「天皇を読む」第12回


たけもとのぶひろ[第129回]
2017年5月16日

昭和天皇崩御を伝える毎日新聞

昭和天皇崩御を伝える毎日新聞

第八節 終身在位制のもとでの天皇の皇位継承とは

第八節の冒頭、陛下は、「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合」と、まず書いておられます。そのとき思い浮かべておられたのは、昭和天皇の病状が日に日に悪化し、永訣のその時に向かっていくのを、ただただ見守ることしかできなかった、およそ30年前に身をもって体験された日々のことでありましょう。
このときの原体験があればこそ陛下は、どうあっても「天皇の終身在位」という制度について考えないわけにいかない、と思い定めて来られるのだと察せられます。

明仁皇太子が今上天皇となって皇位を継承される——その運命をどのように受け止めておられたのでしょうか。ぼくには、その胸中をお察しすることさえかないません。
ただ、手掛かりとなるかどうか、昭和天皇の身に異変が起こってからの病状の経過を知ることはできます。その昭和天皇の一大事を世間がどのように受け止めたか、世間の反応も知ることができます。皇室の苦しみについても、知ることができます。
それらは皇太子時代の今上天皇が体験された事実でもあるわけですから、それらを通して間接的にではあれ、当時の陛下(明仁天皇)のお気持ちに思いをめぐらすくらいのことならできるかもしれない——ぼくの今の気持ちはそういうことです。

まず、昭和天皇が「健康を損ない」病気と闘っていかれた事実を記します。
① 1987(昭和62)年4月29日、満86歳の誕生日の午餐会中に200mlの吐血
② 同年7月、那須御用邸にて静養中、食欲低下・吐血の日々、医者は胃がんを心配
③ 同年8月、1ℓの吐血
④ 同年9月22日、那須から戻って開腹手術(その後、いったんは公務に復帰)
⑤ 翌88年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった
⑥ 同年9月18日、38度台の高熱、大相撲観戦中止
⑦ 翌9月19日深夜、大量の吐血
⑧ 9月20日、吐血・下血の繰り返し、医師「当面は絶対安静」
⑨ 9月22日、政府、皇太子に全ての国事行為の代行を決定
宮内庁、一般国民の「お見舞い記帳」受付け開始
⑩ 10月1日、大量の下血

皇室は、前途を見失い、重苦しくも暗澹たる雰囲気に覆われます。ところが、世間の気分は、表向きは鬱然としているのですが、前代未聞の事態に逢着し、それへと対処するのにむしろ張り切っているかのような、一種ハイなところをも感じさせる、むしろそういう雰囲気だったのではないでしょうか。
新聞は、⑦⑧の段階でXデーに備えて記事の準備に入ります。さらに⑨の、皇太子による国事行為代行の決定、「お見舞い記帳」受付け開始が、合図というか、 “スタートの号砲” として聞こえたのかどうか、9月末から10月にかけて、自粛ムードが連鎖反応のように広がります。順不同で幾つか例を挙げます。

各地の祭り中止。京都の「時代祭・鞍馬の火祭」(10月22日)中止決定。日本歌謡大賞(10月21日)中止決定。中日ドラゴンズ優勝祝勝会ビールかけ自粛。京都国体花火打ち上げ中止。明治神宮野球大会中止。閣僚・議員は中央に釘付け。地方議員の海外出張取り止め。テレビCMの差し替え。スーパーやデパートの店頭から赤飯が消える。服装を地味にせよと社命、等々。
この自粛風潮に対して、政府は9月29日、「国民生活に著しい支障が出るのはいかがなものか」と苦言を呈し、明仁皇太子も10月8日、過剰自粛について懸念を表明されます。

そしていよいよ「深刻な状態に立ち至」たります。
⑪ 12月5日、十二指腸付近から1000ccを超す出血、最高血圧40台、酸素マスク使
用、意識消失約5時間
⑫ 12月11日、頻脈症状、心臓機能低下、意識ほとんどない
⑬ 1989年1月7日午前6時33分、十二指腸がんのため裕仁天皇、皇居吹上御所にて
逝去、87歳。在位期間、歴代最長62年
⑭ 1月8日、元号を「平成」と改元
⑮ 1月9日、午前11時、天皇踐祚後「朝見の儀」(皇居・松の間)

ここに見るように、昭和天皇が立ち至った「深刻な状態」は丸々1ケ月続いた、ということです。 これは、明仁皇太子・美智子妃殿下にとっても、「深刻な状態」が丸々1カ月続いたことを意味します。皇太子として、皇太子妃として、それこそ「全身全霊をもって」すべてに対処されたに違いありません。と同時に、まさにこの深刻な日々、お二人は、ある種の空しさというか、あるいは虚しさと書くべきか、それに加えて “生は孤なり” というような思いをも、体験されていたのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。

上記冒頭の文章に続いて陛下は、「これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」と述べ、社会や国民への影響を心配しておられます。心配なのはむしろ、両陛下ならびに天皇家のご家族のほうなのですが。
要するに、「深刻な面持ちの皇室」と「自粛ムードの国民」とでは、流れている時間がまったく別ものであるかのように感じられた、ということです。

自粛ムードはいったん鎮まるのですが、天皇が逝去すると再燃します。どういうことが起こったのか、あらましを見ておきます。
街は、国旗の竿先の金色の球に黒い布をかぶせた弔旗が林立、ハデな看板は布で覆われる、夜はネオンも消え、パチンコ店は音楽も控える。証券取引所が1月7日の立ち会いを停止。シュウマイの崎陽軒が鯛めしと赤飯弁当の販売を7日から13日まで中止。TVは特別放送態勢、民放のCM一斉に放映中止。娯楽関係も休業続出——7日のみ休業は吉本興業、7日8日休業は東京国立劇場、能楽堂、東宝系直営館、西武ゆうえんち、豊島園など。正月のスポーツやギャンブルも相次ぐ中止や延期——中央競馬会・地方競馬全国協会の全レース(7〜12日)中止、競輪・競艇など公営ギャンブルも全国全レース中止、全国大学ラグビー選手権決勝・全国社会人ラグビー大会決勝・全日本バスケットボール総合選手権女子決勝など延期、高校ラグビー決勝は中止(両校優勝)。

国民は条件反射的に、「初めに自粛ありき」でもって対処します。 “日常的には問題がなくても、物事は時と場合によりけりだから、ひんしゅくを買いそうなことは遠慮しよう、自粛しよう“ という空気が支配的になります。自粛の空気が読めないKYは咎められ、自粛ムードは一気に広がります。それは、しかし、単なる気分です。その筋が “過度の自粛は好ましくない” と声をかけると、“ 待ってました“ と言わんばかりに元の日常に帰っていきます。潮が引くように、と言いたくなるほどの “事勿れ主義” です。

世間はこんな調子です。世間ではなくて、国民とか社会というふうに言い換えても、調子は似たり寄ったりだと思います。しかしながら、天皇ないし皇室に起こっている事実は、まったく別次元の事柄でした。

既述の年表の最後の部分を見てください。⑬に「1989年1月7日 昭和天皇逝去」とあり、翌8日の項⑭に、「昭和」から「平成」へと改元されたことの記載があります。問題にしたいのは、その直ぐ後の、平成時代スタートの2日目、平成元年1月9日の項⑮に、「天皇践祚後、朝見の儀(皇居 松の間にて)」とある、この記載です。

最初ぼくは、⑮のこの記載について、ほとんど関心を持ちませんでした。今にして想えば、そのときのぼくは、⑮の儀式のことを、無数にある皇室儀式の一つだろう、くらいにしか思っていなくて、そのままスルーしたのだと思います。しかし、よくよく考えると、この⑮の儀式は「終身在位制」の本質に深く関わっているのだな、と気づかされました。

まず言葉の意味から説明します。
「践祚(せんそ)」とは、皇位(祚)の象徴である「三種の神器」を受け継ぐ(践)ことによって、天皇の位に就く(践祚)こと、を意味します。
この「践祚」の儀式を終えたあと、新たに皇位に就いたばかりの天皇は、三権の長をはじめ各方面の要人らに会い、「お言葉」を述べ、それを受けて内閣総理大臣が奉答します。それが「朝見の儀」です。

このように書くと、皇太子は、立派な儀式において・真っ当な筋道を踏み・正式に、天皇の位に就いた、かのように思われるでしょう。しかし、それは事実に反します。
細かいことを言うようですが、年表をよく見てください。まず⑬、昭和天皇が逝去されたのが1月7日の午前6時33分です。そして⑮、「即位後朝見」の儀式がとり行なわれたのが9日の午前11時です。
この間、まる2日、天皇は存在していません。その地位に誰もいないのです。空位です。空のままにしておくわけにいきません。急いで埋めなければなりません。略儀ながら大急ぎで、皇太子を昇格させて天皇の地位につける。それが「践祚・朝見の儀式」です。

あくまでもそれは、略式です。天皇が然るべき儀式によって権威づけられた正式の天皇の地位に就く儀式は、これとは別にあります。「即位礼」です。それは、しかし、無事に「大喪の儀・大喪の礼」を終え・1年の服喪が明け・最初に迎える大嘗祭のときまで待たなければなりません。今上天皇は、略式の・臨時の・間に合わせの天皇の地位にあって天皇の務めを果たし、然る後に、晴れて正式の天皇になられた、というのが実状だったのです。

形のうえでは天皇であっても、正式にはいまだ天皇になっていない。「即位礼」によって名実ともに天皇になられるまでの、今上天皇は、天皇の座についてはおられても、さぞかし座り心地が悪かったのではないでしょうか。
天皇と言えば、いまだ先代の昭和天皇であるかのような、ご自身は天皇にちがいないのだけれども、どこか実感がともなわないような、曖昧な混乱の中をあちこちしているような、そういうご自身のあり方について、陛下はどこか違和感があった、というより、心の底から得心がいくというふうにはどうしてもなれなかった、ということではないでしょうか。

しかし天皇は、このように納得できない事実であるにもかかわらず、その事実を受け入れて、その事実に従わなければなりません。
なんたる不条理! と叫びたい、しかし、叫ぶなんて “以ての外” と禁じられています。それのみならず、天皇はいくら “略式の天皇” であっても、従来の皇室のしきたりに従い、天皇としての務めを果たさなければならない、と命じられています。

その間の天皇の務めは、略式といえども、生半可なものではありません。先にぼくが引用した「お言葉」に続いて陛下は、次のように語っておられます。
「更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ケ月にわたって続き、その後 喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるをえません」と。

肉体的・精神的に、いかに大変か! 陛下のお言葉には悲鳴にも似た響きがあります。

昭和天皇逝去から「即位礼・大嘗祭」を終えるまでに、ほとんど2年の歳月を費やしています。その間、物凄い数の儀式です。調べたところ、ざっとですが、逝去から大喪儀(いわゆる葬式)までに約20件。大喪儀から服喪の1年間に23件。「即位礼・大嘗祭」関連の儀式行事が準備と本番を合わせて、およそ30件。
これらの儀式行事がどのような内容のものか、とても調べきれません。だから、逝去から大喪儀までのこと、そしてそのあとの服喪のこと、即位礼・大嘗祭の準備のこと、等々について、分かるのは “その流れ” くらいのことにすぎません。その程度のことですが、以下に記しておきます。

1 逝去当日。しん殿(しん=木篇に親、ひつぎ。しん殿=ひつぎの間)にて。
吹上御所の2階の寝室から1階の居間にご遺体を移す。当日夜は内輪の通夜。
翌日の夕刻、「お船入りの儀」(遺体を柩に入れる)。以後、皇族・親族・側近の拝訣が続く。

2 逝去13日後。殯宮(ひんきゅう、殯=もがり)にて。【注】
皇居正殿・松の間を「もがりの間」とし、そこへ柩を移す。
公式通夜開始(首相、両院議長、最高裁長官、各国駐日大使など)。一般国民の弔問受付。

3 逝去45日目(1989.2.24)。大喪儀(皇室祭祀)・大喪礼(国事行為)の挙行。
① 葬列。皇居から新宿御苑まで。【大喪の礼】。
② 斂葬の儀。斂(れん)は収斂の斂で「納める」の意味。【大喪の儀】(=本葬)。
・葬場殿の儀。新天皇の拝礼。「御誄(おんるい=弔辞)」の奏上。
・奏上が終わると、葬場から鳥居など宗教的要素を持つものを撤去する。
③ 大喪礼。【大喪の礼】(=告別式)。
・内閣官房長官の言上「大喪の礼、御式を挙行します」。
・天皇皇后の先導にて正午から1分間の黙祷。
・内閣総理大臣をはじめ三権の長、拝礼と弔辞。
・外国元首・弔問使節の拝礼。
・参列者の一斉拝礼。大喪礼終了。
④ 葬列。新宿御苑から武蔵陵墓地まで。【大喪の礼】
⑤ 陵葬の儀。埋葬(霊柩を陵に納める。注、今上天皇の場合は火葬、陵墓地内に専用施設
を設けて火葬に付した後に埋葬する。)【大喪の儀】

4 45日目、斂葬・陵葬当日。権殿(ごんでん)
① 今は亡き昭和天皇の霊代(れいだい、みたしろ)を、殯宮と同じ場所に設営する奉安宮
に祀り、権殿(仮に移し安置しておく所)とする。
② 権殿と陵では10日ごとのお祭り、50日祭、100日祭、1周年祭の儀がある。儀式は
まる1年続く。皇族は喪に服す。慶事・年中行事は取り止めになる。
③ 1周年祭の後、霊代を宮中三殿の一つ、皇霊殿にお移しする。
④ 今上天皇の「即位礼・大嘗祭」関連の儀式は、喪が明ける前、1990.1.23の「期日報告
の儀」から始まり、1年間にわたって関連する儀式行事が行なわれた。

以上にごくごく粗っぽく事柄の経過を見てきたわけですが、ほんとうに少ない、わずかこれだけの情報ではあっても——先代天皇が危篤状態に落ち入られた1988年12月から、逝去され、その後に殯(もがり)があって、大喪礼・大喪儀があって、服喪があって、即位礼・大嘗祭を終える1990年12月までの——この丸々2年というものが、どれだけ大変であったか、察するに余りあるものがあります。

このことについては今此処でどうしても言っておかねばならない、というのが、陛下の思いだったのではないでしょうか。この問題提起が直ちに実を結ばないにしても、です。

上記引用部分と一部重なりますが、陛下は次のように述べておられるのでした。
「(大量の行事が続くために)とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」と。
この問題意識から陛下は、暗に二つの提案を示唆しておられると思います。

一つは、土葬を廃止して火葬に切り換えるなど、できるだけ葬儀など儀式行事の簡素化、経費の削減を図ることです。しかし宮内庁は、たとえば「御葬儀のあり方について」(平成25年11月)のなかで示している基本的な考え方なんかを見ると、陛下の目指す方向とは真逆です。陛下の問題意識など、屁とも思っていません。愕然とします。
宮内庁が重視しているのは、たとえば、①御身位(身分と地位)にふさわしい御陵・御葬儀とする。 ②皇室の御葬儀の伝統的方式及び昭和天皇の大葬儀の先例を基本とする。 ③御火葬後も1年間、従来と同様の儀式を行う。等々です。
彼らが拠りどころとする法律は、「皇室服喪令」(明治42年)、「皇室葬儀礼」(大正15年)、
「新皇室典範」(昭和22年)などです。
考えてみれば、皇室の儀式行事は宮内庁の仕事場です。縄張りというか、テリトリーというか。仕事を増やそうと企むことはあっても、減らすことには抵抗があるのではないでしょうか。儀式行事の簡素化を実現するには、立ちはだかるこれら役所役人の壁を崩さなければならず、陛下としては苦戦を強いられる、そういう状況ではないかと案じられます。

いま一つは、すでに詳述してきたところですが、先代天皇の最期の日々(皇太子の天皇代行)→先代天皇逝去(まる2日間の天皇空位)→天皇践祚・朝見の儀(=略式天皇即位)
→略式天皇のもとでの儀式行事(もがり・葬儀・服喪)→即位礼・大嘗祭(正式天皇の正式即位)」というのが、従来の終身在位制度における、皇位継承時の、物事の流れです。
この、危うい綱わたりのような、皇位の継承にはそもそも無理があります。そしてこのような無理は、終身在位制を維持する限り、解決できない難題なのではないでしょうか。

それが、陛下の「お言葉」の趣旨だと思います。陛下は提案しておられます。「皇位継承」に関わる制度を、「終身在位制」から「生前譲位制」へと変革する必要がある、と。
今回は、陛下の「終身在位制」批判について考えました。
次回は、陛下の「皇位の生前譲位」論を考えたいと思います。

【注】殯(もがり)について(日本財団図書館『私はこう考える「天皇制について」』を参照しました)。
① 殯(もがり)は、日本の古代に普通に行なわれていた葬送のやり方。一定期間柩(ひつ
ぎ)を仮小屋(殯宮)に見たてて、そこに安置(仮に埋葬)する。そうしておいて、諸儀礼を尽くして霊魂を慰撫する。然る後に埋葬する。それが殯(もがり)である。
② とくに天皇家の場合、殯(もがり)は、死霊が祟らないようにするための「鎮魂の儀式」
だったのではないか。別言すれば、遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を見届け、もはや「荒ぶる魂」にならないことを確信できるまで、鎮魂するのが目的だったのではないか。