ポストモダンをめぐる大陰謀論


仲正昌樹[第42回]
2017年3月5日

 “ポストモダン”の思想をやたらに目の敵にし、何かと口実をもうけて攻撃したがる人たちには、“ポストモダン”を社会的に影響力がない滑稽なグループとして小ばかにする一方で、“ポストモダン”を大学界に巣食って甘い汁を吸い、社会全体に悪影響を及ぼしている、悪の権化であるかのように言う傾向がある。前回で話題にした「たかはし」や山川賢一の発言がその典型だ。言っている当人たちは、矛盾しているとは思わないようである――ウヨク/サヨクがお互いの悪口を言う時も同じような傾向がある。

 彼ら、ポストモダン批判クラスターの議論は、二つの大きな勘違いに基づいている。
 「ポストモダン」は一つの基本的な学説を共有する理論共同体であり、その理論の一部にでも矛盾が見つかると、体系全体が崩壊する。
 「ポストモダン」は利害関係を共有する、グローバルな学閥組織であり、各大学の人事や予算獲得の面でお互いに支え合っている。

 この二つの前提に立って考えると、ソーカル事件のような事態が起れば、「ポストモダン」の理論的破綻が明るみに出されるだけでなく、社会的地位も失うことになるので、「ポストモダニスト」たちは必死に誤魔化そうとする、という推測が成り立つ。無論、完全な見当はずれである。上の①②の「ポストモダン」を、iPS細胞研究とか、ニュートリノ研究、地震予知研究とかに置き換えれば、それなりに意味のある文章になるだろうが、「ポストモダン」をこれらの自然科学の分野と同じレベルで扱うのはナンセンスだ。
 何度も言っているように、“ポストモダン”は人文系を中心とする学際的な研究のスタイルあるいは傾向にすぎないので、仮に一部の理論家が明らかに非科学的な前提で理論を構築していたとしても、芋づる式に他の理論家たちの仕事が全否定されてしまうなどということは考えにくい。ましてや、ソーカル事件でクローズアップされた数学や物理学の概念の不正確な使用は、やり玉に挙げられている理論家たちの議論の主要な部分とほとんど関係ない。
 また、ポストモダン統一理論のようなものがあることを前提にして各大学にポストモダン系の研究室が設置され、ポストモダン教員ポストが割り当てられているわけではなく、ポストモダン統一学会のようなものもない。従って、世間的に“ポストモダニスト”と思われている人たちが一丸となってお互いにかばい合わねばならない理由はないし、自分と違うテーマで仕事をしている人の学問的に致命的なミスが見つかったとしても、あまり気にしない。良くも悪くも各研究者の独立性が高く、運命共同体というにはほど遠い。精々、一部の思想系雑誌の常連執筆者とか、論集やシンポジウムの企画を複数回一緒にやっている人たちが、多少の仲間意識を持っているくらいである――山川のような自称文芸評論家にとっては、そうしたごく数人の売れっ子たちのお仲間的な共同戦線が、気が狂いそうになるくらい腹立たしいのかもしれないが。
 もしiPS細胞がSTAP細胞と同じ様にインチキだったことが判明するというような事態が起こったとすれば、分子生物学や再生医療研究の多くの研究者が職を失い、いくつもの国家的研究プロジェクトが崩壊しかねない大事件に発展するのではないかと想像できるが、“ポストモダン”にはそうした密な理論面・組織面での繋がりはない。“ポストモダン”に限らず、文系の学問分野のほとんどは、たとえ同じ学会に所属する人同士であっても、理系のような密な関係がないので、一人二人の有力な研究者の理論上の過ちが全体に波及して、大混乱に陥るというような可能性は低い。それに近いことがあるとすれば、心理学とか考古学のような理系的手法を使い、それなりに多くの予算と人員を導入する必要がある分野だけだろう。普段から文系の学問はいい加減だ、ポストモダンは特にひどいと言っている連中が、都合のいい時だけ、理系の場合と同じような前提で批判するのはおかしなことである――ソーカル教信者の大半は、そもそも大学にまともに通ったこともなく、専門的な学問研究の仕組みを全く知らないで、ソーカル事件を紹介する文献の孫引き、ひ孫引きで、“ポストモダン”を漠然とイメージしているだけかもしれないが。

 そもそも“ポストモダン”と呼ばれる学問上の傾向がどういうものを指すのか不明確なので、いろんな人が自分に都合のいい意味で、“ポストモダン”という呼称を使っている。肯定的な文脈では、以下のような意味で使われることが多い。

 (1) 近代哲学の限界を明らかにし、その「後」の可能性を考えようとする思想の潮流
 (2) 近代哲学というより、近代科学全般の方法論を批判的に問い直そうとする思想の潮流
 (3) 近代的な学問の専門の境界線を越えて学際的・横断的なアプローチを試みる思想の潮流
 (4) 近代的な制度として確立された論文とは異なるスタイルでのテクスト構築の試み
 (5) 近代社会の前提になっている合理性や効率性、道徳規範等を批判的に問い直そうとする思想の潮流
 (6) 消費文化やメディア環境によって大きく変容した資本主義あるいは市民社会の新しい現実に関心を向け、分析しようとする思想の潮流。

 当然、この内のどこに重点を置くかで、“ポストモダン”の範囲は異なってくる。哲学や文学(研究)の専門的な領域で、ポストモダンかどうかの線引きの基準になっているのは、主として(1)で、文脈に応じて、(6)と(3)(4)が加味されていることが多いのではないかと思う。(1)を軸にすると、ラカン、ドゥルーズ、フーコー、ボードリヤール、デリダ、ガタリ、クリステヴァなどのビッグ・ネームが大体網羅できる。
 ただ、(1)を中心に考えるにしても、個々の理論家ごとに、

 (a) 現象学や実存主義をどう評価するか
 (b) ヘーゲルをどう評価するか、評価する場合、どの部分か
 (c) 構造主義的な方法論を取るのか
 (d) ソシュールやパースの記号論をどう評価するか
 (e) 精神分析に対してどういう態度を取るのか、フロイトとラカンを連続的に理解するか
 (f) マルクス主義に対してどういう態度を取るか…、

 といった重要な点でかなりの相違がある。だから、“ポストモダン”と一括りにされることを好まない理論家が多い。山川は、難しい文章で煙に巻くのがこれらの思想家の共通点であると強弁しているが、雑すぎて話にならない――山川の読解力が低いだけの話だろう。

 (2)や(5)を基準にした場合、範囲がかなり広くなり、取りようによっては、マルクス主義的左派とかカルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアル・スタディーズ、フェミニズム、ジェンダー・スタディーズなど――簡単に言うと、左派思想全般――がほぼ丸ごと含まれてしまう。
 その逆に、((2)と(5)を拡大解釈した)「反近代」という括りで、新人種主義とか、ニュー・エイジ運動、スピリチュアル運動とかが“ポストモダン”扱いされることもある。デリダやドゥルーズなどに依拠した研究をしている“典型的なポストモダニスト”からしてみれば、マルクス主義者や極右の言説に対する責任までおっ被されたら、たまったものではない。サイエンス・ウォーズ(ソーカル事件)に登場したソーカル、ブリクモン、ブーヴレスや、ポスト・ソーカルの論客としてよく引き合いに出されるジェイムズ・ロバート・ブラウンなどは、(1)を軸に定義される狭義の“ポストモダニスト”と、(主として(2)に対応する)ファイアーアーベントやラトゥール等の批判的科学社会学者を一括りに“ポストモダニスト”と呼んでいる。誤解しているのか、意図的に風呂敷を拡げているのか分からないが、それが混乱の原因になっている。デリダやドゥルーズのテクストを研究している人間からしてみれば、我々と社会構築主義者の反自然科学的言説の間に何の関係があるのか、としか反応しようがない。『知の欺瞞』や『なぜ科学を語っているのか』を聖書扱いして、これらのテクストを読めと連呼している信者たちは、そういう肝心なことが分かっていない。

 ところで、前回取り上げた私に対する誹謗ツイートのしばらく後、山川賢一がまた性懲りもなく、“ポストモダン”を叩くための大げさな物語をでっちあげ、ツイッター上で連投した。取るに足りない雑な論だが、もともと私に対する誹謗中傷に端を発したツイートであり、上記のポストモダン批判クラスターの勘違いの典型的な例でもあるので、一応論評しておこう。彼の当該ツイートは以下の通りである。

 ポストモダン今後は影薄くなっていくでしょうね。

 ブランクスレート説(人間の精神は生まれたときほぼ白紙で、環境などがその内容を決めるという説)が事実上相手にされなくなったので、ポストモダニストも最近ソシュールの話をしなくなったよな。

 ポストモダン思想はブランクスレート説(人間の精神は生まれたときほぼ白紙で、環境などがその内容を決めるという説)にもとづいていて、この説は『虐殺器官』でもジョンやルツィアがバカにしていたように、科学的には基本終わってる説。

 ポストモダンはソーカル事件のまえ、ブランクスレート説が実証研究により否定されることですでに死に始めていた。①読みにくい文章による「あなたは誤読している」論法と②ゲーデルなんたらで実証はあてにならない的屁理屈、の二重防壁で外野の批判から逃げてただけ。この防壁を破壊したのがソーカル。

 ソーカルの功績は①ポストモダニストの著書に、著者もよく意味のわかっていない文章が混入していた②ポストモダニストは科学や数学の知識がない、の二つをあきらかにして二重防壁を崩したこと。以降ポモはE・O・ウィルソンやピンカーのような反ブランクスレート論者の批判をもろに食らう形になった。

 2000年以降の欧米文学、ロッジの『考える…』、ウエルベックの『素粒子』、カリー・ジュニア『神は死んだ』にはポモVS生物学を踏まえた人間観の対立が描かれてる。欧米ではこの構図はあるていど常識だったから。

⑦ この構図を踏まえないと、ソーカル事件はただの揚げ足取りに見えかねない面もある。『科学を語ってなぜすれ違うのか』『社会生物学論争史』『人間の本性を考える』あたりを読むと、ソーカル事件は大きな流れの中の一転機だったことがわかってくるよ。

 すぐにおかしいと気付くのは、「ブランクスレート」説なる言葉の濫用である。「ブランクスレート」説というと、何か新しい概念のように聞こえるが、これは高校の倫理などで習う、「タブラ・ラサ(心は白紙)」という考え方のことである。高校の倫理レベルの哲学史の知識があれば分かるように、タブラ・ラサは、ロック以降のイギリス経験論の基本にある考え方である。イギリス経験論の系譜に連なるのは、構造主義/ポスト構造主義等の((1)の意味での)“ポストモダン系思想”ではなくて、むしろこれと水と油の関係にあると思われている分析哲学である。西欧哲学史の常識があれば、「ブランクスレート」説批判を、「構造主義」批判とほぼイコールで結ぶのは見当外れであることが分かるはずだ。山川には高校生や大学一年次の哲学概論レベルでの常識もないのだろうか?
 ひょっとすると、現代では、「ブランクスレート」説を代表するのは、分析哲学など他の哲学的潮流ではなく、“ポストモダン”だと言いたいのかもしれないが、だったらどういう背景からそう考えるのか説明すべきである。ソシュールへの言及で、それを説明しているつもりかもしれないが、説明になっていない。ソシュールの構造主義が狭義の“ポストモダン思想”に影響を与えたのは間違いないが、ソシュール自身が“ポストモダン”と見なされることはまずない。そもそも、構造主義言語学や記号論と、「ブランクスレート」説はお互いに相容れない対立関係にあるのか? 山川の頭の中ではそうなっているのかもしれないが、きちんと説明しないと話が通じない。
 また、山川は「ブランクスレート」説が「事実上相手にされなくなった」と言っているが、どういう分野での学問的論争を経て、この説が葬られたというのか? それに対する説明がない。出典を挙げていない所を見ると、どこかで聞いた話を受け売りしているだけ、という可能性が高い。親切心で教えておこう。「ブランクスレート」説という言葉を広めたのは、山川が⑤で名前を挙げているピンカーで、主として、⑦で言及されている『人間の本性を考える』でこの議論を展開している。この本の原題は、《The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature》である。NHK出版から出ている邦訳のタイトルは、『人間の本性を考える――心は「空白の石版」か』である。恐らくこれが元ネタだろう。
 ただし、ピンカー先生が言っているからすべて正しい、というわけにはいかない。ピンカーは専門としては、児童心理学者もしくは認知科学者である。にもかかわらず、彼は認知科学や心理学など、「心」に関する自然科学的研究の諸領域だけでなく、社会科学や人文科学まで含めた学問全般、延いては、社会制度や規範全般が「ブランクスレート」説によって構築されているという前提に立って、それら全てを批判するという大風呂敷の議論を展開し、話題を呼んだ。当然、彼の専門から遠い所では、批判の前提が漠然としており、藁人形論法ではないかとの批判を各方面から受けている。哲学方面の議論は、藁人形感がかなり強い。
 『人間の本性を考える』を読んでみると、ピンカーが哲学における「ブランクスレート」説として念頭に置いているのは、“ポストモダン”ではなく、イギリス経験論に代表される近代哲学全般であることが分かる。「ポストモダン」についても少しだけ言及しているが、これはイメージや表象の生得性について論じる文脈に出てくる議論であって、別に「ポストモダン」を「ブランクスレート」説の代表に見立てて徹底批判しているわけではない。しかも、ポストモダニストの具体名を挙げているわけではない。山川がこの本にちゃんと目を通して、普通に理解していれば、とてもポストモダン批判の書として引き合いに出せないだろう。
 ⑤で名前を挙げているO・ウィルソン――正確にはE・O・ウィルソン――というのは、「社会生物学」という七〇年代に登場した比較的新しい分野の研究者である。創始者は彼自身である。人間を含む生物の社会的行動全般を研究対象とするこの分野は、生物学の他の分野に比べて、直接的に実証できないファジーな部分が大きい。だから、ウィルソンの議論を契機として「社会生物学論争」が起こった。論争の当事者になるような先鋭的な議論をする人を、生物学の代表のような形で引き合いに出すのはミスリードである。山川が⑦で挙げている『社会生物学論争史』は、その社会生物論争の経緯を科学社会学者セーゲルストローレがまとめたものである。当然、論争の主たる当事者は、生物学者、心理学者、文化人類学者などであって、“ポストモダニスト”ではない。社会生物学論争とサイエンス・ウォーズが一部交差した経緯について説明している章があるが、その章では、ソーカルやウィルソンが議論を自らに有利に展開するために、「ポストモダニスト」と「社会構築主義者」を戦略的に混同しているふしがあること、論敵を「ポストモダニスト」とレッテル貼りしていたことなどが細かく指摘されている。この本も自分でちゃんと読んでいれば、反ポモの教科書的なものとして参照できないはずである。
 山川は自称文芸批評家であるので、文学作品くらいは多少まともに読めるのかと思っていたら、どうもそうではないようだ。③で『虐殺器官』のルツィアやジョンが、ポストモダンをバカにしている、と述べているが、これは、この二人の登場人物のどの発言を指しているのか? 実際読んでみれば一目瞭然だが、直接的に「ポストモダン」を批判するような発言は出てこない。山川がどの箇所を念頭に置いているのかほぼ見当がつくが、その個所でからかわれているのは、少なくとも直接的には、ポストモダンの思想家の理論ではない。従って該当箇所を明示したうえで、それが実はポストモダンに対する当てこすりになっていることを論証しないといけない。恐らくちゃんと説明できないので、ぼかした言い方をしているのだろう。ひょっとすると、うろ覚えのせいで、別の対象に対する批判がポストモダンに対する批判に置き換わってしまったのかもしれない。
 ⑥で挙げている三つの海外の文学作品についてもそうである。「ポモvs.生物学」の図式らしきものが直接的に読み取れるのは、この内一つだけである。他の二つについては、「生物学と「ポモ」の対立構図があると主張するには、物語全体を要約したうえで、どの要素が「ポモ」の寓意もしくは隠喩になっているのか明らかにする必要がある。ポストモダニストらしき人物がちょっと登場しただけで、その人物が、生物学主義の視点から批判されていると即断するのは、根拠のない思い込みだ。また、「ポモvs.生物学」図式らしきものが部分的に見受けられる作品についても、それが本当に「ポモ批判」になっているのか、「ポモ」と対決しているのは、オーソドックスな生物学なのか、ちゃんと確かめておくべきだ。
 そもそもの話として、仮に小説の中で、ある学説とか思想、芸術の様式などが登場人物によって批判されたり、カリカチュア的に描かれているからといって、それを作者自身の考え、あるいは、社会的に認知された事実と見なすべきではないだろう。そういうベタな受け止め方をするのは、文学作品の読み方を知らない人間である。そうした描き方と、作者自身の思想が一致している場合もあるが、それを示すには、先ずどういう性質のテクストか論ずる必要がある。
 より根本的な問題として、「ポモ」が自然科学の側から批判されて、理論的基盤を喪失したと主張したいはずなのに、何故、文学作品を引き合いに出すのか?著名な文学者の認識は、自然科学の代表的な見解を代弁しているとでも言いたいのか?山川は、千葉雅也氏などのポストモダニストは、文学的に凝った文体で肝心な所を誤魔化していると言っていたのではないか?山川自身は、文学的に稚拙な文体で誤魔化そうとしているとしか思えない。
 (ⅰ)該当箇所を明示したうえで自分の解釈の適切さを示す(ⅱ)個々の表現が作者の意図の表明なのか、寓意や隠喩など別の意味が込められているか検討する(ⅲ)その作品と歴史的社会的事実との関係を考える――という三点は、文学研究・文芸評論をしようという人間にとって基本中の基本である。自分が知っているキーワードに飛びついて、そこから勝手に都合のいい話を作り上げるのは、高校生以下である。山川は名古屋大学の文学研究科で何を学んだのだろう?指導教官だった先生が気の毒である。
 最後に一言。基礎的な国語力のない奴は、学問的な「論争」に首を突っ込むべきではない。


kanren