「天皇を読む」第4回


たけもとのぶひろ[第121回]
2017年1月29日

被災者を見舞う天皇

被災者を見舞う天皇

第三節 「個人」としての問いかけ

 この第三節にきて初めて陛下は、「お言葉」を語る自身の立場というものについて言及しています。「私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います」と。
 「個人として」とは、なんと重い一言ではないでしょうか。陛下が「個人」の資格における発言を決断するには、長い静思の時の経過というものがあり、その間よくよく熟慮をめぐらされたに違いありません。この「個人として」をどのように受けとめればよいのか、それを考えるのが、第三節の課題です。

 どうして陛下は、静思と熟慮の長い時間を必要とされたのでしょうか。憲法が「天皇」の「個人」について何も規定していないからです。そもそも「天皇個人」という存在を認めていないからです。「天皇」というのは「地位」です。
 既に何度も指摘してきたことですからつらいのですが、憲法の規定をここに繰り返します。
 この際に念のために注釈しておきたいのですが、憲法上の規定は、国民が総意をもって規定したことを意味します。憲法の主語は国民だということです。

 「第一章  天皇」の中身を、次に見ておきます。
 第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。天皇の地位とその務めに関する規定です。
 第二条は、皇位の世襲と継承についての規定です。
 第三条・第四条は、天皇に対して割り振った、ほとんどロボット同然の国事行為に対してさらに厳しい掣肘を加える規定です。以下に示します。
 第三条「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」天皇の国事行為の責任主体は内閣だと言っています。
 第四条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」政治について余計なことを言うなよ、としつこく言っています。
 第五条 摂政規定
 第六条・第七条 国事行為の内容:任命、公布、国会の召集・解散、認証、授与、接受、儀式など。これらは要するに、「形式」的行為です。これら国事行為は、すべてパターン化されており、何をどうするか、の手順に至るまで、すべてについて、あらかじめ決めてあります。ちなみに新明解によると、「形式」とは「物事を成立させる場合にそれに準拠することが求められる一定の型・手続き」です。天皇は形式の指示する通りを行うだけであって、その中に入っている内容については、天皇の関知するところではありません。
 第八条 皇室の財産授受は国会の議決に基づかなければならない。

 憲法「第一章 天皇」に書いてあることは、これがすべてです。天皇「個人」に関する規定はどこにもありません。天皇「個人」については何も書いていないのです。無言です。憲法は、「制度上の地位」である天皇について規定しているのであって、天皇「個人」については関知しない、と言わんばかりです。
「関知しない」のであれば、天皇は個人としての自由な言動が許されてよいはずです。しかし、許していない。天皇は、現実には一個の個人ではあっても、個人(人間)であるより前に、何よりもまず「地位(制度)」でなければならない、と考えているからでしょう。
 天皇が個人であることは許さない――そういうことが、どこかに明記されているわけではないけれども、だれもがそう信じて疑わない。一種の不文律というか掟というか、その種のものがあるのではないでしょうか。

 このことを身に沁みて承知している陛下にとっては、「個人として」考えてきたことを表明するなどという、普通人にとってはなんでもないことが、ある種の決断を必要とする重大事なのだと思います。だからこそ、見解を表明する「お言葉」の最初のところで、自分を拘束している “縛り” の存在に留意するつもりだ、との断りの文言を書いて、内閣の了解を得る、そういう恰好をとらなければいけなかったのだと思います。「天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」というのが、その部分です。
 「お言葉」の最終案は、このように断りの文言が最初に来ていますが、陛下の本当の気持ちからすると、この部分は “但し書き” 程度のものだったのではないでしょうか。

 陛下の気持ちのままを言うと、こういう感じではないでしょうか。――現行の皇室制度について私は、とくに高齢となってからは何年も前から、個人として、思いを致し、考えを重ねて来ました。その、考えて来たことを話したいと思います。ただ、個人として話すと言っても、天皇という立場がありますから、今日の制度についてあれこれと具体的に立ち入って議論をすることは遠慮せざるをえないのですが。

 天皇というのは、「個人=私」として自分の考えを述べることさえも容易には許されない、そういう存在なのですね。ビデオメッセージ「お言葉」の翌日2016年8月9日の「天声人語」は、陛下のお気持ちを察し、陛下の身になって書いています。その中から一部を抜き出して、次に紹介します。

 ▼「お気持ち」を読む姿を見て、天皇にとっての公と私を考えた。自らの人生の終わりにまで言及されるのを聞き、国の象徴である天皇ではなく、その大役を果してきた明仁さま個人の素顔がのぞいた▼職責の重さを天皇自身がこれほど率直に語ったことはない。国民の前で見せたことのない「私」のスイッチを押すには、どれだけ勇気を要したことか(中略)▼私たちは天皇の内なる個人に思いをはせてきただろうか。24時間365日天皇は常に天皇のままだと無言の圧力をかけてはいないか。いまさらながら終身天皇という役割の重さを思った。

 それにしても、天皇が「一個人として」「私の責任において」「直接」国民に問う、というこのこと自体、帝国憲法時代の天皇のばあいだと、想像することさえできなかったのではないでしょうか。「一個人」もない。「私」もない。だから、もちろん、その、国民に対する「直接性」もない。天皇が個人であることを身をもって体験することなど、なかったのではないでしょうか。

 いつ頃のことでしたか、たまたま見たTVのニュース番組は、天皇・皇后両陛下がある被災地の避難所を訪ねて、被災者を見舞っておられる様子を伝えていました。その光景が忘れられません。
 体育館かなにか、大きな建物のなか、板張りの床の上は難を逃れて来た人たちで一杯です。カメラは、両陛下が入り口を入ってくるところからとらえています。お二人は、一人でも多くの人と直に触れ合いたい、声をかけたい、声を聴きたい、少しでも慰め、励ますことができれば、__その一心です。しかし、時間は限られています。いきおい中腰のままとか、かがみ込んでとか、床に膝をついてとか、あやうい姿勢にならざるをえません。でも、お二人は、みんなと同じ目の高さのところまで腰を落として、相手をしっかり見つめて、話しておられます。言葉はわずかに二言三言なのですが、そうではあっても、被災者の身の上を案ずる両陛下の気持ちは、その場に居合わせたすべての被災者たちの心へとしっかり届いているのでした。

 両陛下が自分たちの身の上を心配してわざわざ見舞いに来て下さっている――被災者たちの感激は、筆舌に尽くせぬものがあるに違いありません。彼らは、天皇が自分たちと同じ、血の通った一個の人間であることを、目の前で見て知りました。
 陛下の「惻隠の情」から発する「被災地お見舞い」という行為は、被災者国民の心を動かしました。そして、彼らが体験したその感動は、ブーメランよろしく、両陛下の胸に帰って来るのでした。これはいったいどういうことでしょうか。

 彼らの感動を受けとめる陛下ご自身の心の中に、「天皇」という地位によっては尽くすことのできない、「個人」という在り方が生まれる――そういうことではないかと思うのです。「明仁」という名の「個人」が、天皇という地位を務めながらも、その地位から引き剥がすことができないかたちで、その「個人としての存在」を主張する。
 今上天皇は、自らのうちに、そういう二重性を抱えつつ「天皇」を務めて来られたのではないか、と思うのです。

 であるからこそ陛下は、「個人として」これまでに考えて来たことを話したい、と語ることができるのだと思います。このように言い切ることができるのは、1989年55歳の即位のその時以来、否、皇太子の時代から、陛下は、象徴天皇のあるべき「在り方」をめぐって探究の日々を過ごしてこられたからだと思います(この点については第五節・第六節で詳論します)。

 ところが、 “「個人として」の天皇なんて認めない、とんでもない” と言わんばかりの主張をする人たちがいます。ここでは、新聞報道(2016年11月15日)のなかから、渡部昇一氏と櫻井よしこ氏の発言をとりあげ、紹介します。

 まず、渡部昇一氏の発言です。
「天皇陛下が国民の前でお働きになり、任務を果たされることは非常にありがたく思う。しかし、それは必要ないのだと、陛下に伝える人はいないのだろうか。(中略)天皇の仕事は国民の目に見えるところであるのみならず、一番大切なのは、国と国民のために祈り続けてくださることだ。(中略)宮中で国と国民のためにお祈り下さればそれで十分なのだ。」

 次に、櫻井よしこ氏です。
「天皇は、いて下さるだけで有り難い存在だ。天皇に求められる最重要のことは、祭祀を大切にして下さるという御心の一点に尽きる。その余のことを天皇であるための要件とする必要性も理由もない。」

 二人の言いたいことは、あらまし次のようなことでしょう。――天皇は、国民の目に触れるところには出て来なくていい、出て来る必要がない、出て来ることを是認する理由もない。天皇は、国民の目の届かない、宮中奥深くに在って、ただひたすら神様を祀っておればよいのだ。神様に仕えて、拝んで、祈ってさえおればいいのだ。天皇の務めは神事あるのみ、それに尽きる。桜井の言う「その余のこと」はだれも期待していない。国民のことを我が事のように心配するなど、「その余のこと」の最たるものであって、迷惑する、はっきり言って有難迷惑なのだ。などなど。

 渡部氏や櫻井氏の天皇論は、要するに、天皇を宮中に幽閉する、天皇を犧(いけにえ)として神様にささげる、天皇には祈祷以外の余事を許さない、ということです。天皇を “神様の奴隷” として処遇する、ということです。もちろん、憲法18条が「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」とうたっていることは承知の上です。
承知の上の奴隷扱いなのですから、天皇については、人間としての尊厳とか、個人の人格であるとか、その種のものは端から認めない、というのが、彼らの立場です。
彼らのホントの気持ちは、天皇を奴隷にしたい、国民ではなくて神に仕える奴隷にしたいということです。そんな無茶苦茶な話があるものかと思うのですが、これが事実です。

 この点をずばりと指摘されることは、彼らが最も怖れるところではないでしょうか。事実の露見をあらかじめ封じるには、どうすればよいか。事実とはまるっきり反対の、真逆の「事実」を造りあげるしかない、虚偽の「事実」でもって真実を隠蔽する――これは明治の頃からやってきた、いつもの遣り口であって、驚くほどのことではありません。
実際には何をどうするのか。天皇を思い切り高いところまで持ちあげる、これより上はない頂点として、絶対の権威として祀り上げる、奴隷なんかであるはずがないと神格化する、これしかないというわけです。

 事実、自民党はその「日本国憲法改正草案」において、この隠蔽工作をやってのけています。すなわち、草案第一条の冒頭を、「天皇は、日本国の元首であり」と始めておいて、その後に現行日本国憲法第一条の条文を付け加えています。この加筆部分と現行第一条部分とは、整合しないばかりか、齟齬をきたすのですが、お構いなしです。彼らが狙っているのは、天皇の格上げです。

 彼らが言いたいことはこうです。――天皇が「日本国及び日本国民統合の象徴」であるとか、その地位が「主権の存する日本国民の総意に基づく」とか、そんなことはどうでもよい、いちばん大事なことは「天皇は日本国の元首である」ということだ、偉大なのだ、greatなんだぞ、と。
 彼らは、もっとズバリと言いたいことがあって喉元まで迫っているのですが、なんとか我慢します。言いたいホンネとは何か。 “国民統合の象徴天皇” なんて、まっぴらご免を蒙りたい、天皇は元首なのだ、そして元首であるとは統治権力であるということだ――これが彼らのホンネでしょう。

 口に出して言うことにためらいを感じてしまうのは、大日本帝国憲法第一条を想起させるからではないでしょうか。
 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」というアレです。日本近代史のその後をたどるとき、彼らでさえ、天皇「元首=統治権力」規定については不吉なものを感じざるをえないからではないでしょうか。

 にもかかわらず、自民党安倍内閣は憲法第一条の冒頭において「天皇は元首である」と明言せずにはおれません。宮中の奥深くに天皇を幽閉し、神の奴隷として処遇するには、この手を使うしかないからです。
 天皇に関するかぎり、「個人としての存在」など許されていないし、「人間の尊厳」などというのは寝言も同然だ、ということなのでしょう。
 渡部昇一とか櫻井よしことか、彼らを有識者会議のメンバーに選んだ首相の安倍晋三とか、
 この類いの人間の考えていることは、要するにこういうことだと思います。

 厄介なことに、陛下が相手にしているのは「この類いの人間」だということです。位置関係は、官邸と宮内庁、宮内庁を間に挟んで天皇陛下、というものです。この構図のなかでの、数度にわたる応酬を経て、なんとか折り合って出来たのが、ぼくらの知るビデオメッセージ「お言葉」です。やり取りの実相はどんな具合だったのでしょうか。最後に、念のためにと思って、これらの組織を調べてみました。

 内閣府は、とにかく巨大ですし、複雑怪奇です。当然、膨大な数の職員と巨額の予算が投じられています。組織の全体を把握することなど、とてもできそうにありません。それにひきかえ、宮内庁は組織の規模も小さいですし、力もありません。組織替えのたびに凋落の一途をたどって来たことが、職員数の減少に表れています。
 もともとの組織は「宮内省」でした(終戦当時の職員数6200人)。それが、新憲法のもとでは「宮内府」へと地位を下げられます(昭和22年の職員数1500人弱)。さらに昭和24年には「宮内庁」(総理府外局)に格下げです。そして平成13年内閣府設置法により、「宮内庁」は内閣府へと吸収されます(平成28年末の職員数1009人)。

 以上によって、天皇および皇室に関わる行政機関が、戦後一貫して、人員整理・予算削減のターゲットになって来たことがわかります。この傾向は、ひいては、天皇軽視につながるのではないでしょうか。今上天皇をとりまく構図および状況が以上のようですと、陛下がいかに困難な環境のなかでビデオメッセージ「お言葉」を発信されたか、察するにあまりあるものがあります。