猫が主役の竹本一家(5)


最期の日々そして別れ(1)二~子とペロ

たけもとのぶひろ
2018年7月3日

に〜子(右)とペロ

に~子(右)とペロ

 ぼくの猫家族は、五郎とそのヨメのニ〜子、そしてペロの三人だ。
 五郎は16歳の頃から、眼が見えない。加齢が原因なのか、ビー玉のような眼になっている。とはいえ、家の外には出ない、中だけだから、なんとか身体で覚えたのであろう、あちこちにぶつかりながらではあるが、歩きまわっている。彼の場合、それ以外に問題ない。ペロは、以前にも書いたように慢性腎不全という厄介な病気をかかえていて、毎週欠かさず二、ないし三回は病院に通って点滴をしてもらっている。
 いちばん親孝行だったのはニ〜子で、定期検診(血液検査・尿検査)のために獣医さんのところへ行くことはあっても、病気の心配で行くことはなかった。ところが、そのニ〜子の様子を見ていて、これはちょっとおかしいのではないかと、急に心配になってきたのは平成27(2015)年4月末のことだった。自力で水を飲むことに苦痛を感じるらしい。胸の辺りを圧迫するためかどうか、前かがみになるのが辛いらしく、苦しそうな咳をするのだ。一抹の不安が脳裏をかすめた。 “待てよ、去年の秋口にも咳をしていたけれど、あの時はいっときのことだったのだが…… ” と。

 いつも通っている獣医さんのところにニ〜子を連れて行ったのが4月25日。レントゲンを撮った。白くふわっと膨らんでいるものがもやもやっと見える。縦隔(心臓と肺を隔てる隙間部分)に多数あるリンパ節が腫れている、癌の疑いがある、との診立て。当面は、気管支拡張剤、抗生剤、ステロイドで対処するしかない、とのこと。いきなり癌だと言われても、にわかには信じられない。別の病院でセカンドオピニオンを求めることにする。信頼できる医者に心当たりがあった。ただ、その医者の勤務する病院はあまりにも遠方過ぎた。長距離を車で走行する、待合室で待つ、検査・診察・治療を受ける、説明を受ける、同じ走行距離を帰ってくる——病身のニ〜子に耐えられるかどうか。しかし、逡巡は許されない。危険をおかしても行かざるをえない。

 ようやく予約が取れて診てもらえたのが5月3日。血液検査、レントゲン、超音波検査(=エコー検診)、胸水検査(穿刺による採集)など、できることはすべて目の前でやって見せたうえで、診断結果と今後の対処方針を示してくれた。
① エコー検査の映像は、ぼくが自分の目で見たから認めざるをえなかった。たしかに癌とおぼしき瘤状のものが存在した。「肺の悪性腫瘍」と診てほぼ間違いないだろう、という。ニ〜子が癌であることを認めざるをえない。覚悟する。
② 念のために、胸水を細胞検査に出すという。後日届けられた「細胞診断書」には、「浸出液性胸水症で、異型腺上皮様細胞が認められることから、腺癌の発生が疑われます」「胸腔内に腫瘤があることから肺癌が疑われますが、確定診断には生検による病理組織検査が必要です」とある。但し、この診断書が届いた「後日」とは5月14日で、この日の正午すぎ、ニ〜子はすでに死亡していたのだが。
③ 問題の胸水。胸水が溜まると、肺の膨らむスペースが少なくなり、その分肺が圧迫される。ために、とくに吸気が苦しくなる。息が細く浅くなって、深く吸えない。ちょっとしたことで咳がでるし、息切れする。とても苦しいし痛い。胸水を抜くと少しは呼吸が楽になる、という。
④ しかし、自宅で胸水を抜くことはできない。ただ、濃縮酸素を供給することによって、少しなりとも呼吸を楽にしてあげることは、自宅でもできる。そのための装置がレンタルであると、業者を紹介される。「酸素ケージ」(酸素濃縮器)というのが、その装置。説明書によると、「酸素ケージ」とは、要するに「ペット用酸素ハウス」(プラスチック製組立式箱)、大きさは幅80cm・高さ55cm・奥行き 55cmだという。また「酸素濃縮器」とは、空気中の酸素(濃度21%)を30%〜45%にまで濃縮して供給する耐圧容器で、大きさは幅36cm・高さ50cm・奥行き32cm、重量は21kg、接続チューブが付いているという。  

 「酸素ケージ(酸素濃縮器)」は翌日の4日に届いた。直ぐに組み立てて、ダイニング・キッチンの一角に置く。中に、寝床とトイレ用砂場を設ける。ただこの装置は、上述のように、呼吸を少しでも楽にするための補助手段に止まる。胸水を抜くとか、点滴(輸液)をとおして薬剤・栄養・水分を投与するとか――それらの治療は、どうしても病院に通って、獣医師にやってもらわなければならない。さらに通院は、ニ〜子のみに止まらない。ペロのほうも、腎機能の働きを示す数値は思わしくない方向へ向けてじりじり後退している――点滴のための通院は続けなければならないのだった。
 手帳の記録を見てみる――5日、ペロH病院。6日、ニ〜子D病院。7日、ペロC病院。8日9日はニ〜子の病状悪化で動かせない状態。10日、ニ〜子D病院(最後のD病院、遠すぎてこれ以上は通えない、近くのC病院を選択する)。11日、ニ〜子とペロC病院。12日、ニ〜子C病院。14日、ニ〜子C病院(C病院にてニ〜子死亡)。

 ニ〜子の病状が一段と悪化した5月8日からのおよそ一週間というものは、ダイニングキッチンに布団を敷いて、そこを居場所に、病院に連れて行く以外は昼も夜も付き切りで看病した。といっても、ニ〜子のそば以外に身の置き所がなかっただけで、看病なんて、口にするのも気恥ずかしいようなことしかできなかったのだが。たとえば、この程度のことだった。
① ニ〜子は、飲みたい水を飲むのさえままならない。うっかりしていると、ふらつきながら水のところまで行って、口を水のなかに突っ込んで、顎の下をびしゃびしゃに濡らしている。もはや自力では飲めなくなっている。「針なし注射器(プラスチックシリンジ)」でもって、水を飲ませてあげる。
② 水以外に、シリンジでもって――時間の間隔をきちんと守りながら――投与しなければならない大事なものがある。鎮痛剤0.1mlである。ここまで追いつめられる少し前までは、好物のミートとかシャケ(缶詰)を水で溶いて薄い粥状にしたものをシリンジで口の中に入れてあげると、なんとか呑み込んでくれたのだが。今となっては、それもかなえられない。ただ、痛みに耐えて生きなければならない時間を生きる、ただひたすら鎮痛剤を頼りに生きるとは、どれほど辛いことか。
③ 酸素ゲージの中で、濃縮酸素(濃度30~45%)を吸わせる。1時間に2,3回、1回10分程度か。少しは楽になってくれればよいのだが。出入りを手伝ってあげる。
④ 酸素ゲージの中の砂場で、なんとか自力でおしっこをしようとするのだが、間に合わないときがある。だんだん難しくなっている。おしっこは、できるだけゲージの外の砂場で楽にできるように、アシストする。
⑤ ゲージの中は、酸素を吸えるから、いいのだけれど、要するに針金の箱だから、いかにも“留置場の檻”を連想させる作りになっている。本人は留置場に入ったことがないから感じないかもしれないが、やはり自由の拘束を感じるのではないか。できるだけ小まめに気をつけて、外に出してあげる。外には猫ベットも猫篭もあるし、ふわふわの敷物だって、置いてあるのだから。それよりも何よりも、猫の家族、ペロと五郎がいるのだから。

 その五郎は、上記のように眼が見えない。だから、ニ〜子のそばに行くのもままならない。それでも只ならぬ気配を感じるのであろう――酸素の部屋の近くに来て、じっと座っている。見えない目でニ〜子を見守り、心配しているだけなのだが。ペロは、酸素ケージが持ちこまれたときから、ニ〜子の身になにかしら良からぬことが起きたらしいと直感したと思う。しかし、それが最悪の事態だとは! 

 まさに絶え果てんとするニ〜子――ペロがそれを直感したのは12日の夜半、午前0時を過ぎた頃だったと思う。そのときのことはよく覚えている。ニ〜子を酸素ゲージから出してあげたところへ、ペロが待ち構えていて鳴きながらまとわりつく。ニ〜子のそばを離れない。水をあげ鎮痛剤を飲ませるときも、ペロはニ〜子の横に寄り添っている。しかし、ゲージの外に居られるのはせいぜい15分が限度。それ以上は無理、呼吸が容易でなくなる。酸素の部屋に戻す。
 ニ〜子を奪われたかのように、ペロは啼きながらゲージの周りを行きつ帰りつしている。気が動転してしまっている。猫も人間も、朝までほとんど寝ていない。

 翌13日の夜も一晩中、給水と鎮痛剤の投与を続ける。日にちをまたぐ頃から、ペロは鳴いて啼いてニ〜子を求める。ペロがずっと甘えてきたニ〜子だもの、ケージから出してあげなければ。ペロは大喜び。尻尾を直立させながら身体ごとぶつかったり、ごっつんこの頭突きをしたり、ひとしきり甘えた頃にはもうニ〜子の呼吸がもたなくなる。酸素の部屋に返してあげる。この晩のペロは、何度も何度もニ〜子をおねだりするのだった。午前3時を過ぎた頃には、ゲージから出てきたニ〜子のところに、ペロだけでなく五郎も寄って来て、3人で顔を寄せ合うひと時があったりもしたのだった。
 そして朝方、夜が明ける頃だったと思う。ぼくは吃驚した。奥の居間で、ペロがニ〜子の身体を捕まえて何度も何度も舐めてあげている。いつまでも止めない。ペロがニ〜子の毛繕いをしてあげるなんて、ぼくは初めて見る光景だった。これまで何年もの間してもらってきたことのお礼のつもりなのだろうか。それを想うと、目頭が熱くなった。

 5月14日、ニ〜子の最期の日だった。やはり真夜中の零時を過ぎた頃、ペロが“酸素の部屋”の前に来て坐った。ニ〜子を見ている。ニ〜子も中からじっとペロを見ている。出してあげた。このとき珍しくペロは、ニ〜子を誘うかのように奥の居間へと進んだ。ニ〜子は、久し振りにスタスタと歩いてペロの直ぐ近くにまで行き、座布団の上に座った。今から思うと、ペロとニ〜子は最期の――親子の――別れをしようとしていたのではないか。5分くらいが経過したであろうか、否、ほんとうは3分も経っていなかったかもしれない。ニ〜子は酸素の部屋に帰ろうとしたのであろう、立ち上がり、よろつきながら1メートルほど戻ってきたところで、崩れるように坐り込んだのだと思う。おしっこが洩れていた。いかにも浅くて細い息が、ニ〜子の苦しさを伝えている。水を飲ませ、鎮静剤を投与しなければ。その前に、しかし、身体を温かいお湯で拭いて、ドライヤーか何かで乾かしてあげないと。慌てまくって、やっとのことで酸素の部屋に戻してあげた。ほとんど午前の1時になろうとしていた。一息ついた、その直後だった。容体が急変し、ニ〜子は危篤状態に陥った。死ぬかもしれない、と思った。連れ合いを起こした。

 朝十時の開業を目指して病院に駆けつけた。猫キャリーの中のニ〜子を抱き、酸素を吸わせながら急いだ。帰りの分も要るからと酸素ボンベ4本を持参したが、帰途用のボンベは必要なかった。
 医者から呼ばれて二階に上がると、手術台の上にニ〜子は横たわっていた。抱っこした。まだ温かかった。息を引き取ったばかりだったのであろう、午後12時45分だった。彼女を抱っこしたときの感じをもう少し正確に書く。最初はうまく抱っこできなかったのだ。ニ〜子の身体は、まるで背骨がなくなったみたいにグニャグニャで、ぼくの両腕の間をくぐり抜けるようにして床の上にずり落ちてしまったのだった。
 超音波検査の画像データを見る。濁った薄茶色の胸水が映し出されている、その真ん中に、真っ赤な鮮血が丸く広がっている。皮膚に注射針を刺して胸水を抜く「胸水穿刺」に失敗したのだ。この上は、何を聞いても時間の無駄、後の祭り。ニ〜子を一刻も速く家に連れて帰りたい、それだけだった。

 午後2時くらいの帰宅だったかと思う。酸素の部屋はもう要らない。ニ〜子の居場所を作ってあげなければ。連れ合いと二人で、床の間の前に「祭壇」を作った。ダンボールの箱を白いシーツで覆い、その上にタオルケットを敷いてベットに見立て、ニ〜子の遺体を寝かせた。生前のニ〜子はペルシャ猫の血が混じっていたためであろうか、身体全体がふわ〜っと膨らんでいたが、遺体になってからのニ〜子は妙なことに、ペロや五郎と同じ短い直毛になっていた。尻尾だけはふわ〜っとしたままであったが。
 横たわったニ〜子の上に毛布をかけ、日本手拭で飾った。手拭には、茄子の鮮やかな紫と葉っぱの深い緑が美しく描かれており、まるで岩絵具で描いた日本画のようだった。

 遺体の側には、ニ〜子が子どものころ大好きだった猫じゃらし2本、魚のブローチつき首輪(竹本ニ〜子の名前・電話番号を記す)、1回も着なかった猫用チャンチャンコなどを飾った。それから彼女の写真、ペロや五郎とのツーショットの写真も。庭に咲いている、ピンクの花がかわいらしい野草も、花屋の菊の花も飾った。14日と15日はお通夜。夜遅く迄、蝋燭の灯のもとで泣いた。声をあげて泣いた。

 16日、荼毘に付す段取りを決めていた。16時30分、ペロと五郎をニ〜子の遺体のところへ連れて行ってお別れをさせる。16時50分、ペット専門出張火葬屋さん到着。火葬室(焼き場・焼却室)と燃料装置を搭載した軽自動車が、移動式火葬場だった。近所の空き地で車を止め、火葬してもらう。17時5分に点火。1時間余りで、ニ〜子は骨と灰になった。喉仏と頭そしてその他の全部の骨を拾って骨壺に納めた。拾骨を終え、火葬の儀式は完了した。18時15分だった。

 夜、骨壺の所定の位置に「竹本ニ〜子」「平成27年5月14日」と書き入れ、小さな写真を貼りつけた。ニ〜子が死んだこと、もはやこの世にいないこと、その遺体すらないことを思い知った。今此処に生きていた命がない、今ないだけでなく、明日も明後日も永遠に失われてもはや帰ってこない。それを想うと、涙が込みあげ、声をあげて泣いた。親の死に目にも会ったことのないぼくだから、人の場合はどうなるか、想像できないが…………これほどまでにわぁわぁ泣けるものであろうか。

に~子

 ぼくの悲しみは、しかし、ペロのそれには遥かに及ばない。誰が何と言おうと、ペロにとってニ〜子は「お母ちゃん」だったのだ。お母ちゃんお母ちゃんと慕ってきたニ〜子に死なれたのだ。自分はいったいどうしたらいいのか。
 “ ニッちゃん、どこにいったんや!  おかぁちゃん、どこにいるの? 今直ぐ、帰ってきて!  ペロのところに、帰ってきて! ニッちゃんがいなくなったら、ペロ、どうしたらええねん、おかぁちゃん、おかぁちゃん!”
 ペロは啼きやまない。アォーン、オーンオーン、アオー、アーアー、オー……呻くように、抗うように、吼えるように、訴えるように、哀願するように、あるいは疲れはてて啾々とすすり泣くかのように――「慟哭」するということがどういうことか、思い知った。

 慢性腎不全の身に、母と慕う人の死。病気の身に、余りといえば余りもの心痛。慢性腎不全のペロは、憔悴し、痩せ衰えていく。どうしてあげることもできない自分が情けなく、悔しかった。
 (注)この文章は、何年も前に出口ゼミ同人誌「如意倶楽部」に投稿したものを、このたびリライトしたものです。