ウヨク・サヨクの〇×


仲正昌樹[第40回]
2017年1月6日

 前回、偽科学批判クラスターやソーカル教信者、文系廃止論者などの○×思考について論じたが、ウヨクやサヨクはそれとは少し違った〇×思考をする。ウヨク/サヨクが、他人の発言を敵か味方かという基準でのみ判別し、敵に対しては人格否定をして徹底的にけなし、味方に対しては、やたらと「すごい!」「正論です!」と連呼して、無条件に持ち上げる、というのは今更言うまでもない。私が今回問題にしたいのは、引用や参照に関する“不寛容”の問題である。
 ウヨクもサヨクも、特定の思想家を自分たちのモノと決め付け、“敵”――ウヨクの目から見てサヨクに見えるもの、サヨクの目から見てウヨクに見えるものは全て“敵”である――が自分たちの思想家を引用・参照することを冒涜だと言って異常なまでに怒り狂う。批判するために引用・参照するのを嫌うのであれば、分からないでもないが、中立的・肯定的に言及する場合でも、いやむしろそういう場合の方が激しく怒り狂う。
 例えば、保守系もしくはポストモダン系の論客が、マルクスのテクストを引用して「労働価値説」に根拠がないことを指摘し、マルクスの名の下に工場での肉体労働や労働者を神聖視し続ける左翼的言説を批判したとする。そうすると、サヨク連中は、「労働者の現実を知らないウヨクが、これまでのマルクス研究の蓄積を踏まえないで、マルクスを濫用していい気になっている。これこそ、反知性主義だ!」、という感じで騒ぐ。騒いでいる連中のほとんどは、ドイツ語の原文を読むこともできず、「労働価値説」というのが元々どういう学説だったのか知らず、賃金労働者としてちゃんと働いた経験さえ乏しいような連中であり、とても他人のマルクス論を批判できる立場ではないのだが、とにかく自分たちの聖典を汚したウヨクを口汚く罵る。その逆に、リベラル左派やポストモダニストが、保田與重郎、福田恒存、江藤淳などを引用・参照して、現在の保守論壇や自民党の態度を皮肉るようなことを言うと、ウヨク連中は、「笑止! 思想や言葉に対する覚悟がなく、皮相なことばかり言っている〇〇ごときに、△△先生の壮烈な精神が理解できるはずがない。」、という調子で罵る。そのくせ、その“△△先生の壮烈な精神”がどういうものか自分では説明できない。
 この手の人たちは、それほど党派的なニュアンスを帯びていないちょっとしたコメントでも過剰に反応する。私が、ある思想系雑誌の依頼で、現代日本の代表的論客の何人かを紹介する短い文章を書いた時のことである。その内の一人が西尾幹二であった。私は、西尾は現在、西欧的価値観に基づいて日本社会の後進性を糾弾する進歩的知識人を批判する保守のポジションを取っているが、彼自身も元々ドイツ系の教養をベースにして文筆活動をしていた、という主旨のことを書いた。ごく普通に考えれば、別に何ということのない普通の紹介である。そうしたら、西尾の信者らしい、頭の悪そうなウヨクがブログに以下のようなことを書き込んだ:「思想家の紹介ということなので、別にどういう立場の人が書いてもいいとは思うが、この人は間違ったことを書いている。西尾先生が教養主義者であったと言うのは事実に反する…」あまりの見当外れに唖然とした。恐らくこの西尾信者は、自分の教祖様が、もともとニーチェ研究を専門とする独文学者で、ドイツ文学・文化に関する知識を基にして文芸批評をやっていたことを知らないのだろう。そのうえ、「教養」と、「教養主義」を混同している。彼は自分の教祖様を、無教養な乱暴者だと思っているのだろうか。
 念のために言っておくと、西尾幹二が批判しているのは、主として大正時代の教養主義だが、教科書的に言えば、これは単に西欧の自分教養の知識を身に付けるだけでなく、それによって人格的陶冶を目指した運動である。西尾はそれに対して、人格の陶冶のような高尚なことを目指したわけではなく、単に舶来の知識を鼻にかける嫌味な態度であり、日本社会をバカにする現代の進歩的知識人の原型になったと見て批判しているわけだが、それは西尾流の捉え方であって、それとは異なる見方をする人も多い。また、西尾の元々の研究対象であったニーチェは、同時代のドイツの教養俗物を痛烈に批判したことで知られているが、それはニーチェが普通の知識人を遥かに凌駕する古典的教養の持ち主だったから可能なことであり、ニーチェの死後、彼のテクストをドイツ文学・思想を学ぶための基礎教養と見る傾向が西欧諸国でも日本でも生じてきた。「教養」の本質とは何かというのは、常に論争の余地のある難しい問題であり、それと「教養主義」との関係となると、かなり複雑なことになるが、くだんの西尾信者はそんなことは全く知らないだろう。恐らく、教祖様が、「私は教養主義を批判する」、と言っていたのを、どういう意味か理解しないまま念仏のように信じ込み、それと矛盾しているかのように見える文章を書いた私のことを、「間違っている」と断じたのだろう。知ったかぶりをしたがるウヨク、サヨクには、この手の話が通じない輩が多い。
 ウヨクにもサヨクにも人気があり、双方が自分のモノだと思い込んでいる思想家・作家から引用・参照すると、双方がへ理屈でクレームを付けてくるので面倒くさい。カント、ニーチェ、デリダなどがそういう対象になりやすいが、一番極めつけが左右の全体主義を批判したハンナ・アーレントだろう。この連載で何度か言及したように、アーレントを自分たちのマドンナだと思い込んでいるバカなウヨクは、アーレントがインターナショナリズムの左翼知識人の欺瞞を暴き、ナショナリズムを擁護していると思い込み、ナショナリズムに批判的な人間にはアーレントを語る資格がないと決め付け、罵倒する。アーレントのテクストの中のナショナリズムに関する批判的な考察や、左派に対して好意的なコメントは一切目に入らない。サヨクはサヨクで、アーレントは共同体から排除され、権利の主体として尊重されていない他者(弱者)に寄り沿う思想家であり、弱者の声を聞き取ろうとしないウヨクがアーレントを語るなどというのは噴飯ものだ、と喚く――私は、「噴飯」といういかにも汚らしい表現を平気で使える人間の感性が信じられない。
 いずれの側も、まるでキリスト教の狂信者が『聖書』を取り合っているように狂暴になる。文献学的にある程度信頼性のある『聖書』解釈をしてくれるのであれば、右でも左でもいいのだが、この手の話にすぐに首を突っ込んでくるのは、自分たちの親分の言い分を鵜呑みにし、コピペ・ツイートを繰り返す廃人のような輩なので、話が通じない。ソーカル信者とか、ピケティ+リフレ信者は、ウヨク/サヨクのいずれかにはっきり分類しにくいが、教祖様の言い分を『聖書』のように信じ込み、異端的な理解を許さない体質は、ウヨクやサヨクと共通している。

左右からの眼差しが熱いデリダ・ニーチェ・カント

左右からの眼差しが熱いデリダ・ニーチェ・カント

 私の経験上、一番イラつくのがフェミニストである。フェミニズム思想家の中でもジュリア・クリステヴァ、ジュディス・バトラー、ガヤトリ・スピヴァック、ドゥルシラ・コーネルなどは、精神分析や現象学、脱構築などに関わる哲学的議論をしているので、それほどフェミニズムにシンパシーのないポストモダン系やリベラル系の論者、場合によっては保守派にとっても参照すべきところが多々ある。しかし、あまり頭がよくない、教条的なフェミニストは、敵による引用・参照を一切認めない。例えば、「仲正は、『声』を奪われている性的マイノリティに寄り沿った、〇〇の議論を脱文脈化し、フェミニズムやクイア・スタディーズの基盤を掘り崩すことに利用している。脱構築の名の下でのこうしたテクストの簒奪は、まさに〇〇が危惧していた、ファロゴセントリズムに密かに通じるポストモダン的シニシズムの現れに他ならない。仲正の無自覚さは、象徴界がいかに深くファルスの幻影に囚われているかを示すメルクマールであり…」というような調子で、習い立てのフェミニズム用語をちりばめて、しつこく“批判”してくる。そこにお仲間たちが食いついてきて、同じような調子の文章を書きつらねていくので、本当に嫌になる。難しい用語・言い回しを使っているけれど、実際には、“マッチョな敵”と闘っているジャンヌ・ダルクのような私に酔いしれたいだけの、ナルシズム的な文章にすぎなのだが、知的な雰囲気を装っているので、腹が立つ。こういう連中から受けた迷惑については、『なぜ「話」は通じないのか』(晶文社)や『ラディカリズムの果てに』(明月堂書店)でいろいろ述べたので、関心ある人はそれらを参照して頂きたい。
 オリジナルのテクストの記述を文字通りの意味で捏造していない限り、どんな立場の人による解釈であれ、いったんは虚心坦懐に受け止める、という姿勢がないと、学問的な議論など不可能である。