自分に都合のいい情報には“権威”がある


仲正昌樹[第62回]
2019年5月11日
仲正氏好評既刊『〈後期〉ハイデガー入門講義』(作品社)

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 前回、ハンナ・アーレントの「悪の陳腐さ」テーゼをめぐる、黒木玄たちのお粗末な“歴史”理解の問題を指摘した。英語力・国語力が低いせいで、何が書いてあるのかよく分からない記事を引き合いに出して、アーレント批判、そしてアーレント解説者としての私に対する誹謗に強引に繋げようとする、愚かさを話題にした――彼らは哲学も思想史もほとんど知らないくせに、私を“ダメなポモ学者”としてレッテル貼りすべく、自分に都合の良さそうな、哲学っぽいネタを見つけると、すぐに飛びつく。
 今回はその中身に関する勘違いではなく、新聞に掲載されたある学者の記事が、自分に都合が良さそうだと思うと、学問上の通説であるかのように妄信してしまう思考パターンを問題にしたい――『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された学者の記事の内容を、黒木等がほぼ正反対に誤読していたことは前回述べたので、ここでは繰り返さない。当たり前の話だが、『ニューヨーク・タイムズ』は学術雑誌ではない。アメリカの一般読者向けの新聞である。新聞に学者が投稿する場合、その学界を正式に代理しているわけではないし、そういう立場で責任を負って発言してほしいと頼まれるわけでもない。一般人でも理解できるテーマについて、自らの一学者としての見解を踏まえた解説をするために執筆するのである。学説がどうなっているか総括報告するわけではない。実際、黒木が「アーレントが終った証拠:だと言って鬼の首を取ったように喜んでいた記事は、アーレントに関する最近の学説を概観するようなものではない。アーレントの“悪の陳腐さ”テーゼを批判する何人かの学者の意見を紹介したものである。
 そういう記事をちらっと見て、アーレントの呈示したある学説が否定されたかのように思い込んでしまうのは、黒木がもはや学者としての体をなしていない証拠である。自分自身がまともな学者だったら、学会誌でもないものに、一人の学者が一般読者向けに行ったごく短い解説を、学説の現状紹介と勘違いしたりするはずはない。ひょっとすると、黒木やそのお仲間たちが、『ニューヨーク・タイムズ』を文系にとっての学会誌のようなものとひどい勘違いをしているのかもしれない。しかし、そうだとしたら、文系/理系以前の、学問の基礎、リテラシーを欠いていると考えざるを得ない。
 例えば、ある物理学者か生物学者がNHKで一般視聴者向けに、その分野での最先端の研究成果について語ったことを、私が鵜呑みにして、自説を補強するためにそれを引用する形で、「〇〇研究の領域では、△△教授が言うように、◇◇ということが明らかになっている」と書いたら、専門家から見てかなり不正確な牽強付会になっているだろう。「◇◇先生は、素人向けに分かりやすくデフォルメして語られたのに、それを理解したつもりになって、引用するのは学者としてどうか思う」、と指摘するプロが出てくるかもしれない。すると、反ポモとか似非科学批判クラスターの連中は、喜びいさんで、「やはり仲正は偽学者だ」とか、「文系が不要だということを自ら実証してくれた」、などと叫ぶだろう。
私は時々、新聞や総合雑誌、通信社の配信記事に、政治思想史や哲学を専門とする学者としてコメントすることがあるが、黒木や山川のような反ポモ連中は、それを、学界を代表する意見だと思うのだろうか。恐らく、私が書けば、内容を吟味することなく、「仲正が書くことなんて、どうせ与太話に決まっている」と即断して、炎上騒ぎのネタにしようとする一方、東大・京大の何となく偉そうな教授とか、自分たちが贔屓にしているライターや批評家が、自分たちにとって都合の良さそうに見えるタイトルの記事を書いたら、妄信して、「これこそ、学会の通説だ!」、と(かなり見当外れに)持ち上げる、といったダブル・スタンダードぶりを見せるだろう。
 そういう振る舞いが愚かだと思うなら、一般読者・視聴者向けの発言を鵜呑みにすべきでない。その内容にすごく関心を持ち、実際の研究状況を確かめたいのなら、その学界での研究状況に関する、信頼できる専門的な解説を熟読し、複数の専門家に問い合わせてみるべきである。そこまでやるつもりがなくて、一般向けのメディアに出ている情報をネット検索して、何となくの傾向を探るだけだったら、単なる印象の域を出ない。黒木等は、ポモと呼ばれている学者の一部に、数理論理学や物理学の動向に関する生半可な情報を“参照”している人がいることをしつこく批判しているが、自分たちは、新聞記事を、学会の研究動向に関するリビューと同一視したうえ、その内容を完璧に誤読する、という二重の凡ミスを犯して、知らん顔している。
 当該分野での学説の状況を確認するのにどういう媒体のどういう種類の文章を読んだらいいのか分からないような輩は、専門家ぶって偉そうな発言をすべきでない。それが分からないのは、学問の基礎が身に付いていない証拠である。
 金沢大学で長年教えている経験から言うと、大学一年生は、新聞・雑誌記事、公的機関による告示や広報のための文章、学術的な意味での論文の区別が付かない。論文にも、解説・要約的な性格のものと、先端の研究テーマを扱っているものがある、ということがピンと来ない。もう少し細かく言うと、タイトルは「〇〇入門」でも、実際にはかなり専門的な内容を盛り込んだ本とか、入門的な内容の中にその著者の独自の見解を盛り込んだものがあり、タイトルや目次だけで判断できないのだが、専門的な知識の蓄積のない一年生にそれを教えるのはほぼ不可能である――ネット論客には、タイトルだけ見て、「どうせ入門書だろ」、と即断するバカが少なくない。
 紙媒体を目にしたら、一年生でも、外見上の違いから、学術性の高いものとそうでないものの違いを、何となく察するかもしれないが、ネットだと、そうはいかない。みんな同じような“難しげな文章”に見えてしまう。だから、レポートを書かせたら、どこの誰とも知れない、ヘンテコなハンドルネームのブローガーの、粗雑な感想や中傷誹謗、妄想が混じった文章を引用してくる。中には、ツイッターやFacebook上の有名人のコメントを、学術的に意味のある意見であるかのように引き合いに出す者までいる。注の付け方を教えても、引き合いに出すソースが、文献と呼ぶに値しないものが大半だったりする。一年生の内に治ってくれればいいが、何年経ってもなかなか治らない奴がいる。院生になっても、どうしようもないネット上の知識人同士の言い争いに、学問的意味があるかのように思い込み、嬉々としてフォローする奴もいる。
場合によっては、大学の“ベテラン教員”でも、どういうテーマを探究するのにどういうテクストを参照したらいいのかよく分からないまま、という奴がいる。そういう奴は、見当外れに、あまり本題とない関係のない予備知識を羅列するだけの学会・研究会報告をやってのける。有名大学の教授・名誉教授だと、周りから指摘されても、肥大したプライドのせいで、認めようとせず、逆に相手を諭そうとする――無論、指摘された問題とは関係のない、教書的知識や学会トリビアのような話を羅列するだけである。文章を読む基礎的な訓練ができていないのに、何となく先生や先輩の見様見真似で“同じようなこと”をやっている内に、運よく就職し、偉くなってしまうのだろう。
 哲学や文学、歴史学など、典型的な文系の学問だけでなく、数学や物理学でも、最低限の国語力が必要だというのは昔から言われてきたことだ。国語力が低いと、その分野で何が問題になっており、どういうことを明らかにすべきか、よく理解できない、ということがある。高校レベルの数学や物理では、最初の問題設定がよく理解できていなくても、どういう式を使うことが期待されているのか何となく予想して、何とかごまかせることもある。しかし、そのままだと、どこかで限界が来るだろう。中央公論四月号の特集『文系と理系がなくなる日』では、基礎的な国語力の不足が理系の学生たちにとってどのような足かせになるが話題になっている。
 ネット上には、自分の読解力の欠如に気付かないまま、論客ぶって、偉そうな口を聞く輩が多い。そういう輩は、他人の文章をごく表面的にしか理解できてきていないくせに“批判”し、炎上騒ぎを起こして目立とうとする。フォロワーがちょっと増えれば、大喜びし、「俺の文章は論理的で緻密だから、支持してくれる人がこんなにいる」、と威張る。本当に目も当てられない。