「天皇を読む」第9回


たけもとのぶひろ[第126回]
2017年4月13日

皇后陛下

皇后陛下

第五節 全身全霊の務めとは—他を祈り思い・責めを負う

 ヴァイニング夫人のことは、今上天皇の人生に決定的影響を与えた人物として、前回詳述しました。ただ、あまりにも有名な最初の出会い――学習院中等科一年生の秋――のことは、あえて触れませんでした。今回は、そのことから始めたいと思います。
 夫人は少年に初めて会ったとき、「将来、何になりたいですか?」と問うたらしいのです。少年は I shall be the Emperor. と答えました。

 彼女は百も承知のことをあえて尋ねて、少年が何と答えるか知りたかったのだろうと思います。明仁皇太子の答えは、あれこれしたところがなく、きっぱりしていました。「天皇になります」と。この答えを聞いて彼女は、「よし」と心に期するところがあったのではないでしょうか。「少年は天皇になると言う。そのお手伝いをして差し上げなくては」と。

 明仁少年はというと、学習院初等科に上がった頃から、自分がこの国に二つとない特別の地位につかねばならない定めにあることを薄々感じて、そのことを “天から授かった運命”として受けとめていたフシがあります。
 たとえば、初等科4年生の正月(1944年1月)、彼は「新年」という題の作文を書いていますが、その最後のところを、「私はべんきょうも運動もよくして大きくなったらにほんをせおって立つ人にならなければなりません」と結んでいます。「せおって立つ」と。
 また、初等科6年生、1946年、戦後初めての正月の書き初めを墨書するにあたって、彼は「平和国家建設」という標語を選んでいます。自分は天皇となって平和国家日本を建設しなければならないのだ、と決意を新たにしていたに違いありません。

 そういう明仁皇太子であったからこそ、ヴァイニング夫人の問いかけに対して、なんら躊躇することなく、ごくごく自然に、天皇になります、と答えることができたのでありましょう。運命の受容という一大事を前にしておりながら、その、あまりもの自然さ、潔さに、夫人は心を動かされたのではないでしょうか。

 少年の当時はいまだ決意にとどまっていた皇太子でしたが、後に天皇となってその道を歩むようになってからは、なおいっそう、天皇としての道を極めようと精進し、揺らぐことがなかった、とされています。このことは「米国ご訪問事前招待記者からの質問に対する文書回答」(平成6年6月4日)の次の「お言葉」からもうかがうことができます。

 「ヴァイニング夫人の質問に対して、I shall be the Emperor. と答えました。それ以外の道は考えられなかったからです。
日本国憲法には、皇位は世襲のものであり、また、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると定められています。私は、この運命を受け入れ、象徴としての望ましい在り方を常に求めていくよう努めています。したがって、皇位以外の人生や皇位にあっては許されない自由は望んでいません。」

 今上天皇が事あるごとに示されるのは、「象徴としての望ましい在り方」を求めて努力している、との立場です。しかし、憲法には「象徴」であることが、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と述べてあるだけで、それの定義までは書いてありません。
 もっとも、今上天皇が象徴天皇の一代目ではなくて、昭和天皇も戦後は日本国憲法の下で象徴天皇を務められたのでしたが、昭和天皇は実際には、戦前の・帝国憲法下の・神聖天皇の感覚もありで、天皇をやっておられたのではないでしょうか、そんな気がします。
 したがって今上天皇としては、象徴天皇の「象徴」がいったい何を意味するのか、その定義もなければ、前例もないに等しい状況のなかで、その地位に就かざるをえなかったわけです。「象徴としての望ましい在り方」など皆目わからないのですから、それを「常に求めていくように努める」ことが、実は今上天皇の最大の務めだったのではないでしょうか。

 ちなみに、明治の元勲・元老たちが発明した大日本帝国の「神聖天皇」は、最高の価値の体現者として君臨し、唯一絶対の権力者として統治します。これまで広くあまねく知られてきた、いわゆる天皇制というときの天皇です。しかし、象徴天皇制下の天皇は、上から垂直的に君臨し統治するようなことはしません。

 象徴天皇の務めは、君臨・統治ではなくて、象徴・統合です。
 まず最初にあるのは、天皇ではなくて国民です。天皇はあくまでも受身です。
 国民皆の声に耳を傾け、喜びも悲しみも共にする。共感共苦する。受け容れて共にする。
 神ではなくて人間であるからこそお互いの中にあることができる。共にあることができるからこそ成立する、国民と天皇の相互関係。
 このようにお互いの間を信頼の気持ちでもってつなぐプロセスがあってはじめて、象徴ということが起こりうるのではないでしょうか。

 その象徴天皇という天皇の在り方を、わが国民は、その総意によって支持しています。これは、いったい、どういう事情に由るのでしょうか。
 国民の側では、いったい何が起っているのでしょう。天皇に対する尊敬と敬愛の念が形成され、継承され、蓄積されているのだと思います。
 では、そのとき天皇の中では、何が為されているのでしょうか。「国民皆」の「身の上」を思って「祈る」「祈り続ける」――これ以外ではないと思います。なお「身の上」とは、「その人自身の過去から現在に至った境遇、また、それから予想される今後の運命」を意味する、と『新明解』にあります。
 象徴天皇の務めは、日本国と日本国民の身の上を思って祈る、という、この「祈り」という行為に尽きる、とさえ言うことができるのではないでしょうか。

 天皇に対する国民の尊敬と敬愛の感情、そして天皇の国民への思いと祈り。
 それらの営みのなかからある種のまとまりみたいなものが産まれてくるのではないか、国としてのまとまり・国民としてのまとまり、みたいなものが、備わってくるのではないか――そういう考え方だと思うのです。
 天皇が働きかけてまとめるのではありません。善きにつけ悪しきにつけ、嬉しいことも悲しいことも、すべてを受けとめて「国民と共にする」なかで、「国民の総意」というまとまり、「象徴天皇」というまとまりが生まれ、これら二つがいっしょに「日本国憲法」という器に入って、互いにその所を得ることができている――そういう図柄なのではないでしょうか。陛下ご自身の言葉があります。「国と国民の姿を知り、国民と気持ちを分かち合うことは、象徴の立場から大切なことと考えています」(平成14年6月20日、外国訪問前記者会見)と。

 先に、天皇の「祈り」ということを書きました。この言葉は聞きようによっては、うわべを美しく飾っているだけで実のところはよくわからない、綺麗事ではないかと、そういう印象を受けかねません。しかし、天皇の祈りの実相、真実の姿は、そんなものではないことを、皇后が語っておられます。「平成7年お誕生日記者会見」(文書回答)において、「世の中で皇室が存在する意義や役割」を尋ねられたときの回答がそれです。

 「人の一生と同じく、国の歴史にも喜びの時、苦しみの時があり、そのいずれの時にも国民とともにあることが、陛下の御旨(みむね)であると思います。陛下が、こうした起伏のある国の過去と現在をお身に負われ、象徴としての日々を生きていらっしゃること、その日々の中で、絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するように祈り続けていらっしゃることが、皇室存続の意義、役割を示しているのではないかと考えます。」

 「国民の叡智がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するように祈り続ける」とある、このくだりは、心に沁み入り、感じるところがありました。
 「よき判断を下し」「よきことを志向する」ことができるのは、あくまでも国民であって、天皇ではありません。天皇にできることは、ただひとつ、わが国民の胸中に、「よき判断を下す」叡智が、そして「よきことを志向する」意志が、宿りますように、と祈ることのみです。判断も志向も、天皇が自らに発し自らが為すとなると、なんらかの政治性を帯びざるをえず、控えなければなりません。それこそが、象徴天皇の象徴性の因って来たる所以なのだと思います。

 国民の苦しみに心を寄せ、国民の幸せを願って心を寄せる――どこまでも先ず最初にあるのは国民であって、その国民の身の上を思って「心を寄せる」のが天皇だということです。
 今上天皇はすでに皇太子時代の「39歳のお誕生日記者会見」(昭和47年12月19日)のなかで、同じ趣旨のことを次のように語っておられます。
 「(とくに若い世代に対して)こちらから積極的に何かを求めるべきではない。皇室は常に伝統的に受動的なものであり、憲法にある通り、「国民の総意に基づく」という点がもっとも大事だと思います」と。
 明治の大日本帝国憲法下の神聖天皇と比べたとき、日本国憲法下の象徴天皇、とりわけ今上天皇の在り方が、まったくその本質を異にしていることは、誰の目にも明らかではないでしょうか。

 象徴天皇はこのように受動的でなければなりません。しかし、だからと言って、自分からは何もしなくてよい、などと言っているわけではありません。それどころか、天皇皇后両陛下は、社会で難儀な思いをしている人々に格別の関心を寄せてこられました。積極的に問題を提起し行政的に解決することは、天皇皇后及び皇室の守備範囲ではないと言っているだけであって、目の前に問題が生起しているのに、その問題を受けとめないでよい、などということがあってはなりません。それどころか、「困難な状況にある人々に心を寄せることは、私どもの大切な務めであると思います」というのが、両陛下の立場です。

 この点について、「天皇皇后両陛下の記者会見――天皇陛下ご即位十年に際し」(平成11年)の場で、関連する質問がありました。両陛下がそれぞれお答えになったのですが、ここでは、皇后陛下の回答から要点のみを紹介します。

①「皇室の私どもには、行政に求められるものに比べ、より精神的な支援としての献身が求められているように感じます。」
②「(私どもにはいろんな制約が伴いますが)その制約の中で、少しでも社会の諸問題への理解を深め、大切なことを継続的に見守り、心を寄せていかなければならないのではないかと考えております。」
③「さまざまな事柄に関し、携わる人々とともに考え、よい方向を求めていくとともに、私もすべてがあるべき姿にあるよう祈りつつ、自分の分を果たしていきたいと考えています。」

 天皇も皇后も、両陛下はよく承知しておられます。世の中は、物心ともに恵まれた幸せな人々だけではない、身も心も追いつめられた状況にあって難儀な日々を余儀なくされている人々のほうが、かえって多いのではないか、ということを。孤独老人・寝たきり老人あり、DV崩壊家庭・片親貧困家庭あり、身体障害者・精神障害者あり、地震・津波・洪水被災者あり、原発避難民あり、まだまだあります、帰るべき家があるのに帰れない人、いや、そもそも帰るところなどどこにもない人、それどころか、何十日も何か月も人と話したことがない、自分の声すら聞いたことがない人………。

 しかも、今はなんとかなっている人でも、明日の自分はわからない、とおびえている人がいっぱいいるのではないか。今日まではどうにか凌いできたものの、明日は我が身かもしれない、と。結局自分は “今だけ・カネだけ・自分だけ” の自分だったのだな、と思い知らされたとき、人はどのようにして自分を回復すればよいのでしょうか。

 天皇皇后両陛下は、しかし、自らに言い聞かせておられます。これらの人々とて、誰一人置き去りにしてよい人はいないのだ、と。もちろん、お二人にできることには限りがあるけれども、確かにあります。そしてそれは、すでに紹介した皇后の言葉に尽くされていると思います。それを、ぼくなりの解釈もまじえて書き直すと、こうなります。
 “人々の心の支えとなるように、自分の事は二の次にして、尽くしていかなければならないと思う” ”諸問題の大切な点を深いところで十分に理解し、問題を途中で投げ出さずに、解決するまでずっと見守り、心を寄せていかねばならないと思う” ”人々とともによい方向を求め、すべてがあるべき姿であるようにと祈る、祈り続ける、祈りの行動を身をもって続ける、それが皇室の在り方だと思う” 等々です。

 そして「祈る」とは――これもすでに示唆したところだと思うのですが――「他を信じる」ことに通じており、その意味で「民主主義の根底」でさえあらねばならない、ということではないでしょうか。両陛下は、象徴天皇の在り方について、言わば「祈りの民主主義」とでもいうべきものを考えておられるのではないか、と思うのです。

 では、「祈りの民主主義」でもって社会をやっていくとしたら、どういう姿になるのでしょうか。それについて美智子皇后は別のところで、「複雑さに耐えて生きる」社会、と定義しておられます。二つの発言を紹介します。

①「現在の問題でも、日本の過去に関する問題でも、簡単に結論づけることができず、さまざまな見地からの考察と、広い分野の人々による討論が必要とされる問題が数多くあります。複雑な問題を直ちに結論に導けない時、その複雑さに耐え、問題を担い続けていく忍耐と持久力を持つ社会であってほしいと願っています。」(平成9年、お誕生日記者会見)
②「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人の関係においても。国と国との関係においても。」「そして、子供達が人生の複雑さに耐え、それぞれに与えられた人生を受け入れて生き、やがて一人一人、私共全てのふるさとであるこの地球で、平和の道具となっていくために。」(平成10年、第26回国際児童図書評議会ニューデリー大会 基調講演、「子供の本を通しての平和〜子供時代の読書の思い出」)

 社会の問題・人間の問題はつねに複雑です。当面する問いは一つであっても、その中に幾つもの問いを含んでいますし、それとは別の幾つもの問いにつながっています。となると、問いというものはたとえ一つであっても、それにたいする対し方の如何によって問い自体が違ったものになるわけですから、正しい答えが一つある、という暗黙の前提は崩れます。
 一つの問いに対して一つの正しい答えがあるわけではないらしい。正しい答えは一つではなくて、ほかにもあるのかもしれず、あるいはそもそも答えがないのかもしれないし、問い自体が間違っているのかもしれません。そのときは問いの立て方を変えて、問い直す必要があります。社会や人間に関わる問いというものは、その多くがこのように複雑ですから、解決するのに手数がかかって厄介です。時間もかかるし、寛容さが要求されます。それに耐えて、辛抱して、問い続ける――そういう自他の関係でありたい、人と人・国と国はそういう関係でありたい、それが民主主義というものではないか、と、皇后は祈るような気持ちで語っておられるのでしょう。

 今上天皇ご自身も、「戦後50年を記念する集い」(平成7年12月18日、国立劇場)において、次のように語っておられます。
 「日本国民が国内にあっても世界の中にあっても、常に他と共存する精神を失うことなく、慎みと品位ある国民性を培っていくことを、心から念願しております」と。
 陛下はこれぞという機会をとらえて、このような念願を表明されることがしばしばあります。そのこと自体、「日本国民が国内にあっても世界の中にあっても、常に他と共存する精神」において欠けるところがいかに大きいか、自分と違う他者との共存がいかに不得手か、ということを、陛下ご自身が自覚しておられることを物語っていると思うのです。

 ひと頃、「決められない政治」を非難して「決められる政治」の正義が声高に叫ばれました。民主主義は、問題の解決もさることながら、解決のプロセスこそが肝腎ですから、手間暇がかかるし、効率が悪いし、なかなか決められません。だから、皇后は仰っているのだと思います。そこを「耐えて、問題を担い続けていく忍耐と持久力を持つ社会であって欲しい」と。しかし、その我慢ができない。政治に効率を求める。「決められる政治」を求める。その結果が、安倍一強・独裁政治の現実なのではないでしょうか。

 少し脱線しますが、もともとぼくら国は「和ヲ以テ尊シトス」のお国柄ですから、同調圧力に弱いのではないでしょうか。和シテ同ゼズなどというのは口先だけです。身体は正直なもので、数の多い方へ、力の強い方へと動いてしまいます。
“ぼくの常識“ によると、権力の言うことを聞くのは、権力に屈することを意味し、ワルイことなのですが、ぼくとは反対の考え方をする人が少なくないようです。人々はこう考えます。権力の言うことを聞くのは当然であり、権力に従うことは正しい、と。まともな人間は空気を読む、空気を読めない人間とはやっていけない、と。

 「一億一心」「挙国一致」が得意です。「一」が大好きなのです。違和感なくいつでも「一」になることができます。何かと言うと「オール・ジャパン」とか「侍ニッポン」とか、と唱えて一体化したがる。「異物」「他者」を認めたがらない。得意なのは「排他」であって、「寛容」は不得手です。これはわが民族の欠点です。というより、病気です。病気も病気、なかなか治らない「宿痾」と言わざるをえない病状なのかも知れません。

 今上天皇は、皇太子時代から、このことを肝に銘じておられるのでしょう、「50歳のお誕生日記者会見」(1983年12月20日)のなかに、次のような言葉があります。
 「好きな言葉に「忠恕」があります。論語の一節に「夫子の道は忠恕のみ」とあります。自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。この精神は一人一人にとって非常に大切であり、さらに日本国にとっても忠恕の生き方が大切ではないかと感じています。」
 他者のことを自分自身のことのように、他国のことを自国同然に、思いやる精神――これこそが、民主主義であり、平和主義であり、日本国憲法なのだ、と今上天皇は皇太子の頃から確信しておられたのだと察せられます。

 この確信から見るとき、自分がその象徴として身に背負っている国と国民の現実が、あるべき姿から、どれだけかけ離れたものであるかという、そのことを身に沁みて自覚しておられたからこそ、陛下は「祈るしかない祈り」をこの国とこの国の国民に捧げて来られたのではないでしょうか。今上天皇の祈りには、皇太子の時代からして、余人には測り知れない、深甚なる思いが込められてきたにちがいないと思うのです。

 今、余人には測り知れない、と書きましたが、例外があります。美智子皇后の存在です。
 結婚する前から皇后陛下は、明仁皇太子のなかに、「国家に責任を持ち、その責任を背負っていこうとしている若い青年の存在」を見ておられたと言われています。
 そして、こういう感じ方そのものの因って来たる源は、A級戦犯に判決を言い渡すラジオ放送にあった、と皇后自身が語っておられます。「皇后陛下80歳の誕生日に際し」(文書回答平成26年)の当該部分を以下に引用します。

 「私は、今も終戦後のある日、ラジオを通し、A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います。」

 ここに書いてあるのは、「国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということ」を知り、そのことに対して「身の震うような怖れ」を抱いた、という少女の頃の皇后の体験です。この時に衝撃を受けた少女の目で皇后は、明仁皇太子を見、その時の気持ちを持したまま今上天皇に接して来られたのではないでしょうか。
 皇后はそのように接してこられたからこそ、たとえば平成10年に、次のような「御歌」を詠んでおられるのではないでしょうか。

 「サッカー・ワールド・カップ」という御題で。
   ゴール守るただ一人なる任(にん)にして青年は目を見開きて立つ
 「うららか」という御題で。
   ことなべて御身ひとつに負ひ給ひうらら陽(び)のなか何思(なにおぼす)すらむ

 ここまで書いてきてようやく、陛下のお気持ちが、たとえその万分の一にすぎないにしても、お察しできるような気がしてきました。二つあります。
 一つは、平成28年(82歳)の「象徴としてのお務めについてのお言葉」(第五節)にある次のくだりです。「既に80歳を越え、幸い健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。」
 今はしみじみと実感することができます。ああ、文字通り「全身全霊をもって」、この悲しい国と不出来な国民を身に負い、耐え、祈って来てくださったのだな、と。

 いま一つは、力尽きるまで祈り続けてくださっている今上天皇、その天皇を影になり日向になって支え続けてくださっている皇后陛下の存在、ということです。
 この号の最後に、「天皇陛下80歳のお誕生日記者会見」(平成25年12月18日)から、皇后陛下に対する今上天皇の感謝の言葉を引いておきます。美辞麗句なしの簡素な言葉であることが、かえって思いの深さを伝えています。

 「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるものですが、私は結婚により、私が大切にしたいと思うものを共に大切に思ってくれる伴侶をえました。皇后が常に私の立場を尊重しつつ寄り添ってくれたことに安らぎを覚え、これまで天皇の役割を果たそうと努力できたことを幸せだったと思っています。」