英語もろくに読めないのに、孫引きで「正しい歴史」を語ろうとする、自称数学者の見事なオウン・ゴール


仲正昌樹[第61回]
2019年3月1日
アドルフ・アイヒマン(1906-1962)

アドルフ・アイヒマン(1906-1962)

 反ポモ的な連中のサークルの中で、「数学者」という肩書でお山の大将のようにふるまっている黒木玄という男がいる。何カ月か前に、何を思ったか急に、ほとんど根拠のない“アーレント批判”を始め、そこで、私の名前を出した。言いがかりにすぎないが、“反ポモ”連中のいい加減さを示すいいサンプルなので、どうおかしいか、簡単にコメントしておこう。彼は以下のようにツイートしている。

仲正昌樹さんは「分かりやすい解説者」として評判は良いようですが、Eテレで”悪は「陳腐」である”について解説したときに、最近での定説「アイヒマンは陳腐ではなかった」「アーレントはそのことを見抜けなかった」を説明せずに隠してしまっていますよね。全然ダメだと思う。

“悪は陳腐である”は、真実を明らかにするためには、 アーレントのような思想家による印象論に頼っちゃダメで、各種史料を膨大な手間をかけて地道に分析するしかない、 という貴重な教訓が得られる非常に良い話なのにもったいない。 仲正昌樹氏の解説にはそういう厳しい真実追求の姿勢はない。

アーレントがアイヒマンについては単純に間違っていたことについては例えば https://opinionator.blogs.nytimes.com/2013/07/07/misreading-hannah-arendts-eichmann-in-jerusalem/ … を見て下さい。ピンカーさんのツイート https://twitter.com/sapinker/status/354215408984784896 … 経由で私はこの記事を読みました。日本語に訳す価値があると思う。

 黒木や彼の取り巻きらしい連中は、普段から「ポストモダンの連中は、数学や物理学について知らないくせに知ったかぶりをしている」――彼らのこうした物言い自体が、かなりの誇張を含む、雑な十把一からげによるものである――と非難しているが、このツイートは、自分たちこそ知ったかぶりで発言していることを自ら暴露するようなものである。黒木がアーレントの本を読んでないどころか、おおよそどういうことを主張した人なのかさえ分かっていないことが読み取れる。
 国語力の低い黒木一派や山川ブラザーズには何のことか分からないだろうが、一応、説明しておく。「悪は陳腐である」というのは、アーレントがアイヒマン裁判の傍聴記録に基づいて刊行した著作『エルサレムのアイヒマン』(一九六三)の締め括りの言葉として採用した、フレーズである。正確に言うと、一つの独立した文ではなく、「悪の陳腐さ(banality of evil)という教訓(lesson)」という表現が使われている。印象的なので、研究者も含めていろんな人に引用されているが、これは、〇×がはっきりするような歴史学あるいは心理学の命題として述べられているわけではない。アーレント自身が言っているように、裁判の傍聴を通して得られた一つの「教訓」にすぎない。アーレントを批判するなら、その叙述の中身に即して議論すべきであって、締め括りの教訓にだけ噛みつくのは不毛である。『エルサレムのアイヒマン』を読んで、その中身をある程度把握できた人間なら、その程度のことは分かるはずだ。
 こういう説明をすると、「アーレントは『教訓』などという曖昧なことを主張した。やはりインチキじゃないか」、と騒ぐバカ者がわいてきそうな気はするが、法律家やジャーナリストが特定の裁判や紛争事例から、教訓を引き出すのはよくあることだ。アーレントの場合、扱っている事例がアイヒマンというホロコーストのキーパースンであったことと、アーレントが「全体主義」の思想史的研究の第一人者として知られていたので、教訓的なフレーズが独り歩きしてしまったのである。
 アーレントが〈banal〉という言葉で象徴的に表現したのは、裁判で提出された証拠文書から読み取れるアイヒマンの経歴や言動、彼の証言の内容が、ドイツの官僚によく見られる、ありがちのものであって、その意味では特別に異常(異様)には見えない、ということだ。裁判を通して直接確認できた事実から、アイヒマンが実行した行為の怪物性を説明することはできない、というのが彼女が引き出した教訓だ。こうした教訓を語ることは、自然科学者や実証的な研究をやっている社会科学者もやるだろう。
 ではアーレントの「悪は陳腐である」テーゼを批判している人は、一体何を言いたいのか。要は、アーレントのこのフレーズから彼女が言っていないこと、〇×がつく命題のようなものを勝手に連想しているのである。単純に誤読している場合もあれば、自分の主張に注目を集めるためにわざとやっている場合もあるだろう。文系の論文では戦略的な理由から、有名人のフレーズを意図的に拡大解釈して仮想敵に見立て、それに対抗する形で自分の論を展開するということがある――無論、単純な誤解に基づいて深入りして“批判”すると、単なる素人っぽい、イタイ議論になってしまう。ありがちの誤解あるいは拡大解釈は大きく分けて、「陳腐」という表現を、アイヒマンの精神・心理状態を、平均的な市民に日常的に見られるものである(①)、という意味に取るか、アイヒマンは(熱狂的な)反ユダヤ主義者でない(⓶)、という意味に取るかの、いずれかだろう。
 ①の意味に取っているとしたら、端的な勘違いである。アーレントは、アイヒマンの法理解や道徳観については論じているが、素人心理学のような議論はしていない。まともな国語力がある人間が、訳を読めば分かるはず――読んでいない人間、国語力が極端に低い人間には分かりようがないわけだが。哲学・思想史的な素養がない人が、『エルサレムのアイヒマン』を読むと、②の方向で誤解する可能性はあるが、アイヒマンの仕事の管轄の範囲内でホロコーストが起こったのは、ナチス政権が成立してから十数年経っているし、アーレントや多くの歴史家たちが散々論じているように、その数十年前から反ユダヤ主義がヨーロッパ諸国で徐々に強まり、一般民衆の間にも広がっていた。そういう状況であるから、普段から反ユダヤ主義的な言動を取っているからといって、“特別に変わったドイツ人”であったということにはならない。アーレントはそういうことは大前提にして『エルサレムのアイヒマン』を書いている--この辺のことは、100de名著のテクストを増補改訂した、拙著『悪と全体主義』で説明しているのだが、黒木等は読んでいないし、最初から読む気などないのだろう。
 『エルサレムのアイヒマン』は、ホロコーストを専門的に研究している歴史家たちからもこれまで高く評価されてきたが、それはその歴史家たちが、アーレントの議論の前提を了解しているし、著作自体をよく読んでいて、アーレントがアイヒマンを「反ユダヤ主義者ではない善良な市民」として擁護したりしているわけではないことを知っているからである。一九八六年に『エルサレムのアイヒマン』のドイツ語版が出た時、当時のドイツのホロコースト研究の第一人者であったハンス・モムゼン(一九三〇―二〇一五)が、この著作に対する序文を寄せている。アーレントの歴史的な背景記述が、裁判記録のみに基づいているため、これが書かれた当時既に知られていた史料によって明らかにされた歴史的事実と異なっていることなど、歴史家の立場からの批判を加えているが、彼女の哲学的な関心が自分たちのそれとは異なったものであることを前提にして、その意義を評価している。
 「悪の陳腐さ」にアーレントが込めた意図を拡大解釈して批判する議論は、これまでも何度かあった。黒木が鬼の首を取ったように喜んでいる、『ニューヨーク・タイムズ』(二〇一三年七月七日付)に掲載されたRoger Berkowitzによる論説記事《Misreading ‘Eichmann in Jerusalem’》は、映画『ハンナ・アーレント』のヒットのおかげで、アーレントが再評価されると同時に、“悪の陳腐さ”テーゼに関するアーレント批判の意見も目立っている、という現象に関して、これまでの経緯を踏まえて説明したものである。Berkowitzは、先に私が述べたような誤解もしくは拡大解釈に基づくアーレント批判についてかなり詳細に述べている。二〇世紀の終わりにアイヒマンの備忘録が公表されたことを契機に、歴史家たちの間で、“悪の陳腐さ”テーゼを標的にした、新しいアイヒマン観を呈示しようとする議論が展開されるようになった。Berkowitzの要約によると、

This time, a new critical consensus is emerging, one that at first glimpse might seem to resolve the debates of a half century ago. This new consensus holds that Arendt was right in her general claim that many evildoers are normal people but was wrong about Eichmann in particular.(下線引用者)

 この下線部が示しているように、近年のアーレント批判の歴史家たちも、アーレントを全否定しているわけではない。“悪の陳腐さ”テーゼを全否定しているわけでさえない。アイヒマンを代表例にしたことを批判しているのである。
 ここで若干注意しておくと、アーレント自身はアイヒマンであれ、他のナチスの幹部であれ、〈normal people〉あるいは〈a normal person〉と呼んだことはない。ホロコーストの実行者たちが〈normal people〉かどうかをめぐっては、九〇年代にホロコースト研究の専門家の間で論争があった。Berkowitzが、部分的アーレント批判の論客として最初に言及しているクリストファー・ブラウニング(一九四四- )は、一九九二年に《Ordinary Men: Reserve Police Battalion 101 and the Final Solution in Poland》という著作を出してる。この場合の〈ordinary men〉というのは、親衛隊(SS)に自発的に加入したのではない、特に強い反ユダヤ主義思想の持主でないドイツ人、という意味である。このブラウニングの議論に対して、当時若手であったゴールドハーゲン(一九五九- )という政治学者が、ブラウニングの見方は甘い、「普通のドイツ人」全般が確信犯的な反ユダヤ主義者になっていたとする《Hitler’s Willing Executioners》(一九九六)という著作を出して話題になり、ドイツの歴史家も巻き込んで、それなりに大きな論争になった。こうした、何が〈normal(ordinary)〉かという論争は、もはや『エルサレムのアイヒマン』の範疇を越えているのだが、論争当事者たちが、自分の議論を目立たせるために、アーレントの名前を引き合いに出したがるので、アーレント自身が“アイヒマンは普通の(ドイツ)人”説と関係あるかのように印象が生まれた。
 Berkowitzはブラウニングやデボラ・リプスタット(一九四七- )などの、“悪の陳腐さ”問題でのアーレント批判の根底にある誤解を以下のように指摘している。

The problem with this conclusion is that Arendt never wrote that Eichmann simply followed orders. She never portrayed him, in Cesarani’s words, as a “dull-witted clerk or a robotic bureaucrat.” Indeed she rejected the idea that Eichmann was simply following orders. She emphasized that Eichmann took enormous pride in his initiative in deporting Jews and also in his willingness to disobey orders to do so, especially Himmler’s clear orders

 そして、この誤解が生じた理由について以下のように説明している。

The widespread misperception that Arendt saw Eichmann as merely following orders emerged largely from a conflation of her conclusions with those of Stanley Milgram, the Yale psychologist who conducted a series of controversial experiments in the early 1960s.

 ミルグラム実験については、翻訳も出ているし、私の本など簡単に紹介している文章はいろいろあるので、今更説明するまでもないだろう。ミルグラム実験に類した心理学実験は、その後いくつか試みられている。私はミルグラム実験だけが、“悪の陳腐さ”テーゼが生まれた唯一の原因ではなく、ホロコーストへの(ナチス最高幹部以外の)ドイツ人たちの積極的・消極的関与をめぐる様々な論争が、アーレントの名前と結び付いたことから、イメージが広がっていったと考えているが、ミルグラム実験が最も大きな影響を及ぼしたというのは恐らく間違いないだろう、と思う。
 文章の流れを見れば、Berkowitzが、“悪の陳腐さ”テーゼを拡大解釈する歴史家たちの誤解を正し、アーレントの真意を再構成しようとしたことは明瞭である。そもそも、《Misreading ‘Eichmann in Jerusalem’》というタイトルを目にした時点で、これは『エルサレムのアイヒマン』の誤読を正す目的で書かれた文章だと気付かないのがおかしい。そんなに細かく読まなくても、(まともな)高校生程度の英語力があれば、真ん中くらいまで来たところで、「あれっ、これはアーレントにとどめを刺すという感じの文章じゃないぞ」、と気づくはずだ。黒木や彼に同調した連中は、英語が満足に読めないか、国語力(文脈を追う能力)がものすごく低いかのいずれかだろう。
 無論、上記のようなアーレント誤解・拡大解釈の経緯を踏まえたうえで、それでもなおアーレントのアイヒマン論には政治的あるいは哲学的問題がある、という問題提起は可能であろう。「悪の陳腐さ」を、アーレントのカント理解や悪論とどう結びつけるのか、という問題はなかなかクリアにならない。そうしたテーマに本気で取り組めば、生産的な議論に繋がるだろう。しかし、黒木や祭谷一斗のように、敵の敵は味方とばかりに、自分が(気に食わない奴が研究対象にしている)気にくわない思想家をディスってくれている“偉い(ように見える)学者”のコメントを見つけるたびに、その内容を自分の頭で吟味することなく、「わーい、〇〇はとっくの昔に論破されているぞ。〇〇を支持している仲正はやはり偽学者だ!」式のことを言ってはしゃぎたがる輩は、論外である。知ったかぶりの思いつきで、真面目な学問的論議をまぜっかえすべきではない。お子様は黙っていなさい!
 黒木のようなふざけた輩は度外視して、歴史学的あるいは哲学的に真面目な関心を持っている人向けに最後に一言言っておきたい。〈banality of evil〉という表現に違和感を覚えるのであれば、YouTubeで公開されている〈Eichmann Trial〉のアイヒマン自身が証言している場面をじっくり見るべきである。