「天皇を読む」第14回


たけもとのぶひろ[第131回]
2017年6月4日

ビデオメッセージを伝える新聞

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第十節 象徴天皇における「象徴」の意義

 第九節の最後は、「ひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。」という文章です。ビデオメッセージ「お言葉」は、ここでいったん終わっていると思うのですが、陛下としては、どこか終わっていないというか、言い尽くせていないというか、そういうお気持ちが残ったのではないでしょうか。そのあとタイミングをはかるかのように改行して、次の一文を加え、結語としておられます。
「国民の理解を得られることを、切に願っています」と。この一文を、第十節として取り上げたいと思います。

 その第十節は、第九節の最後(=第十節直前)の文脈に立ち返り、つなぎ直す形で語られています。そのつながりが解るように、以下に引用して示しますと、
「そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。国民の理解を得られることを、切に願っています」となります。

 陛下のお気持ちは、こういうことだと思います。
 「象徴天皇の務め」の安定的継承を念ずる私の気持ちを、国民に理解してほしいのです。
 国民に理解してもらわないと、象徴天皇制は立ちゆきません。ですから、国民に呼びかける形でないと終わることができないのです。すでに触れたように、象徴天皇制のもとでは、天皇と国民は「割符の関係」なのですから。

 陛下が強調しておられるのは、天皇の、地位ではなくて「務め」の安定的継承です。神聖天皇ならともかく、象徴天皇の場合、むしろ大切なのは、「象徴する」という天皇の「務め・働き・行為・公務」をどのように考えるか、象徴天皇の「象徴」を何と心得るか、ということだと思います。

 今上天皇による象徴天皇論は、第六節にその本格的な議論が展開されており、すでに紹介したところですし、重なるところも出てくるかもしれませんが、最後のまとめとして、今一度、「象徴」天皇について再論を試みたいと思います。せっかく陛下が “ビデオメッセージ「お言葉」の中心テーマは、象徴という天皇の務めにある“ ことを想起させてくださったのですから。

 ここで『新明解国語辞典』(三省堂)の「象徴」の項から、そのあらましを示します。
 【象徴】言葉では説明しにくい概念とか・内面的な深い内容を、具体的なものによって表わすこと・代表させること。
 日本国憲法は、生身の人間として具体的に生きている人間(=天皇)を「象徴」と規定することによって、一口では語れそうにない「日本国」という国家を代表させ、また日本国民統合という抽象的概念を表現している、と敷衍して述べることができると思います。

 かくして天皇は、国民ないし国民皆(国民統合)を象徴する――代表する・表現する――
 ことになるわけですが、それは、まずは原理原則として・建て前としてそう言えるにとどまります。建て前ではなくて、ほんとうに天皇が国民ないし国民皆(国民統合)を表現し象徴するためには、天皇がその一身に「国民ないし国民皆(国民統合)」を体して現さなければなりません。

 そして、国民のことを我が身に体現せんとすれば、国民に身も心も捧げ、国民ないし国民皆の思いの――喜びはもちろんですが、とりわけ苦しみや悲しみなどの――すべてを引き受けてかかる覚悟が問われるのではないでしょうか。
 陛下は皇太子の時代からずっと言って来られました。「国民の苦労はともに味わう」「国民とともに歩む」「国民の幸せを願いつつ務めを果たす」「国民と苦楽をともにする」と。
 また、皇后さまのお言葉にもあります。「象徴でいらっしゃる陛下のおそばで、私も常に国民の上に心を寄せ、国民の喜び事をともに喜び、国民の悲しい折にはともに悲しみ、またともにそれを耐え続けていけるようでありたいと願っており……」(平成12年)。

 身に体したものは現われます。引き受けたものは表われます、引き受けた人の上に。
 ということが、「天皇における象徴」ということを理解するための基本だと思うのです。
 何が言いたいのか。天皇は、国民の喜怒哀楽などありとあらゆる思いを引き受け、身に体するために、人々との出会いを求めて全国行脚の旅に出なければならない、そのように考えられたのだと思います。

 第六節の最後の文章を再引用します。
 「皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行なって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。」

 全国47都道府県を巡って来られた両陛下は、その地域地域の自然や風土を体験し、地域を支えている共同体の歩みや営みに学ばれました。そして、どこへ行ってもそこの共同体を構成する、名もなき市井の人びとと直に触れ合い、笑顔や涙と共に言葉を交わす機会をも持って来られました。
 両陛下にとってそこは、公の場です。TVの映像なんかで見ると、両陛下が会場に姿を現わし、会釈しつつ進みます。挨拶があります。加えて「お言葉」があるかもしれません。人びととの間に、ちょっとした言葉のやりとりもあるでしょう。これらを含むすべてにおいて、陛下は天皇として存在し、天皇として行為しておられます。すべてが天皇の公務です。

 天皇・皇后は、このように公の場で公務につくことのなかで、 “ああ、これがわが国民なんだ!” と実感するときがあるのではないでしょうか。また市井の人びとのほうも、このような場で直に出会うことによって、天皇・皇后を、言葉だけの存在ではなくて、自分自身の個人の体験として感じることができる、そういうことだと思うのです。
 実際にはかくして、市井の人びとの心の中に天皇・皇后が生まれ、天皇・皇后の心の中に国民ないし国民皆(国民統合)が生まれるのではないでしょうか。

 国民は国民皆でなければなりません。「国民」の中から、弱い立場の人びと・苦しみにさいなまれている人びと・悲しみの底に沈んでいる人びとを除くと、「国民皆」になりません。国民はどこまでも国民皆でなければなりません。
 天皇・皇后は、弱い立場を強いられているどんな少数の者たちにも身を寄せて、彼らの苦しみや悲しみを身に体する、そうしてその姿を公の場で当の国民に見てもらう、天皇である我が身のなかに自分自身を見いだしてもらう、それこそが「象徴」天皇の務めでなければならない――このように考えて来られたのではないでしょうか。国民と天皇は、ともに一つの割符なのだから、と。

 陛下はこの「象徴という務め」の道を歩み続けて来られました。それは、一本の真っ直ぐな道ではありませんでした。無数の道を歩いて歩いて、振り返ったとき一本につながるように、歩いて来られました、それにしても、容易ではない難路を、よくぞここまで……というのがぼくの印象です。

 支えてきたのは、「国民の思いに寄り添う」、「国民の思いに働きかける」、「心を込めて」「国民の安寧と幸せを祈る」など――これらのお言葉に込められている精神ではないでしょうか。これらのお言葉は、しかし、皇后さまにも共通する思いを表わしていると思います。
 陛下による「理想の象徴天皇」探究の営みが、皇后陛下とのお二人の道中だったことを思えば、これは言うまでもないことですが。

 そしていま陛下は、この年齢になられて、天皇における「象徴という立場」「象徴という務め」がいかに重大か、ということを述懐しておられます。
 「平成24年、79歳のお誕生日会見」から引用します。
 「天皇の務めには、日本国憲法によって定められた国事行為のほかに、天皇の「象徴」という立場から見て公的にかかわることがふさわしいと考えられる「象徴的な行為」という務めがあると考えられます。」

 陛下がここで明言しておられるのは、象徴天皇の象徴天皇たる所以はその「象徴的な行為=公的行為(公務)」にあるという、この一事です。
 天皇の関与する国事行為については、憲法第七条が10項目にわたって規定しています。これらはすべて、内閣(政府)が決定し、天皇はただそれをそのまま決裁するだけです。したがって、陛下ご自身がどこかで述べておられますが、国事行為における天皇の役割はロボットのそれです。
 天皇が「天皇自身の意思」で決することのできる行為は、「公的行為(公務)」あるのみです。あるのみ、と言っても、唯一無二・最大級の仕事です。日本国憲法の第一条に謳ってあるのですから。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」と。
 象徴であるべく務めよ、と憲法が天皇に命じている、その「象徴する」という「務め」に従事するのが、天皇の仕事だ、ということです。

 ところが、安倍首相たち、なかでも安倍晋三その人は、象徴天皇の「象徴的な行為=公的行為(公務)」など、まるで眼中にありません。明治の神聖天皇こそが安倍首相の理想の天皇だからです。
 首相の覚えめでたい御用学者の類いで、通称「有識者会議」のヒアリング対象に選ばれた、たとえば、平川祐弘東大名誉教授とか渡部昇一上智大学名誉教授(故人)などの類いは、早速調子に乗って、「陛下の公務は不可欠ではない」「天皇家は続くことと祈ることに意味がある、それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと、日本国憲法第一条をまるごと黙殺した暴言を吐いています(毎日新聞、217.5.21)。
 在位し・逝去し・皇位を継承する――天皇の仕事はこれがすべてだ、そもそもロボットなのだからそれ以上のことは考えるな、などと、よくもまぁ、ぬけぬけと言えたものです!

 まったく違います! 象徴天皇というのは、国民の事を我が事として思い、念じ、その安寧と幸せを祈る、そのことを我が務めとして一身に体し、その身をもって国民の何たるかを象徴しておられる、そういう人だということです。