日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(2)

たけもとのぶひろ[第24回]
2014年5月3日

 前回のブログでぼくは、憲法9条の「そもそも論」を議論しようと書きました。そして、その少しあとで「憲法9条の国際性」ということも書きました。
これらをワンセットの Q&A のかたちにして示すと、こうなります。

Q ぼくらの憲法は、まさしく「平和」憲法として広く遍く世界にその名を知られているが、そもそも、その拠って来たるところは奈辺にあるのか?
A 「憲法9条の国際性」ということに尽きると思う。くだいていうと、日本という国は、憲法9条を護持することによって憲法9条に守護されているのだ、ということ。

 そのことの含意は、みずからを国際的存在へと開いていく、そして国際社会の平和のためにみずからを役立てていく、その方向にしかこの国の未来はない――日本という国はそういう国家なのだ、ということです。

 憲法9条は日本人・日本国にたいして、「戦争の放棄」「戦力の不所持」「交戦権の放棄」を命じています。他国との間で、国益上いかに非妥協的な衝突に直面しようとも、最後の手段たる戦争に訴えて解決することは罷り成らぬと禁じています。

 ですから、日本は戦争ができません。というより、してはならないのです。これだけでもう、わが国は「普通の国」としての主体的条件を欠いています。なぜなら、いざとなったときに最後の暴力たる「戦争」に訴えることを躊躇しないのが、「普通の国」の「普通」たる所以であり、「主権国家」の「主権」を有することの証しであるからです。

 しかし、それにしても、どうして日本は「普通の国」であってはいけないのでしょうか。どうして一人前の「主権国家」としての主体的条件をあらかじめ奪われているのでしょうか。国家というものの常識からいって奇妙きわまりないこの国の在り方は、いったいどのような意図のもとに生み出されたのでしょうか。――この点については問題提起にとどめて、次回以降で詳しくみてゆきたいと思います。

 このように日本は、一人前のいわゆる「主権国家」ではありません。――ただ、ここでもう一度「しかし」と重ねて、話の方向を変えたいと思います。
 この事実をつきつめていくと本当は、思いがけない幸運にめぐりあえるのではないでしょうか。少なくとも、そのはずだと思うのです。窮すれば通じる、というでしょう。
 憲法9条の指し示す道は、世界の主権国家が迷い込んでいる迷路から抜けだして、いまだかつて見たことも聞いたこともない国へと向かう道筋なのかもしれません。 憲法9条は、既存の国家――主権国家――のあり方を超えていこうとしているのではないでしょうか。

 憲法9条のこの方向をもう少し先へと進んでみましょう。視界が広がり、そのなかに9条の意味が起ち上がってくる――その姿が見えてくるように思えるのです。
 戦争ができない国である以上、日本にとって「国際社会の平和」という環境は、それそのものが生命線とならざるをえません。平和が危うくなるとき、それはそのまま、この国の存立が危機に瀕することを意味します。また、同じことの繰返しですが、戦争をしてはいけない以上、「世界平和」の如何が直接ぼくらの生き死にに関わってきます。それは、ぼくらの生存にとって必要欠くべからざる条件です。

 幸いなことに、わが国は、自国はもとより世界の国々からも、「戦争する権利の放棄」「戦争する義務の免除」を承認されていますよね。喧嘩御法度です。ならば、これ幸いと仲良くすればよいだけの話ではないでしょうか。仲良くするために率先して衆知をあつめ、知恵をしぼり、策を練り、他に呼びかける。それの実行が問われているのだと思うのです。

 鷹巣さんたちは、日本国憲法がいままさに危機の只中にあるときに、世界の見識に向かって「憲法9条にノーベル平和賞を」と呼びかけています。このうえなく時宜を得たこの企てに声をあわせ、加担してゆきたいと思います。


>>日本国憲法・第九条にノーベル賞を 上山春平著『憲法第九条―大東亜戦争の遺産』(明月堂書店)が参考になる(3)