理解できない外国語の文法を恐るべき妄想力で変更する、驚異の反ポモ人間――バカに限界はないのか?


仲正昌樹[第45回]
2017年6月2日

 前回、山川賢一の私に対する“反論”が全く見当外れのものであり、山川自身、「ポストモダン」思想がどういうものか分かっていないうえ、ソーカルの『「知」の欺瞞』を自分で読んでない可能性さえあることを指摘した。その後、山川はツイッター上の他の反ポストモダン的な立場の人たちとのやりとりで、彼自身もゲーデルの「不完全性の定理」がどういうものかよく分かってないのに、「ゲーデル」をポストモダン攻撃の材料にしていたことを謝ったようである。しかし、山川やその仲間の祭谷は、自分から私に対する人格攻撃を始めたのにあたかも私の方から言いがかりをつけたかのように偽装したり、自分の読解力不足を私のせいにし、「仲正氏の読解力には根本的な問題がある」などと宣伝し、学者である私の名誉を傷つけたことに対しては一切謝罪していない。山川・祭谷一派はその後も、私を貶めることで、山川を正当化するためのネット上の工作を続けている。彼らはその内、自分に都合悪いことは全て忘れて、孫引きの孫引きの…雑なこと極まりないポモ批判を蒸し返し、私に対する人格攻撃も再開することだろう。実際、後で説明するように、既に蒸し返し始めている。
 ところで、この件で山川とつるんで、以前からやたらと私に言いがかりをつけたがっている「偽トノイケダイスケ(久弥中)‏」という人物が、またもや見当外れのツイートをしている。前回の文章で私は、山川やトノイのように、自分でもよく分かっていない内容に関して無茶苦茶な糾弾をしてくる連中に対しては、「部分的にでも間違いを認めるような態度を取ったら、曲解されてどういうことになるか分からない」、と書いた。そうすると、トノイは前後の文脈を全く無視して、以下のような話をデッチあげている。

まぁ、でも今回の仲正さんの反論は、少なくとも氏の言いたい本質がよく分かったという点では、非常に有益な文章だとは思います。なんとなく予想はついていたのですが、ここまではっきりと明言なさってくださったので、こちらも「下衆の勘繰り」をしなくても済む。

つまり、仲正さんは「相手の態度や(思想)集団」によって、相手の指摘が完全に正しい場合でも、それについては全く認めないという立場なのですね。「お前の言っていることは正しいが、お前の態度が気にくわないので俺の間違いを認めない」と。

 本当に恥知らずの捻じ曲げである。『「知の欺瞞」』の多重の孫引きに基づく山川の“ポストモダン批判”がまさにそうであるように、全くのド素人が、専門家によるそれなりに根拠のある議論を、自分ではほとんどその内容を理解しないまま孫引きして発言した場合、当たっている部分も多少はあるだろう。ネタ元はプロなのだから。しかし理解しないまま孫引きしているので、かなりねじ曲がっているだろうし、明らかな虚偽が含まれている可能性は高い。ある程度の謙虚さがあり、聞く耳のある素人が相手なら、「あなたが念頭に置いているのが◆◆の〇〇の議論であるならば、それはある程度まで当たっていることは私も認めるが、それと密接に関連している□□という点についてあなたの言っていることは、根本的に間違っているので、そこは分かってもらわないと…」というように説明できるのだが、山川、祭谷、トノイのように、何でもいいから相手をやっつけてやろうとして、訳が分かっていないのに糾弾してくる連中には、そういうちゃんとした説明はできない。「確かに…」と言っただけで、「とうとう認めた!」、と大騒ぎするのは火を見るよりも明らかだ。
 そもそも山川たちは、自分でも分かっていないことを孫引きしているだけなのだから、その発言について、「正しい/正しくない」を云々すること自体が無意味である。「正しい/正しくない」が問題になるのは、自分で理解して発言している場合の話である。NHKの教育番組を見て、宇宙物理学の最先端が分かったつもりになって、適当なことを言っている中学生の発言の真偽を問題にするのはバカげている。
 もし私自身が、山川等が言うところの、インチキ数式によって持論を権威付けるポモ論文なるものによって、今の地位を得たのであれば、無茶苦茶なことを言ってくるド素人に対しても、多少の説明をする責任はあるかもしれない。しかし私にはそんな覚えはない。また、山川等は私の学生・生徒ではないので、理不尽な言いかがりを付けられてまで、「君の言っていることはこの部分では当たっていると言えなくもないけれど、それが『正しい』と言えるには…」というような調子で、優しく諭すように教えてやる責務もない。
 こういう連中に対しても、優しく教え諭すように語りかける人格者の先生もいることだろうが、私はそんなお人よしではない。無礼者はつけあがらせると、どんどんエスカレートしていくので、安易に融和的な態度を取るべきではないと思っている。
 「ポストモダン―ソーカル」の話題とは少し文脈が異なるが、五月の初旬、山川とも親しくしているらしい、ルーマン専門家を気取るcontractioこと酒井泰斗が、私に対するネガティヴなツイートを連投したところ、それを真に受けた彼のフォロワーの何人かが、妄想まじりで私に対する失礼極まりないコメントをする、というちょっとした事件があった。この男は、十数年前、私がある著作の中でルーマンについて論じたところ、俺の許可なしにルーマンについて語ることは許さんとばかりに、ある書評サイトで、「ルーマンに言及した意味不明www」というふざけたコメントをしたことがある。その直後、私と直接会った時には、「失礼なことを言って申し訳ありませんでした。忘れて下さい」と謝罪していた。しかしその後三回にわたって、ネット上の私の発言が誤解されて多少の騒ぎになった際に、攻撃側の発言を要約・拡散する役割を果たしている。この連載第十八回で、問題にしたのはその三回目である。なのに、そのことをすっかり忘れたかのように、自分が仲正から一方的に嫌われた被害者であるかのようにツイートしたのである。そのツイートの中には、私が自分の勤務校の学生に対してハラスメントをしているかのように誤認させかねない内容も含まれていた。それを更に曲解した連中がひどいツイートをしたわけである。
 「とんび@外岡則和」という人物は、私と全く面識がなく、大学で教えた経験などほとんどないはずなのに、「仲正氏は教育者としての能力が足りない」とツイートした。私は自分がいい教師だなどとは思っていないが、私の授業を受けたこともないし、自分で授業した経験がほぼない人間が、妄想で言っていいことではない。‏自らが躁うつ病の患者であると自己申告している、「南条宗勝‏ @Karasawa242002」という人物は、「仲正センセイ、躁鬱じゃないのか(素人判断) かなりやばい領域に入ってるよ」、とツブヤいている。今までいろいろと根拠のない悪口を言われてきたが、これにはさすがに驚いた。自分の病気を他人に投影するんじゃない!また、contractioがいろんな争い事に首を突っ込み、私に関する悪口を拡散しているという私の指摘(連載十八回参照)に関して、「エターナルケマケマ@didimda 」という人物は勝手に邪推して、「N正先生が裏側でネットの色んな争いごとに関わっている張本人ということでは。(名推理)」、とツブヤイている。それはお前のことだろ! こいつは、教育機関に勤めていると自称しているが、匿名でこういう妄想を垂れ流すのが教育者のやることか! 山川・祭谷やcontractioの、この手の“お仲間”をかき集めてくる才能には本当に感心する。
 反ポモ系のバカげた言動に話を戻そう。以前から山川に付和雷同しポモ攻撃を繰り返していたuncorrelatedという人物がいる。この人物が、有理数と無理数をラカンが混同したのは決めつけすぎだという前回の私の指摘に対して、ツイッター上で以下のようなクレームを付けてきた。

ソーカルが参照している文章と仲正氏が参照している文章が別物な気がしなくもなく。

「知の欺瞞」にあったのは、『私が「無理数=不合理」と言うとき、何も私はある種の測り知れない情動の状態を指しているのではなく、正確に虚数といわれているものを指しているのです』なのですが、さすがにフランス語原文に「無理数=不合理」のかっこ部分が無いのは変な気が。

凡ミスなのかどうか判別がつかないものの、l’irrationnelは定冠詞つきなので、「単に比ゆ的な意味合いで、〈irrationnel〉という形容詞を使っている」と言う仲正氏の説明は良く分からん。 原文には「正確に」に当たる言葉が見当たらないとあるが、manifesteがある。

Cette formule n’est qu’une métaphore mathématique et il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique.をGoogle翻訳にかけると、数学での無理数としてくる。

仲正昌樹氏が引用した箇所、l’irrationnel son sens mathématique とあって、数学的な意味でl’irrationnelと言うわけだから、少なくともここは無理数と言う名詞で解釈するしか無いように思える。

 これらのツイートからすると、フランス語の文法をさほど知らない人間が、自分の乏しい文法知識でいいろいろ憶測しているだけのように思えたので、メールで少し補足説明したところ、私が痛い所を突かれて動揺したと思い込んでしまったようだ。あるいは、私も本当は大してフランス語ができないのに知ったかぶりをしていると邪推したのかもしれない。「ニュースの社会科学的な裏側」という自分のブログに、「ポストモダンはその修辞法と共に消えるべき」というタイトルだけは偉そうな文章を書いている。しかも、このバカげた文章を、山川がまたまた性懲りもなくリツイートしている。山川はuncorrelatedに同調している態度ははっきり示さないで、単に「大変なことになっている」とだけツブヤイて、責任回避しようとしている。しかも、前回の私の文章は読んでないふりをしている。相変わらず見え透いた姑息な手段を使う卑劣な奴だ。更に、「青山大地」という以前からことあるごとに、私に関するさまざまな妄想まじりの悪口を垂れ流してきた、自称文系学者がこれに便乗し、何が話題なのかさえ分からないまま、「仲正の敗北できまり」、と勝手に宣言している。こいつは、私をけなすことによって、自分がプロの学者であるかのような幻想を抱くことができるようだ。実際には論文を書いたこともないし、外国語の文献をまともに読む能力はないだろう。ある意味憐れな奴だが、やはり、クズは友を呼ぶようだ。uncorrelatedの記事は以下の通りである。

しかし、フランス語が全く分からない人にでも、この話が変なことが分かる。「無理数=不合理」に該当する部分を恣意的に省いているし、引用されているフランス語原文の中の単語もあれこれ無視されている。

…c’est en tant que la vie humaine pourrait se définir comme un calcul dont le zéro serait irrationnel. Cette formule n’est qu’une métaphore mathématique et il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique. Je ne fais pas ici allusion à je ne sais quel affectif insondable, mais à quelque chose qui se manifeste à l’intérieur même des mathématiques sous la forme équivalente de ce qu’on appelle un nombre imaginaire qui est √-1.

l’irrationnelは定冠詞つきなので、名詞としか考えられない。「単に比ゆ的な意味合いで、〈irrationnel〉という形容詞を使っている」と言う仲正氏の説明は明らかにおかしい。さらに「数学的な意味」(son sens mathématique)をl’irrationnelに与えなければいけないと書いてあるように読める。これが無理数でなければ、何なのであろうか。なお、仲正昌樹氏はメールで「Irrationnelは二回出てきて、二回目は定冠詞付きですが、これは形容詞を名詞化したもなので、両方とも形容詞扱いしました」と説明してきたが、これ自体も意味不明な主張な上に、son sens mathématiqueについては言及していない。
manifeste à l’intérieur même des mathématiquesは、数学それ自体の範囲での宣言、つまり厳密に数学的な意味と言う意味のようだ。ソフトウェアの世界では作成者や利用権限などを示す設定の意味でよく使われるmanifestだが、英語ではその用法は一般的とは言えないので、直訳になる to something that Manifest within the mathematics itself を意訳して precisely to ~ と置き換えても不思議ではない。仲正昌樹氏は『manifeste à は、文の流れからして refer preciselyのところとは関係ありませんし、「正確に」という意味はありません』とメールで説明して来たのだが、manifesteをどう訳すべきかについては何も言及していない。
 (…)メールであれこれ説明する暇があるのであれば、まずは自身が信じる全訳をブログのエントリーの引用部分につけるべきであろう。フランス語が得意なのであれば、そう手間暇でもないはずだ。

 英語とフランス語が分かる人が読めば、「正気か!」と思うようなひどい内容だが、本人は何故か自信満々である。国語力もかなり怪しい。基本的な語学力がないくせにやたらにプライドが高くて、自分の思い込みの解釈に固執し、丁寧に説明しようとする先生に難癖をつける学生がいるが、そういうのがそのまま、いい歳のおじさんになってしまった感じである――uncorrelatedの正体がどういう人物で、これまでネット上でいろんな著名人に対してどういう難癖をつけてきたかは、ちょっと検索すればすぐわかる。
 これだけ思い込みの強い人間は、どれだけ丁寧に説明されても、屁理屈で捻じ曲げてしまうだろう。自分はフランス語も英語も満足にできないくせに、「俺に納得ができないのはおかしい!」、などと言い張るだろう。こいつはもう治しようがないが、ちゃんと学ぶ気がある人のために少しだけ丁寧に説明しておこう。
 まず、前回も引用したフランス語の原文は、先の記事でuncorrelatedがコピペしているが、念のためもう一度引用し、それに続けて、ソーカルたちが引用した英語訳も示しておこう。一九五九年四月の《Le désir et son interprétation》と題した「セミネール」からの引用である。なお、フランス語で出版された『「知」の欺瞞』の初版では、英訳からフランス語に訳し戻されている。そのためラカンの原文とかなりズレている。注を見ると、『セミネール』の原文テクストを見つけられなかったということだ。

…c’est en tant que la vie humaine pourrait se définir comme un calcul dont le zéro serait irrationnel. Cette formule n’est qu’une métaphore mathématique et il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique. Je ne fais pas ici allusion à je ne sais quel affectif insondable, mais à quelque chose qui se manifeste à l’intérieur même des mathématiques sous la forme équivalente de ce qu’on appelle un nombre imaginaire qui est √-1.

…human life could be defined as calculus in which zero was irrational. This formula is just an image, a mathematical metaphor. When I say “irrational, ” I’m referring not to some unfathomable emotional state but precisely to what it called an imaginary number.
 
 一番肝心なところから見て行こう。英訳でも〈rational number〉という表現は出てこない。〈l’irrationnel〉は〈“Irrational”〉と言い換えられているが、これは親切な言い換えだろう。直前に出てくる〈irrational〉という言葉をどういうつもりで使っているのか説明しているわけだから、“”に入れた方が分かりやすい。フランス語の原文のように、「irrationnel(非合理的)なもの」という言い方をしても基本的に同じことだ。uncorrelatedは何故か、〈l’irrationnel〉は定冠詞付きの名詞なので、〈nombre irrationnel〉の省略に違いないと思い込んでしまったようだが、素直に読めば、〈irrationnel〉という形容詞を抽象名詞化したものである。英語でも〈the irrational(非合理的なもの)〉〈the rational(合理的なもの)〉〈the true(真なるもの)〉というように、形容詞に定冠詞を付けて抽象名詞化するのはよくあることで、こんなのは遅くとも高校生になる頃には習っているはずのことだ。英語力がなくても、国語の読解力があれば十分想像できることである。そのことをuncorrelatedにメールで知らせてやったのだが、理解できなかったようである。そんな奴が論客ぶってニュースを社会科学的に斬るなどと言っているのだから、笑止千万である。
 問題はこの〈irrational〉という形容詞が、「非合理的」という意味か、「無理数的(な性質を持っている)」という意味かということである。ラカンの文章がかなり比ゆ的で曖昧なので、はっきりしないが、特に「有理数/無理数」の区別に関わる話をしていないのは確かである。数学的な話をしているので、〈irrational〉には「無理数的」という意味が含まれているはず、とソーカルたちは断定しているのだが、私はそれは決め付けすぎだ、ラカンは「無理数」と「虚数」の区別もつかないと断定するには、証拠が足りない、と言っているのである。ソーカルたちがこの文章を書いていた時、ラカンは既に亡くなっているが、たとえ亡くなっている人であれ、他人を無理数と虚数の区別もつかないバカ扱いしたいのであれば、もっとはっきりした証拠を示すべきだ。
 因みに、『「知」の欺瞞』の日本語版をよく読むと、「虚数と無理数を混同している」と断じた箇所の少し後、注(27)でこの点について釈明がなされている。「もちろん、ラカンが‘irrational’という言葉を、日常的ないしは哲学的な意味で用いている可能性もある。(訳注 右の引用は英語でのみ出版されている。)しかし、そうだとすれば、これほど数学的な内容に触れている文脈で、‘irrational’という数学用語になりうる語を説明なしで異なった意味に用いるのは恐ろしく不親切である」この注(27)までちゃんと理解して読んでいれば、山川やuncorrelatedは、下手な断定はできなかったはずである。だから、私はuncorrelatedに、『「知」欺瞞』の日本語版を本当に自分で読んだのかと問い合わせたのが、彼は無視した。恐らく彼も山川も、翻訳さえちゃんと読んでいなかったのだろう。また、〈dont le zéro serait irrationnel〉という箇所は、邦訳では「ゼロが無理数=不合理であるような」となっており、「無理数=不合理」の所に「イラショナル」というルビがふられている。英語に慣れた人間が見れば、〈irrational number〉ではなくて、〈irrational〉という形容詞が使われているだけなのが、すぐ分かるはずだ。これに気が付いていなかったという点でも、uncorrelatedや山川が邦訳さえ読んでいなかった疑いが高い――英語がよく分かっていないというだけの話しかもしれないが。
細かいことを言うと、この注(27)はフランス語版にも英語版にもないので、英語版が出た後、ソーカルが言い過ぎたと思って慎重になったのか、日本語訳者に指摘されて、日本語版に挿入することにしかのいずれかだろう。いずれにしても、私はこうしたことは最初から本文中に書いておくべきであり、そうしなかったのはミスリーディングであると考える。その場合でも、山川やuncorrelatedは悪意の勘違いをしたかもしれないだが、それは仕方のないことだ。完全なバカ避けは不可能だから。
 uncorrelatedは、〈il faut donner ici à l’irrationnel son sens mathématique.〉の意味が辛うじて理解できたことに気をよくしたらしく、これに拘っているが、もし彼の言うように、〈l’irrationnel〉が「無理数」だとすると、物凄くおかしなことになる。「無理数に数学的な意味を与えねばならない」だと何のことだか分からない。しかもその直後の文でラカンは、「私が示唆している(faire allusion)のは~ではなく、虚数である」と述べている。つまり、「無理数に数学的な意味を与えたら、虚数である」と言っていることになる。全く無意味な言い換えをして、間違えたことになってしまう。uncorrelatedほど面の皮が厚い奴なら、「いやだから、ラカンはそれほど頭がおかしいのだ!」と強弁するかもしれないが、〈l’irrationnel〉が形式的に名詞であるとか、〈son sens mathématique〉が重要だ、仲正はそれを誤魔化している、などと言い張っておいて、そういう言い訳は通用しない。
 次に、「manifeste à l’intérieur même des mathématiquesは、数学それ自体の範囲での宣言……」というunncorrelatedの珍説についてだが、この男は、動詞、形容詞、副詞といった品詞の違いも分からないようである。uncorrelatedは、フランス語の〈se〉の意味が分からなかくて省いてしまったようだが〈se manifeste(r) à~〉の意味は、仏和辞典を引けばすぐ分かる。辞書を見れば、「宣言」云々などと見当外れのことは言えないはずだ――uncorrelatedだったら、やりかねないか。その後の、「つまり厳密に数学的な意味と言う意味のようだ。ソフトウェアの世界では作成者や利用権限などを示す設定の意味でよく使われるmanifestだが、英語ではその用法は一般的とは言えないので、直訳になる to something that Manifest within the mathematics itself を意訳して precisely to ~ と置き換えても不思議ではない」は、日本語のネイティヴが書いた文とは思えないくらい意味不明である。何でソフトウェアの話が出て来るのか。万が一、「Manifest」が「宣言」だという意味だとしても、それがどうして「正確に」という意味に“意訳”されるのか?こいつの頭の中はどれだけ混乱しているのか?
 バカの妄想はさておいて、フランス語と英語を並べながら、問題になっている文の意味を確認しておこう。〈Je ne fais pas ici allusion à je ne sais quel affectif insondable〉という部分に対応するのが、〈I’m referring not to some unfathomable emotional state〉という部分である。その後の〈mais à quelque chose qui se manifeste à l’intérieur même des mathématiques sous la forme équivalente de ce qu’on appelle un nombre imaginaire qui est √-1〉に対応するのが、〈but precisely to what it called an imaginary number〉である。この後半部はかなり短くなっているが、「まさに数学の内部において虚数と呼ばれているもの、つまり√-1と等価の形式で現れてくるもの」、という三重に関係文を使った複雑な言い回しが、「虚数と呼ばれるもの」とシンプルに言い換えられているだけなので、〈precisely〉が付加されている点を除いて、大意として間違っていない。万が一、〈se manifester〉にuncorrelatedの言うように、「正確に~」のような意味があったとしても、それは〈qui~〉(〈what~〉)以下の関係文の中での話しである。〈precisely〉はその関係文に外からかかっている。uncorrelatedには、関係文というものが分かってないのか?それとも、英語であれフランス語であれ日本語であれ、統語法なるものがあることを知らないのか?彼には英語やフランス語の構文を思い通りに変更する神通力でもあるのか?恐ろしい奴である。
uncorrelatedのようなおかしな文法をでっちあげない限り、〈precisely〉が原文にない、後から挿入された言葉であるのは明らかだ。また前回も述べたように、〈faire allusion à~〉が、「~を暗示する」という、対象への指示性が曖昧な意味合いの表現であるのに対し、〈refer to~〉は、「~に言及する」という意味で、具体的な対象を指しているようなニュアンスになる。「私が暗示しているのは~ではなく、~だ」が、「私が言及しているのは~ではなく、正確には~だ」では、かなり印象が違う。
 あと日本語訳に関して付随的に指摘しておくと、〈comme un calcul=as calculus〉が「微積分学として」と訳されているが、これは意訳しすぎである。誤訳と言ってもいい。多分、高校微積分で習う「限りなくゼロに近づけると~」というようなイメージが含まれていると解釈したのだろうが、ラカンがそう考えていたかどうか定かではない。〈calcul〉には「計算」という意味しかない。こういう微妙なニュアンスが重要な箇所では、意訳しすぎてしまうと、アンフェアになる。
 uncorrelatedは先のブログの中で、岡本裕一朗氏の『フランス現代思想史』(中公新書)を読んだふりをして、「ポストモダンは中身ではなく修辞テクニックによって特徴づけられる社会“思想”である」などと述べているが、これは完全に誤読である。私は岡本氏の記述に必ずしも賛同しているわけではないが、“中身がなくて修辞テクニックだけの思想”だと自分でも信じているものについて一冊入門書を書こうとする学者がいるとでも思っているのだろうか。uncorrelatedはこれまでの生涯で他人に本気で叱られたことがなかったのだろうか?彼の指導教官だった先生が気の毒である。
 uncorrelated はこのブログから数日後に、再び以下のようにツブヤイている。

仲正昌樹氏のポストモダン擁護は「フランス現代思想から数学科学用語の濫用を削ぎ落としても、これこれこういう素晴らしいビジョンが残るんですよ」と言うポジティブなものであるべきだと思うが、論敵との罵りあいに終始しているように見えるので、やっぱり駄目なんだろうなと思ってしまう。

 何を偉そうに勘違いしているのだろう。自分の貧しい国語力に基づいて、ポストモダンは修辞の問題だと分かった、などと言い放つ輩に対しては何を言っても無駄である。こいつや山川はそもそも論敵などではなく、悪口ばかり言うただの害虫である。山川やuncorrelatedのような話の通じない輩と論争することなど不可能である。私は積極的なポストモダン擁護などしていないし、その必要もない。害虫どもが、無意味なポモ攻撃を繰り返し、それに私を巻き込もうとするので、駆除しているだけである――それに関連して、ソーカルたちの言い分を若干検証しているが、それ以上のことはやっていない。何度も言っているように、「ポストモダン」と十把一絡げに論じること自体が不毛である。私は、デリダなど個別の思想家の議論の紹介はいろんなところでしているが、連中はそういうものは読まないし、仮に目にすることがあっても、理解できないだろう。そして、「俺に理解できないので不毛だ!」と、神のごとき裁きを下すだろう。
 ソーカル関連の別の問題についても若干触れておこう。前回も述べたように、一時期、ポストモダン系とされている思想家の間で、ゲーデルの「不完全性の定理」が不正確な仕方で参照されることは多かったのは確かである。そのこと自体に関しては、ソーカルたちの指摘は正しいのだが、ただし、それが数学的な概念を援用することによる権威付けのためだ、とまで断ずるのは言い過ぎであり、むしろ、反ポストモダン陣営の人たちの科学史・哲学史に関する無知のなせる業ではないかと思う。山川・祭谷やuncorrelatedのようにソーカルたちの議論からの孫引きの孫引きの…孫引きで、“ポストモダンにおける不完全性の定理の濫用”を“糾弾”している連中――今後は彼らのことを一まとめにして山川ブラザーズと呼ぶことにしよう――は、「不完全性の定理」を純粋に理系の問題だと思っているようだが、そうではない。
 「不完全性定理」は根底において、「クレタ人の嘘」という形で知られる「自己言及性のパラドックス」の問題と繋がっており、後者の解決に向けた、数学的に形式化された応用事例として位置付けられることもある。分析哲学系の人の一部には、自己言及性のパラドックスの問題は、ラッセルによってその解決が試みられた数理論理学的問題であり、ポストモダン系の議論とは関係ないと考える傾向があるようだが、「クレタ人の嘘」自体は古代ギリシアにまで遡る問題であり、「理性的主体としての自我の自己言及による自己根拠付け」をめぐる問題はフィヒテやヘーゲル、シェリング、ドイツ・ロマン派にとって中心的なテーマであった。フィヒテやヘーゲルの哲学の中核部分を、システム理論における「自己言及性」の問題と関連付けて再解釈することを試みる研究があるが、そうした研究は、必ずしも「ポストモダン系」に分類されるわけではない。ポストモダン系とされる思想は、デカルトからフッサールに至るまでの、近代の認識論哲学が依拠してきた、「主体による自己把握」という大前提に自己矛盾があることを指摘し、その不可能性を何らかの形で論証しようとする傾向がある。ラカンは、「言表の主体」と「言表行為の主体」の違いという形でこの問題を定式化し、「無意識」をめぐる精神分析の議論と結び付けた。フーコーやドゥルーズ、クリステヴァ等は、そうした問題意識を引き継いでいる。これは、自己言及性のパラドックスを論理学的に解決・解消しようとするラッセル以降の数理論理学・分析哲学とは、逆の方向からの関心である。
 そうした問題意識から、「自己言及性のパラドックス」と関連の深い「不完全性の定理」に関心を持った人が多かったわけだが、「不完全の定理」は、かなり数学的に特殊化された議論になっており、ヘーゲル―ラカン的な問題にそのまま援用することはできなくなっている。従って、安易に援用すべきでないというのはその通りだが、だからといってポストモダニストたちの不完全性の定理への関心の根底にあった、自我の自己言及をめぐる哲学・精神分析的な問題系まで無意味だと切り捨てるのは、哲学・思想史を知らない人間の傲慢と無知のなせる業である。前回、私はそういうことを主張したわけであるが、哲学に関心のない、山川ブラザーズは何のことか分からず、「そんなの詭弁だ!俺に分からないのだから無意味だ」、と叫ぶ。
もう一点、やはり山川ブラザーズの大好物である「ボードリヤールによる水の記憶理論の援用」の問題も取り上げておこう。ブラザーズは、「トンデモ理論であるジャック・バンヴェニストの「水の記憶」を援用しているからボードリヤールもトンデモだ」、と単純に考えているようだが、彼らはそもそもバンヴェニストがどういう人で、「水の記憶」がどういう理論なのか分かっているのか?
 まず「水の記憶」という名称は、バンヴェニストに対する批判派がメディアで流行らせた言い方で、本人はそういう言い方をしていないこと、水を擬人化して生物と同じような記憶力を持っていると主張しているわけではないことは分かっているのだろうか?また、バンヴェニストが、スピリチュアルな治療家とかホメオパシーの実践家などではなく、フランスの国立保健医学研究所(INSERM)の研究ユニットのリーダーを務めた免疫学者であり、問題になった論文が他の国の研究者たちとの共同研究の成果であり、『ネイチャー』に掲載されたことくらいは知っているのだろうか? 一九八八年七月の掲載である――『ネイチャー』に掲載されたこと自体は、『「知」の欺瞞』にも記述されている。その後、関連分野の専門家たちの追試によって、バンヴェニストが主張するような効果は確認できないということになり、トンデモ理論扱いされるに至ったわけだが、そういう専門家の批判に便乗してバンヴェニストをバカにする前に、せめてどういう主張の論文だったか確認すべきである。Wikipediaの英語版に外部リンクが貼られているが、Belon P, Sainte-Laudy J, Poitevin B, Benveniste J (30 June 1988). “Human basophil degranulation triggered by very dilute antiserum against IgE”で検索すると元の論文が見つかる。ほとんどの素人には、そもそも何が主題の論文かさえ分からないだろう。水に記憶力があると主張するものでないことだけは確かである。素人は『ネイチャー』に掲載された内容に関して、一切口出すべきではないと言いたいわけではない。しかし、批判対象がどういう性質のものか理解する努力はすべきである。メディアで流行っている呼称からの印象だけで安易にこういうものだろうと決めつけ、“偉い人”の批判に便乗する奴こそ、トンデモである。
 ただ、肝心なのは、バンヴェニストの論文がどういう性質のものかということよりも、その説をボードリヤールがどう受けとめたのかである。まず、ソーカルたちが問題にしているボードリヤールの文章はいずれも彼の主要著作とは言えない、ごく短いエッセイ的なものである。ボードリヤールを知っている人には言わずもがなのことだが、彼の主要な仕事は、消費社会における人びとの一見経済学的な振る舞いの記号論的な分析であって、『消費社会の神話と構造』や『象徴交換と死』といった著作で展開されている。それらでは、物理学から借りてきた概念のようなものはほとんど見受けられない。
 ソーカルが最初に言及しているのは、『終焉=目的の幻想 L’illusion de la fin』(一九九二)という論文集に含まれている、「指数関数的な不安定性と安定性Instabilité et stabilité exponentilles」と題された、六頁弱のごく短い文章である。この文章でも、本全体のテーマはそうであるように、「歴史の終わり」をめぐる哲学的言説の批判がテーマになっている。ソーカルたちの言うように、物理学系の概念とのアナロジーを濫用していることは確かだが、「水の記憶」に言及することで何かを積極的に論証しようとしているわけではない。カオス理論におけるバタフライ効果に言及した後、「水の記憶」にも言及し、それらの連想から、「歴史の終わり」に対する否定的な見方を示唆している。物理学者であるソーカルやブリクモンからすれば、複雑系をめぐる物理学的な議論が、「歴史の終わり」という人文系の漠然とした議論や、「水の記憶」と一緒にされるのが我慢ならない、ということだろう。
しかし、『「知」の欺瞞』の邦訳にも引用されているように、ボードリヤールはカオス理論に言及したあとで、「水の記憶についてのバンヴェニストの逆説的仮説を思い出せもする」と述べ、それとのアナロジーで、私たちの生きている「社会」に対する彼なりの見方を語っているだけである。

Celle-ci est passionnante de par l’analogie avec notre univers actuel:nous vivons nous aussi, de par l’extension des media et de la communication, dans un univers social et culturel hautement dilué, où les molécules originelles se font de plus en plus rares. Il est intéressant de savoir si, dans l’ordre humain aussi, les effets persistent en l’absence des causes, si une substance nominale reste active en l’absence de ses éléments, ou même si quelque chose peut exister en dehors de toute origine et de toute référence.

 要は、社会的な秩序とか運動は、それが出来上がる原因になったとか人間がもはや存在しなくなっても、様々な所にその波及効果や情報が残留しているおかげで、そのまま存続し続けることもある、という話である。比較的常識的な発想なので、別に「水の記憶」とのアナロジーがなくても十分に成立する。じゃあなんで、他の専門家から叩かれている「水の記憶」に言及するんだ、と言う人もいるだろう。そういうレベルの批判ならいいのだが、鬼の首を取ったように、騒ぐべき話ではないだろう。
 しかも、『「知」の欺瞞』で言及されている第二の文章では、ボードリヤール自身、「水の記憶」は科学の通常の方法で認められない議論であることを認めている。九五年に刊行された《Fragments: Cool memories Ⅲ 1990-95》という断片集に収められている、文字通り、フラグメント形式の文の一節である。

La science conventionnelle se fonde sur une seule expérience négative pour disqualifier toutes les autres (le cas de Jacques Benveniste).

結局のところ、社会学者もしくは哲学者が、『ネイチャー』に掲載された科学論文から、自分の取り組んでいる社会・歴史哲学な問題を考えるヒントを得たと思って、それがどういう連想によるものなのか、エッセイとして書き留めた、というだけのことである。その中身は先に見たように、ヒントになった元のバンヴェニストの仮説自体が否定されたとしても、十分になり立つ性質のものである。それでも、「いや仮にも学者を名乗る人間が、既に反証されてしまった論文に言及すること自体が不適切だ」、と潔癖症的に拘る人もいるかもしれない。
しかし、思い起こしてほしい。STAP細胞問題の時のように、その専門領域の最先端のプロでも、後にインチキ理論として全否定されてしまうような説を積極的に支持することもある。STAP細胞論文に対して多少なりとも肯定的な見方を示した自然科学者は、全て自然科学者と名乗る資格がない偽物として全否定されるべきなのか? 免疫学や分子生物学の素人であることを自覚しているボードリヤールは、バンヴェニストの論文の真偽を云々していない。「社会」のモデルに関してインスピレーションを得た、と短いエッセイの中で述懐しているだけだ。自分の専門外の領域の(少し怪しい)理論からインスピレーションを得た、とちょっと述懐しただけで学者失格ということになるのであれば、世の中の著名な学者の大半が失格になってしまうだろう。
 少なくとも、ほとんど専門知識もないのに医療ジャーナリストを名乗り、「臨床試験入門」なる文章をネット上で公開している祭谷一斗のような人間を身内に抱える山川ブラザーズには、「ボードリヤールの科学に対する姿勢」を非難する資格などない。


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