明仁・美智子両陛下に学んできて今思うこと④


たけもとのぶひろ[第149回]
2018年4月20日

戦後の妖怪マキャベリスト岸信介

戦後の妖怪マキャベリスト岸信介

日米関係の闇について④

 1948年12月24日に釈放されたA級戦犯容疑者19名のなかに、緒方竹虎、正力松太郎、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一など、CIAのエージェントないし諜報工作員として知られる人物が含まれていたことは、広く知られています。
 世界が冷戦時代へと突入するなか彼らは、米国の世界戦略のもとで然るべき役割を果たすことになります。彼ら、とくに前者3名についておおよそのことを見ておきたいと思います。戦後の、日本と米国の関係——それはこんにちの日米関係でもあるのですが――をイメージする上で資するところがあると思うからです。3名について順に紹介していきます。

 まず、緒方竹虎です。彼は道半ばにして急死したのでしたが、そもそもは言論界の雄として名を為したのち政界に転じ、「CIAから資金提供を受けて活動した日本で最初の政府高官」との汚名を着て死にます。ウィキペディアによると、緒方の足取りは以下の通りです。
 ――1911年大阪朝日新聞に入社、1943年12月 朝日新聞主筆解任、1944年7月退社。小磯内閣入閣、1945年12月A級戦犯容疑者指名、1948年12月24日巣鴨釈放。
 1952年10月、衆院選に福岡第1区から出馬し当選。吉田内閣の国務大臣兼官房長官、さらに副総理に就任するや、ただちにCIA局員と接触、日本政界の情報提供・情報活動報告を条件として、その見返りに巨額の資金援助(3万9458ドル、現在価値で約6000万円)を受け取ります。資金は、日本版C1Aの設立を目的とするものでした。
 2005年に機密解除された米公文書館の「緒方ファイル」によると、1955年当時CIAは、鳩山一郎首相および社会党ら親ソ勢力の台頭に危機感を抱き、保守勢力の統合強化を急務としており、後継総理大臣候補としての緒方とその「日本版CIA構想」に対して、最大限の評価を与えていました。緒方はコードネーム「POCAPON」で呼ばれ、CIAの工作員とともに「オペレーション・ポカポン」(緒方作戦)のもとで政治工作に従事しました。

 ところが、1956年1月30日、緒方が67歳で急死することで、米国CIAと工作員POCAPONの政治工作は中断してしまうのですが。
 CIAの緒方評価は高く、彼らについてはまた別の良からぬ企みがあったとの、週刊ポストの記事 <C1A機密ファイルに「吉田茂首相辞任と同時に昭和天皇退位」>(2017.2.10)について、やはりウィキペディアが紹介しています。
 ――2017年に公開されたCIA機密文書(1952.6.18機密指定)によれば、講和条約発足後に昭和天皇が退位して、緒方がかつて教師役をつとめたことがあり友好関係を持つ明仁皇太子に譲位し、それに伴い吉田首相も辞任、後継に緒方が首相に就任する(1953年の下旬から1954年の上旬)との見通しをCIAが持っていたことが明らかになった。(但し、この情報の価値は未確定との、CIA自身の分析がある)。

 この情報には確とした裏付けがあるわけではないとされ、「見通し」であって計画とまでは言っていませんが、未確定であろうと何であろうと、この種のことが囁かれていたこと自体、由々しきことではないでしょうか。この未確認情報によると、米国の諜報機関CIAがその工作員POCAPONを使って、この国の天皇の首をすげ替え、かつ総理総裁の地位をも手に入れようとしていたことになる――つまり、米国のCIAが、天皇の地位と政府権力を一挙にものにする同時革命を企んでいたことになるのですから。
 万が一、昭和天皇の退位と明仁皇太子への譲位が実現していたとしたら、明仁皇太子はいまだ成年に達せず、美智子さまとも会っておられません。お二人の、象徴天皇の何たるかを究める旅は、いまだその第一歩すら踏み出しておられないのです。万が一、彼らのクーデターが成功していたら、この国はどうなっていたことでしょう。

 次に、正力松太郎です。正力といえば、野球から新聞からテレビから果ては原子力まで、どこへでも首を突っ込んで、好き放題にやりまくる、というのが印象ですが、実はCIAのスパイだったというのですから、驚きます。臆することなくCIAのスパイをやってのけるとは、さすがA級戦犯だけのことはある、などと妙に感心するというか呆れるというか、そういう人です。

 正力松太郎の履歴を略述すると以下の通りです。
 1911(明治44)年 東京帝大法科卒業 内閣統計局入局、1913(大正2)年 警視庁入庁、
 翌年警視、1917年 早稲田大学学園騒動鎮圧、1918年 米騒動鎮圧、1923年 日本共産党第1次取締、虎ノ門事件(摂政宮狙撃事件)、1924年 虎ノ門事件で責任を問われ懲戒免官・その直後摂政宮(昭和天皇)婚礼により恩赦・読賣新聞経営権買収および社長就任、1940(昭和15)年 大政翼賛会総務、1943(昭和18)年 内閣情報局参与、1944(昭和19)年 貴族院議員勅撰・小磯内閣顧問、1945(昭和20)年 A級戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所、翌年1月に公職追放、1948(昭和23)年 不起訴釈放、1950(昭和25)年 読賣新聞を有限会社から株式会社に改組、1952(昭和22)年 日本テレビ初代社長に就任。
 1955(昭和30)年 米国の新たな情報キャンペーン「平和のための原子力」プログラムを読賣新聞トップ記事で大々的に紹介し、放送やイベントを含む半年にわたる一大PR活動を開始。衆議院選挙に出馬し当選。
 1956(昭和31)年 原子力委員会初代委員長に就任、「5年後の原子力発電所建設」構想を発表 初代科学技術庁長官就任。
 1957(昭和32)年 第1次岸内閣改造内閣で国務大臣(原子力委員会委員長、国家公安委員会委員長、科学技術庁長官)に就任。…………1969年死去。

 早稲田大学の有馬哲夫教授は、米国公文書館が公開した外交機密文書を読み解くなかで、
 「読賣新聞の正力松太郎がCIAに日本を売っていた」事実を発掘しました。2006年2月16日号の週刊新潮が、<CIA「政界裏工作」ファイル発見!――ポダムと呼ばれた「正力松太郎」>の見出しで報じています。その中身を見る前に、CIAがどうして正力をスパイとして利用することになったのか、その動機について見ておきたいと思います。

 孫崎享さんの『戦後史の正体』(創元社)から引用します。
 「日本に原子力発電所を作る動きは1950年代に確立しています。日本の経済はまだ高度成長が始まる前の段階で、安い石油が自由に手に入る時代です。なのに1955年12月に原子力基本法が成立し、翌56年1月に原子力委員会が設置され、原子力発電への流れが本格化します。いったいそれはなぜだったのでしょう。(中略)
 1954年3月1日、米国はマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行いました。そのとき、ちょうど第五福竜丸が実験の風下85マイルの地点で、マグロのトロール漁を行なっていました。その結果、汚染された灰と雨が第五福竜丸に降りかかったのです。
 3月14日、船は帰港します。すでに乗組員には被曝の症状が現れており、「死の灰をあびた」と報道されます。9月23日、久保山無線長が死亡しました。」
 「これを契機に、杉並区の女性が開始した原水爆実験反対の署名運動はまたたくまに3000万人の賛同を得、運動は燎原の火のごとく全国に広がった」のでした。
 米国批判が噴出します。吉田内閣の政権は大きく揺らぎます。そこへ登場するのが “正力の懐刀” というのが通り名の柴田秀利です。彼のアジテーションが流れを変えたのでした。彼が煽ります、「原爆反対をつぶすには、原子力の平和利用を大々的にうたいあげ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望をあたえるしかない」と。

 以上の中に、CIAがなぜ正力にアプローチしようとしたのか、の答えがあります。それは、有馬教授による米公文書館の公開文書と符合する内容です。有馬教授の指摘から要点を整理して示します。
 • 旧ソ連との冷戦体制のなか米国政府は、CIA諜報部員を日本に派遣して、日本への原子力輸出のための政治工作にあたらせます。任務は、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させ、原子力に対する恐怖心を取り除くこと――この任務を完遂するために、読賣新聞を率いる正力のメディア力を利用する必要があり、まずは “正力の懐刀” 柴田秀利へのアプローチから着手します。
 • CIAの政治工作は成功します。正力とCIAは、テレビ放送および原子力発電の日本への導入について利害の一致を見、協力し合うことで合意します。(なお日本テレビは、米国の技術・資金・特許の提供を受け、以来、反共親米のプロパガンダ・メディアとして働くことをもって “社是” としてきました。)
 • 合意の結果CIAは、正力に個人コードネーム「podam」(われ通報す)「pojacpot-1」を与え、読賣新聞および日本テレビ放送網の組織にはコードネーム「podalton」を与えます。上記2社を通じて日本政界に介入する計画を「Operation Podalton」と呼びました。
 • 柴田秀利にもコードネーム「pohalt」が与えられました。柴田ら読賣新聞は、1955年11月1日から6週間にわたって「原子力平和利用博覧会」を開催し、入場者は約37万人にのぼり、大成功を収めました。ただし、柴田氏は1985年12月に自叙伝を出版した「その翌年、10月にゴルフに招待されているといって米国に旅行に出かけ、11月にフロリダでゴルフ中に死んでいます」(孫崎享さん上掲書)。

 最後に “疑惑の人” 岸信介について見ておきたいと思います。
 • 週刊朝日の記事「岸信介とCIAの密接な関係〜自民党にも金の流れ?」(2013年5月17日号)によると、米国国立公文書館別館で「岸信介ファイル」を閲覧しても、資料はわずか5枚、それも政治的プロフィルの紹介のみで、コードネームさえ記録されていないそうです。緒方はPOCAPONのコードネームのもとに約500枚の資料があり、正力はPODAMあるいはPOJACKPOT-1の資料が1000枚近くあるのと比べて奇異の感を抱かざるを得ません。この点について、戦後日本の政界とCIAとの関係を追究してきた一橋大学の加藤哲郎名誉教授は、つぎのように述べています。
 「岸のCIA関係資料はほんの薄いものです。しかし、われわれにしてみれば、逆にそのことが両者の深い関係を疑わせるに十分なものになっているのです。」「岸資料の5枚目のあとには、not declassified、まだ公開されない、という紙が1枚だけ挟まっている。この1枚の紙の後ろには、何百枚もの秘密資料があるかもしれないのです」と。

 • なぜ岸は戦犯訴追をまぬがれたのか?
 極東国際軍事裁判所が岸信介を起訴し、かつ有罪判決を下していたとしても、当時、不審に思う人はいなかったのではないでしょうか。しかし、訴追を免れました。これには、法廷の外から何らかの力が働いたのではないか、と当時から囁かれたことでした。ここでは、工藤美代子さんの『絢爛たる悪運 岸信介伝』(幻冬社)におけるコメントを引用します。
 「それにしても、岸の無罪釈放は各方面から揣摩憶測を呼んだ。A級戦犯容疑者が起訴、不起訴になった分岐点の重大な条件のひとつは大本営政府連絡会議や開戦決定を下した16年12月1日の御前会議に出席したかどうかであり、(その出欠の如何が)国際検察局の最大の関心事であった、ということが今日では判明している。
 すでに述べたが、岸は16年11月29日の大本営政府連絡会議には出席していないが、閣僚となって以来、16年7月2日から12月1日にいたるすべての御前会議には出席していた。
 こうして見れば、岸商工大臣が日米開戦の意思決定に関わっていたことは否定できない。このほかにも満洲での経済五カ年計画、その後の軍需次官(国務大臣)としての経歴は、明らかに岸には不利となる条件だ。(中略)だが、岸は訴追されず、紙一重の差で奇跡的に無罪釈放された。」

 • 岸の “命の恩人” であったかもしれないジョセフ・グルー駐日大使の存在について。
 アメリカ人外交官のグルーは、戦争に突入する前の10年間(昭和7年〜16年)、東京にあって駐日米国大使を務めていました。その間に、岸信介を知り、ゴルフを通じて親交を深める間柄となったと言います。その頃から彼は、岸信介という人間の人物・力量・人脈の広さに目をつけ、 “意中の人” として狙っていたと察せられます。
 日米開戦のそのときグルーは、米国の駐日大使として東京にいましたから、開戦と同時に大使館内に半年近く幽閉されるところとなりました。その間にグルーが体験した――にわかには信じ難い――出来事について、工藤美代子さんの前掲書は次のように書いています(引用は要約)。

 「開戦後、大使の軟禁状態が4ヵ月も続いている昭和17年3月末のことである。デンマーク大使夫人から妻・アリス宛に一通の手紙が届いた。
 書面には、「岸がわれわれのために大使館外でゴルフをする手配をとうとう決め、彼自身グルー大使と一緒にゴルフをしたい強い希望を持っている」と書かれていた。
 東条内閣の商工相が直接アメリカ大使館と連絡をとるわけにいかないため、岸は知恵を絞り第三国を通してグルー夫妻とゴルフを隠密裏にやれるよう手配したというのだ。」
 報せを読んだグルーの感激は、彼の日記(デンマーク大使夫人へのお礼状の写しの一部)から察せられます。
 「……彼がゴルフの手配を試みた思いやりと親切は、他人に役立とうという彼の絶え間なき望みの典型的なもので、彼を知った10年間に私ぐらいこれを嬉しく思っている者は他にありません。私は将来いつか、もっと幸福な環境で彼に会い、前と同じように友情を継続することを希望しています」」

 グルーは、この岸の親切が敵国日本の情報当局にバレたときに岸がこうむるであろう迷惑を考慮して、プレーの誘いを鄭重に断ったのでしたが、岸の、我が身の危険をも顧みない、大胆不敵なその配慮は、グルーをしてかく言わしめています。「岸は日本において私が最も尊敬する友人のひとりで、彼に対する私の個人的友情と愛情は、何物もこれを変えることがありません」と。
 グルーはアメリカ政府の高官です。影響力を行使できる立場にあります。グルーの岸への友情が岸を救ったのではないか、と工藤さんは以下のように指摘しています。
 「岸が「A級」では無論のこと、「BC級」でも追起訴されなかった裏事情の疑問符にひとつの示唆が浮かんでくる。
 グルーが日記に書き残した、「私は将来いつか、もっと幸福な環境で彼に会い、前と同じように友情を継続することを希望しています」という言葉は、遂に現実となったと見るのが妥当ではないか。
 岸が釈放されいち早く活動を再開できた裏には、いかに本人の類いまれなる才覚があったにせよ、グルーとの巡り合わせがあったことを見逃すわけにはいかない。彼らは岸を緊急に必要としていたのだ。」

 ④「岸を緊急に必要としていた」彼らとは誰のことか?
 1947年、世界が冷戦へと向かうなか国務省のグルーたちは、米国の首都ワシントンにおいて「アメリカ対日協議会」(ACJ : American Council on Japan、通称、ジャパン・ロビー)を立ち上げ、東京のマッカーサーGHQを斥ける決意を固めます。その決意とは、米国の対日政策を180度転換して、日本を自由主義陣営の「反共の砦」と位置づけ、再構築することを意味します。米国は、マッカーサーGHQ路線を捨て、グルーやダレスたちのACJ・CIA路線へと大きく舵を切ろうとしていたのでした。だから、彼らにはどうしても岸――岸という人物の政治手腕――が緊急に必要だった、ということなのでしょう。
 このあたりの動きをまるで俯瞰するかのように描いている文章があります。孫崎享さんの前掲書です。以下に引用します。
 「岸が巣鴨から釈放されると米国側はすぐに接触しています。岸のヨーロッパ旅行やアメリカ旅行の手配もしています。すでにのべたとおり、1955年8月には、ジョン・フォスター・ダレスが岸との会談で、保守政党をまとめて新しい党(自民党)を作るなら、財政的支援を期待していいとのべています。
 シャラー(注:アリゾナ大学歴史学研究室教授マイケル・シャラー、米国務省歴史外交文書諮問委員会委員でもある)は、情報担当の米国務次官補ロジャー・ヒルズマンによれば、1960年代のはじめまでにCIAから日本の政党と政治家に対し提供された資金は、毎年200万ドルから1000万ドルだったとのべています。その巨額の資金の受けとり手の中心が岸だったことはまちがいありません。」

 CIAから岸への資金提供ルートには、必ず経済団体とか企業とかを「濾過装置」として介在させるのが、岸のやり方でした。岸は政治資金の調達について信念と言えるほどのものを持っていて、自他に向かって口癖のように繰り返していたようです。曰く。
 「政治資金は濾過器を通ったきれいなものを受け取らなければならない。問題が起こったときは、その濾過器が事件となるのであって、受け取った政治家はきれいな水を飲んでいるのだから関わり合いにならない。政治資金で汚職問題を起こすのは濾過が不十分だからです」と。曰く。「いかにして濁り水を清い水にしてから受け取るかが、政治家の必須条件である」と。

 岸信介は満洲時代、得体の知れない満洲浪人とかアヘン密売業者とか、その種の人間ともタフにつき合い、しかも証拠を残さない、そういう流儀を身につけた、と言われています。
 その頃の自分に関係させて「政治の本質」について語った言葉が『岸信介証言録』にあります。というか、その頃の自分に言及することなくして「政治の本質」についてうんぬんすることなど、およそ出来ない相談だ、と言わんばかりの口吻で語っています。
 「確かに満洲では、単純なる官僚的な基準あるいは官吏道というものは外れていたね。しかし、政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければ駄目だと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」と。

 岸信介が言いたいことを分けて言うと、以下のようなことではないでしょうか。
 • 政治というのは結果が全て、その成否が全て、結果が目的を達成しさえすれば、その
ための行為・手段はすべて正当化されます。
 ②結果は国家の全体において問われるのであって、個々の人間は結果達成のための手段に過ぎません。彼らの非道徳性とか非人間性とかは、関知するところではないのです。
 ③政治目的――権力の獲得・維持・拡大・増進――のためには、手段を選びません。個々人の動機や政治行動の個々的な経過は関知しません。
 • 政治責任というのは結果責任であり、結果を出すか出さないかであって、個人の道義的責任の如何は関係ないし、神も仏も道徳も関係ありません。

 こうなると岸の言う「政治の本質」とは、国家の権力をめぐって、それを獲得・維持・拡大・増進するための戦い、ということになります。もっと露骨に言えば、国家を我がものにするための、国家機関を乗っ取るための戦いである、ということではないでしょうか。
 別なふうに言うと、政治とは戦いですから、つねに敵を求める、当面する敵を倒すと新たな敵を求める、求めずにおかない、したがって、つねに戦いに依存し拘束されていて、永遠に戦いから解放されることがありません。いかなる犠牲を払っても――嘘をついてでも国を裏切ってでも――果てしない戦争に勝利し続けること、それが「政治の本質」なのではないか、そのように岸信介は述懐しているのでした。このようなマキアベリズムの信奉者は、岸だけでなく緒方竹虎も正力松太郎も同断です。
 彼らに生涯にまとわりついてはなれないのは、闇の世界でしか棲息できない悪人に特有の雰囲気です。焦眉の政治目的を実現するためには、悪魔と手を握ることも辞さない――常にそういう肚で生きているのが、彼らなのですから。