【12/22極北ラジオ・ダイジェスト】日本のロックはいつ始まったのか?

夜をぶっとばせ

 明月堂書店がお送りするミドルエイジのためのクオリティー・ラジオ「夜をぶっ飛ばせ」。本日は2017年最終の配信日です。パーソナリティーは私、竹村洋介がつとめさせていただきます。オープニング曲はいしうらまさゆきさんのユニヴァーサル・ソルジャーでした。

日本のロックの源流は?

 今日のテーマは「日本のロックの源流は?」です。
 1960年代、日本ではフォークとロック、さらにはカントリーまで蜜月時代をおくっていました。というよりもJazzまでいっしょくたにして、「洋楽」という言葉で一体のものとらえらえていました。本国の一つであるアメリカ合衆国ではBob DylanがE.G.を持ち出して大騒ぎになったり、Folkを愛する学生たちと、Artではなく消費する音楽として受け止められていたRock’n’Rollの間には埋めがたい溝どころか敵対関係にありました。
 その前にRockRock’n’Rollの違いをおさえておきましょう。
 米語では改まった表現としてRock’n’Roll。例としてはパティ・スミス‘Bcause the night’があります。
 英語ではRoll=横のりでないBluseを基調としたものがRock.そうでなのでRock’n’Roll例としてはZep‘Rock’n’Roll’Qeenはwe will rock youです。

 ここで、一部ではカルト的人気のある「日本語ロック論争」です。
 これ実はたいした意味がないんです。言ってみれば内田裕也がURCにいちゃもんをつけたかっただけのことなのです。
 当時URCは高田渡、西岡たかしと五つの紅い風船などを擁してFolkミュージシャンの根城の様相を示していました。そして日本語のFolkは「風に吹かれて」(Bob Dylan)にみられるようにすでに定着してしまい、英語で歌うか日本語で歌うかに関係なく、文句をつけようがない。そこで標的がURCにいたハッピー・エンドに向かったということなんです。(その後、新譜ジャーナル誌上で高田渡vs.中村とうようという日本のフォーク論争があるが、高田が中村とうように酒を飲ませてうやむやに。ただしその当時、高田は晩年にみられたようなアルコール症ではなかった)
 すでに、内田がどう評価していたかを問わなければ、Jacks(日本で最初にRockを自称した。それまではRock’n’RollあるいはRockabily)、頭脳警察、裸のラリーズなどいくつもあった。
 内田裕也は人あたりがいい人らしいです。ロカビリーならいざ知らず、ロック界を代表する人ではない。一方、Happy Endのおっとりした学生グループ丸出し、のちのフォークの源流では?と思わせる一面ももっています。
 カレッジ・フォークですか?
 それにボブ・ディランからぱくったキーボードの音なんか吉田拓郎の「春だったんだね」にそっくり。もっとももとはBobDylanですが。たまたま中村とうようさんが、セッティングした『ニューミュージックマガジン』の座談会に同席していただけで、どっちも取るに足らない存在だったのですよ、間違いなくその時点では。
 Pantaや水谷さんやチャー坊が同席していたのなら、全く別です。

はっぴいえんど「風をあつめて」

 いえ、1971年の時点では、拓郎の方がハードロックしてますね、もちろん「人間なんて」のことですが。

はっぴいえんどはレトロスペクティヴに評価された

 Happy Endは、贔屓目に見てもFolk Rockのバンド(岡林のバック、URC在籍)であったのに、逆に内田裕也にRock bandの象徴として取り挙げられたことにより、後世に名を残すことになったのです。しかしHappy Endは音楽的にもURCに所属していたこともあってかFolkの色彩が濃い。
 後に細野春臣がYMOで成功したので、彼が在籍していたBandとしてHappy End神話がつくられたのです。

YMO

YMO「RYDEEN」

 YMOがつまらないバンドだったというのではありません。
 むしろシンセサイザーという楽器の限界を示したという素晴しい最先端のバンドだったのです。ですから、レトロスペクティヴにHappy Endが再評価されたのです。
 1981年には松田聖子の歌詞を書いた松元隆がいたBandとしてまた名を挙げました。また太田裕美の作詞などもしています。松本隆なんて当時は歌謡曲の作詞者ですよ。
木綿の

太田裕美「木綿のハンカチーフ」

 同じ1981年には大瀧詠一の“Long Vacation”もヒットしています。しかし、それまで大瀧はこれといったヒット曲もなく、アメリカンポップスを歌う単なるミュージシャンだったのですね。それが、同じ元Happy Endの松本隆とコラボレイトすることで「さらばシベリア鉄道」が大ヒットし、二人が在籍していたHappy Endはすごかったんじゃないかということにレトロスペクティヴに持ち上げられてしまったというところでしょう。

さらば

さらばシベリア鉄道

 YouTubeにあるこれはSP盤とみられる映像でモノラルなんですよね。針音もそうなのです。すでにこの時点でレトロ志向だったとも言えるでしょう。「君は近視、眼差しを読みとれない」って、阿久悠ですらこんな詞は書きません。
 そしてはっぴいえんどは1985年の国際青年年(IYY)に登場します。
 後から振り返って「Happy End」Rock Band神話がつくられたにすぎない。同時代的に評価されていたのではなく、後の時代になって発見されたということなのです。
ところでこの論争、論争としてではなし崩しに、Happy Endが一方的に得をしたとしたとしか言えなません。
 ここでHappy End論争に決着がつきました。

 一息ついたところで、クリスマスも近いのでジョンとヨーコのメリー・クリスマス(war is over)をどうぞ。


 ここでお知らせです。私こと竹村洋介が新しい本を出しました。
『近代化のねじれと日本社会 増補改訂版』(批評社)です。いちど、ためしにネットの検索エンジンで「批評社」「近代化のねじれ」といれて検索すると出てきますので、よろしくお願いします。

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ノイズの源流、裸のラリーズ/早すぎたLondon Punk、村八分

 後半は、裸のラリーズ、村八分です。
 どれが最初かは問いません。たしかに村八分は裸のラリーズの分派、前回も取り挙げた山口冨士夫は双方を渡り歩いています。村八分自身が裸のラリーズを名乗って活動したこともあるし、ジョイントしたこともあります。
 ラリーズが日本のNoiseの源流であることは言をまたない。後を灰野敬二などが引き継ぐ。
80年シーンでも白石民夫、山崎春美、竹田賢一などに大きな影響を与える。
 ラリーズについてはまた最後の曲として、まず灰野敬二「うまくできない」。

うまくできない

灰野敬二「うまくできない」

 村八分は早すぎたLondon Punk言えるでしょう。詞が一定しない、リズムセクションがのた打ち回る、しかしそれはライヴバンドの最高峰のあかしです。
歌詞が一定しないのは、歌詞を大事にしなかったからではなく、逆に詞はミュージシャンとオーディエンスの間で生成してくるもので、固定化するものではないと重要視していたからです。
 Drive to ‘80に決定的なまでに強い影響を与えました。村八分をやめた後、冨士夫ちゃんがつくった『ひまつぶし』のなかの一曲「ひとつ」を自殺がカヴァーしていることからも明らかです。村八分は「俺のことわかる奴いるけ、俺のこと」、冨士夫ちゃんは「すべてを見ることはできない、だけどひとつだけ、ひとつだけわかる」と「ひとつ」の世界、社会に背を向けた孤高への志向があります。「やっとここともおさらばします。いろんな奴らに出会ったけれど、やっぱりここともおさらば」とした時にも「ただ連れて行くのはおまえ」とZeroにはならない。村八分は俺がいる、俺一人がいる、あんたら世間や、おれたちゃ村八分だということなんです。

ぶっつぶせ

村八分「ぶっつぶせ!!」

 最後に水谷さんのお便りコーナーです。残念ながら今月もお便りありません。便りの無いのは良い便りといいますが、頼りがいのない便りです。安否さえ気になってきます。ぜひ出てください。

 では、最後に裸のラリーズ‘Romance of the Black Grief’をどうぞ。