「天皇を読む」第20回


たけもとのぶひろ[第137回]
2017年11月15日

ご成婚記念写真

ご成婚記念写真

再思三考する「天皇のこと」④
明仁天皇そして美智子皇后、おふたりの人生

 明仁天皇と美智子皇后のおふたりは、縁あってめぐり会い、結婚し、皇太子・皇太子妃の時代を経て、近くご譲位なさる運びとなっています。その間、何十年ものあいだ、求め続けてこられた「天皇の公務」という名のお務めは、実は、天皇と皇后のおふたりがつねにご一緒に事に当たられる “共同事業” でもあった、ということ、このことは前回に指摘したところです。おふたりがここに至るまで、どのような道をたどってこられたか、今回はそのことを考えたいと思います。

 明仁殿下についてはこれまでに書いてきたことの復習になりますが、あえて再述します。美智子妃殿下については、今回の文章で少し立ち入って紹介したいと思います。
 これにはもちろん、彼女が史上初めての民間出身の皇太子妃であるところから、いきおい “物語の主役” とならざるをえない事情もあるわけですが……、大事なことはもっと本質的な点に関わっています。つまり、象徴天皇の立場とは、その務めとは、そもそもどのようにあらねばならないのかという、もともと明仁皇太子に固有の問いであったものが、ご成婚のその日から、美智子皇太子妃の問いでもなければならない——そういう巡り合わせになった、ということです。明仁皇太子にとって皇太子妃の美智子さまとは、この問いの答えを我が事として、共に考えてくれる、この世でただ一人の存在なのではないでしょうか。だから、おふたりは喜びも悲しみも共にして来られたに違いなく、ぼくらとしては美智子さまについて、この際、知ることのできる範囲の知識を整理して理解を深めながら、そこのところを探っていけば、象徴天皇についてのおふたりの考え方に、少しは近づけるかもしれない、そんな気がするのです。

 まず、正田美智子さんに出会われるまでの明仁皇太子について振り返ります。殿下は、ごくごく小さな幼少の頃から、絶対の孤独、孤絶の「1」の環境に置かれておられました。家族から切り離され、めったに両親にも会わせてもらえず、大人の他人に囲まれて大きくなられたのです。家(家庭)はないも同然です。学校へ行くとき見送ってくれるのは母親ではありません。皇居の守衛です。学校へ行ったら行ったで、傅育官の監視監督のもとに置かれます。彼ら役人の厳しい監視の目から逃れるすべはありません。家に帰るといっても、家族は誰一人いない役所の建物の中に帰っていくのでした。そういう毎日が、10年も20年も、それ以上も続いたということです。

 生まれたときから天皇になることを運命づけられてきた人間だからといって、これほどまでの非人間的な・非人道的な扱いは、苛酷に過ぎるのではないでしょうか。これではもう「いけにえ」です。 “愛の鞭の厳しさ“ などという美辞麗句とはまったく無縁です。檻がないだけで刑務所も同然の待遇で囚われている、それが身の上ですよ。それがどれほどのものか、ふつうの国民には想像もつかないのではないでしょうか。
 殿下は、学習院初等科の友人たちと付き合うなかで、すぐに気がつきます。自分の生活は普通でない、自分は人間としてそもそも普通の生き方をさせてもらっていない、こういう自分が天皇をやれるのだろうか、国民の生活などまるで知らない自分が国民の天皇を務めることができるのだろうか、これでよいのだろうか、等々とお悩みになったのではないでしょうか。

 だからといって、自分は天皇になるのだ、とのご覚悟に動揺はありません。明仁少年がヴァイニング夫人に対して I shall be the Emperor. とお答えになったいう、有名なエピソードには、皇太子の面目躍如たるものがあります。そのヴァイニング夫人のアドバイスやサポートのおかげもあったに違いありません、明仁少年は “自身の運命” の道を歩み始めます。そうはいっても、その道はやはり、幼い頃からお馴染みの、独りぽっちの寂しさのなかの、思うに任せない日々だったのではないでしょうか。雲一つない青空のもと、明るく晴れやかな気持ちで足取りも軽く………などという日は滅多になかったのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。

 しかも――のちに触れたいと思うのですが――明仁殿下の少年時代・青年時代、50年代の日本は、国自体が非常に危ない道を進んでいた、ということです。その道は、今再びの戦場へと引き返しかねない、そういう道でした。そのことを歴史の事実として暴いたのは、ほかならぬ米国の機密文書です。米国の暗黒の力が改めてこの日本をすっぽりと覆いつつあり、未来は、経済の復興とは裏腹に、決して明るいものではありませんでした。その日本の将来を、やがて天皇となって背負っていかなければならない――それが明仁皇太子の務めです。
 しかし、運命の女神は明仁皇太子を決して見放しはしませんでした。暗い雲が重く垂れ込めるなか、皇太子さまは奇跡的に光明を見いだすことができたのです。光明とは、もちろん正田美智子さんのことです。

 ここで、正田美智子さんという女性について、そして彼女と明仁皇太子との出会いおよび結婚について、大体のところを書きたいと思います。
 皇太子妃になるまでの正田美智子さんの人生は、察するところ、明仁皇太子のそれとは対照的だったと思われます。美智子さんは、出身が旧皇族でも華族でもありません。民間実業家のご令嬢でした。家庭では、両親に見守られ、兄と弟と妹とご自分の4人の仲は良く、恵まれた環境のなかで大きくなられました。また学校では、つねに友だちに恵まれ、気がつくとクラスメートの輪の中心にいる、そんな日々だったのではないでしょうか。ご自身が、少女時代というより少年時代だった、と振り返っておられるほどですから、思い切り “やんちゃな” 少女だったのでありましょう。
 美しくて、勉強ができ、運動も万能、生徒会でも大活躍――これらの美質を兼ね備えた人、それが少女時代・学生時代の、正田美智子さんのイメージです。ご自身に魅力実力があっての、輝かしい日々です。みんなの ”憧れの的” だったのではないでしょうか。

 その正田美智子さんと明仁皇太子、のことです。おふたりの出会いは、あまねく知られているように、軽井沢のテニスコートでした。皇太子さまの一目惚れに始まるプロセスがあって、おふたりはそれぞれ結婚の意志を固められます。
 明仁皇太子は「美智子さまを好きになったから結婚する」のであり、それ以外の、皇室の基盤を固めるなどといった不純な動機は一切ない、と口に出してはっきりと述べられました。美智子さまもご自身の意思を決然と言い放っておられます。「こんなことをいっていいかどうかと思いますが、ひとつだけわかっておいていただきたいの。もし、私がどんな方とごいっしょになることになっても、それはその方自身が、ほんとうに私の結婚の理想にあてはまる方だからということです。私はこれまで私なりに結婚の理想や、理想の男性像というものをもってきました。その理想を、ほかの条件に目がくれて曲げたのでは決してないってことを——」と。
美智子さんは言いたかったのだと思います。自分は選ばれるだけではない、自分も自身で選んだうえでの結婚なのだ、と。
 これは、当時「正田家と宮内庁との伝声管」と評されたほど正田家の信頼が厚かった朝日新聞・佐伯晋記者だったからこそ聞くことのできた彼女の本心の吐露であった(単独インタビュー:昭和33年11月3日)、と渡邉みどりさんは書いています(『美智子さまの38のいい話』朝日新聞出版)。

 正田夫妻が小泉信三氏(殿下の教育係)に結婚承諾の意を伝えたのが、11月13日。そして2週間後の11月27日、婚約発表の当日、美智子さまが記者会見で述べておられます。「とても清潔なお方だと思いました。とてもご誠実でご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げていかれる方だというところに魅力を感じました。これからは何でも殿下とご相談した上で……」と。
 四つ「ご」が続きます。いいなぁ、と笑えてきます。
 朝日新聞の記者佐伯晋氏は、その日の夕刊紙上でこの慶事を世の中に広めています。記事の見出しは、「正田家を見つめて6カ月 迷い悩んだ母と娘 ご辞退も二度、三度」とあり、美智子さまと正田家の気持ちを汲んだ内容であったであろうことがうかがわれます。

 世間には「昭和のシンデレラ」などと囃し立てる向きもあり、「世紀のご成婚」に沸き返ります。折も折、1957年、58年と、週刊誌の創刊ラッシュが続いていたこともあって、大騒ぎです。他方、香淳皇后、梨本伊都子、秩父宮勢津子妃、松平信子ら旧華族出身者たちは面白くありません、このご成婚に賛成できません。皇太子妃は、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれるのが慣例であって “平民” 出身の皇太子妃などもってのほか、というわけです。なかには、右翼を動かして結婚反対運動を起こそうとした者もいた、と入江相政日記には記されているそうです。
 正田美智子という女性は、もちろん、この程度の圧力に屈するほど柔(やわ)ではありませんでした。というより、昭和34年の正月が明けると、否も応もなく、それらの雑音に構っていられない事態となります。皇太子妃になるための猛勉強が始まったのでした。

 いわゆる「お妃教育」(ご進講)がそれです。渡邉みどりさんに拠って紹介します。
 期間 昭和34年1月13日から3カ月
 場所 宮内庁分室
 授業 月曜から土曜まで、12科目(講師13名)
 月曜日 習字(藤岡保子) 和歌(五島美代子)
 火曜日 英語(エスター・ローズ) 憲法(田中耕太郎)
 水曜日 仏語(前田陽一) 礼儀作法(松平信子)
 木曜日 宮内庁制度(瓜生順良) お心得(小泉信三)
 金曜日 宮中祭祀(甘露寺受長) 宮中慣習(入江相政)
 土曜日 宮中儀式(吉川重国) 宮中儀礼(保科武子・高木多都雄)

 「和歌」の五島美代子先生は、3カ月間「一日一首百日の行」という集中特訓でもって美智子さんを鍛えたそうです。「疲れていても眠くても、必ずその日の感動を振り返ること」と。その五島美代子先生が受講中の正田美智子さんのことを詠んだ歌があります。
 「うちらよりかがやきてりてもの学ぶをとめみづみづし一途(いちづ)なる面(おも)」
和歌の授業だけでなく、たとえば「宮中祭祀」の科目でも「一途なる面」に変わりはなかったに違いありません。
祖先の御霊を祀る祭祀は年に20回以上あるというのですが、その祭祀を執り行なうには、「水を浴び、体を清める潔齊(けつさい)に始まり、小袿長袴(こうちきながばかま)を着け、髪を大垂髪(おおすべらかし)に結う特別の服装は、支度だけでも三、四時間もかかる」というのです。
 一事が万事この調子だったのでしょう。これだと、生半な根性では歯が立ちません。文字通り「全身全霊」をもって対するほかなかったのではないでしょうか。

 そうして4月10日を迎えます。平安の昔から、皇太子とその后になる女性とがご成婚の直前に恋歌を交わす、「贈書の儀」という、儀式があるそうです。おふたりの歌を見ます。
 明仁皇太子(贈歌) 待ちに待ったあしたのくるきょうの喜び
 美智子さま(返歌) たまきはるいのちの旅に吾を待たす君にまみえむあすの喜び
 美代子先生の特訓の成果がここにあります。
 「命懸けの旅」の始まりは、ご成婚パレードでした。皇居から渋谷の東宮仮御所までの、8.18キロを4頭立ての馬車が行進します。おふたりを一目見ようと詰めかけた群衆は、その数おおよそ53万人、沿道で鈴なりになって待ち受けていた人びとは、みんながみんな、おふたりをあたたかく迎えて、いついつまでもお幸せに、と祈ったことでした。

 皇太子妃になったばかりの美智子さまにとって、このパレードは、自分たちふたりを国民の前にお披露目する、この上がないというほど晴れがましい、生涯を通して忘れることのできない舞台だったに違いありません。
 その感激の嵐のなかで彼女は、心に決するところがありました。それは、自らに誓う誓願というか、自らの戒めとする戒語というか、そのような性質のものだったのではないでしょうか。美智子さまは事ある毎に、この日の決心に思い馳せてこられたことと思います。
 ここでは、平成16年(2004年)の「70歳のお誕生日会見」から引用します。あの日からおよそ半世紀もの歳月が経過している、その時間の経過を感じさせない受け答えです。

 記者質問:皇太子妃・皇后として務める日々の心の内にあったものは、どんなことだったでしょうか。
 皇后陛下:もう45年以前のことになりますが、私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います。

 「民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感」とあります。そのとき実感されたのは、一身に背負うこととなった、責任という名の荷の重たさだったと思います。「日本一の旧家」とされる皇室の中にその一員として入っていく、余所者の自分がひとりで加わってゆく__さぞかし心細かったでしょう、怖かったでしょうとお察しするのですが、一部の皇族や女官、元皇族・元華族の女性たちのあいだでは、松平信子を筆頭に、「東宮様のご縁談について、平民からとは怪しからん」などと罵詈雑言する者が跡を絶ちませんでした。
 一方、美智子妃殿下としては、皇太子といっしょに築いていく新生活の夢というものがあったことでしょう。もちろん、それは大仰なものではありません。ただ、一般国民の家庭ではどこのだれもが当たり前のこととして営んでいる生活の細々としたことことを、ひとつひとつ実行していく――要はそれだけのことなのですから。ですが、この「それだけのこと」について、いちいち、皇室のこれまでの仕来りや習わしが阻みます。憎悪敵意に包囲されるなかで、その壁を崩して前へと進むのは、容易なことではなかったと思います。
(注 にもかかわらず、子女出産に当たっての、皇室の慣習――宮中御産殿での出産、乳母制度、傅育官制度――については、廃止の運びとなったそうです。美智子妃殿下の働きがあってのことと察せられます。)

 そして昭和35年(1960年)4月11日、ご結婚一周年記念の記者会見がもたれました。美智子皇太子妃は、率直な言葉で、心境を語っておられます。「難しいこともたくさんありましたし、辛いこともあります。いつになったら慣れるのか、見当がつきません。(中略)時には八方ふさがりのような気持ちになることもあります」と。

 美智子皇太子妃に対する羨望や嫉妬、敵意は、マスコミを巻き込みながら続きます。それどころか、明仁皇太子・天皇に向かう分まで、美智子妃殿下が引き受けなければならない有り様ですから、あたかもバロック音楽の楽曲でつねに聞こえている “通奏低音” のように、怨嗟の声は10年も20年も30年も止むことがなかった、ということです。嘆かわしくも浅ましい話ですが、以下に、その種のエピソードを三つ紹介します。

 • 昭和38年(1963年)3月22日、美智子さま28歳の時のこと。
 人生最大の危機、と言われる局面を迎えます。この年の3月4日、第二子懐妊の報道がありました。そして同月22日、美智子さまは宮内庁病院に緊急入院し、流産の処置手術を受けました。ある宮妃などは、これを評して、「畏れ多くも皇太子殿下の御子を流すとは怪しからぬ」などと、無茶苦茶な妄言を吐いたとされています。
 小山いと子の『美智子さま』は、「平凡」連載を中止、単行本の発行も中止となりました。
 週刊誌を中心に、虚偽報道、報道協定違反報道の類いが野放し状態だったとも伝えられています。無責任なマスコミがそのように騒ぐなか、当のご本人は、4月17日から2カ月半、葉山の御用邸で静養、実父のお見舞いもあって救われたものの、その間の体重は11キロも激減したそうです。
 7月2日にいったん帰京された美智子さまは、同月8日、東宮ご一家3人そろって軽井沢へと旅立ち、8月一杯は静養。9月1日に東京に戻り、13日の山口国体開会式に出席された後は、通常公務への復帰を果たされたのでした。

 • 昭和50年(1975年)9月30日、美智子さま40歳の時のこと(皇后は御年72歳)。
 昭和天皇と香淳皇后が訪米の旅に出発するときでした。特別機のタラップのすぐ脇に宮様たちが並んで立ち、お見送りの挨拶をする、両陛下がそれに答えて返礼する、その場面のことです。順を追って礼儀を尽くす天皇の後を数歩遅れて皇后が続きます。異変が起こったのは、皇后が美智子さまの前に来たときです。そのときの「皇后陛下の衝撃的な場面」をテレビカメラは見逃しませんでした。何が起ったのか。週刊読売の記事はこう書いています。
 ――おや? 美智子さまの前を、無視みたいに、ひょいと飛ばして皇太子さまに、深いお辞儀! ヤヤッ、皇后さまは冷たいじゃないか。(中略)
 ここで “下賎な人間” は、すぐ連想しちゃう。
 「やっぱりねえ、美智子さまは庶民出だもんね、ヨソモン扱いなんだね」
 「だから……だから美智子さん、あんなにヤセちまったんだろうね」(後略)」
 続けて渡邉みどりさんによる、浜尾元東宮侍従の後日談を紹介します。
 「私もテレビを見ていて驚きました。(中略)あのお見送りのときは人前で、それもテレビカメラの前のことですからね。美智子さまはやはり大変なショックをお受けになったと思いました。」
 ただ、香淳皇后については、こういう振る舞いは珍しくなかったようです。なにしろ、皇太子・皇太子妃ご成婚発表のとき、事も無げに “貴賎結婚” などと言ってのけ、強い不快感を示した人だそうですから。

 • 平成5年(1993年)10月20日、美智子さま満59歳の時のこと。
 このお誕生日の当日、美智子さまは赤坂御所にてお倒れになり、「声は出せるけれども、音声として言葉を発することができない状態」を余儀なくされました。
 事の起こりは、「宝島30」8月号掲載の文章にありました。「宮内庁職員 大内糺」を名乗る人間の「皇室の危機――菊のカーテンの内側からの証言」というのがそれです。
 その主張は、天皇・皇后の生活が華美で快楽主義的で西洋風であること、神道よりもキリスト教に親しみを感じていること、よって国民の望む皇室としてふさわしくないこと、の三点にあったそうです。これには週刊文春が追随してバッシング記事を書いたり、反対にこれらの “為にする論” の発信元である宝島社や文藝春秋の関係者宅に銃弾が撃ち込まれる騒ぎもあったりしたことが、皇后さまを苦しめるところとなったのでした。医師の診断は「心因性失語症」ということでした。

 その苦しみの中にあっても皇后さまは、事柄に対するご自身の考えを述べ、毅然としておられました。宮内記者会の質問に対する文書回答が次の点を指摘していることは、実に正鵠を射抜いていると思います。美智子さま曰く、「どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けなければと思います。今までに私の配慮が充分でなかったり、どのようなことでも、私の言葉が人を傷つけておりましたら、許していただきたいと思います。しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません。(後略)」

 美智子さまが声を取り戻して音声会話を再開されたのは、実に4カ月半ぶりのことだと言います。以下は、そのときのことを書いた梯久美子さんの「慰霊の旅と失語症回復の真実――美智子皇后と硫黄島奇跡の祈り」(文藝春秋2010年8月号)に拠るものです。
 平成6年2月12日の午後1時まえ、両陛下は航空自衛隊の輸送機で現地に入って約2時間のあいだに、国が建立した「天山慰霊碑」および都が建立した「鎮魂の丘」に詣り、慰霊の祈りを捧げられました。そして帰路につく直前に立ち寄った基地庁舎の中で、皇后陛下は東京都遺族連合会の石井金守会長にお言葉をかけられたそうです。「ご遺族の方たちは、みなさん元気でお過しですか」と。実に4カ月半ぶりのお言葉だったと、梯さんは証言しています。皇后さまの祈りが硫黄島の御霊の心を動かし、言葉をよみがえらせてくれたのに違いない、とも。

 心ない人たちの言われなき非難攻撃の矢面に立って来られたのは美智子皇后でした。明仁天皇の分も引き受けて来られたことは、すでに指摘した通りです。ですから、その苦しみ悲しみは、おふたりがおふたりして、「共に耐えて」しのいで来られたに違いありません。その共苦の長き時間が、おふたりの心のなかに、あるべき象徴天皇の姿を描き、導いてきてくれたのではないでしょうか。