「天皇を読む」第25回


たけもとのぶひろ[第142回]
2018年1月29日

1975年7月17日、ひめゆりの塔に献花する皇太子夫妻(当時)。この直後火炎瓶が投げつけられた

1975年7月17日、ひめゆりの塔に献花する皇太子夫妻(当時)。この直後火炎瓶が投げつけられた

再思三考する「天皇のこと」⑨
戦没者鎮魂のため沖縄南部戦跡の地を訪ねる

 両陛下は、いまだ皇太子殿下・妃殿下のとき、沖縄国際海洋博覧会名誉総裁として、1975(昭和50)年7月19日から同月21日までの3日間にわたって、念願の沖縄訪問を果たされました。
 その際、なんとしても戦没者鎮魂のために南部戦跡の地を訪ねたい――それが、明仁皇太子のご意志でした。しかし日程立案の当初、宮内庁にしても博覧会委員会にしても、「戦没者鎮魂のための南部戦跡地巡り」などということを考えた人は誰一人いなかったそうです。
 しかし、それが日程に入った。それも訪沖の初日、那覇空港到着後直ちに、沖縄戦の最激戦地・南部戦跡に向かうというのです。慰霊碑が群れをなして建立されているという、その地に、真先に駆けつけないではいられない、そういうお気持ちだったのではないでしょうか。このようにお察しするのも、「まず御魂鎮めが先だ」とする明仁殿下の固い信念が、周囲から洩れ伝わっているからです。

 加えて言えば、沖縄を訪れる人はだれもが、慰霊碑に向かって頭を垂れて祈りを捧げる、そのようであってほしい――それが皇太子時代から変わらぬ陛下の願いであってみれば、最初の沖縄訪問の機会に自らがその範を示さないではいられなかったのではないでしょうか。若い頃から「言ったことは必ず実行する。実行しないことを言うのは嫌いです」(31歳のお誕生日会見)と言明してこられたほどのお方なわけですから。

 とまれ、那覇空港から沖縄本島最南端の糸満市へと向かった皇太子の車列は、同市に入ったばかりのところでちょっとしたトラブルに遭遇しますが、大袈裟なことにはならず済みそのまま進むことができました。空港を出てからおよそ40分、第一の目的地に到着しました。そこでどういうことになったのか、矢部宏治さんの文章(『戦争をしない国――明仁天皇メッセージ』小学館)に拠って紹介します。

 ――午後1時19分、一行は、ひめゆりの塔に到着します。そして皇太子ご夫妻がひめゆり記念会会長の源(みなもと)ゆき子氏から塔の前で説明を受けていた午後1時23分、塔の横に大きく口をあけた洞穴から這い出してきた沖縄解放同盟の活動家、知念功が、皇太子ご夫妻の前方数メートルの場所に火炎ビンを投げつけたのです。献花台の手前の柵にあたって炎上した炎は、一瞬高く燃え上がり、明仁皇太子と美智子妃の足元まで流れていきました。

 その火炎ビン投擲の決定的瞬間をとらえたカメラマンがいます。読賣新聞の報道カメラマン山城博明さんでした(なお、その写真は後日、読賣新聞年間最優秀賞に選ばれたそうです)。山城さんは当時のことを振り返って二つのことを述べておられます。
 一つは同じ沖縄県民として「県民の怒り」を捉えることができた、との自負です。山城さんが「怒り」と言うだけのことはあります。皇太子沖縄到着当日の那覇市や糸満市は、過激派だけでなく全軍労・自治労などの労働組合を中心に数万人がデモや集会などの抗議行動に起ちあがっており、他方、県警は県警で、他県から1000人の応援をも含めて3700人の警備態勢を敷いており、いつどこで何が起こるかわからない “不穏な空気” が辺りを支配していたからです。
 山城さんの回顧談のいま一つの点について、『日本人と象徴天皇』(「NHKスペシャル」取材班)から引用すると、こういうことです。――「しかし、それ以上に山城さんの印象に残ったのは火炎瓶の先にいた皇太子の表情だったという。
 「この表情から見て、(源ゆき子さんの説明を)熱心に聞いているんですね。写っていないんですけど、汗がたらたらなんですよ。この辺からもう流れ落ちているんですよね。実際現場で直に見てね、汗を流して業務を遂行している姿を見たら、沖縄に関して関心を持たれているということは直ぐわかりました。」」

 皇太子夫妻は、火炎瓶の騒ぎに直面しても少しも慌てないで、自若としておられたとそうです。これくらいのことはなにほどのこととも思っておられなかったと察せられる証言があります。
 沖縄現地の抗議行動を心配する周囲の者に対して、常日頃から「石ぐらい投げられてもいい、そうしたことを恐れず、県民のなかに入っていきたい」と応じておられた明仁殿下は、沖縄訪問の前日、夜遅くまで訪沖にそなえて共に力を尽くしてくれた外間守善さん――琉歌の先生筋に当たる方です――との間で次のような会話をなさっているのでした。
 外間先生ご自身の文章(「諸君!」2008年7月号)から引用します。
 ――(東宮御所からの)帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と申し上げたところ、殿下は静かに「何が起きても受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。

 このようなご覚悟を見る者に実感させたものこそ、「ひめゆりの塔」の御魂を前にしたときの、明仁殿下の「鎮魂の祈り」のお姿だったのではないでしょうか。これについても、見ていた人の言葉があります。
 皇太子夫妻を案内した当時の沖縄県知事、屋良朝苗(やらちょうびょう)さんは、随行記者の髙橋綋さんのインタビューに答えて、「私は何人もの方々をひめゆりにご案内しました。しかしあのような敬虔な祈りを捧げてくださった方は、皇太子ご夫妻だけでした。本当に感動しました」と、目頭を押さえながら語ったそうです。

 皇太子夫妻一行は、何事もなかったかのように無事、鎮魂の祈りを捧げたあと、所期のスケジュール通り、沖縄戦の最激戦地として知られる南部戦跡の地へと向かいます。そこから2キロほど南に進んだ海岸近くの目的地には、「魂魄の塔」の名で知られる慰霊碑が建立されており、一行はこの慰霊碑に鎮魂の祈りを捧げるために訪ねていくのでした。以下は、矢部宏治さん(前掲書)の説明に拠ります。
①「魂魄の塔」は、沖縄で最初に建立された慰霊碑で、軍人も民間人も、日本兵もアメリカ兵も分けへだてなく、3万5千人もの身元不明者の遺骨を収めています。建立したのは大切なふたりの娘を「ひめゆり学徒隊」で失った金城和信氏です。金城氏はこの無名戦士の塔を建立することで米軍当局を説得なさったのでありましょう、この実績を足掛かりとして、夫人とともに、娘たちが戦死した洞穴を探し出し、そこに「ひめゆりの塔」を建立、さらに続いて、男子学徒の慰霊碑「健児の塔」をも建立されたのでした。
②「魂魄の塔」での拝礼のあと、明仁皇太子と美智子妃は、沖縄戦の最後の司令部があった摩文仁(まぶに)の丘に向かい、夕方からは那覇市内の「くろしお会館(遺族会館)」で
遺族代表約200人とお会いになりました。

 このあと夜も遅くなった午後10時、明仁皇太子の「談話」と題する文書が報道陣に配布されたのでした。世に広く知られている(中略部分のある)文章を以下に示します。
 「過去に、多くの苦難を経験しながらも、常に平和を願望し続けてきた沖縄が、さきの大戦で、わが国では唯一の住民を巻き込む戦場と化し、幾多の悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは、忘れることのできない大きな不幸であり、犠牲者や遺族の方々のことを思うとき、悲しみと痛恨の思いにひたされます。(中略)
 払われた多くの尊い犠牲は、一時(いっとき)の行為や言葉によってあがなえるものでなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に
心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」

 (中略)までの前段、談話の冒頭において明仁皇太子は、「過去に、多くの苦難を経験し」云々と述べておられます。この部分は、「島津藩の末裔」としての述懐だと察せられます。薩摩藩は、慶長14年(1609年)江戸幕府のもとで琉球王国を軍事侵攻し、維新後は明治藩閥政府の主力として琉球処分(沖縄県設置)を主導しました。自分はその歴史的事実を決して忘れていない、と述べておられるのだと思います。
 また、続く「さきの大戦」以下の文章では、日本が米軍を沖縄本島へと誘いこみ、沖縄を血で血を洗う戦場へと一変させることによって、本土決戦までの時間を稼いだ――つまり、本土のために沖縄を捨てたところで、沖縄の「悲惨な犠牲」「大きな不幸」「悲しみと痛恨の思い」が生まれたのだ、と述べてあります。――「さきの大戦で」日本(軍)が追いつめられた最期の場面で何をしたか、自分はしっかり承知している、と述べておられるのだと思います。

 (中略)から後半の「談話」のなかで、明仁皇太子は自らに問うておられます。沖縄のこの地で「払われた多くの尊い犠牲」を前にして、自分のとるべき態度はどのようなものでなければならないか、沖縄に対して自分はどのように向きあえばよいのか、と。
 いくら神妙な顔をしたとしても、そのとき限りの行為や通り一遍の口先だけの言葉でもってしては、慰霊碑のもとに眠る魂魄を慰めることはできません。誰しも、このことを本能的に承知しています。問われているのは、戦火に倒れた沖縄の人々の御霊に対して、また遺された遺族の悲痛な思いに対して、贖罪の行為とか謝罪の言葉とか――“その種の何かをする” ことではありません。問われているのはもっと別の次元のこと、人としてどのようにあらねばならないかという、その在り方なのではないでしょうか。

 そして明仁殿下は、その在り方について答えておられます。それが上記「談話」のなかの(中略)後段の文章だと思うのです。
 文章は「人々」の「一人一人」のこととして語ってありますが、実は皇太子ご自身の信ずるところが語られているように聞こえてなりません。
 「多くの尊い犠牲が払われました。私は長い年月をかけてこれを記憶し、私自身の深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていく。何を措いてもそうあらねばならないと考えています。」
 明仁皇太子のお心がここにあると思います。美辞麗句を嫌い、率直で単純な表現を好みとされる、いかにも陛下のお言葉だなぁ、と得心がいきます。殿下(陛下)のお気持ちがそのまま現れ出た、ご自身への誓いのお言葉であったればこそ、これまで、多くの「人々」の「一人一人」の心に届いてきたのでありましょう。

 その日の晩、皇太子の「談話」は「火炎瓶事件」とともにニュース番組で報道されます。前出の外間守善先生は、先の「諸君!」(2008年7月号)の文章でこう書いています。
 「私は事件を東京で知った。南部戦跡めぐりに賛成しない方がよかったのか、と気をもんでいるところに八木侍従から電話があった。
 殿下はその時、屋良知亊たちと夕食中だったから「外間さんが心配しているだろうから」とわざわざ電話をかけるよう指示なさったらしい。」
 外間先生は気をもんでいるに違いない、心配しているだろうから、安心してもらうように電話をかけさせる――相手のことを我が事のように思いやる、それが明仁皇太子(天皇)の精神でした。殿下が伝えたかったことは、おおよそ次のような趣旨だったと察せられます。――“ ニュースで報じられている通りです。ひめゆりの塔では、実際には大騒ぎするほどのことはありませんでした。また、ご尽力いただいた「談話」のほうも、予定どおり発表することができました。ご安心ください。ありがとう。”

 ぼくがここに「ご尽力いただいた「談話」」と書いたのは、朝日新聞の記事(北野隆一記者「記者有論」2012.12.22)に基づいています。北野記者は、こう書いています。
「…………「ひめゆりの塔」で火炎瓶を投げつけられた日、(殿下は)談話を発表した。外間さんに相談して練った文章だった」と。

 ここで外間守善先生について、先生と皇太子夫妻との出会いについて、さらには琉歌の指導と研鑽の成果について紹介させて下さい。
 • 外間守善(ほかましゅぜん)先生は、1924年に沖縄市で生まれます。沖縄学の第一人者、沖縄学研究所所長・法政大学名誉教授として、その業績を知られています。特に「おもろさうし」22巻1554首の口語訳を完成させた業績によって、2009年1月、第14回「福岡アジア文化賞」大賞を受賞されています。
 • 凄惨を極めた沖縄戦は外間先生一家をも襲いました。「鉄血勤皇隊」の一員として出兵されたご自身は、奇跡的に九死に一生を得られたのでしたが、14歳の妹さんは、米軍の魚雷攻撃によって撃沈された学童疎開船「対馬丸」から生還しておられませんし、28歳のお兄さんは手榴弾自決で死亡しておられます。
 • 外間先生と天皇皇后両陛下(当時の皇太子夫妻)との初めての出会いは、1968年4月、東京日本橋で開かれたパネル展「これが沖縄だ」の開場でのことでした。案内役の任にあったのが外間先生だったのです。彼らは対馬丸のパネルの前に来ました。先生は明かしました、「妹も乗っていました。帰りませんでした」と。
 皇太子殿下は茫然とされ、妃殿下は体を震わせ、ハンカチを手に涙ぐみ………「おふたりは、そこから動かなくなってしまいました」と、先生は語っておられます。
 • それ以来、両陛下はよりいっそう沖縄に心をお寄せになり、外間先生は沖縄の文化・歴史について進講をくり返し、いつしか陛下は琉歌を詠むようになられたそうです。

 明仁天皇の琉歌への情熱と研鑽ぶりは、その道の碩学たる外間先生をも驚嘆せしめるものだと言います。これほどの天皇を象徴に戴いているのだ! そう思うだけで、ぼくなんかは正直言って、誇らしい有難い気持ちになるのでした。外間先生の以下の文章①および発言②③からくどいようですが、つぶさに見ておきたいと思います。

①「(あるときのこと)殿下が、ご自身の実感にふさわしい言葉の選択に難渋なさった時に、やおらノートを取り出されたことがある。なんとそのノートには、琉球国王の詠んだ琉歌が四十数首、びっしりと書き込まれていた。殿下ご自身でノートなさったものだということであった。琉歌の意味と用字用語、表記法の規範は、国王の琉歌にあるというご明察があったからのご学習だったのだろう。それにしても、三千余首の中から国王の琉歌を選り抜かれて、ノートに書き綴る殿下のご学習には頭のさがる思いだった。」(「諸君!」2008
年7月号)

②「沖縄の人はみんなびっくりしています。今の沖縄の人は、琉歌は詠めない。けれども、天皇はこれだけ歌っているんだ。こんなに歌ったのは琉球王でもありません。琉球王でもいちばん多い人で十首ぐらい、大抵、二首か三首。今の天皇は、二十首以上つくった。本当に天皇は真剣だったんだな。」
③「沖縄の人も使えない言葉を歌い込まれ、かつての琉球王以上の数をお詠みになる。それほどまでに熱心に琉歌を学ばれる陛下のご姿勢。それは沖縄の人々の心を理解し、その苦しみや悲しみで絡まった心の糸を、一つ一つ解きほぐそうとされるかのようです。」
(②③:同志社大学日本文化研究会ブログ「沖縄文化の尊重に務められて」から)

 さて、明仁殿下の訪沖初日、「戦没者鎮魂のための南部戦跡地巡り」の一日です。殿下はこの一日のご体験を琉歌に詠んでおられます。沖縄から東京に帰られて直ぐに、二首の歌を外間先生に見てもらっておられます。「琉歌になりますか」と。
 (ちなみに琉歌は、沖縄の言葉で詠まれた、沖縄形式の和歌(八八八六)です。歌の文字表記と歌うときの音とは微妙に違うらしいのですが、ここでは文字表記のみを紹介します。
 なお、以下に引用した、二つの歌に対する先生の感想は、「諸君!」2008年7月号の上掲原稿からの引用です。)

 一つは「魂魄の塔」(題)です。沖縄最初の慰霊碑に捧げた祈りを詠んだものです。
   花よおしやげゆん  花を捧げます    
   人 知らぬ魂    人知れず亡くなった多くの人の魂に
   戦ないらぬ世よ   戦争のない世を
   肝に願て      心から願って
 こういう言葉を前にすると、ぼくなんかは何も言えなくなるのです。決まり文句で恐縮すが、粛然として襟を正すしかありません。
 外間先生は次のように述べておられます。「無名戦士の塔に詣でて、戦争のない世界を祈願なさったであろう両陛下のお姿が髣髴として私には万感胸にせまる思いがあった」と。

 いま一つは「摩文仁」(題)です。摩文仁の丘で慰霊碑を巡って祈りを捧げた時の思いです。
   ふさかいゆる木草  木や草が深く生い茂っている
   めぐる戦跡     そのあいだをめぐった、戦闘の跡に
   くり返し返し    くり返しくり返し
   思ひかけて     思いを馳せながら 
 外間先生は次のように言葉を添えておられます。「摩文仁の戦跡地を巡られた思いを「くり返し返し思ひかけて」と結句されたのは、殿下の悲痛なご心中の飾りのない表白であったのだろうと推察した」と。

 後者の琉歌「摩文仁」は、いまや “沖縄の人々の心の歌” になっていることにいついて書いておきたいと思います。
 天皇家では、「どうしても記憶しなければならない」忘れじの記念日を定め、その日はどうしても外すことのできない公務以外は入れず、家族全員で黙祷をささげておられます。広島原爆投下の日(8月6日)、長崎原爆投下の日(8月9日)、終戦の日(8月15日)のほかに、もう一日、沖縄戦終結の日(6月23日)があります。その日は、先の戦争で「最大の犠牲」を払った沖縄の人々の痛みと悲しみを決して忘れない、忘れてはならない、との誓いを新たにする、そのために家族全員で黙祷する儀式を欠かさない、ということです。
 一方、その日の沖縄は、摩文仁の丘の平和祈念公園において、全戦没者を偲ぶ「沖縄全戦没者追悼式」がとりおこなわれます。両陛下と天皇家の人びとは、毎年この日には、千里の波濤を越えて、沖縄の人びとと心をかよわせ、ともに戦没者の魂魄をなぐさめておられる、ということではないでしょうか。
 陛下と沖縄との心の通いあいは、実は、前日の6月22日の前夜祭でも見られるのです。毎年、この夜には、陛下の詠まれた「ふさかいゆる~」の琉歌が “献奏” されるそうです。沖縄南部戦跡地に棲む神々のために、摩文仁の丘に眠る魂魄に向かって、陛下の琉歌が演奏され、語りかける、ということです。

 明仁天皇は、平成11(1999)年11月10日の「ご即位10年会見」のなかで、沖縄に対する思いを――ほかの機会にもくり返しくり返し述べておられるのですが――再述しておられます。いくら話しても尽くせぬ思いというものがある、と言わず語りにおっしゃっているのではないでしょうか。ここに再録します。

 「沖縄県では、沖縄島や伊江島で軍人以外の多数の県民を巻き込んだ誠に悲惨な戦闘が繰り広げられました。沖縄島の戦闘が厳しい状態になり、軍人と県民が共に島の南部に退き、そこで無数の命が失われました。島の南端摩文仁に建てられた平和の礎には、敵、味方、戦闘員、非戦闘員の別なく、この戦いで亡くなった人の名が記されています。そこには多くの子供を含む一家の名が書き連ねられており、痛ましい気持ちで一杯になります。さらに、沖縄はその後米国の施政下にあり、27年を経てようやく日本に返還されました。このような苦難の道を歩み、日本への返還を願った沖縄県民の気持ちを日本人全体が決して忘れてはならないと思います。私が沖縄の歴史と文化に関心を寄せているのも、復帰に当たって沖縄の歴史と文化を理解し、県民と共有することが県民を迎える私どもの務めだと思ったからです。後に沖縄の音楽を聞くことが非常に楽しくなりました。」

 最後に音楽のことが出てくるところなど、話が合い過ぎる嫌いがありますが、陛下の琉歌「摩文仁」に曲をつけて献奏される音楽は、戦没者を悼む「沖縄の心」と一つになって、聞く者の胸を打つのではないでしょうか。