サルトル『出口無し』

サルトル『出口無し』

 添付した写真は小田急線相模大野駅構内のトイレである。知っているだろうか。その清潔にして設備の充実している事、まさに一流ホテルのソレを凌ぐほどなのである(尤も、一流ホテルを知らない私は、多分そうじゃないかなと言うだけですが)。
 「侮日」でなる某国の某政治学者も日本の公衆便所の清潔ぶりに脱帽し、翻って自国の余の不潔ぶりを多いに恥じる旨の記事を書いていたが、「侮日」某国政治学者をして恐れ入らせる程、華美にして清潔な日本の公衆便所の中でも、更に一頭抜きん出て光彩を放つのが、小田急線相模大野駅構内のトイレなのである。
 まずは試しに一緒に覗いてみる事にしよう。

(写真1)

(写真1)

(写真2)

(写真2)

 写真1は入口の全景である。まるで何かのテーマパークの入口みたいではないか(尤も、私はテーマパークなんか行った事が無いから知らないのだが、イメージと言うことで、あくまでも……)。写真2は男子トイレの入口である。

(写真3)

(写真3)

(写真4)

(写真4)

 駅の改札が3階にあるため、改札近くのこのトイレからは豪華な夜景が楽しめるように工夫されている(写真正面の暗がりには相模大野の街灯りが広がる)。写真3と4はトイレ内全景である。
 窓の明るさ、磨きあげられた個々の便器の艶に注目して欲しい。何やらBGMにヘンデルやバッハのバロック調が聞こえてきそうな風情である。北島三郎、八代亜紀の上野、北千住とは違うのである(あくまでもイメージということで)。

(写真5)

(写真5)

 写真5は洗面台、手をかざせば石鹸水が噴出し、ジェットタオルも完備されている。

(写真6)

(写真6)

 そして写真6はウォシュレット装備の個室。「便器」と言うより、文字通り「お手洗い」、否「洗顔器」と言うに相応しい輝きを放っているのであった。

 今日お話しする「事件」はこの「個室」が舞台である。

 二週間ほど前の出来事であった。夜の7時過ぎ、小田急線相模大野駅構内のトイレに行くと、歳の頃は50代前半とおぼしき愛嬌を含んだ小太りの女性清掃員が幾つか並んだ個室トイレの閉じられた一室のドアに向かって、話しかけていた。より正確にいうと、ドアに向かって話す振りをしながら、実は、周りの人に自分の発言を聴いて欲しいと言った感じ、みんなに自分の置かれている状況を説明し、理解と支援を取り付けたいと言った仕草なのであった。
 掃除おばさんの言によれば、かなり長い時間、この一室のドアが閉じられたままになっており、掃除がいつまでも終わりにならず、中途半端なまま待機状態にされ、困っていると言うのである。
 しかし、立場上、利用者に向かって早く出てこい! と乱暴な命令口調も出来ず、かといってジッと出てくるのを待ち続けるには既にあまりにも長く待ち過ぎた、と言った微妙な臨界点すれすれの時、私が入って行ったわけである。

 “まだですか? トイレットペーパーだけでも取り替えたいんですけど”
 何とか個室の利用者にドアをあけるきっかけを作るべく、水を向けるのだけれども、ドアの中からは「敵意ある沈黙」しか返ってこない。
 「居るのはわかっているんですよ、ね、ほら、気配がするでしょ」
 掃除おばさんの呼びかけに他の利用者が耳を傾け始め、閉じられた個室のドアの前に興味深げに数名が陣取って掃除おばさんとともに打開策を検討し始める事となった。
 「ひょっとしたら、急病で倒れているのかも……」
 と言うものがいれば
「大丈夫ですか」
 などと心配気にドアに呼びかける人まで出てきて、事態は段々大事の様相を呈してきたのだった。
 こうなると、それまで、(仕事が片付かず)一人心細く苛立っていた掃除おばさんも味方を得てか、ドアに向かって発する言葉も心無しか自信に満ちたものになってゆく、
 “ねえ、いるんでしょ!”
 ほとんど詰問調である。

 これがどういう結末を向かえたのか、実は私にはわからない、最後まで見届けたかったのだが、先を急がねばならない事情もあり、その場を立ち去らざるを得なかったのだ。ただ、相模大野から新宿に向かう約45分、電車の中でいろいろ去来する思いはあった。
 もし、あの個室に居たのが私だったら、そして、最初に掃除おばさんから声を掛けられた時に「うるさいなあ」と腹立ち紛れに無視してしまい、その後、何回か声を掛けられても、返事をするタイミングを失ったその時、個室の前に他の利用者が集まり始め、あれこれ私の「処分」について相談し始めたら……、想像するだけで不愉快である。ドア一枚挟んで対峙を迫られた個室の主はさぞかし辛かっただろうなあ、と同情を禁じ得ないのであった。
 
 ここからは私の妄想であるが、多分個室の主は、昨今話題になったサルトル相似ゴーストライター氏を彷彿させる、いかにも押しの弱そうな善良なおじさんだったのではないだろうか。
 そして私の妄想は更に続くのであった。
 この日は結婚記念日で、家では妻がその準備を整え、サルトル相似おじさんの帰宅を待っていたのだった。彼もそんな妻の事を思いやって手にはプレゼントが握られている。いつもなら電車を降りてまっすぐ家路を急ぐところだけれども、たまたま腹の具合が優れず、家まで待てずに、ちょっと入ったトイレでサルトル相似おじさんのウンが尽きてしまったと言うわけである(きっと)。
 小心で恥ずかしがり屋の彼は小学校の頃から自宅以外、特に学校でウンコが出来ない子供だった(きっと)。大人になってから若干緩和されたとは言え、未だ自宅以外でのウンコは重荷だったのである(きっとそうだ)。
 そんなサルトル相似おじさんだからこそ、個室で気張っている時にノックされ、一度、二度はノックで返答していたが、いくらノックで返答しても、ドアから立ち去る気配も見せず、それどころかジッと個室を伺う感すらあるのに気気付くと、この事態に恐怖動揺し、どう対処していいか解らなくなり、とにかく、ドアの外に人の気配がなくなるまで頑張るしかないと覚悟を決めたのではないだろうか(そうに違いない)。
 一方、こちらの掃除おばさんはというと、さっきまでノックで返答していたドアの中からの「返信」がパタと途絶えてしまったので、ますます苛立ち、ノックだけでは済まなくなり、勢い声も大きくなるし、味方を求めて他の利用者を巻き込んで個室ドアの前を固める事態となったのである。多分これが真相なのだと思う。

 事、ここに至ってサルトル相似おじさんは、心ならずも自分が籠城事件の犯人にされている事に気付き、動転狼狽し前後不覚の錯乱状態に陥ってゆく。
 一方、外を固めた掃除おばさんも、こうなると気分はすっかり籠城犯を追い詰め説得する女刑事だ。「検挙」するまで一歩も引かぬ構えである。掃除おばさんとサルトル相似おじさん、二人の関係が一気に社会性を帯びて来たのであった。
 ドア板一枚を挟んだ緊張の攻防戦が続く。この危機をどうやって突破するか――。サルトル相似おじさんは考えた、(多分)衆人注視のなか、今となっては何も無かったかのような顔をして、ドアを開け、努めて平静を装ってこの場を立ち去る事は出来ないだろう。それなら、思いっきり威厳を装って“ぶッ無礼者!”と怒鳴りちらしながらドアを開けるのか? サルトル相似おじさんの風体も相俟ってこれでは却って周りの失笑を買う事必定、威厳どころかあまりにも自分が惨めすぎて出来ない芸当である。想像するだけでも忌々しいくらいだった。
 仮病を装うのはどうだろうか、個室内で突然目眩がして倒れた云々、便器にうずくまりながら弱々しくドアを開けて、消え入るような細い声で救急車の出動を要請するのである。事後、色々面倒くさい事にもなりそうな気もしないではないが、これなら、とりあえず現場から「名誉ある撤退」が出来そうである。多分、私ならこの路線を追求しただろう。
 しかし、妄想の中の我がサルトル相似おじさんはそうはしなかった。彼は自分でもワケが解らないうちに、突然「籠城犯」に仕立て上げられたこの不条理をどうしても受入れられず、ひたすら周章狼狽し、小心がかえって災いしてか、前後不覚の錯乱状態から被害妄想が亢進し、常人には及びもつかない大胆な行動に走ったのである。
 思い詰めた彼は、ポケットからサインペンを取り出すと、個室備え付きのトイレットペーパーにワナワナと震える手で、掃除おばさんへの「要求書」を走り書きし、ドアの下の隙間から差し出し「交渉」を開始したのだった。これではまるでサルトル相似おじさん自ら「籠城犯」を買って出たようなものだけれども、そう言う冷静さは彼の中にもはや残っていなかった。
 どう考えても自分にはかかる「ハズカシめ」を受けねばならない理由が見当たらない、総ての責任は掃除おばさんにある、その点をまず持って確認し、責任の所在を明らかにし謝罪するとともに、事態打開に向けて速やかな具体的行動を要求するというものである。
 その「主眼」は、誰の視線にもさらされず、無事に駅構内から脱出するための手配をせよ――、というだけのものなのだけれども、その為の具体策として、まず個室の包囲網を解き、トイレから全員を退去させること、さらに後々、個人を特定される可能性のある映像が保存されないように、脱出5分間は構内及び付近の防犯カメラの作動停止、駅構内の乗客に関しては、5分間、下を向いて歩く事、携帯カメラなどを向ける不届き者がいないとも限らないので、これも禁止する旨、構内放送を流すなど、野次馬対策の周知徹底とその履行、それが保障されない限り、「私は名誉をかけて一歩たりとも引かない覚悟である」と結ばれているのだった。
 この要求項目を見て掃除おばさんは、いよいよ自分が何と対峙しているのか確信した。相手のただならぬ覚悟に彼女も対決姿勢を鮮明にするのであった。そして現場指揮官の自分一人だけではどうにもならないと判断すると、駅当局に報告し、駅長を交えて協議する事になったのである。

 しかし、ここで「協議」とその後の「交渉」過程の総てを詳らかにする事が出来ないのは残念である。私を運ぶ小田急線も新宿駅に迫ってきた、私の妄想も結論を急がねばならないのである。ここでは結果だけをお伝えすることで読者には満足して貰わねばならない。
 解決は駅員によるドアを破壊しての強行突入という最悪の事態になった。前後不覚の錯乱状態で取り押さえられたサルトル相似おじさんは「捕り物劇」の際の怪我と絶叫する言動の怪しさから、こちらの方が妥当だろうと言うことでパトカーではなく救急車で運ばれる事になった。
 車中でも、「殺せ、殺してくれ」、「ウンコをして何が悪い」とか、妻(らしい)の名前を絶叫してみたり、「お前達は何で善良な私をよってたかってイジめるんだ」「弱い者イジメがそんなに楽しいか」「あの女(掃除おばさん)を呼べ、一対一で対決させろ」「私の名誉が……」とか、先ほどまであれほど他人の視線に曝される事を怖れていたにも拘らず、「私は無罪だ、冤罪だ。記者会見させろ」などと、実に痛々しく見苦しいまでの取り乱しようなのであった。
 そこには自分を突然襲った不条理への戸惑い、事態を把握出来ない自己分裂の悔しさと混乱の中で、これまでの自分を取り戻せないほどの痛手を心に負った彼の姿があった。

 朝、いつも通り挨拶を交わし、夜の約束をして家をでる――、何気なく繰り返されるこの日常を疑う事なく過ごしている我々も、時として一度そこに足を入れてしまうと二度と再び引き返せない地点――、ひょっとしたら生活の中にそんな「時空の裂け目」があるのかもしれない。我がサルトル相似おじさんを襲った受難はそれを教えてくれているような気がするのであった。
 これを境に我がサルトル相似おじさんはそれまでとは違う異次元の時空を彷徨う事になるのだろう。夢の中を歩くように、いつまでもたっても辿り着かない家路を彼は一人歩き続ける事になるのである。
 「捕り物劇」であれだけ激しく抵抗し、絶叫したときにも離さず握り続けていた妻への贈り物は、車中でもやはり握って離さなかった。夢の中を家路に急ぐ彼の手にもそれは握られている。しかし、その事の意味を知っている者は誰もいないのである。
 そんな妄想を抱きつつ、自分を運ぶ電車が無事に新宿についた事を確認すると、なぜかホッと安堵して私は席をたつのだった。
 以上、これは他人事ではないな、ということで。