今月のラッキー

今月のラッキー

 どうも、予定していた原稿が滞り気味で……、「差替え」と言うわけではありませんが、「編集部便り」をお届けします。

 前回、小保方晴子博士の件は、理研の「最終調査結果報告」と、我が「編集部便り」の掲載が交錯してしまい、どうも「間合い」の悪いものになってしまったが、この件に関しては、またいずれ……、と言うことで、今日は本業の営業について触れてみたい。

 3月30日の毎日新聞に、昨年の年末に刊行した上山春平氏の『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』の書評を掲載して頂いた。

『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』

『憲法第九条――大東亜戦争の遺産』

 短い文章の中に、本著の主題が実に手際良く纏められており、評者の力量の高さに感心した。担当編集者として、自分でも相当読み込んだつもりでいたが、この分量でこれだけ的確に著書を紹介する事は、到底私の力の及ぶ所ではない。評者、鈴木英生氏に御礼を申し上げたい。
 本著に関しては、ジュンク堂書店難波店の福嶋聡店長も同店の『書標』誌に紹介文を掲載して下さり、更に、本著絡みのフェアまで展開してくださった。
 派手な本ではないので、飛ぶように売れると言うわけには行かないが、かかる地道な応援によって、確実に動いているのが有り難い。

 今日(4月1日)、朝、国会の参議院本館内にある五車堂書房から本著5冊の電話注文があった。毎日新聞の書評を読んだと言うのである。電話でいろいろ話をしているうちに、すっかり「もりあがって」しまい、じゃあ、今日、僕がこれから持ってゆきますよ、と言うことになり、ちょうど満開をむかえた桜を周りに観ながら、自転車をシコシコこいで国会に行ってきた。国立劇場、国会図書館近辺の桜は特に風情があって、一人で楽しむのも惜しいので、ここに一枚写真を貼付しておく。

桜

 国会図書館と参議院本館付近の交差点の桜である。国立劇場付近の写真をお届けしたかったのだが、如何せん、写真目的で移動しているわけではないので、丁度、信号で止まった時に、気まぐれにスマホを取り出し、写したのが、掲載の一枚と言うことで納得して頂くしかない。

 いつもの無精髭と100円ショップの草履履き、そして紙袋、というホームレススタイルが禍したの(かも)知れないが、まず参議院本館受付で(無断駐輪云々で)ケチがつき、本館内に入ったら、そこでまた警備員が怪しげな視線を向けてくるのであった。
 いわれるままに入館用の所定の書類に必要事項を記入し、窓口で自分の正体を名乗って用件を伝えると、金属探知機を通過させられ、その後、本館の奥深くにある「五車堂書房」まで、警備員が私を連れて行ってくれるではないか。
 あれは国会内で迷子になってウロウロされるのを警戒したのか、それとも純粋に親切心だったのだろうか。私としては好意的に解釈したいと思っているが、実のところ、謎のままである。

 以下に、毎日新聞3月30日、及びジュンク堂難波店の「書標」に掲載された「書評」、計2点、転載し、今日はオシマイとしたい。遅れ気味の投稿原稿は届き次第アップします。

(毎日新聞3月30日)
憲法第九条――大東亜戦争の遺産
上山春平著(明月堂書店・2400円+税)

 一昨年死去した新京都学派の哲学者が、1960年代に記した憲法論をまとめた。戦争体験に基づきつつ、実に自由な発想で憲法をとらえていたことに今更ながら驚いた。
 戦中に人間魚雷回天の乗組員だった著者は、「あの戦争」を「大東亜戦争」と呼ぶ。「太平洋戦争」と呼べば、米国の立場に日本人を同一化させてしまう。戦争肯定ではなく戦争責任を引き受けるため、著者は「大東亜戦争」という言葉を選んだ。
 現行憲法を「押しつけ」と認め、自分は必ずしも護憲論者ではないとする。ただし、非武装規定を含むこの憲法は、国際社会に「押しつけられた」一種の国際的な協約だとみる。つまり、米国はもちろん、中国やソ連など制定を承認した国々は、非武装日本の安全を保障する責任がある。だからこそ、この憲法は従来の(武装を前提とした)主権国家概念を超える契機を持つ、人類初の憲法だとも評価する。
 今の論壇と真逆の、いわば身体感覚に裏打ちされた思考の強さを感じた。ちなみに、解題を元京大助手、たけもとのぶひろが記している。全共闘時代のペンネーム、滝田修で知られる人物だ。(生)

ジュンク堂書店「書標」誌(ジュンク堂難波店福島聡店長)
『憲法第九条――大東亜戦争の遺産 元特攻隊員が託した戦後日本への願い』
上山春平著 たけもとのぶひろ編集 明月堂書店 二五二〇円

 上山春平が「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのは、林房雄(『大東亜戦争肯定論』)のように、かの戦争を肯定するためではない。日本が、戦勝国アメリカの視点に立つことによってアジア大陸への侵略的行為を含めた一連の出来事を自ら免責・忘却することなく、「あくまでもそれを戦ったこちら側の集団の一人として反省する立場を貫く」ためである。
 同時にそれは、「連合国=正義/枢軸国=悪」という図式を認めて屈服するが故ではない。戦争当事者による東京裁判を、上山はそもそも認めない。上山が感じていた「戦勝国」アメリカの傲りは、確かに「テロとの戦い」へと繋がっている。
 上山は、第一次大戦後に感じられ始めていた全世界的な「戦争放棄」の必要が「第九条」に結晶した「国際契約」として、日本国憲法を最大限に評価する。
 “押しつけられた憲法だといいきるほうがいい。なぜなら、その意思のなかには、日本だけの意思ではなくて、国際的な意思が入っているから。”
 そこには、人間魚雷「回天」に乗り込み、決死の覚悟で戦争と対峙した哲学者の、紛うことなき平和への希求がある。
 そのような視座から眺めた時、敗戦によって戦力を持つ権利を剥奪された日本が、わが身を守るために最強の軍事大国の傘の下に縋る今日の図式は、余りに矮小であり、無意味であり、惨めである。
 一九六〇年代=半世紀前に思考され、本書に甦った上山春平の議論と構想は、今ある凡百の無思想な暴論や弥縫策に比べ、未来を見据えて遥かに瑞々しい。(フ)