今月のラッキー

今月のラッキー

どうせ
あたしをだますなら
だましつづけてほしかった
(バーブ佐竹『女心の唄』)

 日本中のあちこちからそんな婦女子の嘆きの唄声が聞こえてきそうな佐村河内守(以下「河内守」と「官位」のみ表記)騒動であった。
 前回も若干触れたが、今回はその続きである。
 前回、私は、自分が河内守に感服した理由を記すとともに、音楽家としての化けの皮が剥がされた時、本物としての彼の役者の顔が立ちあらわれた事、そして、今後、才能を生かして、役者に活路を求めて欲しい旨、エールを贈った。
 私は、その後「後追い記事」を見聞きしても、全然腹が立たない。私も騙された一人だけれども、彼に騙されたと言うよりも、『NHKスペシャル』に騙されたのであって、むしろ、今となっては、彼はよくもあそこまでNHKを手玉にとって弄べたものだと、快哉を叫びたいくらいなのである。
 それに、彼が音楽家としてニセモノであった事に、実は私は安堵していた。彼の才能と精神力があまりにも桁外れすぎて、私はため息をつくばかりだったから、今回の騒動で、彼が超人でも何でも無く、役者の才能以外は総て「凡庸」だった事、私とそれほど変わらない程度である事を知り、ホッとしたのであった。
 まず、最初『NHKスペシャル』で紹介された彼の音楽的才能(質ではない、三十幾つもの楽器の音符を瞬時に総て聞き分け、頭蓋の中で割れんばかりに響く雑音にもメゲズ、イメージした音を組み立てられると言う、驚くべき「技術」)に、何よりも深く感心した。
 更に『NHKスペシャル』では、その才能に嫉妬したかのように「運命」までが彼に試練を科すと、彼の強靭な精神力は見事にそれに打ち勝ち、逆に「運命」を見返し、ねじ伏せてしてしまうのだけれども、そうなると、科せられるどんな試練も、所詮、彼の音楽人生を成就する為の「薬味」にも似て、必ず最後に正義が勝つ「勧善懲悪物語」の主人公を飾るエピソード程度にしかみえなくなるし、そんな劇的に恵まれた(出来過ぎた)ポジションに君臨する彼は、私にとってひたすらまぶしい存在にみえたのだった。有り余る才能、そして強靭な意志、どちらも私に欠けているものである。更に、何故か、いつも神様が彼をこっそり加護してくださるのである(これこそ私がどんなに渇望しても手に出来なかったものだった)。人間どんな艱難辛苦も、「報われたら」艱難辛苦とはいわない。神様が見ていて下されば救われるのである。実に彼はそういう羨ましい存在にみえたのだった。
 私なんか、救済そっちのけで試練を科す事にばかりに夢中な、ヨブ(http://ja.wikipedia.org/wiki/ヨブ)の神にとりつかれ、さんさん苦労ばかりさせられてきたけれども、一度として神から見返りを得たことはないッ(申し訳ない、つい、力んでしまった)。神の寵愛を一身に受ける河内守に、もえるような嫉妬を感じたとしても当然であろう。
 彼がニセモノであった事を知った時、逆にこちらがホッとしたというこの気持ち解って頂けたのではないだろうか。そうだよなあ、河内守だけがそんなに神様に可愛がられていい筈が無いもんなあ、といった感じなのだ。
 それでは、何故、私は騙されても不快にならず、その正体を知ってからも、どこか河内守に親近感を感じてしまうのだろうか? 多分、共通項は「本物」に対する「懐疑」ではないだろうかと私は考えている。「本物」と称するものへの冷笑である。
 常日頃「違いが解らない」事を自称し、ニセモノを礼讃し、「本物」や「権威」や「ブランド」ときくと、直ぐ噛みつきたくなる私のキニク派的波長と、彼の一連の騒動は面白いように合ったのである。

 随分前の朝のラジオ番組が伝えていたことがある。味自慢を多数揃えてビールと発泡酒の味比べをしたところ、その正解率は約50パーセントだったそうである。
 また、半年程前の『NHKスペシャル』でストラディバリウス(http://ja.wikipedia.org/wiki/アントニオ・ストラディバリ)と称する一本数億円もするらしいバイオリンの特集をやっていた。

ストラディバリウス

ストラディバリウス

美音を奏でる事、並ぶもの無きほどの名器――、とのふれこみである。番組で興味深かったのはストラディバリウスと現代の名工が現代技術のすべてを注いで作ったバイオリンの音色対決であった。
 判定者は、いずれも耳自慢・音自慢を自認して譲らない、選りすぐりの一言居士の強者ばかり二十数名(だったと思う)。ところが、この時の正解率が20%、実に音の探求者の80%が正解を外したのである。
 ビールと発泡酒の正解率50%は、数字が正直に示しているように、味自慢も所詮は「分かっちゃいないのだ」と苦笑すればいいだけのことで、極めて健全な数字だけれども、ストラディバリウスの場合は深刻である。何故ならこの音色対決の主旨は、いかにストラディバリウスが他を圧して聴く者を美音で魅了させるか、その数億円の価値を素人は形にして見聞きする事が出来ないので、代わりに音の専門家が自明のものとして(素人のみなさんに)証明してみせてくれましょう、という話だからである。
審査員はいずれもストラディバリウスが、現代の名工の作品よりも美音を奏でるという前提で、この対決に臨んだのだった。その結果の80%である。結論は、(番組ではそうはいっていなかったけれども)事、意に反して、ストラディバリウスは現代の名工がつくるバイオリンに音色において明らかに劣るという認定であり、甲乙付け難いという以上に意味がある数字なのであった。
 そもそも、300年以上前の楽器が、現代の名工に挑んで勝てる筈が無いと思わなければいけない。何故か、仮に300年前の名工が当時の「最高の技術」と「最高の素材」を用いて「最高の名器」を完成させたと仮定する、300年の星霜は必ずその素材の分子構成を変えるであろう、つまり300年まえ、「最高の分子構成」をなしていたハズの選りすぐりの素材で作った名器も既に楽器としての「最高」の状態にはないのだ、その時点で既にストラディバリウスは物理学的に「最高の楽器」の資格を失っている。
 技術にしても(番組では)現代の名工がナノミリメートルの制度で計算し、楽器を設計する場面を紹介していた。300年前の名工がどうやってこれに勝てるというのか。しかも300年の間に多くの職人によって何回も修理されていると言うではないか(揚げ足は取りたくないけれども、「最高の職人」によって完成されたハズの「最高の名器」を、それ以下の職人が何回も修理して、どうやって「最高」が維持出来るんだろうか、論理的に矛盾するではないか)。
 職人技が科学技術に負けてしまうのは人情として忍びないものがある。人間対パソコンの将棋の勝負で人間が負ける場面を見るのはつらいものがあるけれども、それと同じ感覚である。しかし、仕方の無い事なのだ。
 ストラディバリウスに数億円の価値を付けるとしたら、それは300年の星霜をへた物語であって音色ではない。ナポレオンの髪の毛が一本ん万円? といった類いの話である。そう考えれば番組で音の鑑定人の80%が現代の名工に軍配をあげたのは健全であり正解なのであった。
 多くの人は「そのもの」に対してではなく、そのものの背後の物語に価値を見いだしている。その事実を、今回、河内守は下品なほど無遠慮に臆面も無く、人前にさらしてみせてくれたのだった。嫌悪と反発を買う所以の一つである。

ボッテチェリ(http://ja.wikipedia.org/wiki/サンドロ・ボッティチェッリ)の「ビーナス誕生」はルネッサンス期の傑作の一つに数えられているが、私は中学生の時、美術の教科書にこれを見つけて、わざと隣の席の片思いの女の子の机の上に広げて置いたことがある。

ビーナス誕生

ビーナス誕生

 結果、先生に告げ口をされヒドい目にあったけれども、仮にエロ本のカバーを置いても結果は同じだっただろう。何故か、ボッテチェリも、エロ本のカバーも、約400年の物語を捨象し「画像」そのものとしてみれば評価は様々、結局個人の好みでどっちに軍配があがるか解ったもんじゃない代物だからである。
 中世千年を支配したローマ・カトリック的精神の頚城を脱したヨーロッパの人たちは、やがて世俗的世界への関心を強めてゆくとともに、文化芸術に於いても、現世的、人間的なものへと価値観を転換させていった、それはギリシャ・ローマを再発見する事に繋がっていく――。ボッテチェリの「ビーナス誕生」は、かかる流れの中にあって現世肯定、美しいものを美しいと思う気持ちのまま、正直に惜しげも無く大胆に表現し、新しい世界観を示した、まさに高らかに人間讃歌を謳うルネッサンス期の最高傑作のひとつである――などと、もっともらしく言う事もできれば、ただのスケベの変態親父の妄想作品――ということも可能であろう。逆に貶されがちなエロ本のカバーを、同じようなロジックで修飾し、それなりに持ち上げる事だって可能である。
 要するに評価の対象はそれに物語が付加されているか否かであって作品自体ではないのだ。まさにそういうことなのである。怪しげな「虚構物語」が作られ、「価値」や「権威」が真実のように一人歩きしだして「虚構・虚飾」が世界を支配しはじめたらどうなるか――、河内守が今回その狂騒ぶりを我々に示してくれたのであった。
 我々は、事態ここに至って「真実」は「虚構・虚飾」の「無」の中にしかない――、という逆説を噛み締めながら、居直って「物語」の中の「無」をジッと見つめて生き続けるか、「虚構物語」への懐疑を公言し、相対主義の間隙を、自らの嗜好を頼りにシニカルに彷徨(さまよう)しかない方法がないのかも知れないと思っている。
 私は、昨年大きく報道された「高級ホテル」など「有名食堂」での食材偽造騒動からも同じような教訓を得ていた。
 「被害者」は、味とは無関係な物語、本来何物でもない「虚構・虚飾」、「思い込み」にカネを払っているかのようにみえたからである。皮肉な言い方をすれば、それは金持ちの特権・道楽であった。フトコロに余裕のある人が他人様(ひとさま)の作ったブランド、「虚構物語」に高い金を払って散財浪費させられてしまったという話である。キザに振る舞い、(味の)違いが解るふりをして、実は全然解っていなかった事に後から気付かされたからと言って、今更、処女のように驚いた振りをする話ではないのである。
 「高級ホテル」の「一流料理人」による「有名食堂」で、「おいしい料理」を食べる、そういう「虚構物語」を高額で買ったのではなかったのか。
 私のような貧乏人は、他人様(ひとさま)の作った「虚構物語」に無駄金を使う余裕は無い。貧乏人は与えられたブランドや虚構の物語に支払う金を持ち合わせていない。そうだからこそ、同じ食事、同じ酒に自らの能力で物語を紡いで美味しく呑むのである。金持ちはヒト様の物語を買いあさり、貧乏人は自ら物語を紡ぎ出す――、飲む酒は同じでも値段の違う所以である。そう言う事なのだ。
 消費は個人にとっては浪費でも社会に取っては美徳である。金持ちは、これまでも通り、「虚構物語」や「ブランド」を信じてガラクタにドンドン散財浪費を重ね、経済の活性化に貢献してもらいたい。私は自ら紡ぐ物語を肴に安酒を煽る事にしよう。河内守の教訓が私にそれを勧めてくれている。

追記
 三島由紀夫が自殺した時、「彼はああするしかなかった」、あるいは、「今まで自分が言ってきた事は全部嘘でした」と言って「アカンベー」をしてみせる以外に方法がなかったと言った評論家がいたように記憶している。
 何故、こんな事を書いたかというと、河内守の今後の身の処し方をあれこれ思ったからだ。
 (私はその必要も無いと思っているが)行きがかり上、「記者会見」も検討されているようだ。どうしてもやらざるを得ないのであれば、その際は、神妙にやるのではなく、「アカンべー路線」で行ってはどうかと思う。
 当然、反発はあるだろうが、神妙にやっても、ふざけでやっても、多分、叩かれる量は一緒。結果は同じ。むしろ、一つ謝ったら、百追求される。そう言うものだと思う。どこかの国の「謝罪要求」と一緒。それなら「アカンべー路線」の方が、将来の俳優人生に資するところ大とみた。