「天皇を読む」第26回


たけもとのぶひろ[第143回]
2018年2月6日

ゆうなの花

再思三考する「天皇のこと」(10)
ゆうなの花咲く島・沖縄への思い

 海洋博開会式出席のための沖縄訪問、その二日目(昭和50年7月18日)、皇太子ご夫妻は国立ハンセン病療養所「沖縄愛楽園」を尋ねて、患者さんにお見舞いのお声掛けをなさいました。そのとき、後のちまでも人びとの語り草になるような出来事がありました。
 最初に、そのことを書きたいと思うのです。

 その日の前日には、「ひめゆりの塔・火炎瓶事件」がありました。さぞかし、テレビや新聞が大きく報道したことでありましょう。なにしろ沖縄全島を揺るがすほどの大事件だったのですから。そして、皇太子ご夫妻が愛楽園をお訪ねになったその時もなお現在進行形で続いていたであろう報道の調子は、 “あたたかい太陽の日差し” というよりも “冷たく厳しい北風” を感じさせるものだったのではないでしょうか。

 語り継がれてきた当時の様子についてブログ「生きる918」が伝えています。その要旨を若干編集して以下に示します。
 「そのような状況のなかで皇太子ご夫妻は沖縄を訪問し、慰霊の祈りを捧げたり、各地を訪問したりされました。「ひめゆりの塔」事件以外にもさまざまな形で天皇家に対する反感を感じた旅だったかもしれません。愛楽園を訪れた際も、もしかしたら到着直後は入所者からの反感を感じていたかもしれません。ところが、入所者一人一人と交流して愛楽園を離れるとき、帰り際には、入所者から自然に合唱が起きたそうです。歌われたのは船出を祝う沖縄民謡「だんじょかれよし」。皇太子ご夫妻は真夏の炎天下に立ったまま、その歌に聞き入られたそうです。
 それは、入所者にとっても、皇太子ご夫妻にとっても、忘れがたい感動的な場面だったのではないかと思います。だからこそ、そのときの光景を、皇太子殿下は琉歌に詠まれ、妃殿下はその琉歌に相応しい曲を付けられ、「歌声の響」という曲が生まれたのではないかと思います。
 お二人にとって、最初に沖縄を訪問された際に愛楽園で聞いた「だんじょかれよし」の合唱は、その後の沖縄訪問にも影響を与えるような大切な思い出なのかもしれないなぁと思いました。」

 「だんじょかれよし」という曲名の意味は「まことにめでたい」ということだそうです。この曲を歌うときは、いつもはその場のみんながエイサーを踊るといいます。
 沖縄の人間ならだれもが知っているこの歌を耳で聞くだけで、殿下にはその意味がわかったのだと思います。だから、聞いているそのときにアイデアが生まれたのではないでしょうか、愛楽園の皆さんへのお礼状を琉球の言葉で書こう、琉歌にして贈ろう、と。

 皇太子さまは、沖縄を日本に迎えたい一心から、独学で、琉球語の読み書きの勉強を始められたと伝えられています。一念発起から何年の歳月が流れたでしょうか、41歳にして初めて沖縄の土を踏まれたとき、明仁皇太子は、琉球語を読み書きするにしても、地の言葉を聞くにつけても、不自由しないまでになっておられたそうです。
 それだけ沖縄の言葉を学び、それだけ沖縄の文化に親しんでこられたからこそ、 “お礼に琉歌を” とのアイデアが生まれたのでありましょう。
 実際に、明仁皇太子の琉歌が、愛楽園「でいご琉球会」へ届いたのでした。最初は殿下の琉歌のみだったようですが、入所者から曲をつけてほしいとの所望があって、美智子皇太子妃が作曲に挑戦されたそうです。

 出来上がった作品は、出版されています。『歌声の響』天皇陛下御作詞(琉歌)・皇后陛下御作曲――朗読と歌唱:鮫島有美子、ヴァイオリン:澤和樹、歌三線:西江喜春(人間国宝)。朝日新聞出版 2015.11.30 第1刷が、それです。
 以下に、琉球語歌詞(琉歌)、琉球語音声表現、日本語意訳を、ブログ「壺中日月長(こちゅうじつげつながし)」2015.11.7から引用します。沖縄の言葉(うちなーぐち)は文字表記と音声表記が違っており、実際に「よむ」ときは音声表記で「よむ」そうです。

琉歌第一首 だんじょかれよしの 歌声の響 見送る笑顔 目にど残る
音声表現  ダンジュカリユシヌ ウタグイヌ フィビチ
      ミウクルワレガ ウミニドゥ ヌクル
日本語意訳 だんじょかれよし歌声の響きと
      それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が
      今も懐かしく心に残っている

琉歌第二首 だんじょかれよしの 歌や湧上がたん ゆうな咲きゆる島 肝に残て
音声表現  ダンジュカリユシヌ ウタヤ ワチャガタン
      ユウナサチュルシマ チムニヌクティ
日本語意訳 だんじょかれよしの歌が湧き上がった
      あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている

 陛下の、沖縄を思う心には、尋常ならざるものがあったと思われます。必死のご覚悟を固め、必死のご努力をなさってきたに違いありません。陛下が沖縄に学ぶために、どれだけの本を読み、どれだけの人に会って教えを乞われてきたことか、そのことを理解していただくために、幾つかの事実をあげたいと思います。
 ぼく自身は、毎日新聞が2017年の夏の終わりに特集した「象徴として 第一部 沖縄への思い」の記事――特に2017.9.3の記事――に導かれるままに、教えられたことを書くだけなのですが。

 最初に、高良倉吉さんのことです。高良さんとは、陛下の沖縄初訪問のときに会ったと明記してありますから、愛楽園訪問後の晩にでももうけられていたのであろう懇談の場でお会いになったのではないでしょうか。記事は次のように書いてあります。
 「歴史学者の高良倉吉さん(69)は、1975年7月、当時皇太子だった沖縄訪問中の陛下と初めて会った。滞在先のホテルに招かれた数人の学識経験者の一人として陛下と懇談した。 陛下は琉球王国に関する二つの歴史書『中山世譜(ちゅうざんせいふ)』『中山世鑑(ちゅうざんせいかん)』を挙げて、尚真王について質問している。 陛下との交流はその後も続いた。戦争で消失した首里城の復元のため、資料探しや時代考証に奔走していたときは、(陛下から)励ましの言葉をかけられた」と。
 陛下は、ご自身が、江戸幕府のもとでの琉球征伐、明治政府のもとでの琉球処分(沖縄県設置)と、琉球征服の主力として加担してきた薩摩藩の末裔であることを、よくよく承知しておられます。むしろ、歴史のその事実を片時も忘れてはならない、と自戒してこられたのが陛下です。その思いもあって、沖縄のことは琉球王国の歴史から学んでいかなくては、と思い定めておられたのではないでしょうか。

 同じ日の特集記事に「沖縄在住の作家、大城立裕(おおしろたつひろ)さん(91)も陛下が来訪する度に懇談した」とあります。ちなみに大城さんは、1967年に『カクテル・パーティー』で芥川賞を受賞しておられます。おふたりの間では、琉歌もあり組踊もありで、話の種は尽きなかったのではないかと察せられます。
 同記事は大城さんの知る陛下を、たとえば次のように語っています。
 「琉歌が話題にのぼり、18世紀の女性歌人、恩納(おんな)なべに話が及んだ。山村の風景や恋心を歌ったなべの歌を、陛下はよく知っていた。なべを題材にした自作の琉歌を大城さんに披露したこともあったという。大城さんは「本土と違う歴史を重ねてきた沖縄の伝統や文化に、敬意を払っておられた」と話す。」

 陛下が「なべ」を題材に琉歌を作ったという、この女性歌人は、いったいどんな人なのか、調べてみました。
 ――恩納なべ(オンナナビー)は18世紀の琉球王国の農民女性歌人。沖縄本島北部の恩納間切の農民の娘として生まれました。伝説の多い人物で、「隣りの間切に金武という恋人がいた」などと伝えられています。農民の心情や情熱的な恋愛を力強く詠うのが作風で、恩納村には歌碑が建立されています。なべさんの琉歌は、たとえばこんな具合です。

琉歌    恩納岳あがた 里が生まり島 森ん押し除きてぃ 此方なさな
音声表現  ウンナダキアガタ サトゥガンマリジマ
      ムルンウシヌキティ クガタナサナ
日本語意訳 恩納岳の向こうは愛しいひとの生まれた村
      あの山さえも押しのけてこちらに引き寄せよう

 また、芥川賞作家の大城立裕さんは、組踊の新作を幾つも書きおろしてこられた方としてその名を知られていました。
 組踊は、琉球王国の時代から伝わる沖縄の古典芸能で、音楽(三線など琉球音楽)・舞踊(琉球舞踊)・台詞(琉球語首里方言)から構成される舞踊劇(音楽劇)です。
 大城さんと陛下は、懇談を重ねていくうちに、何度となく、この「組踊」についての夢を語り合われたのではないでしょうか。その折りの夢が現実となってこの世に現れたと言いたくなるほどの出来事が2004年1月に……沖縄初訪問の1975年からするとおよそ30年の歳月が経過しているのですが……生まれたのでした。
 同月18日、全国で五番目の国立劇場として「国立劇場おきなわ」が同県浦添市に開場したのです。同月23日のこけら落としには、両陛下が揃ってご臨席、組踊「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」を鑑賞なさっています。もう一つおまけがあります。同劇場の前に建立された碑です。そこには天皇陛下の詠まれた琉歌が刻まれているのでした。
御製琉歌  国立劇場 沖縄に開き 執心鐘入(しゅうしんかねいり)見ちゃるうれしや

 そのときから数えておおよそ10年、ブログ「邦楽ニュース拾い読み」(2013.01.15)の記事は、沖縄組踊の健闘ぶりを伝えています。一部を要約して紹介します。
 「歌舞伎俳優の坂東玉三郎が、沖縄の芥川賞作家・大城立裕が書き下ろした新作組踊「聞得大君ちふぃじん誕生」に主演する。東京・三宅坂の国立劇場で3月8日~10日に上演される。玉三郎は、「歌舞伎と異なる様式をもった芸能の組踊に若い世代と共に挑み、未来につなげたい」「外国語のような沖縄の古語は難しいですが、できるかぎり組踊の基本に則して演じたい。古典となりうるような作品に」と抱負を語る。」
 沖縄の「組踊」が東京の国立劇場で上演されたのですね。しかも、出し物が大城さんの新作書き下ろし、主演が歌舞伎の坂東玉三郎、というのですから、両陛下をはじめ沖縄の関係者の皆さんの喜び、感慨は如何ばかりだったでしょうか。

 察するに、沖縄の人たちの心の内は、たとえば、こんな具合だったのではないでしょうか。
 ―― “ 両陛下には、これまで何度も沖縄に来ていただきました。沖縄を迎えるために来ていただいたのでした。両陛下に迎えにきていただき、迎えていただいたからこそ、沖縄は、両陛下をお迎えすることができたのだと思うのです。出迎えに来ていただいて、お迎えする、そういう交わりが何十年もが続いてきました。そういう歴史があったからこそ、 “沖縄” は玉三郎さん主役のもとで、三宅坂・国立劇場の舞台に立つことができたのではないかと思うのです。”

 両陛下から言えば、迎えに行って迎えていただく、ということが、沖縄からすると、迎えに来ていただいたお方をお迎えする……そういうことだったのではないでしょうか。
 ご夫妻は、沖縄を迎えるために沖縄まで出向いてこられたのでしたが、すでに触れてきたように、前もって情報を集めて勉強し、訪問先を選んで交渉し、旅の全体を細かなところまで気を遣い、丁寧にデザインしてこられました。我が身のことはさておいて、とにかく、時間の許すかぎり少しでも多くのところを訪ねようとしてこられたのです。

 上述したように、「国立劇場おきなわ」のこけら落としの日、両陛下は臨席のため沖縄を訪問されたのでしたが、そのとき両陛下は、宮古島ハンセン病療養所「南静園」を尋ねておられるのですね。ぼくはこのことを、『道  天皇陛下御即位二十年記念記録集』NHK出版のなかの、皇后さまの「御歌」(平成16年の頁)で知ったのでした。
 意外なところでこの事実に出会ったような気がしたためか、強い印象を受けました。事前にちゃんと調べて、行くべきところにはきちんと訪ねて行く、そういうことなのだな、と。

 「南静園に入所者を訪ふ」と題する御歌は、こうです。
時じくの ゆうなの蕾(つぼみ)活けられて 南静園の 昼の穏(おだ)しさ
 「時じくの」とは「その時節ではない」という意味だそうです。
 上記「御歌」には、宮内庁による【註】が加えてあります。
【註】平成16年1月、両陛下が沖縄の宮古島でハンセン病療養所南静園をお訪ねになった折、以前、沖縄本島で同様の施設を訪ねられた時の皇后さまの御歌に詠まれていたからだろうか、両陛下をお迎えする園内には、まだ季節には早いゆうなの花のつぼみが一つ飾られていた。

 この文章の最初のところで、沖縄愛楽園での出来事を書きましたでしょ。そのときぼくは、両陛下による琉歌「歌声の響」の誕生をめぐる出来事に夢中になるあまり、皇后さまの詠まれた御歌を紹介するタイミングを失ってしまいました。ところが、ここ宮古島の南静園について書くところまで来て、ありがたいことに、同じ国立ハンセン病療養所の “縁” に救われたような気持ちです。もう一度、愛楽園にちなんだことを書いてもいいんだよ、と機会を与えていただいたような……。
 すでに紹介した、昭和50年の最初の沖縄愛楽園ご訪問の際、美智子皇太子妃は次のように御歌をお詠みになっていたのです。
   いたみつつ なほ優しくも 人ら住む ゆうな咲く島の 坂のぼりゆく
 ぼくなりに感じたままの意味を書いてみます。
   傷みながらも、であるからこそ、なお優しくあるほかない、そういう人たちの住ん     
   でいる沖縄という島の、坂をのぼっていきます。ゆうなの花が咲いています。
というふうな感じなのですが。

 皇后さまは、最初の沖縄訪問のとき愛楽園で「ゆうな咲く島」と詠み、そのおよそ30年後に南静園で「時じくのゆうなの蕾」と詠んでおられます。「沖縄」という島々を思い浮かべるとき、どういうわけか「ゆうな」の姿が浮かんでくる、沖縄のイメージと「ゆうな」のイメージが二重写しになる、オーバーラップする__そういうことなのかもしれません。とまれ、「ゆうな」を調べてみました。調べてみてわかったことを以下に記します。

 「ゆうなの木」は背の高い――10m~13m――常緑樹で、枝葉は丸くこんもりと茂ります。海岸近くに生えていますが、風や嵐に負けないだけの、強い生命力に恵まれています。
 花は「一日花(いちにちばな)」です。咲くのは一日だけ。その日のうちに枯れてしまいます。枯れるというよりむしろ、花は咲いたその日に命を終える、ということ。一日とはいえ、咲くその日は、思いっきり咲く。しかも、三回咲く、と言いたくなるほどの咲きっぷりです。朝、咲き始めのときは透明感のある黄色。午后になると赤みを帯びます。そして夕方には橙色(だいだいいろ)になって花びらを閉じます。花は開ききることを避け、どこまでも奥ゆかしいたたずまいです。一日に三回生きた命をその日に終えるのは「ゆうなの花」のほうだけで、「ゆうなの樹」は生き続けます。海からの風にも嵐にも負けません。そのように「ゆうなの樹」が生きつづけるということは、「ゆうなの花」も咲きつづけるということです。花は枯れても枯れても、生まれかわって咲きつづけます。

 「ゆうな」という名詞はその語感からして、やわらかくてあったかくて、第一印象からして好きでした。どういう花なのか、どういう樹なのか、知った今、「ゆうな」という木がほんとに好きになりました。ぼくはまだ実物を見たことがないのですが。
 「ゆうなの木」とともに生きてきた沖縄の人たちは、きっと「ゆうなの花」が大好きなのだと思います。そういうことを実際に身に沁みて知ることが、ほんとうはとても大事なことなのではないでしょうか。

 言葉足らずで少し飛躍して聞こえるかもしれませんが、陛下が「県民を迎える」に当たっての決意を想起しないではおれません。平成11(1999)年11月10日「ご即位10年会見」の中でのお言葉です。
 「私が沖縄の歴史と文化に関心を寄せているのも、復帰にあたって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有することが県民を迎える私どもの務めだと思ったからです。後に沖縄の音楽を聞くことが非常に楽しくなりました。」
 ここで陛下は、「私どもの務め」として「沖縄の歴史と文化を県民と共有すること」をあげておられます。そしてその後に加えて、「沖縄の音楽を聞くことが非常に楽しくなりました」と述べておられます。

 陛下は「音楽」とだけ書いておられますが、陛下としては、この続きに「琉歌」とか「組踊」とかをつけ加えてもいっこうに差し支えないとのお考えだと察せられます。
 「沖縄の音楽を聞く」ことが楽しくなった、というのは実は象徴的な表現であって、そこには陛下の深甚の思いが込められているのではないでしょうか。沖縄の人びとの「喜びや悲しみ・怒りや楽しみ」を共に感じたり、沖縄の人びとの「日々の生活・人生の営み」に触れたりする__そういうことが少しずつできるようになって「非常に楽しくなりました」と、そのようにおっしゃっているのではないかと思うのです。
 そこへと至る道のりとして、「沖縄の歴史と文化を県民と共有する」必要があったのだ、と。それは、とりわけ天皇である自分にとっては、欠くことのできない務めでさえあったのだ、と。そういうことだったのではないでしょうか。

 このように考えると、沖縄をめぐる両陛下の言動は得心がいきます。沖縄についての「お言葉」は、いちいち数えてはいませんが、非常に頻度が多いと思います。そして中身も情熱的かつ直截的だと思います。沖縄は、先の戦争で唯一の地上戦を戦い、9万4000人もの民間人が犠牲になりました(日本側の軍民総戦死者数は18万8000人、米軍1万2500人)。両陛下のみならず、ぼくらにしても、沖縄の人たちに対して、申し訳ないです。象徴の名代として初めて沖縄に挨拶に詣でた皇太子ご夫妻としては、
   花を捧げます
   人知れず亡くなった多くの人の魂に
と、深く深く頭を垂れないではいられなかったと思います。

 「お言葉」だけではありません。1975年の初訪問以降およそ40年の間に10回、機会を見つけては「沖縄訪問」の旅を続けてこられました。那覇空港に到着すると、何よりもまず最初に「国立沖縄戦没者墓苑」(1979年造営 糸満市摩文仁の丘)にお参りし、慰霊の祈りを捧げる――それがお二人の決め事でした。沖縄への一筋の思いをあらためて実感していただくために、「沖縄訪問年代記」を示します。()はその機会に訪問された離島です。
   昭和50(1975)年7月 沖縄国際海洋博覧会開会式
   昭和51(1976)年1月 同博覧会閉会式 (伊江島)
   昭和58(1983)年7月 第19回献血運動推進全国大会
   昭和62(1987)年10月 第42回国民体育大会
           11月 第23回全国身障者スポーツ大会
   平成5(1993)年4月 第44回全国植樹祭
   平成7(1995)年8月 戦後50年「慰霊の旅」
   平成16(2004)年1月 国立劇場おきなわ開場記念公演 (宮古島・石垣島)
   平成24(2012)年11月 第32回全国豊かな海づくり大会 (久米島)
   平成26(2014)年6月 「対馬丸」の犠牲者の慰霊  

 両陛下は、譲位を来年4月に控えて、本年、平成30(2018)年の3月末(27~29日)に沖縄を訪問したいと強く希望され、実現の方向、との報道がありました。在位中最後の――11回目になります――沖縄訪問のこの機会に、日本最西端の離島「与那国島」の人びとを訪ねたいとのことです。象徴の立場から、内外を問わず公平性の原則を遵守してこられた陛下ならではの、ご要望なのではないでしょうか。ずっと以前から気にかけておられたに違いなく、心遣いのほどがうかがわれます。

 今回は、両陛下がどのようにして沖縄の人びとを「出迎え」てこられたか、具体的なお言葉や行動や出来事などを紹介しながら、見てきました。次回は、両陛下のそれらの営みからどういうことが生まれているのか、その意義・真価は奈辺にあるのか、そういったことを考えます。