学問の成り立ちを理解していない反ポモ人の夢想


仲正昌樹[第50回]
2017年11月11日
仲正昌樹氏

仲正昌樹氏

 これまで何度も述べてきたように、山川ブラザーズを始めとする、ネット上の反ポストモダンの集団は、“ポストモダン系”の思想についていくつかの前提を、もはや証明する必要のない自明の理と見なしたうえで、“ポモ”批判を展開しようとする。「ソーカル事件を通して、ポモがいい加減な数学知識に基づいて展開されており、学問の体をなしていないことが暴露された」とか、「ポモはほぼ例外なく、ブランク・スレート説や、その言語学への応用であるウォーフの仮説を信奉しており、スティーヴン・ピンカーのブランク・スレート説批判によって、その理論的前提が崩壊した」「追い詰められたポモは必死になって見苦しい言い訳を言い続けている」、といった前提である。こういうのは、あまりにも漠然としているので検証不可能――ポパーの用語で言うと、反証不可能――であるが、本人たちにとってはもはや疑問の余地を許さない真実になっているようなので、それを否定する主旨の発言をする人間は、「見苦しい言い訳をしている奴」になってしまうようである。まるで森友学園問題や加計学園問題で、安倍内閣を追及している野党やマスコミのような調子である。既に決着済みの問題であり、言い訳は一切許さないという調子だ。中には、私がこの連載で、山川ブラザーズの理解する意味での“ソーカル事件”や“ブランク・スレート説問題”に対して異議を唱えていること自体が道化的行為であり、私自身の学者としての実績に泥を塗るようなものだ、と私に説教しようという奴もいる。一体何様のつもりか、どこかの学会の大御所にでもなったつもりか、と言いたくなる。
 しかし、これまた何度も述べてきたように、反ポモ祭りで盛り上がっている連中のほとんどは、「ポモがインチキ数学・物理学に依拠している」、云々という以前に、各学問分野の成り立ち、各分野ごとの評価の仕組み、学者のリクルート・システムなどについて基礎的な常識を欠いている。常識がないので、プロの(まともな)学者からすると到底あり得ないようなことを、自明の理として堂々と語ってのける。
 例えば、前回私は、山川ブラザーズのような輩にネットで派手に悪口を言われたからといって、終身雇用されている大学教員が首になったり、学内での立場が悪くなるなどということはあり得ない、従って、私のような“ポモ学者”が必死に言い訳しなければならない理由もない——ということを述べたが、ブラザーズはそれを信じようとしない。そういうことを私がこの連載で書いていること自体が、追い詰められている証拠だと強弁する。
 どうしても、自分たちが追い詰めている側で、私が追い詰められている側だということにしないと気がすまないらしい。この連中は、“反論”するのは、追い詰められている証拠だと思っているのだろうか? だったら、誰から頼まれたのでもないのに、ポモ学者と名指しした人の発言に執拗に難癖をつけ続け、信用を失墜させようとしている自分たちこそ、追い詰められているとは思わないのだろうか? もしかすると、自分たちがいろんな面で追い詰められているので、それを私のような“ポモ論客”に投影しているのだろうか。
 この件で自称社会学者・大学教員の男が、「大学教員の終身雇用の話しは関係ない。ポモの後継者を大学業界に残せるかどうか瀬戸際の状況だということだ」、などとツブヤいていた。こいつは正気なのだろうか? 自分の脳内で、勝手にポモ業界地図を描いているとしか思えない。そもそも、「関係ない」というのは、誰にとってどう関係ないということなのか? 少なくとも、私にとっては、自分が首になる/ならならないに比べたら、“ポストモダン思想の行く末”などどうでもいい話である。私には、一般に“ポストモダン系思想”と呼ばれているもの以外に研究対象はいろいろあるし、繰り返し述べているように、“ポストモダン”というのは、一九六〇年代以降に台頭してきたフランスを中心とした哲学・文芸批評のトレンドを総括する名称にすぎないので、名称のことなど最初から大した問題ではない。山川や祭谷、ほしみんなどが、自分たちのいい加減な“ポモ知識”と関連付けて、私や千葉雅也氏等の悪口を言いふらしていることを問題にしているだけである。そもそも後継者問題を気にするのは、精々、東大、京大、早稲田などの有力大学で、それなりに由緒あるポストを継承している教授だけである。地方国立大の教員にすぎない私にとっては、誰がどのポストを継承するのかというのは、基本的にどうでもいい話である。
 しかも、哲学とか倫理学とかはっきりしたディシプリンのある領域と違って、「ポストモダン」というのはかなり漠然とした括りである。「私はポストモダン学者なので、私の後継者もポストモダン系にしないといけない」、というような拘りを持っている学者が果たして実在するのかさえ疑問である。ポストモダン系のポストと呼べるものがあるとすれば、東大駒場の表象文化論や言語情報科学などに関連する、ごく限られたポストに就いている数名、多くて十名くらいの文学・思想系の教員のそれだろうが、その人たちが「ポストモダン」系という雑な括りで後継者問題を考えているのかどうか本人たちに聞いてみないと分からない。ごく常識的に考えて、フーコーについて研究している人が、自分の後任にその研究を引き継いでほしいという程度のことは思っているかもしれないが、「ポストモダン」思想全般の擁護者になってほしい、などと考えるだろうか? 「後継者問題をめぐるポモの悪あがき」のような現象が本当にあるとすれば、教育社会学的に興味深いテーマである。“社会学者”であれば、私のように後継者問題にほど遠い人間に粘着して目立とうなどとしないで、「ポモ・ポスト」に就いている人たちに対してちゃんと聴き取り調査すべきである。そういうことをやる意志も能力もないくせに、安直な反ポモ・ツイートを続けるようであれば、やはり、ただの自称社会学者である。他の山川ブラザーズの面々も、本気で、ポモ必死説を主張したいのであれば、きちんと検証してみるべきである。
 学問基礎論的な話もしておこう。ソーカル問題が“ポストモダン思想”と称されているものの本質とはあまり関係ないということについては、『Fool on the SNS』やこの連載でも何度も触れているので、「ブランク・スレート」説問題に話を絞ることにしよう。これについても部分的には何度か言及したが、ここで学問基礎論的な観点から改めて論点を整理しておきたい。
 先ず、「ポストモダン思想がブランク・スレート説に依拠している」、という山川や祭谷、ほしみん等の言い分であるが、ブランク・スレート説というのが具体的にどういう説で、ポストモダン系と呼ばれている思想家の内の誰のどういう主張がそれに該当するのか特定しない限り、漠然としすぎていて、意味をなさない。彼らは、スティーヴン・ピンカーがそう示唆していることを金科玉条のようにしているが、ピンカーは心理学者もしくは認知科学者であって、全ての学問のことを知っている、学問の神様ではない。ピンカーの議論自体が、哲学や芸術論に関しては、かなり藁人形論法ぎみになっているが、山川等はそれを更にかなり薄めているので、どこに焦点があるのか分からなくなっている。まるで、差別主義者とかオカルト信奉者というレッテルを貼って、相手の発言を封じ込めようとするかのように、「ブランク・スレート」説という言葉を乱発しているが、その説を取ることは犯罪的なことなのか? どういう議論をしたらブランク・スレート説を信奉していることになるのか? 山川は、「差異」とか「(言語あるいは記号の)恣意性」といった言葉を肯定的に使うと、「ブランク・スレート」説を信奉していることになると考えているようだが、それではあまりにも漠然としていて、まともな議論はできない。
 仮に「ブランク・スレート」説というのが、人間の「心」が文字通り白紙であり、人間の認識や欲求はいかようにでも変化し得る、というような学説であるとすれば、よく“ポモ系”として名前の挙がる、ラカン、バルト、リオタール、フーコー、ボードリヤール、ドゥルーズ、ガタリ、デリダ、クリステヴァの誰も、それに当てはまらない。そうした明確な主張を彼らのテクストから見つけ出すのはほぼ不可能であろう。無論、山川や祭谷のように、どういう意味なのか全体的によく分からないが、何となく、「何でもあり」だと言っているように見える断片を見つけてきて、「これが証拠だ!」、と決め付けて騒ぐことは簡単にできるだろう。
 生命体としての人間が、どのように対象を知覚し、(再)構成するかというのは、基本的には、認知科学や心理学の問題であり、彼らの内の誰もそうした領域で仕事をしていない。哲学と自然科学が完全に分離していなかったロックやカントの時代には、哲学者が知覚のメカニズムを研究していたが、現代では、実証的な研究は、認知科学などが担っており、哲学の一部——分析哲学の「心の哲学」など——が、そうした探究の基礎になる概念的枠組みを精密化したり、正当化するといったメタ・レベルの仕事をしているにすぎない。
 特にバルトは、文芸・芸術批評や記号論をメインフィールドにしているので、認知科学的な問題には基本的に関与していない。文芸批評をする際に、「テクストの認識や意志形成の枠組みが先天的に規定されているかどうか」についての判断を前提にする必要はない。作者の個人的伝記に即した批評であれ、歴史的に形成されてきた思想に基づく批評であれ、テクストの形式面からの批評であれ、生物学的な次元での「心」の在り方を前提にしなくても、十分に成立する。名古屋大学の大学院でバルトに関する研究をしたということになっている山川は、そんな基本的——学部生レベルでの「基本」という意味である——なことは理解していてしかるべきだが、彼は、ピンカー先生がバルトをブランク・スレート説論者扱いしていることを金科玉条にして、バルトがブランク・スレート説だと言い張っている。
 だから私は、本当にその点に自信があるなら、どうしてそう確信するに至ったか、きちんとした資料に基づいて実証し、論文にして発表すべきだ、本当に実証できるのであれば、博士論文として提出すべきだ、と呼びかけているのだが、山川等は無視を決め込んでいる。自称社会学者は、バルトの専門家は、バルト愛が強いので、どうせ論文として受理してくれないだろう、などと適当なことを言って山川をかばっているが、こいつは、これまで“学者”としてどういう教育を受けてきたのだろうか? こいつの属していた研究室では、全てがコネで決まっていたのだろうか? テクストに基づいたちゃんとした論証であれば、自分が強く依拠している思想家や理論家を根本的に批判するような論文であっても、受け入れてくれる学者や、大学院のコースはいくらでもある。バルトと認識論の組み合わせに関する論文であれば、仏文か哲学、あるいは、記号論、芸術論関係のコースであれば、受理してもらえる可能性がある。これらの領域には、いわゆる“ポモ”に対して批判的、あるいは中立的な立場の学者もたくさんいる。世間的に“ポモ”と呼ばれている学者でも、“ポモ批判”的な論文を本気で歓迎する人は少なくない。フーコーは評価するがデリダは評価しないとか、ドゥルーズとガタリを分けて評価すべきだと主張しているとか、いろんな立場がある。本気で論証する意志と能力があれば、審査員を引き受けてくれる人はいるはずだ。因みに私は大学院時代に、ドイツ・ロマン派の批評理論・詩学をデリダ的な視点から再解釈するという研究をやったが、直接的に指導を受けた、ドイツの思想史や文学を専門とする先生たちは、どちらかという“反ポモ”——というより、反フレンチ・セオリー——的な態度を取っていたにも拘らず、論文の審査を受けるうえで何の支障もなかった。文学や思想史を専攻にしている現役の大学教員で、“ポモ系”のことをやっているせいでいじめられたとか、逆に優遇されたという経験のある人は、ほとんどいないだろう——自分の不遇を、ポモ/反ポモのせいにする、売れない学者とか院生崩れならかなりいる。
 「ブランク・スレート」説と各専門領域の関係に話を戻そう。歴史社会学的・解釈学的な仕事をしているフーコーや、消費社会についての記号論的な分析をしているボードリヤールも、ごく普通に考えて、認知科学的なレベルでの議論はしていない。デリダやリオタールは哲学者であるが、言説やテクストの相互関係や、そこでの意味の生成や変容を捉えようとしているのであって、それらが人間の認知メカニズムに直接基因するかどうかを論じているわけではない。このことは、この連載の第四十七回で指摘しておいたのだが、山川等は理解しなかった、というより、理解しようとしなかった。ドゥルーズ(哲学)やクリステヴァ(文芸批評・記号論)の仕事の大半も、記号と意味、及びそこに関わる権力作用をめぐるものであって、「心」が空白であるか否かに左右されるものではない。
 山川等は、ソシュールの構造主義とブランク・スレート説が関係していると思い込んでいるようだが、それはほとんど根拠のない話である。恐らく、ソシュールの言っている「恣意性」が、「ブランク・スレート」説っぽいと思っているのだろうが、それはあくまで、「意味するもの」と「意味されるもの」の特定の結び付きに必然性がないということであって、それ以上でも以下でもない——「意味するもの/意味されるもの」については、構造主義の入門書を参照して頂きたい。初期のデリダは、両者の結び付きが、語る主体あるいは書く主体の意図とは無関係にズレていくという事実に注目し、その意義について論じているわけだが、それも「心」の生物学的な在り方とは関係なく成り立つ論である。
 構造主義的精神分析の開拓者であるラカンや、同じ精神科医で彼の仕事を批判的に継承しようとしたガタリ、同じくラカンの構造主義を乗り越えようとしたドゥルーズやクリステヴァの仕事の一部は、認知科学や心理学と無関係とは言えないが、彼らの議論は、人間の生物学的な特性や発達過程を直接的に問題しているというよりは、それをどう解釈し、意味付けするかというメタ・レベルに関わるものである。通常理解されている意味での、ラカンの構造主義は、「鏡像段階」とか、「想像界/象徴界/現実界」、「対象a」など、人間の「無意識」を根底から規定している構造があることを前提に展開されているので、むしろ、反ブランク・スレート説的な立場と見ることもできる――ラカンは、前期/中期/後期で議論の枠組みが大きく変わっているので、「ラカンを批判する」という場合、どの段階のラカンに対する批判か特定しないと、無意味になる。これは、構造主義的文化人類学者であるレヴィ=ストロースの議論についても言えることである。無論、ラカンやレヴィ=ストロースの想定する「構造」を批判することはできるし、実際、(ポモ/反ポモなどという雑な区分とは関係なく)様々な立場からなされてきたが、「ブランク・スレート説」だからということで“批判”するのは見当外れである。「構造主義」と「ブランク・スレート」説が結び付いているというのであれば、「ピンカー様が言っていた……」というようなことではなくて、どういう風に繋がっているのか、それは構造主義と呼ばれているもの全てに当てはまるのか、構造主義言語学あるいは構造主義的精神分析に限定した話なのか、アルチュセールの構造主義的マルクス主義やバルトの構造主義を応用した批評も含むのか、具体的に説明する必要がある。
 ラカンの構造主義を超えることを目指したという意味で、「ポスト構造主義」と呼ばれることもあるドゥルーズ、ガタリ、クリステヴァ――反レヴィ=ストロースという意味では、デリダも部分的に含まれる――の議論は、一見すると、“無構造”の主張という意味で、ブランク・スレート説的に見える。しかし、そのように断じてしまうのは、彼らのテクストを実際に読まないで、ポケット版の哲学事典的なものでの要約を見ただけの人間のリアクションである――山川等は、そもそも構造主義とそれを乗り越えようとする議論の区別をしないで、フランス系の流行っていそうな思想を全部ひっくるめて“ポモ”と呼んでいる。ドゥルーズ+ガタリのテクストでは、「構造」の代わりに、「欲望機械」とか「器官なき身体」「総合」といった概念が登場する。これらは、個人の想像力次第でどうにでも変化させることのできるようなものではなく、むしろ、各人を、その意識の在り方とは関係なく規定し続けるものである。クリステヴァの〈le sémiotique〉や〈abjection〉もそうした意味での、不変性を具えている。
 “ポモ”と呼ばれている人たちが、どういう性質を持ったジャンルで、どういう議論をしているかきちんと確認していけば、彼らがすべからく「ブランク・スレート」説なるものを主張している、という山川等の言い分が、あまりにも雑で、無意味であることが分かるはずである――インチキ数学らしきものも、彼らの主要著作にはほとんど出てこないことも分かるはずである。無論、欲動をめぐるドゥルーズの議論の一部が、結果的に、ピンカーが依拠している認知科学的な知見に反する、というようなことはあるかもしれない。そういう箇所を具体的に指摘するのであれば、ある程度、生産的な議論はできるかもしれないが、山川等はひたすら、「いや、ピンカー先生がポモはブランク・スレート説だとおっしゃっている」だけで押し通そうとして、自分の頭で考えようとしない。具体的にどういう箇所で出てくるどういう言明か特定しないと、そもそも本当に、“ブランク・スレート”説と関係した主張なのか、表面的にちょっとかじっただけの人間の勘違いではないのかさえ、確認できない。
 山川ブラザーズが大好きな、「〇〇学派は△△主義だ。△△は□□に論破されてもう終わった」、というような物言いは、大学で学問を習い始めて調子に乗っている学部生が口にしたがることである。ほとんどの場合、単なる知ったかぶり、強がりである。まともな学生であれば、一年か二年勉強を続けている内に、「あれは、受け売りの学会トレンド情報による、雑な物言いだった。個々の理論家の個別のテクストを読もうとしないで、分かったつもりになっていた自分がバカだった」、と気づくはずである。院生になっても相変わらず、同じような物言いをして、一人悦に入っているような輩は、研究者になる資質はない。間違って、研究者になってしまったら、周りの人に迷惑をかけるので、さっさと辞めるべきである。中年の自称“ネット論客”がそういう言動によって、周囲の注目を集めようとし続けるのであれば、もはや廃人である。



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