「天皇を読む」第18回


たけもとのぶひろ[第135回]
2017年10月23日

青年時代の両陛下

青年時代の両陛下

■ 再思三考する「天皇のこと」②
 「明仁天皇という運命」について

 前回、「昭和天皇の人間宣言」をについて考えました。ひるがえって見るに、昭和天皇は1901年に生まれて1989年に崩御されるまでの、おおよそ90年のあいだ、ほぼ半分を帝国憲法のもとで神聖天皇(皇太子)として、残りの半分を日本国憲法のもとで象徴天皇として過ごされました。戦争の時代と平和の時代が半々です。文字通り波瀾万丈の人生でした。昭和天皇については本腰を入れてかかる必要があり、機会を改めざるをえません。
 ただ、明仁天皇のことを考えていくうえで、必要最低限の歴史的事実は踏まえておかなければいけないわけで、そのコンテクストのなかで「玉音放送」「人間宣言」についてみてきたのでした。

 ただ、ここで「明仁天皇という運命」と書いたイメージからすると、もう少し昭和天皇についての事実を見たうえで、明仁皇太子の直面した事実に立ち向かいたい気がします。とくにGHQマッカーサーがどう動いたか――これが問題の核心です。

 1946年1月1日の『宣言』の後の4月29日、GHQはA級戦犯28人を極東国際軍事裁判所に起訴します。天皇訴追の強硬な主張があるなか、天皇は訴追を免れます。この日は天皇誕生日ですから、これに勝るバースデイ・プレゼントありません。日を置かず5月3日には裁判が開始されますが、同年6月18日には、主席検察官ジョセフ・キーナンがワシントンにて、天皇を裁判せずと言明、ここに天皇の免責が決定します。

 これは、しかし、敗戦直後の1945年9月6日、連合国総司令部GHQ最高司令官マッカーサーに対して米国大統領が発した「降伏後における米国の初期の対日方針」に基づくものでした。日本の占領管理は間接統治方式でいく――つまり、主権はGHQが握った上で、天皇とその統治機構を温存しつつ、それを利用し操作することで日本を間接的に統治する、というやり方――これが、彼らの当初からの方針です(ドイツは米・英・ソ・仏による分割占領・直接統治方式でしたが)。

 したがって、彼らが天皇の戦争責任を不問に付したのは、温情でもなんでもなく、日本統治政策の筋書きに拠るものです。マッカーサーは、日本国における実質上の最高の権威ではあっても、その事実を表立って言明したのでは間接統治が成り立たない、だから天皇の権威を形だけのものにするしかありません。現人神・現御神だとか神聖天皇だとか元首だとか言うのは、やめさせなければならない、ということです。
 そのためにどうするか。まず「神道指令」(1945.12.15)です。その骨子は、①国家と神道を分離し、②皇室祭祀を天皇家の「私的な」神事とする、③天皇と言えども日本の伝統的信仰(祖神天照大神信仰・先祖信仰・天神地祇信仰)の範畴に属する、等々です。
 これを踏まえてGHQは、天皇をして、言わずもがなのことを、改まった形で、とくに世界に向かって宣言させます。裕仁天皇は「普通の日本人と同じ人間」なのだ、と。前回の「人間宣言」(1946.1.1)が、これです。

 雲の上の天皇を地上に降ろして国民と同じ地平に立たせる、天皇を国民と相通じる存在として見る、国民と共にある存在としての天皇ということ。――これは、GHQ米国の初期対日統治方針の然らしむるところだと言えましょう。この思想なくして「日本国憲法」の誕生はありえなかったでしょう。GHQ米国は、日本国憲法第一条までまっしぐら一直線に進んだということです。上述のように、キーナンによる天皇免罪言明が46年5月3日、日本国憲法公布が同年11月3日ですから、その間、わずか半年、ほんの一跨ぎです。

 何度も繰り返し学んできたところですが、ここで日本国憲法第一条を示します。上述の歴史的事実を念頭に味読してほしいです。また同時に、象徴とは割符のことだ、というぼくの指摘もちょっと思い起こしてもらうと有難いです。
 では、第一条です。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

 明仁天皇は「80歳のお誕生日会見」(平成25年12月18日)の場で、これら敗戦直後一年余りを回顧し、次のように述懐しておられます。
 「80年の道のりを振り返って、やはりもっとも印象に残っているのは先の戦争のことです。(中略)戦後、連合国軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、日本国憲法を作り、様々な改革を行なって、今日の日本を築きました。戦争で荒廃した国土を立て直し、かつ改善していくために当時の我が国の人々の払った努力に対し、深い感謝の気持ちを抱いています。また、当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います。」

 陛下は、80年の人生を振り返って最も印象深いのは先の戦争のことだとし、敗戦直後占領下の記憶を喚起するよう促しておられます。具体的には「平和と民主主義」の「日本国憲法」、「当時の我が国の人々の払った努力」を挙げ、「当時の知日派の米国人の協力も忘れてはならない」と述べておられます。要するに、自分の中で大事なのは憲法と国民だ、と。また当時のいきさつからして、GHQのなかの米国人理想主義者には恩がある、とも。

 ここまでは良かったのだ、と。これから先はぼくら国民自身の問題なのだ、と。原則的にはその通りでしょが、事柄は「敗戦直後の日本」という枠ではとらえられない事態となります。「戦後世界の構造」が根底から覆えろうとしていたのです。年代記を見ておきます。

①日本国憲法の公布より4カ月ほど前の、1946年7月12日、国府軍50万攻撃開始、中国全面的内戦へ突入、というのが前触れで、その後は以下の通りです。
②47年3月12日 トルーマン大統領、トルーマンドクトリン(共産主義封じ込め政策)
③同年7月7日 中共、民主連合政府、土地改革実施を発表
④同年10月5日 コミンフォルム設立、戦後秩序における東側陣営誕生、冷戦体制へ
⑤1948年1月6日 ロイヤル米陸軍長官「日本を反共の防波堤に」と演説、米国の戦略転換(日本を非軍事化から再武装へ)

 先の戦争の悪夢がいまだ覚めやらぬというのに、世界は日本を巻き込みつつ、またしても戦乱の巷へと再突入していくのでした。そんな中、1948年11月12日、極東国際軍事裁判所は、(46年4月29日に起訴されていた28人のうち死者2名・精神病者1名を除く)A級戦犯25名について有罪判決を下しました。死刑が7名、終身禁固刑が16名、有期刑が2名でした。
 美智子皇后は当時、14歳の少女でしたが、この有罪判決を伝えるラジオ放送を聴いて、「強い恐怖」を感じたと、そのときのお気持ちを述べておられます。

 「私は、いまも終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いたときの強い恐怖を忘れることができません。まだ中学生で、戦争から敗戦にいたる事情や経緯につき、知るところは少なく、したがってそのときの感情は、戦犯個人個人への憎しみなどあろうはずはなく、おそらくは国と国民という、個人を越えたところのものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。」

 美智子皇后のこの述懐は傘寿(80歳)のお誕生日会見文書回答におけるものですから、66年もの歳月を経て今なお生々しく、そのときの恐怖の体験を語っておられる、ということです。A級戦犯7名の死刑判決は14歳の少女に対して、そののち何十年経っても消え去ることのない恐怖を与えました。その歳月の間、折に触れ、彼女はそのときの衝撃を想いだします。胸中に秘めた思いを目の前に置いて、くりかえし見つめます。

 当初感じた「強い恐怖」は、そのあいだに自ずと深まり、疑う余地のない真実へと至るのでした。A級戦犯に対する判決が告知しているのは、「おそらくは国と国民という、個人を越えたところのものに責任を負う立場があるということ」に違いない、と。そして、処刑される7名の戦犯は、それぞれが戦争責任を一身に背負って、国と国民のために、国と国民の身代わりとして、死んでゆくのだ――そう思うと、「身の震うような怖れ」で胸が張り裂けそうになる、とおっしゃっているのではないでしょうか。

 この点で美智子さまにとって決定的な意味を持ったのは、A級戦犯判決言い渡しの日から1カ月余り後の昭和23年(1948年)12月23日に7名の死刑が執行されたことです。
 この日は、ほかならぬ明仁皇太子の誕生日だったからです。
 米国があえてこの日を選んで死刑を執行したことに、疑問の余地はありません。なぜ、この日でなければならなかったのか。「天皇の国である日本」に対する米国の基本的考え方を知らしめるには、この日以外にはない__彼らはそう考えたのでしょう。

 その際、彼らが言いたいことの眼目は次の三つです。
①過ぐる年の天皇誕生日を選んでA級戦犯を起訴した際に、あえて天皇を訴追しなかったのは、米国GHQの日本間接統治戦略に基づくものであった、ということ。
②この天皇不起訴の措置について、米国GHQが天皇制を許しているかのように誤解する向きがあるが、米国は日本の天皇を決して許していない、ということ。
③A級戦犯処刑の日として皇太子の誕生日を選んだのは、米国の日本統治戦略が不変不動
であることを内外に向かって闡明するためである、早い話、A級戦犯のみならず天皇そのものについても、生殺与奪の権は米国の掌中にあることを知らしめる、ということ。

 その日、明仁皇太子がどれだけの思いをされたか、それを思いやればこその美智子皇后さまの上述の思いの丈となるのでありましょう、思いはいかばかりであったか、と。
 矢部宏治さんは『戦争をしない国~明仁天皇メッセージ』(小学館)のなかで、次のように述べています。
 「なぜ美智子皇后は、おめでたいはずの傘寿(80歳)の誕生日に、こうした「A級戦犯に対する判決の言い渡し」や、中学生だった自分がそれを聞いたときの「体が震えるような怖れ」について、あえてふれなければならなかったのか。
おそらくそれは、その直後に明仁皇太子が味わった正真正銘の恐怖と衝撃に、遠く思いをはせてのことだったのでしょう。その重荷をおふたりは半世紀以上にわたって、ひそかに共有されてきたのだと思います」と。

 さらに矢部宏治さんは、皇太子殿下の誕生日を狙い打つかたちで戦犯の処刑を執行した米GHQの意図について、またこの歴史的事実の意義について、次のように述べています。
 「そこには、あきらかに占領軍のメッセージがこめられていました。
 「この裁判と処刑が何を意味するか、天皇とその後継者である皇太子は、絶対に忘れてはならない」
 7人が処刑された1948年には、すでにドイツをはじめ、イタリア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアなど、ヨーロッパの敗戦国(枢軸国)の王室はすべて廃止されていました。日本だけ王室が残されたことの意味を、自分はどう考えればよいのか。
 おそらく明仁天皇は、その後、自分の誕生日を爽やかな気持ちで迎えられたことは一度もなかったでしょう。それはひとりの中学生が背負わされるには、余りに重い精神的な十字架でした。」

 7名のA級戦犯の命日が、明仁皇太子・明仁天皇の誕生日なのです。つまり、誕生日は忌み日です。戦犯とはいえ、国のため・国民のために身代わりになって7名が殺された日に、祝い事をすることが出来るでしょうか。陛下は皇太子の時代から毎年欠かさず、お誕生日記者会見を開いてこられましたが、12月23日は、一度も開かれたことがありません。だいたい17日から21日までの間に予定を組んでおられます。この国の戦争と戦争犯罪は、どこまでも追いかけてくるのでした。

 思わず「明仁天皇という運命」と書かせてしまうほどのものがある__それを感じさせるのが今上天皇です。天皇になってその務めに命を捧げなければならないとの決意には、子供の頃から終始一貫、確乎として動かしがたいものがあったと伝えられています。それらのなかから幾つかを以下に示します。
 • 1945年8月15日、11歳の作文。「いまの日本はどん底です。どんなに苦しくなっても、このどん底からはい上がらなければなりません。つぎの世を背負って新日本建設に進まなければなりません。それもみな、私の双肩にかかっているのです。」(途中省略)
 • 1949年4月、戦犯処刑からわずか4カ月後、15歳の春、ヴァイニング夫人から、将来何になりたいかと尋ねられたときの明仁親王の答え。 I shall be the Emperor.
 • 1958年、24歳、結婚前の美智子さんへの電話で。「私はこの日本を復興し、国民を幸せにしなければいけない。それが務めです。」
 • 1994年、60歳、米国ご訪問事前招待記者からの質問に対する文書回答。「私はこの運命を受け入れ、象徴としての望ましい在り方を常に求めていくよう努めています。したがって、皇位以外の人生や皇位にあっては享受できない自由は望んでいません。」

 すでに別のところで書いたので再述しませんが、明仁というお人は、幼少年の頃からずっと両親から隔離された東宮御所の中で、傅育官という名の役人たちに包囲されて育ちました。四六時中、他人の目から解放されることはなく、だからこそ孤独でした。親も兄弟姉妹もない、家庭がない、ないと言って言い過ぎでない、冷たい、厳しい、苛酷な環境です。それらの事と次第を知るとき、だれもが感嘆の声をあげるのではないでしょうか、よくぞここまで、と。

 すでに見たように、陛下は少年の頃から、あるべき「理想の天皇」の在り方を求め、それへと至る道を歩み続けてこられました。その途上、正田美智子さんと出会われました。それは運命を決する出会いだったと思います。
 運命的・決定的とは、どういうことでしょうか。もし仮に、この出会いがなかったとしたら………と、あったことをなかったことにして思いをめぐらせてみましょう。陛下は、ぼくらが今此処に見聞きして知っている陛下ではなくて、別の陛下になっておられるのではないでしょうか。良い悪いではありません。とどのつまり、明仁天皇が身に体しておられる「理想の天皇」は、正田美智子さん・美智子皇太子妃・美智子皇后がおられてこその、つまり彼と彼女とが思いを寄せあい、共に力を合わせて、創造し成就した作品なのではないか、ということです。

 おふたり人のそもそものはじまりは明仁皇太子のプロポーズでしたが、それを受け入れた正田美智子さんは、どのような気持ちだったのでしょうか。元皇居護衛官の上原隆義氏は、皇后さまが結婚前に陛下からお受け取りになった電話の内容について、またそれを受けたときのご自身のお気持ちについて、こんなふうに明かされたそうです。(山本雅人『天皇の本心』新潮社)

 皇太子のお言葉はこうです。「私に天皇陛下は電話でこうおっしゃいました。
 『戦後十余年を経て、やっと日本に復興の兆しが見えてきました。私はこの日本を復興し、国民を幸せにしなければいけない。それが務めです。(中略)ぜひあなたのお力を借りたい。』
 美智子さまはそのときどんな気持ちで、どのようにご返事されたのでしょうか。
 「私は、そのとき『お若いのに、なんと重い荷物を背負って人生を歩まれるお方であろう』と思いました。そして『私にできることなら、お手伝いさせて頂きます』と」(天皇陛下ご誕生80年、元皇居護衛官が語る素顔の両陛下)。

 結婚に至る前のご交際の頃から、美智子さまは、直感的に感じておられたのでしょう――未来の夫になる人は「重い荷物を背負って人生を歩まれるお方であろう」と。これまでもそうであったように、これからもそういう人生を歩んでいかれるのであろう、と。陛下の人生を見守る美智子さまの眼差しは、この第一印象のままで、終世、揺らぐことはありませんでした。二つ挙げます。
 • 平成7年「皇后陛下お誕生日会見文書回答」から。
 「人の一生と同じく、国の歴史にも喜びの時、苦しみの時があり、そのいずれの時にも国民とともにあることが、陛下の御旨であると思います。陛下が、こうした起伏のある国の過去と現在をお身に負われ、象徴としての日々を生きていらっしゃること、その日々の中で、絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するように祈り続けていらっしゃることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます。」
 • 平成10年「ご即位10年の天皇誕生日にあたり月次歌会に詠進された御歌」から。
 お題「うららか」
 「ことなべて御身ひとつに負ひ給ひうらら陽(び)のなか何思(おぼ)すらむ」
僭越ながら、皇后様のお気持ちを推し測るとこんな具合でしょうか。――あれもこれもすべてを一身に背負っておられる我が君は、うららかな陽の光のなかに身を置いて、何を思っておられるのでしょうか。………といったふうな。

 明仁皇太子とめぐり会い行き来をするようになった頃から、正田美智子さんは、重い荷を背に負った皇太子さまが、ただ一人、寄る辺のない孤独のなかを歩いておられる、そのお姿が見えるようなお気持ちになられたのではないでしょうか。その一人立つ者の寂しさが自分の身に沁みるように伝わってくるのを感じられたのではないでしょうか。

 正田美智子さんは、1958年――ご結婚の前年です――「聖心世界同窓会」第一回世界会議(ベルギー)に日本代表として出席するために、ヨーロッパへと旅立たれます。そのとき友人に宛てた手紙のなかで、次のように心の内を明かしておられます。そのくだりを紹介します。
 「ご家庭なしでいままであそばしていらした東宮さまのいろいろなお話、そして、そんなにも家庭がほしかったということをうかがいますと本当にうかがった時だけでなく、一人で思い出す時もいつも涙が出て仕方がございません。「家庭を持つまでは絶対に死んではいけないと思いました」とお話しくださったとき、私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にもこんな寂しい言葉はなかったと思いました。そして、その中を25年間もけなげにお歩きになっていらした東宮さまのために乏しい力の全部をあげて暖かいホームを作ろうと決心しました。」(渡辺みどり『美智子さまの38のいい話』朝日新聞出版)。

 独り善がりの想像ですが、明仁皇太子にとって正田美智子という女性は、(ヴァイニング夫人や小泉信三なんかと話しあった)花嫁候補の三条件――美人であること、聡明であること、ユーモアを解して明るいこと――をすべて備えていただけでなく、言うに言われぬ魅力があったのだと思います。
 直向き(ひたむき)な・切々たるものをたたえた目許に表情があります。彼女は輝く目の持ち主です。それでいて、相手の全部をそっくりそのまま受け入れて守ってくれるような大きさというか、どこか安心を与えてくれるような心の広さというか、おおらかさというか、そういう天性の美質を感じないではいられません。明仁皇太子にとって正田美智子さんは、今から思うと、出会うべくして出会い、結ばれるべくして結ばれた、運命の女性であり、余人をもって代えること能わざる存在だったということ――このことが、いまや誰の目にも明らかになっているという。そういうことではないでしょうか。