たる所以だということ――このことを少し立ち入って考えてみました。