「天皇を読む」第8回


たけもとのぶひろ[第125回]
2017年4月6日

ヴァイニング夫人と中等科当時の天皇(婦人の左)

ヴァイニング夫人と中等科当時の天皇(婦人の左)

第四節 日本と世界の中の皇室—ヴァイニング夫人と出会って

 前回の最後に、島薗進氏の発言から引用しました。引用部分の最後の3行を示します。
 「あくまで人間として他者のために祈るという天皇のあり方が、ぎりぎりのところで、成立が難しくなってきた民主主義を支えつつ、神聖国家への回帰を防ぐ防波堤の役割を果たしているのです。」
 言いたいことは、あくまで「人間として」「他者のために」「祈る」という天皇のあり方、存在そのものが、民主主義の何たるかを示し、かつ支えている、ということです。ここにこそ「天皇の民主主義」の本質がある、ということです。
 とはいえ、陛下における民主主義の確立の道は、決して平らかな穏やかなものではありませんでした。先の戦争の影響がいかに決定的であったか――陛下自身に聞きましょう。

 まず「平成11(1999)年11月10日、ご即位10年記者会見」の問3です。戦後54年が経過した現在の心境を尋ねられた陛下は、答えの冒頭を次のように始めておられます。
 「私の幼い日の記憶は3歳の時、昭和12年に始まります。この年に盧溝橋事件が起こり、戦争は昭和20年の8月まで続きました。したがって私は、戦争のない時を知らないで育ちました。この戦争により、それぞれの祖国のために戦った軍人、戦争の及んだ地域に住んでいた数知れない人々の命が失われました。哀悼の気持ち切なるものがあります。」
 このような言い方だと、幼少年期の陛下の外側を戦争が通り過ぎていく――戦争はあたかも風景であったかのように、聞こえなくはないと思うのですが。

 次に「平成25(2013)年12月18日、80歳のお誕生日記者会見」の問1に対する答えの冒頭部分を見ます。
 「80年の道のりを振り返って特に印象に残っている出来事、という質問ですが、やはり最も印象に残っているのは戦争のことです。私が学齢に達した時には中国との戦争が始まっており、その翌年の12月8日から、中国のほかに新たに米国、英国、オランダとの戦争が始まりました。終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。」
 当時、陛下は学習院初等科に通学していました。「小学校に通っていた」と自分の人生を持ち出して語られると、陛下も少年ながら戦争の中を生きてきたのであり、たとえ戦場に行っていなくても彼は彼なりに戦争を体験していたにちがいない、と陛下のことを身にひき寄せてイメージできるような気がするのでした。

 ここで見ておきたいのは、明仁少年にとって学習院初等科の学校生活がどのようなものであったか、その実態です。斉藤利彦著『明仁天皇と平和主義』(朝日新聞出版)から紹介します(なお、斉藤氏は牛島秀彦著『ノンフィクション天皇明仁』河出書房新社から引用しているのですが)。以下①②③は、著者が学習院初等科時代の皇太子の級友、橋本明氏から聞き取った証言です。

① 乃木希典流 “帝王学” 。「学習院の頃の皇太子への教育のポイントは、差別しちゃいかんということでしょう。われわれに対しては、君たちは国民を代表してのクラスメートだとよく言われましたね。相撲のときなんかも「遠慮なくたたきつけろっ」ってね。学習院の生徒のしつけは、乃木希典以来の伝統で、質実剛健がモットーです。冬もオーバーなんか着ちゃいけない。殿下に関して言えば、たとえ寒風吹きすさぶなかでも、気をつけの姿勢をくずさずに、ながい間たえる訓練ですね。つまり、庶民以上に堪えしのび、苦しむ。どんな艱難辛苦もたえ抜く……。これも帝王学でしょう。」

② 教室で “いじめられる” 皇太子。「そりゃあ東宮傅育官(ふいくかん)が数人いつも皇太子のうしろにつっ立ってました。いまでもおぼえているのは、後に義宮の侍従になった村井傅育官てのは、皇太子ができなかったりすると、タッタッタッとかけて来て、皇太子の背中を平手で力いっぱいなぐったですね。4年生のときでしたが、殿下は、涙をポロポロ流して嗚咽されてましたよ。」(注、傅育:貴人の子を第三者が養育すること)

③ 唱歌の授業のときのこと。「担当の教員小出浩平は「指名されたら起立し、名前を述べてから歌いなさい」と言い、グランドピアノに座り数人の生徒を指名して歌わせ始めた。皇太子を指名した時、皇太子は立ち上がったが、もじもじして何も言えない。その間1分か2分。全員が固唾を呑んで見守ったという。長いだんまりに堪忍袋の緒を切らしたのか、そのとき突然、大きな声が教室の背後から湧き起こった。傅育官が発した声だった。
 「殿下、お名前をおっしゃい、お名前を」
 傅育官は左腕を腰から背に当てがい、上半身を左右に揺らせながら足早に皇太子に近づいていった。
 後ろに来ると、右の手の平をひらいて殿下の背中を叩いた。どやしたといった感じでさらに声を高めた。
 「大きな声で。お名前は」
 皇太子はびくっとすくんだようになり、うっすら目に涙をにじませた。その時、「凍りついたような空気」が教室に流れたという。」

 『明仁天皇と平和主義』の著者・斉藤利彦氏は、以上のように橋本明氏から聞き取った証言を紹介したうえで、次のようにコメントしています。
 「このような、授業中いきなり生徒たちの前で背中を「力いっぱい」なぐられる場面を想うとき、慄然たる思いがするのは私だけだろうか。衆目の前で常に威儀を正すことを要求されていた皇太子が、「涙をポロポロ流して嗚咽」したというのはよほどのことである。
 その時の明仁皇太子の口惜しさと屈辱を思えば、胸を痛めざるをえない。傅育官は、天皇制国家の力を背負っている権力そのものの姿である。いわば体罰ともいうべき暴力を突然受け、嗚咽している子どもを前にして、それを目の前で見ている教師も生徒たちも何も止められないのだ。」

 明仁皇太子にとって学習院初等科の教室は、大袈裟な比喩ではなく “戦場そのもの” だったと察せられます。教室は「帝国憲法=神聖天皇」の統治下にあります。「帝王学」を大義名分に掲げさえすれば、近い将来 “天皇の座” を約束されていたた皇太子に対してさえ、 “正義の暴力” を行使することができる、なんて!  戦争の勝利こそが大義であり、軍隊の勝敗がすべてであるからには、たとえ天皇であっても、戦争の、したがって軍隊の、言うことを聞いてもらわなければならない――戦争、軍隊、したがって暴力が正義なのだ、と言わんばかりの空気が、学習院初等科の教室を支配していた、ということなのでしょう。

 傅育官の管理監督・抑圧支配は、学校だけではありません。明仁皇太子の自宅にあたる赤坂御用地内の「東宮仮御所」に帰っても、両親(昭和天皇と香淳皇后)が待っていてくれるわけではありません。すでに満3歳3か月の幼児のとき、明仁皇太子は、宮殿の両親のもとを離れて仮御所に引っ越しています。以来、家庭はなく、一人ぽっちの暮らしです。同じ建物の中にいて彼を迎えてくれるのは、母親でも兄弟姉妹でもありません。赤の他人の、それも大きな大人――3名の傅育官と3名の御養掛、計6名の役人です。異様ではないですか。御養掛の「養」とは、養育を意味するのでしょうから、この3名は幼児のときだけかもしれませんが。

 しかし、それにしても、どうしてこのように強制的かつ矯正的な――人間不信の――教育方針が採用されていたのでしょうか。昭和天皇に対する、当時の――最後の元老と言われる――西園寺公望の進言が、大きくものを言ったとされています。彼の進言は、すなわち、「明仁殿下は、皇太子として、やがては天皇になられるお方です。そのためには、お手もとでお育てになってはなりませぬ。東宮御所を設け、そこへお移し奉り、帝王学をお学びにならねばなりませぬ」というものです。

 ただ、これは西園寺が突然言い出したことではなくて、天皇家特有の教育法である、との指摘があります(斉藤利彦氏の前掲書)。曰く。
 「天皇家には、家系を継続させるために、幼児期の子どもを他人に預けて厳格に養育する伝統的な教育法があった。いわゆる「別居養育法」である」と。
 つまり、傅育官だの御養掛だの役人の手に子供を委ねるのは、本当は帝王学でもなんでもなくて、「家系を継続させるため」の「別居」養育法・教育法にすぎなかったのではないか、ということです。ここに示唆されているのは、側室を置く従来の天皇のばあい、家族を持って家庭生活を営むことなど、もとより不可能だったのではないか、という生活の実態なのではないでしょうか。

 どうなっているのか――上田篤著『一万年の天皇』(文藝春秋)がこのあたりの事情を教えてくれます。
① 大昔から天皇は地方豪族の娘のもとにツマドイをくりかえし、たくさんの后ができ、たくさんの皇子を産んだが、后と皇子は親元の家を寝所(居所)とした(宮中で妊娠したばあいも親元に帰った)。
② だから天皇のそばには子供がおらず、天皇は実質的に生涯独身であったから、天皇には家・家族・家庭がなかった。
③ 天皇は男系の血を継承してきただけで、父系家族を継承してきたわけではない、日本の天皇には父も家族もないのだから、等々。以上によると、明仁皇太子の幼少年期における孤独は、天皇家そのものの歴史に根差している、ということにならざるをえないのかもしれません。

 ちなみに、孝明天皇、明治天皇、大正天皇らは側室の子です。大正天皇は側室制度を廃止し、皇后との間に昭和天皇をもうけます。昭和天皇は両親と子供がいっしょに暮らす普通の家庭生活を希望しますが、皇室全体の同意を得ることができず、明仁皇太子はその幼少年時代、上記のように一人ぽっちの日々を強いられます。彼が正田美智子さんと結婚してはじめて、天皇家はまっとうな家族をつくることができ、国民なみの家庭生活を営むことができたのでした。

 要するに「核家族」のことと言ってしまえばそれまでですが、今上天皇にとって家庭・家族は美智子妃殿下あってこそ実現したのであり、何ものにも代えがたい価値の源なのだと思います。皇太子時代、彼はたとえばこんなふうに言っています。「家庭から離れていることは精神的安定感が失われることになると思います」(1972年)、「家族という身近なものの気持ちを十分に理解することによって、はじめて遠いところにある国民の気持ちを実感して理解できるのではないか」(1984年)などと。

 ところで、2009年の「天皇皇后両陛下御結婚満50年に際して」の記者会見における明仁天皇は、あたかもご自身の生育環境と「二人の家庭」の来し方の全体が見えているかのご様子で、顧みて、皇后がどんなに大変な思いをしてきたか、その辛抱を想い、彼流の表現でもって、彼女の努力に感謝の念をにじませるのでした。曰く。
 「私ども二人は育った環境も違い、特に私は家庭生活をしてこなかったので、皇后の立場を十分に思いやることができず、加えて大勢の職員と共にする生活には戸惑うことも多かったと思います」と。

 今上天皇にとって美智子皇后がどれだけ有難い存在であったか、ということです。このことは次回に詳述します。その前に見ておきたいことがあります。

 敗戦日本の1946年春、明仁少年は学習院中等科に入学します。この新しいステージは、彼の人生を決定づけるほどの幸運を用意してくれていたのでした。事の起こりは、昭和天皇の提案でした(注 この提案を思いつくに際しては、昭和天皇自身の思惑があったかもしれませんが、ここでは触れません)。
 提案とは、同年3月来日していた「アメリカ教育使節団」の一行に対する、天皇のある要請のことです。「皇太子に英語を勉強させ、国際性を身につけさせるため、良いチューターを推薦してほしい」ということ。その際、家庭教師の満たすべき条件は、①アメリカ女性であること、②クリスチャンである(ただし狂信的でない)こと、③知日派である(ただし「日本ずれ」していない)こと、の三点だったそうです。

 「皇太子の家庭教師」の三条件を満たして選任されたのは、クエーカー教徒のアメリカ人エリザベス・ヴァイニング夫人でした。来日は1946年10月。最初は1年だった契約を延長・再延長して1950年11月まで、およそ4年の日本滞在でした。滞在中の彼女は、皇太子の教育を受け持ち、英語のみならず人間形成全体におよぶ教育に心血を注いでくれたのでした。皇太子教育への彼女の情熱は、日本の平和に対する彼女の献身的情熱の因って来たらしめるところであったのでしょう。夫人は、皇太子教育を引き受ける抱負について、自著『皇太子の窓』のなかで次のように語っています。

 「私は、平和と和解のために献身したいという願いも強かった。日本が新憲法において戦争を放棄したことは、私にはきわめて意義深いことに思われた。平和のために一切を賭けようとしている日本の人々にはげましを与え、それからまた、永続的な平和の基礎となるべき自由と正義と善意との理想を、成長期にある皇太子殿下に示す絶好の機会がいま眼の前にあるのだ」と。

 斉藤利彦氏の前掲書に拠って、ヴァイニング夫人の皇太子教育についての基本的な考え方を紹介します。彼女の眼目は、なによりもまず、傅育官や侍従による皇太子の監視管理・抑圧支配の構造――目に見えないけれども皇太子を監禁している檻――を解体して、明仁少年を “自由の身” として解放しなければならない、ということでした。
 夫人の理想からすると、皇太子はどのようにあってほしかったのでしょうか。ポジティブ表現でいうと、こういうことでしょう。自分の感情を大切にする、自分の頭で考える、自分自身の意見を持つ、自分みずから自発的に表現する、自分の意志で決断し行動する――概念を使って言うと、いわゆる個性的・主体的な・一個の独立した人間であってほしい、ということでしょう。もう少し別の言い方をすると、他の何ものをもってしても代えることのできない存在であってほしい、と彼女は願っていたのだと思います。

 同じことを別のアングルから見ると、ヴァイニング夫人が皇太子に理解してほしかったことは、社会や政治を根源から成立させている民主主義・平和主義の原理原則といったものは、結局どういうものなのか、どういうことであらねばならないのか、ということ――この一事だったのではないでしょうか。

 このことは、明仁皇太子がヴァイニング夫人の教室を体験するなかで、どのように変わっていったかをみれば、納得がいくと思います。
 牛島秀彦著『ノンフィクション天皇明仁』(河出書房新社)は、周囲の声を取材しています。
 「皇太子の表情は、最初はまるで生きていないようでしたけど、ヴァイニング先生が来てから、だんだん生き生きしてきました」(学習院側担当者、高橋たね)。
 「皇太子に友達ができたのは、ヴァイニングさんの功績ですよ。陛下にもその弟さんたちにも友達なんておられませんよ。新しい開かれた皇室を作るということが、ヴァイニング夫人の祈りで、また皇室もそれを受け入れて、今まで出来なかったことを次々とやりました」(東宮侍従、清水二郎)。

 傅育官の監視監督下では、まず最初にあるのは傅育官の目であって、「明仁皇太子の自分自身」は二の次です。自分が自分たり得ない条件のもとで、人はいったいどのようにして他者と関わることができるでしょうか。
自分が自らを進んで外に向かって開いていくからこそ、そこに他者との交わりが生まれる。その他者との交わりのなかで、人は自分を見出し、立ち上げていくことができる。――ヴァイニング夫人のもとで明仁少年ははじめて、自分という存在を知り、その自分を開いて他者と交わる喜びを知ったのではないでしょうか。
 他者に向かって、世界に向かって、自らを開き、交わりを広げ、深めていく――それが「民主主義および平和主義」の在り方だということを、ヴァイニング夫人は身に沁みてわかるように、日々の実践のなかで教えてくれたのだと思います。

 牛島秀彦氏は前掲『ノンフィクション天皇明仁』のなかで、学習院事務官・浅野長光に取材して、氏の述懐を記録しています。次に示します。
 「ヴァイニング夫人の教育方針は、世界の中の日本人なのだ、世界の人びととともに進むのでなければならない、ということだと思う。ヴァイニングさん来てよかったことは、皇太子が、自分で語学をやって、自分の考えで、自分でしゃべる、そういうふうになったこと。国民のことを知って、国民とともに生きていく、そういうことを教えて、皇太子を育ててくれたことです。」

 後にヴァイニング夫人は、日本での日々を綴った回想録を出版しています。『皇太子の窓』というのがその書名だそうです。斉藤利彦氏の前掲書は、この回想録について以下のように述べています。「書名の由来は、「皇太子殿下のために、今までよりももっと広い世界の見える窓を開いていただきたい」という願いからくるものだった」と。

 ヴァイニング夫人は、皇太子を励まし続けてくれたに違いありません。世界の中の日本人なのだ!  世界の人びととともに進むのだ!  もっと広い世界の見える窓を開いて!  と。
 彼女の励ましの声は、
① 「戦後50年を記念する集い」(平成7年12月18日、国立劇場)における陛下のメッセージに聞くことができます。曰く、「日本国民が国内にあっても世界の中にあっても、常に他と共存する精神を失うことなく、慎みと品位のある国民性を培っていくことを、心から念願しております」と。
② また、80歳を越えた天皇陛下の「お言葉」(平成28年8月8日)の中にも、そのまま生きています。「日々新たになる日本と世界の中にあって」の「日本の皇室」である、と述べておられるのがそれです。

 今上天皇は、皇太子時代49歳の誕生日の記者会見において、ヴァイニング夫人に感謝の言葉を捧げています。
 「ヴァイニング夫人はアメリカ人の良心をもって日本を愛した方」である、と。ご自身が「日本の良心」たらんとしておられるからこそ、出てくるべくして出てきた表現ではないでしょうか。