「方法論は私の専門ではないので…」


仲正昌樹[第59回]
2018年11月15日

著者新刊(本文参照)

 「方法論は私の専門ではないので…」。最近、ある国からの留学生(博士後期課程院生)を指導していた時に、聞いた衝撃的な台詞である――このフレーズがどうして「衝撃的」なのかピンと来ない人は学問的な訓練を全く受けていない人間である。
 どういう脈絡だったか少しだけ説明しておこう。本人がこれから書こうとする論文の構想について聞いたところ、あまりに漠然とした答えしか返ってこなかったので、「〇〇先生が、君がやろうとしているはずの△△の基礎的な方法論の授業をやっているだろう。〇〇先生に基礎からもう一度教えてもらったらどうだ」、と助言したところ、「〇〇先生から△△の単位はもうもらいました」、と答える。
 どうも一度単位を取れば、その科目は「終了する」という既成観念から抜けられないらしい。研究者志望とは限らない学部生ならそういう勘違いをしていてもまだ許されるが、博士後期課程の院生がそんなことを言っているようではこまる。とても研究のやり方を指導することなどできない。
「いや、単位取ったかどうかなんてあまり重要ではない。実際に方法論を身に付けていなかったら、意味がない。まともに研究もできないし、論文を書けるはずがない。〇〇先生が担当されている他の授業の時にもう一度方法論をちゃんと学んだらどうか。小人数、場合によっては一対一の授業だから融通は効くはずだ」、と言ったところ、先の驚くべき答えが帰ってきた。どうも「方法論」というのが、その研究領域全体の基礎である、ということが分かっておらず、「方法論」という名前の付いた科目くらいにしか思っていなかったらしい――高度に専門的な内容の授業なのに、「▼▼方法論」を名乗っている授業が偶にあるが、そういうマニアックな授業の話ではない。それはとんでもない思い違いだ、とかなり時間をかけて説いたが、理解できないようだった。
 このことと、「先の単位をもらったら終了!」発言や、授業に臨む姿勢に関連するいくつかの発言と合わせて考えると、この学生には、学問は基礎から次第に積み上がっていくものだという発想がなかったようである。個々のテーマごとに合格点を獲得して、それがある一定数溜まるごとに次のステージに行ける、というようなRPG感覚でこれまでやってきたのではないか、と推測できる。この学生の母国では、RPG感覚のままで修士号を取得でき、大学で教鞭を取ることさえ可能だということなのか、それとも、この学生はあまりにも特殊ケースなのか?
 いろいろとひどい学生を体験してきた私もさすがにこれには困惑したが、思い返してみると、日本にもRPG感覚からなかなか抜けられない学生は、意外と多いのではないかという気がしてきた。いや、かなり多いと言うべきかもしれない。東大生とか、世間的には比較的なまともな大学とされている法学部の学生で、「□□先生の単位をもらった」、と自慢したがる人間がいる。私は、「勉強できても、頭が悪い」という言い方――ネットでこういうことを言いたがる人間は、学校・大学の勉強もできず、世間的な常識も弁えていない、根っからのダメな人間である――は嫌いだが、この手の頭でっかち人間には、この表現がしっくりくるような気がする。この感覚のまま大学を卒業し、まかり間違って大学院生になると、私がこの連載でたびたび指摘しているような、〇×思考、クイズ脳、レスバトル狂になってしまう。反ポモ、反サヨク(ウヨク)、リフレ等のネタのもとに群を成している連中の大半は、そういう勘違いをしたまま偉そうなことを言い続けている。
 学校教育では、〇×がはっきりしている問題に答える訓練を受けるので、未熟な学生がRPG的な発想をするのは仕方がないことである。いつまでもその発想が抜けないで、クイズのようなことをやって勝ったら、知的に優位に立っているかのように思い込む、浅はかな人間になってしまう。
 そこから抜け出すいいきっかけになるのが、「論文」を書くことである--無論、ちゃんとした「論文」である。そのテーマに関して自分が何となく知っていることを適当に詰め込んで文字にしても、一貫した論理展開の文章にならない。話が繋がらず、飛躍とか矛盾が目立つおかしな文章にしかならない。本人は辻褄が合わないことを書いてしまったのに気付かなくても、それを目にした指導教員や先輩などから、間違いを指摘される。どういう手順で書いたら、周囲の人たちを説得できるのか考えざるを得ない。“まとも”に機能している大学であれば、それほど気が利くわけではない学生でも、博士後期課程に入る頃には、どういう風に書いたらダメなのか、くらいは分かるようになる。
 学問における「方法論」というのは、論文執筆に当たって、その分野ごとに求められる論理的一貫性や厳密さ、学術的な価値を証明するための基準をクリアしていく手順である、といっていい。一つの分野でもいろいろなレベルでの「方法論」があるが、分かりやすいのは、自然科学系の実験、医学・生物学・地質学などの観察・観測、社会学や政治学でアンケートやインタビュー等であろう。件の留学生のケースで問題になったのは、アンケートやインタビューの「方法論」である。アンケートやインタビューは、やればいいというものではない。尋ねる内容と対象を絞り込み、どのように対象にアプローチするか、データをどう処理するか、その分野の「先行研究」を調べながら、必要なことをチェックしたうえで、実行しなければならない――「先行研究」については後述する。とにかく適当に何人かに聞いてみた、というのでは、小学生の社会見学と同じであり、とても方法論を具えた学問の社会調査とは言えない。その当たり前のことが分かっておらず、自習するつもりもないようなので、「方法論」の基礎に関する授業を受け直したらどうか、と言ったのである。
 哲学とか文学など、典型的な人文系の学問には、「方法論」はないと思われがちだが、それは素人眼にも分かる「方法論」がないということであって、学問である以上、「方法論」がないということはありえない。逆に言うと、分かりやすい形を取らない分、習得しにくにとも言える。一番基本的なことから言うと、「先行研究」を的確に把握するということがある――無論、哲学や文学研究の対象への強い知的関心を抱いていることが、方法論以前の大前提である。
 例えば、ハイデガー、あるいはその解説書を読んでいて、彼の「自然」概念が独得で面白そうだ、と感じ、それについて論文を書いてみようと思ったとしよう。先ず、ハイデガー自身が、「自然」について論じている主要なテクストと、付随的に言及しているテクストをそれぞれ特定して読まねばならないが、その前にまず、その「自然」というのが、ドイツ語の〈Natur〉のことなのか、それに対応する古代ギリシア語の〈physis〉のことなのか確定しないといけない――英語の〈nature〉や仏語〈nature〉とも微妙にニュアンスが違うのだが、ここで拘る必要はないだろう。更に、〈Natur〉も〈physis〉も、日本語の「自然」とは異なった意味も含んでいるので、どのような文脈でどのような意味で使われているのが、自分が調べようとしている「自然」なのか確定しないといけない。
 そうやって、ハイデガーの「自然」に関する言明を集めて実際に読んでみたうえで、他の研究者による「先行研究」を調べるわけだが、誰をこのテーマの専門家と見なし、どの論文のどの箇所が関係しているか、特定するのがかなり難しい。ネット検索でヒットするものをランダムに、文献リストに挙げていくわけにはいかない。素人による適当な感想文とか学部生のゼミ報告のようなものばかりヒットして、本当に重要な専門家のものは見つからない可能性が高い。自分に予備知識がない場合は、専門家の助言を求めたり、参考書を読んで確認しないといけないが、誰に相談したらいいのか、どの参考書を読むのがいいか、初学者にはなかなか見当がつかない。
 そうやって、一次文献であるハイデガー自身のテクストと、専門家たちによる主だった論評を集めたうえで、ハイデガーがどのようなことを語っており、それについて先行研究がどこまで進んでいるかをまとめないといけないが、調べたことを箇条書きにするだけではダメである。ハイデガーの「自然」概念についてこれまでどういう見方が登場し、どの説とどの説が対立し、現在はどういう見方が有力かまとめないといけない。ここまで出来て、ようやく、本論を書き始めることができる。
 ハイデガーという特定の哲学者の◇◇概念について、ちゃんとした論文を書き始めようとすると、これだけの、素人には気の遠くなりそうな準備作業が必要になる。これがバロック時代の●●概念のようなものになると、どこまで範囲を拡げて調べないといけないか想像もつかないくらい大変である。その大変さをある程度自分で試みて実感したうえで、それでも面白いので自分でやってみたい、と思うような人だけが、人文系の研究者になる適性がある。哲学や文学研究ほどではないにしても、文系の研究では、「先行研究」の把握は重要である。先行研究をきちんと把握できていない者は、その時点で、素人と判定されてしまう――件の留学生は、「先行研究」の把握も全然できていなかった。
 STAP細胞問題の時に、博士論文冒頭の、先行研究を踏まえて自らの研究の意義について述べている部分がコピペではないか、ということが話題になった。“理系研究者”であるTVコメンテーターの中には、あんなのは誰が書いても同じだからコピペでいいと暴論を吐く人がいたが、文系の研究では考えられないことである。インチキ審査をやることが前提になっていない限り、先行研究のまとめの部分がいい加減かどうかは、審査員の中に一人でも、そのテーマあるいは隣接するテーマの専門家がいれば、簡単に見抜かれてしまう。だから、ほとんどの若手研究者は、なかなか書き始められない。書き始めるまでに、かなりの緊張感がある。
 それは当然のことなのだが、その当然のことが分からないと、指導教員や先輩がいろいろ難癖をつけて、自分の足を引っ張っているとしか思えない。ひどい場合には、私の独創性に嫉妬してつぶそうとしたのだと妄想し始める。ネット上で、著名な学者に因縁を付けては目立とうとする院生崩れには、その手の妄想を膨れ上がらせ、どうしようもない偏見の塊になってしまったような輩が多い--そういう歪んだ自己愛の強い人間は、学者を目指さなかったとしても、どっちみち、こじらせ人生を送ることになるだろうが。

 最近出した拙著『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)に対して、「南井三鷹」というバカが、読みもしないで、タイトルと、著者である私についての雑な印象だけで、失礼な決め付けツイートをしていた。この男は以前「佐野波布一」を名乗り、千葉雅也氏を主要ターゲットにして言いがかりをつけていた。例えば、千葉氏を中心に編集された雑誌の現在思想系の特集を読みもしないで、駒場人脈の書き手ばかり採用している、千葉一派による思想論壇の支配に反対する、というようなことをamazonレビューなどに書いて、悦に入っていた。かなり狂っているが、自分だけは論壇・文壇のために戦う闘士のつもりのようである。そのおバカの三鷹曰く、

反ヘーゲルのフランスポストモダンにすり寄って商売していた仲正昌樹が新たにヘーゲルの新書を出したようだ。こういう信念のない商売人の本を支持する人に思想の素養はない。

そして出版社はいつまでもこういう寄生虫が大好きだ。なぜずっとヘーゲルを研究してきた人に本を書かせないのか。内実のない本を出版して人々を愚民化している出版社よ、罪を数えろ。

 こういう低レベルの人を起用するならネットでいいじゃないか。出版社はもっと高付加価値なものを高値で売る西欧のブランドのような商売をしないとネットに飲み込まれるだけだ。

 この三つのツイートだけで、この男が逆恨みの権化であること、出版業界に関して非論理的な妄想を抱いていること、および、「思想史の基本が全く分かっていないこと」を、自ら暴露してしまっている。バカの三鷹は、佐野波布一時代に、吉本隆明の専門家を装っていたが、この調子だと、吉本の主要テクストのどれ一つとして理解していないだろう。「方法論」を学ぶ意義が分からないまま、学者の世界のことについてああだ、こうだと言っていると、こういうどうしようもない廃棄物になってしまう。