「天皇を読む」第16回


たけもとのぶひろ[第133回]
2017年9月3日

『平成の天皇制とは何か』(岩波書店)

『平成の天皇制とは何か』(岩波書店)

 山口輝臣さんの「おことば」論
宮中祭祀と「平成流」—「おことば」とそれに映る天皇像

 『平成の天皇制とは何か』(岩波書店)という書物があります(2017.7.27発行)。いろんな大学の先生9人が執筆し、そのうちの3名が編集の任に当たっている論文集です。
 そのなかに、山口輝臣(1970年生まれ、東京大学准教授)という方の論文があります。
『宮中祭祀と「平成流」――「おことば」とそれに映る天皇像』というのが、そのタイトルです。そこにはぼくがこれまでに気づかなかったことの指摘があり、多くの点で教えられました。そのことを書きたいと思います。

 山口さんは、小さく「はじめに」と補足した冒頭の文章の中で、書いています。明仁天皇のこのたびの「おことば」をどのような性格のものとして受け止めたか、そしてどのように読み解き、本論で何を書こうとしているか、などについて。まず、その部分を示します。

「………「おことば」は、現在のところ、もっぱら政治的文脈のなかで読まれているといってよい。
 ただいったんそうした脈絡から離れ、ひとつのテキストとして「おことば」を見直してみると、それがそうした読みに留めておくには惜しい内容を持っていることに気付く。「おことば」は、天皇が高齢となった場合にどのような在り方が望ましいかについて、明仁天皇が考えてきたことを肉声で伝えたものであるが、あわせてそうした考えに至った経緯にも触れられている。「おことば」での表現を使えば、「天皇としての自らの歩みを振り返る」ことが行なわれている。「おことば」は、82歳の明仁天皇による短い公的な自伝でもあり、これまでの天皇にはほとんど存在しない貴重な資料である。これのみで明仁天皇の軌跡を描くのは、まったくもって不十分であるとしても、それなしで描くのは不可能であるようなテキストである。そこで本稿では、まずはこの「おことば」を読み解き、明仁天皇の自画像を再構成してみることにする。」

 明快この上ない文章が刺激的です。関連してあれこれ述べることに躊躇いを感じます。
 こうだとすると、とぼくは思いました。天皇の “生の営みの全体” について見ていく必要があるでしょう、と。明仁天皇の生涯(生活)を、いわゆる「国事行為」「公的行為」のみならず「私的行為」をも含むものとして捉える、一人の人の営みとして考えなければならない、ということではないでしょうか。政治家や識者の多くが前二者を「公務」という範畴でくくって論じるのが一般ですが、それに対して陛下は、三者を一つの全体としてとらえ、それを「お務め」と定義し、そう呼んでおられます。「私的行為」のなかには「宮中祭祀」が含まれています。その「私的行為」を考えの外に置くことは、「宮中祭祀」を無視することを意味します。明仁天皇の生涯(生活)の原点を見ようとしない者が、どうして陛下の心中を察することができるでしょうか。

 この点について山口さんは、こう述べています。
「本稿では、政治過程において正面から扱われることの少なかった宮中祭祀を軸に据え、それと公的行為との関係という角度から、天皇の自画像に光を当ててみたい。おそらくはその方が、明仁天皇の自己理解により近い像が浮かび上がるはずである」と。
 この部分は、山口論文全体の構想を示しています。それは、あらかじめ「はしがき」の題にうたってあるのですが。「お務め」と「公務」の隙間から――と。

 こうして本論に入っていく論者は「まずは宮中祭祀を概観しておきたい」とし、「その歴史と現状について」語っています。ぼくが驚いたのはその最初の部分です。
 「宮中祭祀は、法体系全体の変化に対応し、1908年(明治41)、皇室祭祀令として法制化される。ただし法令に規定され、天皇が執り行なうからといって、それが国家儀礼とは限らない。皇室祭祀令をはじめとする関係法令を、国務大臣の副署や枢密院への諮問の有無などに注意して検討してみると、即位の礼・大嘗祭・大喪の礼が明確に国家儀礼とされていたのに対し、宮中祭祀は、それらとは切り離され、基本的には皇室限りのものとされていたことが判明する。」

 戦前は「祭政一致」が原則だった、だから「天皇の主宰する祭祀(神道の祭り)」はすべて「国家儀礼=国事行為(政=まつりごと)」であると、ぼくはてっきりそう思い込んでいました。ところが、違うのですね。「国家儀礼」は「即位の礼・大嘗祭・大喪の礼」のみで、これを除く他のすべて――全てかどうかは置くとして――の「宮中祭祀」は、国事行為とは一線を画するところの、「皇室限り」のものとされていた、ということらしい。
 そうだったとすると、「宮中祭祀」は、戦前から元々 “天皇家の私的な行事” として区切られ、崇められてきた “聖域の中の聖域” だった、ということになります。まさにこのことの事実の中にこそ、戦後の死活的危機における皇室サバイバルの謎を解くカギがある――山口さんはそのように示唆しているのではないでしょうか。以下に引用します。

 「宮中祭祀が戦後改革に比較的容易に適応できたのは、宮中祭祀がすでに右のようなものだったからである。敗戦後、大日本帝国憲法と並ぶ法源としての皇室典範が廃され、その下位法であった皇室祭祀令も廃止された。かくて宮中祭祀には法的根拠がなくなった。しかし宮内府(現在の宮内庁)の通牒を介し、廃止された皇室祭祀令などに依拠する形で、宮中祭祀はほぼそのまま日本国憲法下へと移行された。 GHQが宮中祭祀を天皇の私的な行事と看做し、それに介入しなかったため、可能となった措置である。」

 ぼく流に再述すると、つまり、こういうことではないでしょうか。
① GHQは日本統治の宗教政策の一環として、皇室典範および皇室祭祀令の廃止を決定した。宮内府の官僚たちは、GHQによって廃止されたその皇室祭祀令等の条文・文言を、宮内庁の内部通達(訓令)の中へと移行させ・蘇らせることによって、従来の「宮中祭祀」をほぼそのままの形で日本国憲法秩序のもとで延命させようと図った。
② このような宮内府の動きに対して、GHQはどのように対処したか。彼らの立場は、上記移行措置の黙認、宮内府行政への不介入ということであった。黙認と不介入を可とする決断は、宮中祭祀を天皇家の「私的な行事」と “見なす” ことによって正当化することを意味した。プライバシーの権利などないに等しい天皇家の、それはプライバシーだ、という “解釈” は、苦しい言い逃れに聞こえるけれど。
③ いかに聞き苦しい言い訳(解釈)に聞こえようと、皇室の皇室たる所以を示す宮中祭祀は生き永らえさせなければならない。GHQの日本統治は、天皇制を介しての間接統治なのだから。

 マッカーサーおよびGHQは、占領後の日本統治方針について、当初から一貫していました。あっさり言ってしまえば、それが間接統治、天皇制を残してGHQ占領統治のために利用する、それだけの話です。その際、支配の要諦は宮中祭祀にあり、というのが彼らの考えでした。彼らの、この日本支配戦略をもとに考えていくと、自ずと「天皇=象徴」論へと行き着く。言い換えれば、日本国憲法・第一章「天皇」・第一条「象徴天皇」は、彼らの論理の然らしむるところだったと思うのです。憲法原案作成に携わったGHQの面々が辿っていった筋道は、だいたい次のようなことだったのではないでしょうか。

①もちろん、言う迄もなく、戦前の天皇・いわゆる「神聖天皇」は、断罪しなければならない。大日本帝国の、国家元首(統治権総覧)であり・大元帥(統帥権の独立)であり・現人神(軍神)であったところの天皇については、これを断固粉砕しなければならず、したがって、この「神聖天皇」を絶対の宗教的権威として祀り上げてきた「国家儀礼」も、また排除しなければならない。
②しかし、だからといって、このような「戦前の日本」の否定が「天皇および天皇制そのもの」の抹殺にまで及んでしまったのでは、元も子も無い、間接統治ができない。つまり、「皇室限り」の「宮中祭祀」まで廃止してしまえば、万事休す All is up. だ。
③かれらはこの「宮中祭祀」という概念の前まで来て、立ち止まり、思いをめぐらした。――余人の立ち入りを許すべからざる神域、禁中。その囲いの中で行なわれる神事、宮中祭祀。その神秘性にこそ、天皇の権威の淵源があるのではないか、と。
 宮中祭祀(禁中)の祭主の存在とその祈りから発する神秘性。「それを体現し、姿形でもって現わしている」存在、それが「天皇」なのではないか、と。
 もしそうだとすると、天皇の本質は「象徴」にあることになる。「象徴」という言葉が、まるで天から降って来たようにして生まれたとき、彼らは思わず叫んだのではないか。 “そうだっ! 天皇は象徴だったのだ!” と。

 ようやく現実の天皇について語るところにまで辿り着きました。
 今上天皇は、天皇になるべくして生まれて来られたようなお方だと思います。このたびの「おことば」に触れて、その思いを深くしました。けれど、思えば小さい頃の、広く知られている逸話からも、そのことは窺うことができます。たとえば学習院初等科の頃の作文に “立派な天皇にならねばなりません” と書いておられますし、中学生になったばかりの皇太子明仁親王(当時12歳)は、GHQが選んだ家庭教師のヴァイニング夫人に対して「天皇になります」と決意を表明しておられます。夫人の来日は昭和21年(1946.10.16)です。決意表明は、夫人の「将来何になりたいか」に対する答えだとされていますから、初対面のときの情景が目に浮かびます。来日からそんなに日にちが経っていなかったのではないでしょうか。
 ちょうどその頃、同年の11月3日に日本国憲法が公布されています(施行は翌年の5月3日)。その憲法の第一章は「天皇」です。第一条は「象徴天皇」規定です。明仁少年は、これらの文言をどんな思いで読んだでしょうか。

 その時から数えておよそ70年、このたび明仁天皇は「おことば」を発信されました。
 話の本筋に入る前に陛下は、
 「私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」
 と述べ、「おことば」を発するご自身の立場を鮮明にしておられます。ご覚悟を示されたのだ、とさえ思われるほど、それは重いお言葉ですが、この点については別のところで書いているので、再述しません。

 この直ぐあとの陛下の「おことば」を次に示します。
 「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、(中略)今日に至っています」と。
 ここに書かれているのは、明仁天皇の天皇としてのお務めの概要です。天皇としてどういう人生を過ごして来られたか、務めて来られたか、ということが書いてあります。さりげなく書いてあるのですが、重要です。
 まず、国事行為。これは日本国の天皇として欠くことのできない責務ですが、形も中身もあらかじめ決められており、頭を悩ますような性格のものではありません。
 次に来るのが、政府見解に言う「公的行為」。陛下の言葉では「象徴としての行為」です。
象徴であるとは、どうあることなのか、どうあることがその「望ましい在り方」なのか、この問いを問い続け、模索してきた一生だった、というのが明仁天皇の述懐です。
 最後に陛下は、「伝統の継承者として」のお務めを挙げておられます。いわゆる「私的行為」のなかに分類されている「宮中祭祀」の祭主として、その責任全うすべく務めて来た人生でもあった、との感慨が窺われます。
要するに、明仁天皇としては、「宮中祭祀の祭主」として「皇室の伝統」を守り続けるという、天皇として当然の責務を担いつつ、なお加えて、「象徴」天皇の「望ましい在り方」を求め続けてきたのであり、そのことを話すのが「おことば」のテーマだと――そういう問題提起ではないでしょうか。

 こうした問題意識について山口さんは、陛下が即位以来の「節目毎に」語ってこられたことに触れ、そのうえで「おことば」の文章を引用するのですが、引用に当たって “前置き”があります。「しかし、ここから先は違う」と。問うばかりでなく、答えがあるのだ、と言わんばかりです。事実、そこには、「明仁天皇による象徴天皇論」の核心と言って差し支えない部分が取り出され、示してあるのでした。

 「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国にわたる旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 山口さんが「ここから先は違う」と言うだけのことはあるなぁ、というのが実感です。文章は流れるように書いてあることもあって、ぼくは文意を理解するのにさほどの困難は感じないで、いったんはわかった気になっていたのです。ところが、なにかのきっかけで、待てよ、と思ったのでした。
 上記引用文の冒頭です。「多くの喜びの時、また悲しみの時を人々共に過ごして来た」明仁天皇ですから、「人々の」安寧と幸せを祈る、と書いてある方が、文章的にはむしろ自然の流れのように感じるのですが、わざわざ「国民の」と書いてあります。? と思いました。ひょっとして陛下は、「人々」と「国民」について、まったく別の概念として区別した上で使っておられるのではないか、と思ったのです。

 そこで、それぞれについて引用文中の使用例を取り出してみました。以下の通りです。
★「人々」の使用例
①「ほぼ28年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、【人々】と共に過ごして来ました。」
②そして「事にあたっては、時として【人々】の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。」
③「ほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の【人々】のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、(中略)【人々】への深い信頼と敬愛をもって(宮中祭祀の務めを)ない得たことは、幸せなことでした。」
★「国民」の使用例
①「何よりもまず【国民】の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが」うんぬん。
②「天皇が象徴であると共に、【国民】統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が【国民】に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、【国民】に対する理解を深め、常に【国民】と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。」
③「天皇として大切な、【国民】を思い、【国民】のために祈るという務め〜」

 まず「人々」の使用例を見てください。「人々」とは、喜んだり悲しんだり、要するに喜怒哀楽に生きる、現実の人々です。「人々」は、具体的なTPOにおいて各人各様に生きています。その人その人にその人の思いがあり、それぞれに固有の人生があって、多様です。無限の多様性を生きている市井の人々をいったい、どうやって一括りにして統合したり、あるいは神様にお祈りしたり、することができるでしょうか。

 では「国民」はどうでしょう。使用例によると、「国民」については、「安寧と幸せ」「統合」「理解」「自覚」というような言葉が語られています。これらの言葉はナマの現実を語るためのものではないと思うのです。「安らか」「静か」「穏やか」「ハッピー」「ラッキー」といった言葉なら、ナマの現実を直に表現しているような印象なのですが、それを「安寧」「平和」「幸福」というふうに表現すると、頭の中というか、あるいは意識とか観念の世界で生まれた言葉のように聞こえます。同様に、「国民」も、それに関わる「理解」や「自覚」といった言葉も、意識というか観念であって、その “生地” は頭の中・心の中ではないでしょうか。何を言いたいか。

 現実の「人々」の心の中に「国民」という意識が生まれる、「国民の一体性」という意識が生まれる――本当の話はそういうことではないでしょうか。
 以下は、念のための注釈として読んでください。憲法第一条に「日本国民統合の象徴」とある邦訳の部分は、元の英文で見ると次のセンテンスの中にあります。
 The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people,
 ここに the symbol of the unity of the people とあります。
 「国民の一体性の象徴である」、砕いて訳すると、「天皇とは、国民が一体であるという意識を象徴する(=表わす・現わす)存在である」と言っているだと思います。
 ところで、言うところの「国民の一体性」はどこにあるのか、現実のナマの人々の中にはありません。人々はそのままでは多様性そのものなのですから。現実に存在しないとしたら、生まれるのでしょう。おいそれと生まれないとしたら、生み出す出すための努力――理解とか自覚とか――が求められるのではないでしょうか。いずれにせよ、これらは人の内面――心とか頭とか、そういうところで生まれるのではないでしょうか。

 人々のなかで初めは「一体感」として生まれたものが、生い育って「一体性の意識」へと、いわば “姿態転換” を遂げていく、実はそうやって「国民」という意識(観念・理念)が生まれてくるのではないか、と思うのです。

 しかし、それにしても、その「国民」は、いつ・どこで・どのようにして生まれるのでしょうか。天皇が「人々」と直に出会うとき――被災地慰問とか戦没者慰霊とか沖縄慰霊の旅でもよいし・高齢者障害者施設の訪問とか植樹祭記念式典への出席でもよいのです――「人々」は天皇の内面で「国民」になるのだと思います。別の言い方をします。そのとき天皇が会っているのは、「人々」ではなくて「国民」なのではないでしょうか。
 そして、天皇の内面におけるこの変化――天皇が会っているのは実は「国民」なのだということは、「人々」の側に瞬時にして伝わります。人々の中に “TVで見る天皇” ではなくて、「自分の天皇」が生まれます。「自分たちの天皇」が生まれます。「自分たちの天皇」を体験した人々は、もはや「人々」ではありません。「国民」になっているのだと思います。

 政府が「公的行為」と称するものを、陛下ご自身は、「象徴的な行為」という“務め” である、と言い直しておられます。国民の一体性を身に体現し表象するためには、どうしても「人々」を「国民」に変え、自らも「国民の天皇」にならなければならない、そのための務めこそ象徴天皇の務めであらねばならない、ということなのだと思います。であるからこそ、直に人々と会わねばならない、その当事者体験を共有するなかから、本当の意味で「国民」も「天皇」も生まれるのだ、同時に生まれるのだ――そういうことではないかと思うのです。

 現実に生きている「人々」を思い、「人々」のために祈る、ということは、しようとしてもできません。祈ることができるのは、あくまでも「国民」のことです。「国民」のためです。だから、明仁天皇はご自身の象徴天皇論の最初に、「私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ました」と書いておられるのだと思います。

 長い文章になってしまいましたが、ようやく「象徴的行為と宮中祭祀とが切り離すことのできない関係にある」ということについて、自分なりの納得ができたような気がします。
山口さんは、両者の「不可分な連関」を「相補的とか両輪関係」ととらえた上で、その連関を明仁天皇自らが明示されたことの意義について次のように述べています。曰く。

 「明仁天皇がここでしているのは、象徴的行為と宮中祭祀との関係について、天皇の思うところを示すことである。宮中祭祀と象徴的行為とは、天皇のなかで不可分な連関を有するものとされており、あえて両者の関係を短い言葉で言い表すなら、相補的とか両輪関係といったところになるだろう。こうした連関を明快に提示したのは、おそらく今回がはじめてであるだけでなく、そもそも天皇自身が述べない限り、こうした内的な連関は、外からは推測にとどまるほかない。その意味で、この連関の明示は、明仁天皇の諸活動を全体として理解しようとする際、なによりも当人の公的発言であることにより、今後は間違いなくひとつの参照枠となるものである。」

 山口さんは、明仁天皇における「宮中祭祀と象徴的行為の相補的理解」についてこのように指摘した上で、「おことば」に託された陛下の思いを、次のように読み解いています。
 「明仁天皇は、宮中祭祀と象徴的行為について、そうした【連関ごと】、次世代に引き継がれていくことを希望していると考えられる。宮中祭祀と象徴的行為は、ともに制度的な裏付けがほとんどなく、天皇個人の意向を反映させることが比較的容易な領域である。次の天皇が止めたければ、そうしても法的な問題はおこらない領域である。 そこに、ある種の箍(たが)をはめようとした面が「おことば」にあることは、否定できないように思われる」と(【】は引用者)。
 明仁天皇は「象徴天皇の本質とは?」と問い続け、模索の末にたどり着かれた答えが「宮中祭祀と象徴的行為の相補的連関」ということでした。である以上、陛下が、その「連関」そのものを丸ごとそのまま引き継ぎたい、引き継がなければ、とお考えになるのは、道理にかなっていると思います。

  “当たり前だ” と言いたげな、山口さんの結語を紹介します。
 「天皇が象徴であるということは、現在の憲法でたまたま規定されたのではなく、歴史的にもそうであったものもあり、ときにそうでなかった天皇もあったが、本来はそうあるべきものである(1987.12.16, 2009.4.8など)。明仁天皇は、象徴という日本国憲法に舞い降りた不可思議な言葉を、天皇家の歴史のなかに位置付けることで、追求すべき規範へと高めた。そしてそうした象徴の望ましき在り方を模索し、その最適解を求めている。「平成流」という意識がないのは、当然であろう。」

 明仁天皇ご自身に、同じ趣旨の発言(ご即位20年の会見)があることをつけ加えておきます。「私は、この20年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇のあり方を求めつつ、今日まで過ごしてきました。質問にあるような【平成の象徴像】というものを特に考えたことはありません」(2009.11.6、【】は引用者)。

 これが最後です、もう一言二言つけ加えさせてください。山口さんの論文を収録している
 本『平成の天皇制とは何か』(岩波書店)について、です。
①本の見返しに曰く、「明仁天皇と美智子皇后が自らの発言や行動を通じて作りあげ体現してきた「平成流」象徴天皇制の実態やあり方を、9人の専門家たちが分析・検証するとともに、「代替わり」後の象徴天皇制の行方を縦横に論じる」ですと! 論評に値しません。
②また、本の「はじめに」を書いているのは、河西秀哉という先生ですが、その最後を次の文章で結んでいます。曰く、「それぞれの論文では見解の相違もあるが、その違いを越えて、本書をきっかけに、象徴天皇制に関する議論が進展することを期待したい」と。
異彩を放つ論者は山口さん一人で、他の論者との違いは、「見解の相違」などという “ええ加減なもの” ではありません。レベルの違いです。氷炭相容れざる違いであって、「その違いを越えて」などという月並みなレトリックでは、越えられるものではありません。