偏狭な「敵/味方」思考で退化が進み、棲息域が狭まる反ポモ人たち


仲正昌樹[第43回]
2017年4月6日

 前々回前回と、山川賢一やたかはし@調布圧倒的成長部@tatarou1986といった「反ポモ人間」たちの二項対立思考、つまり哲学や文学、科学基礎論等には、ポモ/反ポモの二つの立場しかないかのような、偏狭な態度と思い込みについて論じた。前回の記事を書いた後、ネット上でそれなりに反響があった。それを見た山川の“信者”らしい人物数名が、何が問題なのか訳が分かっていないくせに、ツイッター上で私に難癖をつけるコメントをした。山川自身のそれと同様に、本当に取るに足りない、悪意とバカの塊のようなコメントだが、私がこの『極北』の連載でこれまで何回か話題にした「反ポモ」のバカ騒ぎの典型のような面白い反応でもあるので、少しコメントしておこう。
まず、☆‏ @void3107 という人物の以下の書き込みについて考えてみよう。

ふと、しんかいさんの2chスレを覗くと次々に仲正昌樹を賞揚し、しんかいさんを罵倒する書き込みがw 別にしんかいさんの肩を持つ気はないが、短時間で似たような文体で多数書き込みがwww あそこはID非表示だったけ? …まさか、まさか、まさか、まさきかね?

 どこから、こういう下劣な発想が出てくるのか? 前後のツイートを見る限り、この人物はそもそも、山川が私に対して言われもない誹謗中傷をしてきたのが事の発端であることさえ知らず、2ちゃんねるの山川関連のスレッドを見て、何となく山川批判の書き込みが多かったので、「山川様を批判する人間がこんなに多いはずはない」、という思い込みとから妄想をしてしまって、私を誹謗したのだろう。この人物はその後、2ちゃんねるでその思い込みを批判されて、多少は反省したようで、「仲正さんにあらぬ疑いをかけて悪かった」、と一応の詫びらしいことをツブヤいていたが、ちゃんとした謝罪とは言えない――自分の本名を名乗ったうえで、きちんとした言葉で謝るべきである。ただ私としては、別に誤らなくていいから、どうしてこういう「敵/味方」的な短絡的な発想で、すぐに相手を攻撃したくなるのか自己分析してもらいたい。
 もっとひどいのが、自分では鋭い論客のつもりらしい「赤目無冠」という間抜けである。

① 仲正氏によると、ポストモダンは人文系のスタイルや傾向にすぎないから、一部が非科学的で間違っていても、全否定されることはないらしい。 これ自体はごもっともだが、だとすると、理系に比べて体系化が進んでいないダメな学問とも言えるよね(苦笑)

② 本人はうまく言い逃れたつもりなのだろうが、この発言で「何でそんなメチャクチャなファッション感覚のゴミみたいな学問なのに、国の税金をもらえるの?」という別の問題が生じてきそうだな(笑)

 前回私がタイトルにした「ポストモダンをめぐる大陰謀論」をまさに地で行くバカさ加減である。こいつは森友学園問題で政府を追及している野党議員とか被告人を尋問している検察官にでもなったつもりなのか。大学にまともに通ったこともないくせにしったかぶりをしたがる、学習能力皆無のニートが何を疑問に思おうと知ったことではない。これは既にこの『極北』の連載の二十二~二十四回に書いたことであり、ちょっとクリックするだけで読める文章を読もうともしない赤目のような念入りのバカには言っても仕方のないことではあるが、真面目な読者向きにもう一度簡単に説明しておこう。
 ポストモダン系と呼ばれている学者で、大学の専任教員になっている人は、それぞれ哲学、倫理学、社会思想史、社会学、経済史・経済人類学、美学、フランス文学、英文学、ドイツ文学などを専攻し、その分野の中で更に、フランス文学であれば、ボードレール研究、マラルメ研究、プルースト研究、シュルレアリスム研究などを専門にし、それぞれの領域で査読付き論文を書いたり、学会発表したりしている。「ポストモダン」とか「ニューアカデミズム」とかいうのは、そうした領域を横断する傾向、あるいは、メディアでの紹介のされ方にすぎない。正規の研究機関や学会・研究会に所属している人にとっては、「ポモ」とか「ニューアカ」といった名称が叩かれようと、ほめたたえられようと、研究・教育を進めるうえで大した問題ではない。「ポモ学者」呼ばわりされて罵倒されたら、不快なだけの話である。
 「ポモ」に対する攻撃を深刻に受け止める必要があるとしたら、自分の専門領域でちゃんとした仕事ができないで挫折してしまったものの、学者・知識人になることへの未練が捨てきれず、思想系っぽい媒体に「ポストモダン〇〇」というようなタイトル文章を書いて細々と命脈を保っているライターたちだろう。文系の大学院生崩れには、「僕はポストモダン系の論文を書いたせいで、なかなか認められない」という下手な言い訳をする輩がいる。ただ、そういう出来損ないの見栄っ張りは、理系も含めてあらゆる学問分野に存在する。違いがあるとすれば、哲学とか仏文学とか分野をはっきり言うと、その分野の学者として就職できていないことが際立つのに対し、「ポストモダン〇〇研究」と言うと、実体が曖昧になるので、素人に対して誤魔化しやすいということがあるかもしれない。しかし、ちゃんと大学に所属している、各専門分野の研究者から見れば、「ポストモダン〇〇」という形容句とは関係なく、その人がまともな学者かどうかは一目瞭然であることが多い。しかし、山川とか赤目のような学者コンプレックスの強い人間には、「ポストモダン〇〇」と名乗ることで、のさばっている人間がたくさんいるかのように思えてしまうのだろう。自らも院生崩れである山川のような人たちは、“自分と同じ程度の人間”が許せないのかもしれない。
 しかし、そうした「ポモ」に対する怨念に凝り固まっていると、他のことが目に入らなくなる。文学作品をポモ系作品/反ポモ系作品に強引に区分して、文学的センスのかけらもない“批評”をしたり、ポモ系とレッテル貼りした哲学的テクストに対して、ひどい誤読に基づく中傷罵倒をして、自分の方が恥をかくといったことになってしまう。
 前回も触れたように、山川には、伊藤計劃の『虐殺器官』、ウエルベックの『素粒子』とか、デヴィッド・ロッジの『考える…』といった小説を、ポモ支持か反ポモかという観点からのみ“評価”しようとする傾向がある。『素粒子』にポストモダン系の思想家とされている人たちの理論的成果を否定するようなコメントがちょっと出てきただけで、「ポモがディスられている!」と言って喜ぶ。小説全体が「ポモ」をディスることを主題としているかのように――その可能性はゼロではないが、何故そう読めるのか論証しなかったら、高校生以下の幼稚な読み方である。また、[ポモ=相対主義]という雑な覚え方をしているせいで、『虐殺器官』の登場人物が、人間の認識は各人の使用する言語(の世界像)によって変わる、相対的なものだとする言語学上の説を批判している場面を、ポモ批判だと即断してしまう。山川の基準だと、小説の中の相対主義的な価値観を持っている登場人物は全て「ポモ」、それを否定する人物は全て「反ポモ」ということになりそうだ。こんなシンプルな対立構造を見つけることが、批評になると思っているのだろうか。
 因みに、山川はデヴィッド・ロッジの『考える…』について以下のような主旨が不鮮明なツイートをしている。

① あー!!デヴィッド・ロッジの『考える……』に出てくるポモ学者のロビン・ペンローズって、同じ著者の『素敵な仕事』(未読)に出てくるキャラか!デネットが『解明される意識』で、このロビンってキャラの話だとデリダっておれと似たような主張してるらしいな?と言及してたあいつだ!

② デネットはロッジの小説『素敵な仕事』を読んで、これに登場するロビンってポモ学者の話だと、デリダの主張って微妙におれに似てるの?と皮肉なのかガチなのかよくわからない言及をした。

③ 『解明される意識』を読んだロッジは小説『考える…』にロビンを再登場させる。同作のヒロイン、ヘレンは認知科学者ラルフと不倫の恋をしているが、ロビンの話を聞き、『私の愛人の話と似てる??』と思い、ラルフにロビンのことをいう。ラルフは『ポモとか勘弁して!あいつら科学の敵なんだよ!」

④ つまりあのシーンはデネットへの目配せみたいなもんだったのか。『解明される意識』は『考える…』の参考文献に挙がっているので、ロッジがデネットを読んでいるのは確実。しかしせっかく気づいたのに、おれにとってはどうでもいい仕掛けだったな……

 恐らく、『素敵な仕事』と『考える…』を、デネットの『解明される意識』と関連付けて、反ポモの立場を表明するマニフェスト的な小説として特徴付けようとしたものの、うまく利用できそうにないことにぼんやりと気付いてしまって、放棄してしまったということだろう。これでは、まともな文芸批評などできないだろう。山川のツイートからだけでは、何が問題になっているのか分からないので、多少解説的なことを述べておこう。
 ロッジ(一九三五- )は英国の、英文学者でもある小説家で、自分の学者としての経験をベースにした、大学やアカデミズムを素材にした小説で知られる。『素敵な仕事 Nice Work』(一九八八)というのは、キャンパス三部作と呼ばれている小説群の三つ目で、フェミニストの文学研究者ロビン・ペンローズと、企業の経営者ヴィク・ウィルコックスを主人公とし、二人の関係性を通して、お互いが抱えている問題が明らかになっていくストーリー展開である。ロビンは、デリダの影響を受けて、「自己」という実体は存在せず、「私」とは私の語る言葉から成る一連の「テクスト」にすぎない、言い換えれば、「テクストの外部に存在するものはない」、と主張する、ポストモダン系の文学理論家という設定である。ロッジは、このポストモダン系フェミニストの理論と生き方を、かなり風刺的に誇張して描いている。小説なので、ある意味、当然のことである――ポストモダン系フェミニストが風刺的に描かれているからといって、作者であるロッジ自身がそういう人物をディスっていると即断するのは、文学作品の読み方を知らない人間である。

『解明される意識』(1997年、青土社)

『解明される意識』(1997年、青土社)

 このロビンというキャラについて、アメリカの哲学者で「心の哲学」と呼ばれる領域で仕事をしているダニエル・デネット(一九四二- )が、その主要著作『解明される意識』(一九九二)で言及している。デネットは、進化生物学や認知科学等との境界領域で仕事をしている、“理系的”な思考の人なので、ソーカルやブリクモンの主張を――かなり単純化して――真に受けている反ポモ人間たちからしてみれば、認知科学の専門的な見地から反ポモの議論を展開する頼もしい味方のように見えるかもしれない。山川は一瞬そう思ってしまったのかもしれない。しかし、そのデネットは、「自己(意識)」を実体的なものとして措定する傾向のある近代のデカルト主義的な哲学を批判し、意識を脳の中の複数の並列するプロセスとして把握すべきという立場を取っている。その点で、デカルトやロックの影響を受けた正統派の哲学者よりも、ロビンや彼女の背後にいるデリダに近いとも言える。デネットは、そのことに言及しているわけである。両極端に見える思想体系の間に、思いがけない共通点があるというのは、哲学史においてたびたび見られる興味深い現象である。山川が「反ポモ」のような不毛なことにうつつを抜かさず、ちゃんとした哲学的批評をやるための意志と素養を備えていたならば、もっとましなことが言えたかもしれないが、彼にとって“思想”とは、「ポモ/反ポモ」のいずれかでしかないのだろう。
 『考える…』(二〇〇一)は、先の三部作に続くキャンパス小説で、夫を失って意気阻喪している女性作家ヘレン・リードと、認知科学センターの教授の――理論的にはデネットに近いと思われる――ラルフ・メッセンジャーを主人公として展開する。そこに、ロビンがゲスト出演する。彼女は、ラルフが務めている大学の英文科で、〈subject〉というタイトルで講演をする。ヘレンはその講演を聴講し、メッセンジャーにその話をするが、メッセンジャーは、ロビンのようなポストモダニストの議論に対してかなり否定的な見解を述べる――山川は、作者がデネットを援用して、ポストモダニストをディスっていると思って大喜びしたのだろう。しかし、ヘレンの方は、ロビンの講演内容にかなり共感し、メッセンジャーの誤解を正そうとする。山川的な見方をすれば、ヘレンとラルフが反ポモ/ポモの闘いを繰り広げていることになってしまいそうだが、それはあまりにも子供じみた二元論である。
 ラルフのモデルとも言うべきデネットが、デリダと自分の間の近さを示唆していたという間テクスト的な事実や、『考える…』自体が、英文学者出身の作者によるフィクションであることを踏まえると、事態は結構複雑である。この複雑な関係を読み解くのが、批評や文学研究である。そういう複雑さが面倒で、「ポモはディスられているのかディスられていないか!」という、単純な二者択一の解答にしか関心がないようでは、批評や文学研究はやっていけない。複雑な関係を読み解いていくことに関心がない人間が文学専攻の院生になるのは、明らかに進路選択の誤りである。ロラン・バルトを研究テーマにしてしまうなどというのはミスマッチの極みである。
ところで山川はこれだけで懲りず、ラカン派の精神分析の理論家であるミレールとその弟子に当たるスラヴォイ・ジジェクの「人間」観について、いいがかりとしか思えないようなツイートをしている。

① ラカン派のジャック=アラン・ミレールがしたすごい馬鹿な発言を、ジジェクがほめたたえてる記事の翻訳がウェブで読めるという情報をもらったのでシェアしときます。ブランクスレート派のアホさがわかるので。

② けものフレンズ派ラカニアン五歳さんの感想はまだなのか。
我々の側は「すごーい!!ミレールとジジェクらラカン派の見解によれば、
動物の脳をレーザーで破壊すると本能から解放され人間的になるんだね!!これがフレンズ化の原理なのかなあ??」と応戦する準備はすでに万端なのだぞ。

 メディアミックス作品「けものフレンズ」のファンでもあるラカン派のツイッタラーと、山川とのやりとりが前提になっているので、脈絡が分かりにくくなっているが、要は、「動物の脳をレーザーで破壊すると本能から解放され人間的になる」とミレールやジジェクが主張していると、山川が思い込み、その思い込みに基づいて、ラカン派の精神分析≒ブランクスレート派をディスっているわけである。山川の言っている「ブランクスレート派」という概念がかなりあやふやなものであることは前回論じたので、ここでは繰り返さない。山川がやり玉に挙げているジジェクの議論は、〈Repeating Lenin〉という論文の一節(https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/ot/zizek1.htm)で展開されている。日本語訳というのは、以下のHPに掲載されているものだろう。http://d.hatena.ne.jp/pilate/20140723/1406103047
該当箇所の原文は以下の通りである。

It is only now, however, that the true experiment begins: the scientists performed a surgical operation on the rat, messing about with its brain, doing things to it with laser beams about which, as Miller put it delicately, it is better to know nothing. So what happened when the operated rat was again let loose in the labyrinth, the one in which the “true” object is inaccessible? The rat insisted: it never became fully reconciled with the loss of the “true” object and resigned itself to one of the inferior substitutes, but repeatedly returned to it, attempted to reach it. In short, the rat in a sense was humanized; it assumed the tragic “human” relationship towards the unattainable absolute object which, on account of its very inaccessibility, forever captivates our desire. On the other hand, it is this very “conservative” fixation that pushes man to continuing renovation, since he never can fully integrate this excess into his life process. So we can see why did Freud use the term Todestrieb: the lesson of psychoanalysis is that humans are not simply alive; on the top of it, they are possessed by a strange drive to enjoy life in excess of the ordinary run of things — and “death” stands simply and precisely for the dimension beyond ordinary biological life.

 ポイントになるのは、〈humanized〉とか〈human〉といった言葉だが、前後を見れば〈humanized〉には〈in a sense〉が付いており、〈human〉には括弧(“”)が付いている。精神分析の知識がなくても、常識的な英語力か国語力があれば、ラットの身体にSF的な変化が起こって、人間への進化の第一歩を踏み出した、というような話ではないことは分かるはずだ。ラカン派精神分析あるいは、それを乗り越えることを目指したドゥルーズ/ガタリの分裂分析の言説では、客観的記述なのか比喩なのか、何か別の文脈を寓意的あるいはアイロニカルに示しているのか、専門家にも分かりにくい箇所が多々あるが、この箇所は比喩であることが明白だ。ラカン派精神分析の固有の言葉遣いに詳しくない人でも、フロイトの「欲動」論に関する基本的知識さえあれば、このくだりでジジェクが言わんとしていることは極めて明瞭である。SF・ファンタジー的な話ではない。議論の前提になっているフロイトの「欲動」論そのものがおかしいとか、どうやってそれを証明するのかという批判であれば、意味があるが、邦訳サイトの「ラットは人間になったのだ」、という表現を見つけて、有頂天になるのは、中学生並みの誤読である。
 山川は、ポモの文章は比喩表現が多くて分かりにくいとしょっちゅうツブヤいているが、どうして自分の都合いい所だけは、文字通りの意味にとってしまうのだろう?“ポモ”に対する憎しみと、基礎的国語力の欠如の合体技としか思えない。ただ、この手の早合点は、山川たちの教祖であるソーカルやブリクモンにも見られる。『「知」の欺瞞』の「ドゥルーズとガタリ」の章で、彼らは『哲学とは何か?』(一九九一)の一つの章(第五章「ファンクティヴと概念」)に見られる、ドゥルーズ/ガタリの数学概念の誤用・濫用を指摘している。しかし、この章でドゥルーズ/ガタリが試みているのは、「概念」とはそもそも何か、「概念」を使用するというのはどういうことかを、数学における関数の操作との対比で明らかにすることであって、数学の基礎理論によって自説を正当化することではない。ドゥルーズたちは、ライプニッツなどの哲学者でもある過去の数学者が「無限」をどう扱っていたかといった問題を論じているが、ソーカルたちはその理解の仕方が現代数学の基本を踏まえていないという主旨の“批判”をする。全くかみ合っていない。ソーカルたちには、数学史上の諸概念や方法論を哲学的に分析するということの意味が分かっていないか、少なくとも、その意義を認めようとしていないように見える。
 ドゥルーズ/ガタリがどういうレベルの議論をしようとしているのか大よそ把握したうえで、現代数学や物理学に関連した記述の不正確さを指摘し、正そうとするのであれば、生産的な議論になり得たかもしれないが、ドゥルーズ/ガタリがインチキ数学を基にした科学基礎理論を展開しているという思い込みで“全否定”しているので、見当外れな議論になっている。確かにドゥルーズたちの言わんとしていることを正確に把握するには、初期のフッサールの問題提起と、それに対するドゥルーズたちの批判的応答、ニーチェの「力」の概念、ベルクソンの「純粋持続」論などを踏まえておく必要があるのでなかなか大変だか、数学概念らしきものに言及している以上、専門家である自分たちに理解できない使い方をするのはインチキだと即断し、相手をバカにするのは、ただの傲慢である。ソーカルとブリクモンは、『哲学とは何か?』(の一部)でのドゥルーズ/ガタリの“科学哲学”が、ドゥルーズの『差異と反復』(一九六八)でのそれをリサイクルしたものだと断じているが、これはソーカルたちが『差異と反復』を読んでいないか、何が書かれているかさえ理解していない証拠である――無論、山川のような日本の反ポモ廃人たちの知ったかぶりに比べると遥かにましだが。
 ここでもう一度、「ポモ」を学派とか学閥のようなものとして実体視して叩こうとする、山川や赤目の態度に話を戻そう。先に述べたように、彼らには「ポモ」と形容される特定の知識人・学者に対するルサンチマンが大きいと思われるが、それ以外の要素として、学問の諸領域の動向を安易なレッテル貼りで分類することによって、分かった気になろうとする、知的横着さがあるように思われる。例えば、ポストモダニストと呼ばれる理論家たちは、古典的なテクストを通常の読者には想像できないような変わったやり方で読解し、常識をひっくり返すような解釈を示すことで知られているが、ドゥルーズ、フーコー、デリダ、ジジェクなどのアプローチの仕方は、相互に全く異なる。フロイト解釈に関しても、ラカンと、クリステヴァ、ドゥルーズ/ガタリではかなり異なるし、同じラカンでも前期・中期・後期でかなり変動している。ポストモダン・フェミニストと呼ばれている人の間でも、クリステヴァとバトラーは、主体化の問題をめぐって対立している。レヴィ=ストロースとアルチュセールとバルトのテクストをそれぞれ、虎の巻的なものによる先入観なしに読んで、三者の共通点を見出せる人はあまりいないだろう。
 “ポモ”と形容されている理論家たちの主要テクストをちゃんと読めば、“ポモ”などという名称は便宜的なものにすぎないことが分かるはずだ。だから、“ポモ”と呼ばわりされている学者の多くは、「ポストモダン」などどうでもいいと思っている。誤解されるのが嫌なので、“ポモ”という呼称に否定的な人もいれば、私のように思想史的な記述を簡便にするために、あまり気にしないで使っている人もいる。反ポモ人間たちには、そういう実体が見えていないようだ。
 有名大学の文系の学生には、「〇〇の領域では、これまで□□学派が有力だったが、最近では▼▼学派が台頭してトレンドになりつつあり、□□は過去の遺物になろうとしている。内の◇◇研究室の●●教授は□□学派の重鎮だが、准教授の▲▲先生は▼▼に軸足を移そうとしているらしく、それで●●先生との関係が微妙になっている…」というような、勢力分布図・国盗り物語的な話を得意げに話したがる奴が少なからずいる。一年生、二年生の間は、そういう知ったかぶりで見栄を張るのもいいかもしれない。それがきっかけになって、その分野の勉強を本格的に始めるかもしれないからだ。しかし大学院生になってからも、そういう学界ゴシップ的な話ばかりして、自分の研究テーマをなかなか見つけられないとすると、問題児である。自分固有の研究テーマに集中できないまま、「ポモは学問的にはとっくに死んでいるはずなのに、日本の思想ジャーナリズムではまだもてはやされている」とか、「X大学の哲学研究室は伝統があるけど、Y教授に政治力がないせいで、後継者が育っていない…」、といった噂話にばかり関心が行き、ネットにそんな話をせっせと書き込んでいるような人間は研究者に向いていない。
 その内に、研究に関心が持てなくなって完全にドロップアウトし、自分の元々の専門だけでなく、文系学問を呪い、全否定するようになる。その反動で、よく分かっていないくせに理系を持ち上げたがる。トレンド君を早めに卒業しないと、学問に対する具体的関心がなくなって、発想がどんどん雑になり、山川にまで退化――脱人間化(dehumanize)――してしまう。


kanren