「天皇を読む」第24回


たけもとのぶひろ[第141回]
2017年12月18日

語り部たちと言葉を交わす両陛下

語り部たちと言葉を交わす両陛下

再思三考⑧ 水俣の語り部を訪ねて

 両陛下は、これまでできるだけ機会をとらえるようにして、福祉施設や災害被災地を訪ねてこられました。苦しみと悲しみの日々を余儀なくされている人びとに心を寄せ、祈りを共にしたいとの思いからのことでした。このことは前回、すでに詳述したところです。ですが、まだ言い尽くせない気持ちが残ります。あと一つ二つ、具体的な事例というかエピソードめいたものを紹介したい気がするのです 。両陛下にまつわる出来事をもう少し実際に即して知ることができれば、両陛下の——象徴天皇たらんとする——祈りの何たるかを、もっと身近に感じることができるのではないか、そんな思いがしてならないからです。

 これから、二つの事を書こうと思います。
 今回は、「水俣病語り部の会」の皆さんを訪ねられたときのことを書きます。
 平成25(2013)年10月27日、両陛下は水俣病被災地の「水俣病資料館」に「水俣病語り部の会」の皆様を訪ねられました。「全国豊かな海づくり大会」(於 熊本県・10月28日)出席の機会を生かしての訪問でした。語り部の皆様と会って、思いの丈を語ってもらい、交流し、慰問するのが目的でした。その集いは、どこでどのようにして芽生え、動きだしたのでしょうか。またそこでは、どういうことが語られたのでしょうか。いったい何が起ったのでしょうか。
 これらのことについて紹介し論じてゆきたいと思います。拠り所とするのは、高山文彦著『ふたり——皇后美智子と石牟礼道子』(講談社)です。

 「水俣病語り部の会」は、水俣市の「語り部制度」により、平成6年10月に結成されました(メンバーは11名)。会長は緒方正実さんです。この緒方さんが、この度の両陛下による水俣訪問を実現させたキーマンです。そのあたりの事情を知ってもらうた めに、緒方さんについて少し詳しく書きます。

 緒方さんは、祖父の福松さんを急性劇症型水俣病で失い、妹のひとみさんも重度の障害を背負って生まれ胎児性水俣病を宣告されたのでした。お父さんは水俣病の認定申請を準備している最中に、急死しておられます。緒方家親族全体では20名ほどが水俣病の患者として認定されています。
 当の緒方さん自身はどうだったのでしょう。もちろん、手足のしびれなどメチル水銀中毒の症状を抱えておられました。しかし、自分が水俣病であると認めてしまったら、その瞬間から人としての幸せのすべてが消えてなくなるのが現実であってみれば、水俣病ではないと言い張るしかありません。隠す、偽る、逃げるしかない。しかし、水俣病から逃げ切れるもので はありませんでした。

 38年自他を欺いてきた末に、緒方さんはようやく、政府に対して、水俣病の認定申請を申し入れます。二度門前払いを喰らったところで、助け船を出してくれたのが——あの伝説の——川本輝夫さんだったと言います。行政の審査及び処分について不服を申し立てて、認定申請を繰り返す戦法です。川本さんは助言だけではありません。県庁にも一緒に乗り込んでくれたのです。
 緒方さんは、両陛下への語りのなかで、こう述べています。
 「私は十年間、何度も棄却されながらも、ひたすら国、熊本県行政に助けを求める意味で被害に遭った事実を訴えながら、認定申請を4回繰り返しました。そして2007年、2266番目の水俣病患者認定を受けました」と。

 川本輝夫さんは 、平成11(1999)年2月18日、肝臓癌のため享年67歳にて亡くなっていますから、緒方さんの勝利を知ることはできませんでした。そういう事情も手伝って余計に、緒方さんの、川本さんへの報恩の気持ちは、尽きせぬものとなったのではないでしょうか。
 川本輝夫さんのことで緒方さんが忘れられないのは、それだけではありません。川本さんは一枚の書状でもって「天皇」を「水俣病」へと引き寄せ・結びつけようとしたのでした。戦いの来し方を顧みるとき緒方さんには、それを書いた川本さんの気持ちが痛いほどわかると言います。

 一枚の書状とは、「水俣市議会議員・公害対策特別委員会委員 川本輝夫」から「天皇陛下 明仁殿」に宛てた「請願書」です。書状発行日は平成2年9月26日(この日 は水俣病が公害病として認定された日)です。誓願内容は二つ、「一、添付資料1の実現方について、政府に対し人道上、人権上の問題として御提言をしていただくこと」「二、天皇の御名代として、水俣病発生地域の実情視察に皇太子あるいは、秋篠宮か常陸宮にお出でいただくこと」、とあります。川本さんがお願いしていることは、要するにこういうことです。
  “水俣のこの土地に来ていただきたいのです、わしらが実際にどのようにして生きながらえてきて、どうやって死んでゆくか、見てほしいのです、陛下直々にというのは畏れ多くて申し上げられませんが、せめてもの話、御名代を立ててでも水俣に来ていただけないでしょうか” と。

 これは、実際には日の目を見ることができなかった、いわゆる “幻の請願書” です。ですが、両陛下の中にもしっかり記憶されていたのかもしれません。高山文彦氏は上掲書において、「患者の一人によってひそかに請願書が書かれ、ついに提出されなかったということを、お二人は報道などで知っておられたに違いない」とまで書き、川本「請願書」の実物写真(朝日新聞提供)まで提示しているのですから。両陛下は川本輝夫さんの訴えを承知しておられたかもしれません。思いは届いており、そういう事情も含めて、両陛下はこのたび水俣を訪ねてくださったのかもしれません。ふとそんな気がしたりするのでした。

 それはともかく、これを書いた川本さんの必死の願いは、緒方さんのなかで間違いなく生き続けていたのでした。そのことを明かすエピソードがあります。高山氏 の上掲書の当該部分をぼくなりに要約し、紹介します。
 ——2012(平成24)年1月31日、水俣病患者と家族で構成される「語り部の会」一行は、沖縄にあって、ひめゆり平和祈念資料館、沖縄平和祈念堂、対馬丸記念館などをめぐり、慰霊と講話の旅を続けていました。その途上、平和祈念堂でのこと、祈念堂の県職員が、一行を「特別な部屋」に案内してくれるというのです。部屋は、十脚ほどの椅子が並べてあって、その前に対座するように二つの椅子が置いてある、ただそれだけの部屋です。この部屋のどこが特別なのだろうか? ……不審に思っていた矢先、「天皇皇后両陛下と、そのご一族をお迎えする部屋です」と教えられます。一瞬「!」という感じだったのではないでしょうか、ハトが豆鉄砲を喰ら ったような。ややあって緒方さんは、両陛下がお坐りになるであろう二つの椅子から目が離せなくなりました。彼の脳裏に浮かんでいたのは、川本輝夫さんのあの「請願書」であったに違いありません。
 高山氏は書いています。「さぞや川本輝夫は天皇陛下に会って胸の内を打ち明けたかっただろうと、ふたつ並んだ空虚な椅子を見て、彼にはこみあげてくるものがあったらしい」と。

 その年のうちに緒方さんは動きました。来年(2013年)の10月には熊本で「全国豊かな海づくり大会」が開かれる、この機会をのがしたら、両陛下にお会いすることは永久に失われてしまう、なんとしても水俣に来ていただいて、自分たちと会っていただきたい、その一心でした。平成25年の新年度になっていたでしょう か、緒方さんは会員11名の合意を得た上で「語り部の会」として、熊本県庁の「全国豊かな海づくり大会」対策室に宛て、両陛下にお会いしたい旨をしるした文書を届けました。
 ここには書きませんが、いろんな人のご助力があってのことでしょう、7月には、両陛下の水俣入りが確定します。そして8月には、県庁から担当職員が水俣入りし、宮内庁の指示を踏まえて具体的な打ち合わせが進む。愈々というところまで来たということです。

 ただ、肝腎の、当日に話す緒方さんの講話の内容については、即断即決したわけではありません。緒方さんは、いったん書きあげた講話内容を県担当者に届け、その適否について宮内庁の判断を求めたのでした。県担当者の反応は意外でした。
 「天皇皇后両陛 下は、このような話をお聞きになろうとは思っておられません。緒方さんが水俣病患者としていちばん苦しかったこと、悔しかったこと、悲しかったこと、そしてご自身のご家族のことをお聞きになりたいそうです」
 本人は気がつかなかったのでしょうが、なにしろ相手が天皇さま皇后さまなわけですから、気遣いというか慮りというか、遠慮とか配慮みたいなものが働いてしまったのではないでしょうか。聞きようによっては、当事者ではなく第三者の解説みたいに聞こえかねない、まるで当たり障りのないお話になっていたのかもしれません。
 他方、両陛下にしてみれば、評論家のコメントみたいな話を聞いていたのでは、象徴の務めを果たすことができません。事柄の当事者が身をもって体験した生 の事実を、眼の前に丸太みたいにごろんと出していただいて、その話をしていただかなければなりません。
 両陛下のお気持ちがまるっぽそのまま緒方さんの胸に届いたところで、当日の講話の方向が固まったのでした。

 緒方正実さんの講話(原稿)を高木文彦氏は『ふたり』の中に収録しています。
 ①最初にあるのは水俣病患者としての訴えです。先祖代々漁業一家であった緒方家では、親族全体で20名もの人間が水俣病患者として認定されています。実父のように、認定申請を準備している最中に急死した人も数多くいます。患者の苦しみに終わりはありません。水俣病問題は終わっていないのです。
 ②ところが緒方さん自身は、自分が水俣病患者であることをなかなか認めることができませ んでした。自分を偽り、ごまかし、事実から逃げて逃げてきて、ついに逃げ切れないことを思い知りました。自分が水俣病患者であるという事実を認め、それに基づいて生きるには、しかし、行政にも世の中にもこの事実を認めてもらわねばなりません。これまで自らが進んで否定してきたことを、行政に認定してもらわなければなりません。認定申請とはそういうことです。これは容易なことではありませんでした。

 緒方さんは自らの悪戦苦闘の人生を顧みて学んだことを二つ挙げています。
 ①「私が水銀の被害に遭った事実を自身の都合で38年間ごまかした人生を、行政や世の中の人たちが許してくれるのに10年以上の歳月がかかったと思っています。そういう意味では、行政と私の努力によって私の 救済問題が解決したと思っています。正直に生きることがどれだけ人間にとって大切なことか、身に染みて思い知らされました。」
 ②「二度と水俣病と同じような苦しみが世界で起きないことを必死で考えていく中で(中略)、私自身が水俣病から学んだこととして、メッセージにしてい(る言葉があり)ます。
 両陛下に聞いていただきたいと思います。
 ——苦しい出来事や悲しい出来事の中には、幸せにつながっている出来事がたくさん含まれている。 このことに気づくか、気づかないかで、その人生は大きく変わっていく。
 気づくには、ひとつだけ条件がある。それは出来事と正面から向かい合うことである。」

 緒方さんは両陛下に向かって最後に、聴いていただいたことのお礼を 述べて講話を語り終えたのでした。その直後、思いがけないことに天皇は、緒方さんに向かって一礼したのち、坐ったままで、約1分間にわたってお言葉を述べられたそうです。
 「ほんとうにお気持ち、察するに余りあると思っています。やはり真実に生きるということができる社会を、みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました。ほんとうにさまざまな思いをこめて、この年まで過ごしていらしたということに深く思いを致しています。今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればと思っています。みながその方向に向かって進んで行けることを願っています。」

 ここで陛下は、「真実に生きることができる社会」「自分が正しくあることができる社会 」と述べ、そういう社会をみんなでつくっていきたい、そういう方向に向かって進んで行きたい、という趣旨のことを語られたのでした。
 これらのお言葉は、「正直に生きること」「出来事と正面から向き合うこと」の大切さを述べた緒方さんの講話を、陛下なりに受け止められたうえで、それに関わらせて、ご自身の「信条」「信念」を語られたものだと思います。

 「(自分が)真実に生きる」「自分が正しくある」とは、決して難しい表現ではありません。しかし、「真実に生きる」とはどのように生きることか、「正しくある」とはどのようにあることか、と問われると、答えに窮します。この難問を自らに問いつづけてこられたのが明仁天皇ではないでしょうか。
 というより、陛下は若き日 々、帝王学を学んだ小泉信三氏から、この教えを受け、以後何十年ものあいだ、この信念に生きてこられたものと察せられます。ここに皇太子時代「50歳のお誕生日会見」(昭和58年12月20日)のときのお言葉があります。

 「好きな言葉に「忠恕」があります。論語の一節に「夫子(=先生、孔子を指す)の道は忠恕のみとあります。自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。この精神は一人一人にとって非常に大切であり、さらに日本国にとっても忠恕の生き方が大切ではないかと感じています。」
 論語の言葉を読み下し文で示すとこうです。「吾が道、一以て之を貫く。夫子の道は忠恕のみ」(孔子曰く、「私は終生一貫した変わらぬ道を歩いてきた。一貫した道とは忠恕 、真心から他人を思いやる道、仁道である」と)。

 水俣の集いで陛下が「真実に生きるということができる社会」と述べておられるときの「真実に生きる」とは、「私自身の」真実、私はかくあるべきだ、かくあらねばならない、と信じている自分自身の心のあり方——自己の良心——に忠実に生きることを意味しているのではないでしょうか。自分の良心の命ずるままに生きることができる社会でありたい、と陛下は願って来られたのでありましょう。
 そして願わくは、「自身の真実に忠たる生き方」が、そのまま、人様に対するときは真心でもって接し、「人様のことを我が事のように思いやる恕の生き方」となっていますように!  ——そのように陛下は、願って来られたのではないでしょうか。
 「自身の真実に忠たる生き方」が、そのままで、「真心から人様のことを思う恕の生き方」になっている——そういう社会へむかってたゆまず歩むとき、そのときにこそ、私たちは「自分が正しくあることができる社会」に生きることができるのではないでしょうか。

 明仁天皇ご自身にしてからが、この時、この場で、このような言葉が口をついて出てこようとは、思いもよらないことだったのではないでしょうか。
 どの新聞も、このお言葉を「異例」と報じたそうです。予定原稿なしのぶっつけで、これだけの「お言葉」を述べられるとは! と、ぼくも驚き、そうそうあることではない、と思いました。しかし、程なくして思 いかえしたのです。ひょっとしたら両陛下のばあい、この種のサプライズは、間々あることなのではないか、と。訪ねた先々の事情を考えあわせて、ご自分たちにふさわしい、なんらかの表現の仕方みたいなものを、つねに見つけ出そうとしておられるのではないか、と。だって、こういうこともありなのかというような、意表をつくような、あるいはクリエイティブなことをやってのけられるでしょ、しばしば。

 実際に、たとえば、講話が終わってからのこと、「平成の天皇史のなかでも特筆される出来事」が起こったそうです。——この種の集いのあとは両陛下からお声を掛けていただくのが慣例だそうですが、それは実に尋常ならざる交流だったと言います。
 まず、語り部の会の皆さんが一列に並 んでお声掛けを待っている情景を思い浮かべてください。そういう場面で、お声掛けが始まったのでした。以下は、高山氏です。
 「はじめはお二人そろって11人のまえに立っていたが、目配せを天皇が皇后にしたと思ったら、そこからお二人は左右に分かれ、列の左の端のほうへ天皇が、右の端のほうへ皇后が歩みだしてゆき、ひとりひとりに声掛けをしながら中心部までもどって来ると、こんどは天皇は列の右側へ、皇后は左側へと声掛けをしながら進み、最後はもう一度中心にそろってもどって来たのである。」

 語り部たちは銘々が胸に名札をつけていますから、両陛下は、一人一人の名前を呼んで語りかけておられます。慈愛に満ちた眼差しのなかで、いたわりの言葉をかけておられたのでありま しょう。誰よりもこの場に居たかったであろう川本輝夫さんは、すでに述べたように、すでにこの世の人ではありません。代人として息子の愛一郎さん、妻女のミヤ子さんが出席しています。両陛下との間にどのようなやりとりがあったのでしょうか。川本さんのご遺族は両陛下についてどのように感じたのでしょうか。
 ここでも、やはり高山文彦著『ふたり』の文章に助けてもらわなければなりません。実は少し長めになるので、気後れを感じながらの引用です。

 ——愛一郎のところにも、両陛下が左右から近づいて来て、先に彼の前に立ったのは皇后であった。母親のミヤ子とそろってお辞儀をすると、名札を見て皇后は顔をあげた。
 「ああ、川本さんですね」
 と、まるで自分たちのこと を以前から知っているかのように、親しみのこもった声で話しかけてきた。
 「お母様ですか」
 と、愛一郎に顔を向けて、「はい」とこたえると、
 「お体の具合はいかがですか」
 と、ミヤ子に尋ねる。(中略)
 天皇が隣りに立って、
 「お具合はいかがですか」
 と、同じ質問をする。
 「おかげさまで……」
 ああ、やっと母親は奥ゆかしい答えかたをしてくれたと、愛一郎はほっとする。
 予想もしていなかった言葉が皇后からかけられたのは、そのときである。
 「お父様が亡くなられて何年になりますか?」
 父親のことを知っておられるのだ、と愛一郎はびっくりした。
 「14年になります」
 「おつらかったでしょうね」
 と、そのように言いたげな ようすで皇后は深くうなずき、自分も語り部として父親の苦闘の生涯を伝えていきたいと思っています、と愛一郎が言うと、天皇が深くうなずき、皇后は、うんうんうん、と悲しみを受けとめるかのように小刻みに顔を上下させ、それから少しのあいだ微笑をひろげた。(中略)
 愛一郎さんは、父親をめぐる皇后とのやりとりのなかで、このように感じていたという。
 「ああ、救われた……と思ったんですね。たしかに救われたと、正直そう思いました。
 父親がやってきたことがやっと認められたと思いました。(中略)親父の苦しみ多い人生が、やっと認めてもらえたと、私は思わず涙が出そうになりました。家に帰って母親と二人で親父の位牌が置いてある仏壇に報告しましたよ。両陛下がやっと 来てくださったよ、と。」
 ——別の機会に、愛一郎さんはこうも述懐しています。
 「父親が亡くなって何年になりますか、という、あの皇后陛下のひとことで、これまでの張り詰めていた感情や考えが、いっぺんに氷解していきました。あの言葉は、ものすごい力です。私は日本人に生まれてよかったと思いました。左でも右でもなく、古代から営々とつづいてきた大いなる存在があるということが、非常に幸せだなと思います。私ら患者家族にとって、両陛下にお会いできたのは偉大な経験でした」と。

 両陛下は、皇太子時代から何十年ものあいだ、「福祉施設や災害の被災地を訪れて」「人々と少しでも心をともにしようと努めて」来られました(平成11年1999年11月10日、ご即位10年会見、要約) 。それは、公務としてそうしなければならないから、そうして来られたのではありません。お二人のなかに、そうしないではいられない真実、真心があるからだと思います。難儀な日々を余儀なくされている人びとのもとへ出向いて行って、心をともにする、幸あれかしと祈る——自らのなかの真実の声に従って、人びとに真心を捧げるとは、そういうことだと思うのです。
 天皇が象徴天皇たりうるには、このように人びとのもとでともに祈ることが、欠くことのできない、第一の務めでなければなりません。両陛下は、人びとのもとへ行かなければならないからではなくて、行きたいから・行かずにはおれないから、身体の続く限り、行幸啓なさってきたのだと思います。「全身全霊をもって象徴の務めを果た していくことが」どれだけ大変な難事業であったか、今になってようやく、身に染みて伝わって来るのでした。正直言って、申し訳ない気持ちです。