ネットで大暴れする大狂人たち


仲正昌樹[第56回]
2018年5月22日

『ラディカリズムの果てに』

『ラディカリズムの果てに』


 ここ数回、山川賢一と並んで、レベルの低い反ポモ(反ポストモダン思想)人間の代表格である、中二病ニート・オタクのことを話題にした。哲学、科学基礎論、経済学の通を気取って、同じように通を気取っているネット上のヒマ人を相手に、私のような“似非知識人”を“批判”する学問ごっこをしたがるが、時々自分からボロを出す。知ったかぶりをしているのだから当然のことである。最近また、ここまでひどかったのかと改めてびっくりさせられる発言をしている。

RT 「分析哲学」というのが何を指すのかよくわからない。 仲正昌樹氏の本にも「分析哲学」という言葉がよく出て来る。 ラッセル(イギリス)やクワイン(アメリカ)が分析哲学の代表的な哲学者らしいけど・・・。 「英米哲学」と同じなのかな? しかしライプニッツなんてどこの派閥に所属するんだ?

 この男は、「分析哲学」という基本的な言葉さえ知らないのに、ポストモダン系の美学、不完全性の定理とか確率論、ヒュームの因果論、ハイデガー研究の最新動向などについて、通ぶって偉そうに語っていたのである。どうもこの口ぶりからすると、仲正が勝手に作った言葉ではないかと考えたいようである。こういうのを持ち上げて、仲正叩きの駒にしようとする山川賢一とかSkinnerianとか自称元理系研究者なども、同じレベルのように思える。
 最近、医科大生を自称する「フロシンキ@hurosinki」という人物が、私がものすごく言葉遣いが汚いのに対して、山川等はそうではない、と連中の肩をもつようなことをツブヤいていた。それで例のごとく、中二病ニート・オタクが相手をしてもらおうとして、仲正叩きの仲間に入るよう勧誘し始めた。何度も言っていることだが、こういう連中は、山川や中二病ニート・オタク等が、私に対して「捏造」とか「追い詰められている」とか、「学者なのに〇〇を知らない」とか、失礼極まる一方的な決め付けをし、誹謗中傷キャンペーンによってRTを集めていることは、一切眼に入らないか、問題ないと思えてしまうようである。私のようにある程度名前が知られている人間をネタにして、反ポモ遊びをしたがっているとしか思えない。こういう人間が中立を装って、反ポモ遊びに加わってきて、自分たちは仲正のような“ポモ学者”の人格を否定することをいくら言っても許されるが、仲正等が自分たちの態度を問題にするのは許さない、という態度を取り始めるのだから、ツイッター上の反ポモクラスターの世界は本当に狂っている--こういうことを書くと、幼児期のトラウマで「ブーメラン」フェチになってしまった、中二病ニート・オタクは、訳が分からないまま、いつものごとく、「ブーメラン!ブーメラン!」と叫び出すことだろう。
 ただ、山川ブラザーズなどの「反ポモ」以外にも、おかしな思い込みから、知識人ぶった狂人コメントをする連中はいる。最近、岸田秀氏や宮台真司氏、それに私等の名を挙げて、独自の“神学”らしきもので罵倒したがる狂人が、ツイッター、ブログ、yahoo知恵袋、amazonなどに、ほぼ同じ内容の書き込みを繰り返している。Amazonレビューで、拙著『寛容と正義』(明月堂書店)に対して、「こいのぼり」――yahoo知恵袋では「the********」という別のハンドル・ネームを使っており、いくつかのハンドル・ネームを使い分けているつもりのようである――というハンドル・ネームで常軌を逸した以下のような書き込みをしている。

5つ星のうち1.0 絶対的正義という存在しない差別用語

聖書やコーランに「絶対的正義」や「絶対神」という言葉は存在しません。アメリカ人すら「absolute justice」という馬鹿みたいな言葉は、まず使いません(コミックは例外)。

作者は一度も聖書やコーランを読んだことがないか、無知な読者につけ込んで商売がしたいか、ただ思い込みの世界に生きているのでしょう。

このような偏見、差別用語をタイトルに入れる本は星一つですね。

ちなみにネット上で、聖書本文検索やクルアーン(コーラン)検索は可能です。

 いちいちコメントするのも嫌になるくらいひどい思い込みだが、この手の思い込みでネット上を狂いまわっている輩は他にも何匹かいそうなので、一応どこがおかしいか指摘しておこう。
 この男が「絶対的正義」や「絶対神」という言葉にどうしてこれだけ固執するようになったのか不明だが、少なくとも、私の著作を読んだことがないのは確実である。私の記憶する限り、私は自分の著作の中で「絶対神」という表現を意識的に使ったことはない。出てくるとしても、引用か参照だろう。「絶対者(the Absolute)としての神」という表現であれば使うことがあるが、これはキリスト教系の宗教哲学者も含めて哲学者がよく使う言い回しだ。ヘーゲルの『精神現象学』にも、「神」を「絶対的存在 absolutes Wesen」と形容している箇所がある。
 上に引用したひどい文章や知恵袋、ツイッターなどでの書きぶりからすると、「こいのぼり」は、そういう表現も、聖書やコーランにないからダメだと言いそうだが、この男は自分が二重、数え方によっては三重、四重のおかしな前提を自明の理にしていることに気付いていないのだろうか。
 まず、私は洗礼を受けたクリスチャンではないし、少なくとも現時点では、キリスト教の信仰を持っているわけではない。イスラム教についても同様である。その私がどうして『聖書』や『コーラン』の表現に縛られねばならないのか? クリスチャンではない人がキリスト教の教義・神学について語る時、ある同じクリスチャンでも他宗派の教義について語る時、当事者の使っている言葉を、自分たちの慣れ親しんだ言葉に置き換えるのは当然のことである。それがダメだというのであれば、他の宗教に一切論評を加えてはいけない、その宗教の権威ある教えをそのまま引用・参照することしか許されないということになる。「こいのぼり」はそう言いたげだが、それは自己矛盾である。クリスチャンである人が同時にイスラム教徒であることは、通常の意味では不可能だが、「こいのぼり」は両方を代弁している。「こいのぼり」がまともな信仰を持っているとは思えないが、一体どっちの信者のつもりなのか?
 第二に、「こいのぼり」は、「神」について語る場合、『コーラン』や『聖書』に出てくる言葉を使わねばならない、という前提で話をしているが、そんなことを言い出したら、一切の神学は不可能になるし、聖職者による聖典の注釈は不可能である。全て、「神」の本質や属性、名前の言い換えになってしまうからである。当然、聖典を翻訳すれば、オリジナルな言葉を、全く違った体系に属する言葉に置き換えねばならない。〈God〉を「神」と訳しただけで、異なった意味合いが入ってくる。『コーラン』や『聖書』における「神」概念を正確に把握するには、アラビア語、ヘブライ語、ギリシア語などの高度な読解力が必要なはずだが、「こいのぼり」のような頓珍漢な人間がこれらの言語を駆使できるとは思えない。英語だってあやしい。恐らく英会話はほとんど経験がないだろう。
 更に言えば、この「こいのぼり」の第二の前提は、『コーラン』や『聖書』、あるいはイスラム教やキリスト教の教義によって正当化できるのか? 一般的に、宗教は、自らの教義、特に神に関する記述を拡張解釈することを――信者に対して――禁じるものであるが、既に述べたように、純粋に聖典に出てくるフレーズだけで「神」を語らねばならないということにしてしまうと、自分の首を絞めることになるので、言い回しに関しては一定の自由を認めていることが多い。神の本質について自分の言葉で考えたり語ったりしてはいけない、という“教え”を説いている宗派はあるのだろうか?「こいのぼり」は一体誰から、この独りよがりの極みのような“教え”を吹き込まれたのか。こういう頭の悪そうな奴に、適当な“教え”を吹き込んだ“宗教者”がいるとしたら、相当罪が重い。
 ところで、「こいのぼり」は、「絶対神」という――あるいは、彼から見てそれと同義の――言葉を使うことが差別だと断言しているが、どうして差別になるのか? 意味不明である。最大限好意的に解釈すると、キリスト教やイスラム教が、「絶対神」とか「絶対的正義」という言葉を使う粗野で野蛮な宗教だという偏見を振り巻くことになる、「こいのぼり」はそう考えているのかもしれない。しかし、それは文脈を読む能力が皆無のこの男の稚拙な思い込みである。「絶対神」「絶対正義」という言葉を使っている人が、それをキリスト教やイスラム教に結び付けているとは限らないし、それを目にした人が両宗教の教義に結び付けて理解するとは限らない。そういう当たり前のことが分からないくらい、「こいのぼり」は頭が悪い。
 キリスト教やイスラム教は信者が十億単位で存在する宗教なので、おかしな“神”観、“正義”観を持っていて、それを宣伝する人間はいくらでもいる。もし、「こいのぼり」自身がクリスチャンもしくはイスラム教徒のつもりであれば、そうしたおかしな自称“信者”の最先鋒であろう。そういう人間の独善的な“神”観や“正義”観を、「絶対神」とか「絶対的正義」という言葉で形容したとしても、キリスト教やイスラム教そのものを誹謗したことにはならない。まともな読解力がある人間にとっては当たり前のことである。
 因みに『寛容と正義』の副タイトルは「絶対的正義の限界」――明月堂書店編集部の提案で付けたもの――であるが、この場合の「絶対的正義」は、直接的にはブッシュ政権の「無限の正義」作戦をもじった表現であり、間接的には、(アメリカや保守派を批判する)左翼などの独善的な態度を風刺するアイロニカルな表現である。そんなことは本文を読めばすぐ分かるはずだが、「こいのぼり」は読んでないし、読んでも理解できないだろう。今後は、「絶対的正義」で揶揄する対象に、この男のように、生半可な宗教に関する知識で、神学めいたたわごとを語る輩を付け加えてもよい。
 これとほぼ同時期に、NHKの番組のテクストになった拙著『100de名著 ハンナ・アーレント「全体主義の起原」』に対して、やはりamazonレビューに、「終末への黙示録」という人物による以下のような狂った書き込みがあった。ハンドル・ネームからして、擬似宗教っぽい。

全体主義の起源なる書物には大いに関心をそそられはする。
しかし、同時にそれは「全体主義の危険」とでも言うべき内容を予感させる。
ハンナ・アーレントなる女性学者が何者なのかは知らない。
だが、他者のレビュアーの意見を参考にしてみるに、明らかにこの書物は「全体主義イコール悪」とでも言いたげな、雰囲気を漂わせている。
それは「中庸なる思考停止」から恐怖政治が生まれるとでも言いたげな感じがする。
全体主義と言うとわたしは「共産主義」の実験をすぐに連想する、悪いクセがある。
が、しかしそれでも社会主義ないしその最終到達点たる共産主義の実験における失敗例を、「あれこそ悪の枢軸」と単純に物事の本質を見抜く力を脱力させて人間を退歩せしめてしまうであろう、「物事を決めつける指先」こそ、まさに我々が警戒するべき事柄ではあるまいか?
残念ながら共産主義者には、もはや言論の自由は無い、と言わんばかりのその「危険な指先」「軽率なる理解」「軽率で性急に物事をスピード解決したがる悪癖」に多少の警戒心を感じつつ、「全体主義の起源」なる魅力的なタイトルの書物に惹かれて、ためらわずに購入した次第である。
はてさて、どんなもんだろうね?

 本人が認めているように読まないで、書き込んでいる。読まない内から、「全体主義=共産主義」と見なして、その危険を説く本であり、共産主義者の意見を弾圧する本ではないかとの偏見を披歴している。支離滅裂な文であるが、無理に整合的に解釈すれば、この男は共産主義者を自認しており、「共産主義は全体主義である」、という昔からよくある批判に対して開き直り、「全体主義で何が悪い」と言いたいのだろう。だったら、「全体主義としての共産主義」を擁護する本を読めばいいではないか、と思うのだが、『全体主義の起原』というタイトルから、あらぬ方向に妄想を膨らませてしまったのだろう。ハンドル名と、このかなり捻れた“共産主義”愛からして、加齢で頭がおかしくなりかけている元左翼、少なくとも六十歳以上の無職の男というイメージが思い浮かんできた。一応、星5つになっていたが、いやな予感がした――どういう予感か、まともな国語力と、妄想癖のある思想オタクに接した経験がある人なら、容易に分かるだろう。
 その予感は当たった。しばらくして、次のような文が付け足された。

追記。
わたしはいささか不穏で「過激」な事柄を指摘して釘を刺しておくが、「暴力革命への意志は、ひとつの選択肢として今だ有効性を失なってはいない」ということだ。
暴力はひとつの劇薬的な「一手段」として必然的に自由と人権を奪われし、虐げられし民衆の目の前にひとつの可能性と選択肢として、「厳然として存在する」し、すべきなのである。
ちなみにわたしの政治的な立場、態度はリベラル中間派という曖昧なものだが、
そこにみずからの「偽善性」をうしろめたく感じつつも、あえてそう言わざるを得ない。

いささか弁解めいた「言いわけ」をするわけではないが、「あの伝説の反逆者」のような英雄が、もし現代のこの時代に生きているならば・・・
つまり「毛主席」が生きているならば、わたしとてリベラル中間派などという、たわけた偽善の仮面を、この道化じみた役割を放棄して、突如として「革命的左派」の本性を剥き出しにしたとてなんら不思議ではないのだ。
わたしは「毛主席」のように強くはなれない弱みを持つとは言え、まだ、敵を粉砕する鋭い牙を隠し持つことを忘れたわけではない。
そして「時いたらば」あえて大いに叫ぼう。
「造反有理!」と・・・
およそ地上にある反動的事物はすべて木っ端微塵に粉砕する!
だが、今は牙を隠しているだけだ。
むかし、国民党時代の中国において、その首に10万元の賞金が掛けられたお尋ね者の、「極めて危険な反逆者」毛沢東のすさまじい闘争の生涯の真実を知っている人間は、今日では少ない。
俺は今日も道化を演じる。少なくとも権力者がちからを得て、右寄り勢力が支配している現代においては、紳士、淑女の皆さんに、笑顔を振りまき、シッポをフリフリしながら媚びへつらい「隙をみて、相手の喉笛を咬み裂く!」
まさに、俺こそシラーの「群盗」現代版フランツ・モールなのである。(兄・カールを利用する。真の革命家は適当なゴロツキを利用して不要になったら捨てるものだ)
「口に接吻、心にナイフ」だ・・・
復讐の二文字こそ、今の俺を生かしている。
この胸に燃えさかる「復讐の炎」はあらゆるものを焼き尽くす、これこそが真の「星火燎原」であろう。

 どうおかしいか説明するまでもないが、一応説明しておく。自分は「リベラル」だと言いながら、この短い文を書いている内に勝手に興奮して、暴力革命の指導者としての毛沢東へのかつての憧れを思い出し、暴力肯定思想を展開している。右派の台頭に対して強い危機意識を抱いていない、自分以外の“リベラル”は偽善でダメだと勝手に決めつけるような口ぶりだ――自分だけが危機に気付いているというのは、年取ったサヨクにありがちの妄想で、別にラディカルでも珍しくもない。革命的実践も職業活動もしないまま、無為に年月を過ごしてきて、欲求不満だけが溜まっている年寄りのサヨクなのだろう。アナーキズムへのノスタルジーに浸るのは勝手だが、『全体主義の起原』からますます離れている。
 更に数日後、以下の文章が更に追加され、星1つになった。私の当初の予想通りの展開である。

附言。
読後の印象が極めて悪い。ハッキリ言ってつまらん。
もっと深淵なテーマかと思っていたらくだらないユダヤ人虐殺(ホロコースト)だの、アイヒマンを擁護したかのような、誤解されし、学者のババアの姿を描いているだけで、
俺には「なんの興味もない」
ユダヤ野郎がどうの、ババアのたわ言がどうのこうのとツベコベツベコベ抜かしやがって!
俺を怒らせるな!バーロー

 まともに読む気がなかったのは明らかだ。勝手に暴力=全体主義賛美の本を期待して、その期待が裏切られたと言って、逆恨みで八つ当たりしているのである。幼児的なメンタリティに退化した迷惑老人である。
 しかし、それ以上に許しがたいことがある。この男は「暴力革命を肯定する革命的左翼」を自認しているくせに、ホロコーストはどうでもいい浅い話で、自分の毛沢東への憧れは、暴力崇拝は深い深淵な思想だと言い張っているのである。こういう屑がいるから左翼は信用を失ったのである。少し正確に言うと、本当は単に暴力的な騒ぎが好きなだけのくせに、建前的に抑圧された弱者のために闘っていると言い張っているのではないか、という嫌疑をかけられて、衰退していったのである。この判断力の弱ったボケ老人は、その左翼のダメな所を開き直って自白しているのである。ただ、シラーなどを引用して観念的な台詞をもてあそんでいることからして、この男は若い時にも口先だけで、実践らしい実践もしていないのだろう。こういう口先だけで、自己目的化した体制批判の台詞を繰り返して、勝手に悦に入っているような輩を「サヨク」という。
 [宗教⇀左翼(サヨク)]繋がりで言うと、最近ツイッターで、私が昔統一教会の信者であったことを、それと全く無関係な本や文章に強引に難癖を付ける輩を見つけた。恐らく、うまく批判できないので、関係ない過去の話を持ち出してけなそうとするのだろう。最近はそういう奴はあまり見かけなくなったので、久しぶりに目にして不快だったということに加えて、あまりにも唐突だったので、面食らったということがある。「書肆CAVE・武田‏ @CAVE1919」と名乗る、ネット上で古書店・骨董屋をやっていると自称する奴のツイートである。古書店と称している割には、政権や保守と見なされている人に対する、品のないサヨク系悪口ツイートをしつこく繰り返しており、誰がこんな奴から商品を買うのかと思ってしまう。

仲正昌樹のデリダの遺言を読んでるけど、こいつネットで批判されるのが我慢なら無いけつの穴の小さいクズらしい=^.^=まあつまらん。

仲正昌樹って統一協会のバカだったのね=^.^=途中で投げ出して正解

 こいつもかなり発想が飛んでいる。私は『デリダの遺言』であれ他の本で、ネットで「批判」されること自体を問題にしたことはない。ネットの匿名性に隠れて「批判」とは到底言えない、中傷誹謗を繰り返している奴を問題にしている。この男は、中二病ニート・オタクや山川、頭の中に虫が住んでいる偽理系人間等と同様に、読解力が低くて、その区別が付かないのである。この男は、学者や本を書くような知識人は、ネットで他人に誹謗中傷されるのを我慢しなければならないと思い込んでいるようだが、そんなルールなどない。そんなルールがあるという前提で、誹謗中傷に抗議する知識人の方に非があるかのように言うのは、自称文芸批評家の山崎行太郎やその手先の自称俳人の廃人こと望月至高、この男くらいのものである。
 加えて、そこでどうして統一教会の話が唐突に出てきて、勝手に納得してしまうのか。最近のサヨク、ウヨクに、ターゲットとしている相手を批判する際に言葉が見つからなくなると、すぐに「こいつ統一教会だ!」と言い出す奴がいるが、こいつもその類なのだろう――ほとんどの場合、その相手がどう「統一教会」と関係しているのか具体的に示されない。何でもかんで、宗教に結び付けて批判したつもりになるのは、その人間自身が、宗教に救いを求める人以上に、精神不安定になっている証拠である。この男には抗議のメールを送ったが、完全無視。度胸もないのだろう。つまらん屑なのは、お前だよ!
 このしばらく後、今度は、この連載の第五十二回で取り上げた、法学の生半可な知識を自慢したがる、目立ちたがりのサヨク・ツイート男「tm9256 (t_m)」が、勘違いを指摘されたことを逆恨みして、以下のようなツイートをしている。

そう言えば、 #仲正昌樹 あいつ、昔、#統一教会 だったな、激しく怒っているそうな。まー田舎から出てきて気の毒とは思うけど、そういえば、 #仲正昌樹 に、 #統一教会 のやり口と課せられたノルマがあるのを思い出した。ふーん、全く下らん。普通に生きていれば分かる。 twitter.com/tm9256/status/…

 第五十二回で取り上げたツイートでは、左翼系の良識的なインテリを装っているふしがあったが、見ての通り、今回は下劣さ丸出しである。しかも、文章力の低さも丸出しである。「 #仲正昌樹 に、 #統一教会 のやり口と課せられたノルマがあるのを思い出した。ふーん、全く下らん。普通に生きていれば分かる」、というのはどういう意味か? 多分、統一教会の(集団生活している一部の)信徒の日常的な活動に関する一般的情報と、勧誘のされ方に関する情報と、私がかつて統一教会の信者であったという情報が、ごっちゃになってしまったのだろう。これで“反論”したつもりになっているとしたら、末期的な症状である。これ以上他人に迷惑をかけないで、さっさと消えてほしい。