○×脳の恐怖


仲正昌樹[第39回]
2016年12月5日

仲正氏による、ゲーテの〝トンデモ本!?〟『ファウスト』を文学的に深読みする、第四回

仲正氏による、ゲーテの〝トンデモ本!〟『ファウスト』を文学的に深読みする講座は第四回を迎えた

 先日、ある知人とポストモダン系の思想をどう評価すべきか、というテーマで話をしていて、「先生は、トンデモ本を引用しますか?」、と質問された。ポストモダン系の思想家が、自然科学用語を不正確に使っているというソーカル的な前提での質問である――ソーカル事件については、この連載の二二~二四回を参照。この質問に対して私は、先ず「トンデモ本かどうかというのは、その本をよく読まないと判断できません。実物を読まないで、それに対する批判的な意見を鵜呑みにして、トンデモだと決め付けるとすれば、その本におかしなことが書かれているか否かにかかわらず、その人の方がトンデモです」、と述べた。それに続けて、「どういう意味でトンデモなのかによって引用するかどうか決まります。『聖書』は、自然科学的にはトンデモな本ですが、『聖書』を研究するのは、トンデモですか? どういう意味で研究するかによるでしょう」、と言った。
 そう言っている内に、理系人間を自称して文系無用論を唱えたり、ソーカル信者になってしまう人たちは、[非科学的な奇蹟を記述する『聖書』はトンデモ本である→トンデモ本である『聖書』から引用する本もまたトンデモ本である]式の、恐ろしくシンプルな発想をしているのではないか、ということに気が付いた。この手の人たちは、人文系の学問で、他人のテクストを参照・引用することにどういう意味があるのか、そもそも何を研究対象にしているのか考えたことがないのだろう。
 理系の学問の論文であれば、自分がこれから実験や観察によって明らかにしようとしている対象について既に確定している事実を確認したリ、自分と類似の意見、あるいは対立する意見と対比するため、自分の説の意義を示すための引用がほとんどだろう。だから、科学の常識と反することを主張する本や論文から長々と引用することはあまり考えられない。それに対して、哲学、文学(研究)、歴史学、社会学などでは、自らの説の学術的意義を示すのとは全く違った意味で、他人の文章を引用・参照することが多い。そこを分かっていないと、頓珍漢な“批判”をすることになる――とにかく、文系の学者の悪口を言いたい輩は、最初から分かろうとする意志がないかもしれないが。
 少し具体的に考えてみよう。「錬金術」について研究している学者がいるとする。反似非科学の闘士として正義のために戦っているつもりの――例えば、この連載の二四回に取り上げたlocust0138のような――バカなら、「錬金術を研究している」という言い回しに脊髄反射して、「錬金術を研究しているなんて、すごいトンデモ学者だ!」、と狂喜して叫ぶだろう。冷静な人間であれば、その場合の「錬金術について研究する」というのが、どういう意味か考えるだろう。西欧中世の錬金術と全く同じ方法で卑金属から貴金属を作り出せるとか、賢者の石が実在するとか信じていて、その思い込みを文書にしているのだとしたら、トンデモと呼んでいいだろう。しかし、錬金術の書と同じことをやったら、実際どうなるか試してみて、その記録を文書にしたということであれば、話は違ってくるだろう。どうなるか現実に試してみるというのは、むしろ科学的な態度だとも見ることができる。昔の人が、錬金術の法則を発見したと思ったのはどうしてか、彼らをそう思わせた現象とは何だったのか研究するのであれば、科学的な研究であろう。
 歴史学、あるいは歴史社会学の研究者であれば、錬金術がどのような地域、どのような階層の人の間にどのように広がり、伝承したかについて研究する。科学史の研究者であれば、錬金術が近代科学の発展が与えた影響について研究する。文学史の研究者であれば、文学に与えた影響、美術史の研究者であれば、美術に与えた影響を研究する。文化人類学や社会心理学、精神分析の研究者であれば、錬金術的な表象が人間の行動や心理、生活様式とどう関係しているのか研究する。過去の思想家や哲学者が錬金術に関心を持っているとすれば、それは思想史家や哲学者の関心の対象になる。『聖書』に記述されている奇蹟については、こうした意味で研究する価値のある内容は更に広がる。キリスト教の教義やそれと結び付いた西欧の哲学的思考、教会の制度やそれと結び付いた法や経済の制度、民間の慣習など…。
 一般的に言って、過去の人が科学的に間違ったこと、雑なことを言ったとしても、それが社会の中で流通し、何らかの社会的機能を担っているとすれば、それは研究するに値する。例えば、一八世紀の知識人でニュートン力学についての雑な理解に基づいて独自の認識論や世界観を展開した人がいて、それが一定の社会的な影響を及ぼしたとすれば、思想史家や社会史家は、どうしてその影響があったのか、その背景に何があったのか調べようとする。二〇世紀において量子力学、相対性理論についての言説が、芸術や文学に一定の影響を与えている。文学(研究)や社会学の立場から、そうした言説を分析することもある。そうした研究をして、論文にまとめる場合、元の言説が科学的に正確かどうかは第一次的には重要ではない。別に物理学や数学の論文を書いているのではないからである――こういう風に説明しても、何のことか理解できす、「思想史は、インチキ物理学に基づいて論文を書いてもいいと、仲正が認めた」、などと騒ぐ真正のバカが現われるので、疲れる。
 もう少し、複雑な場合もある。物理学、化学、心理学、医学、精神分析、生物学、社会学経済学などの――多くの場合、未確定の――“研究成果”が、メディアや一部の学者の政治的活動を介して世論や人々の価値観に決定的な影響を与え、場合によっては法制度にも反映されることがある。原子力、地震、地球温暖化、健康診断、犯罪の原因、仕事等によるストレスと精神疾患の関係、違法行為をした人の責任能力…などの問題を念頭に置けばいいだろう。それらの問題は、“研究成果”と、政治や社会的圧力が結び付いた複合体が形成されている。STAP細胞問題をめぐる一連の騒ぎは、その分かりやすい例だろう。ジェンダー・アイデンティティとか、(精神や身体の)正常/異常の境界線をめぐる問題になると、その時々の科学や科学的言説だけでなく、文化やそれまでの歴史的経緯が絡んでくるので、かなり複雑になる。
 哲学や社会学、文芸批評が、そうした“科学”絡みの言説、現象に対して批判的に、あるいはアイロニカルに論評する場合、当然のことながら、発端になった“科学的研究成果”とはかい離した言葉遣いをすることがしばしばある。“科学的成果”そのものに疑問を呈するのではなく、その使われ方、語られ方を論ずるのであれば、元の専門分野と違った言葉遣いをすることに――そこにズレがあることを承知しているのであれば――さほど大きな問題はないだろう。一部の未熟な研究者や批評家が、オブジェクト・レベル(個別領域における科学的研究の内容それ自体に関わるレベル)とメタ・レベル(前者をめぐって構築される社会的言説や制度のレベル)を区別できていないように見える文章を書いてしまうことがないわけではない。しかし、そうした少数の例から、ポストモダン系の思想、あるいは、人文系の学問全般が、科学的エビデンスに基づかないで、虚構の世界の話をしているなどと主張するのは、ものすごい飛躍である。それこそエビデンスに基づかない、雑な類推である。“批判”しているつもりの人たちが、人文科学や社会科学の研究対象やそれに対するアプローチの仕方の複雑さを理解していないため、少数のお粗末な実例から“全体”を類推しているにすぎないことが多い。私は、そうした根本的な誤解が、ソーカル事件の根っこにあると考えている。
 そうした誤解が起らないよう数学や自然科学と、人文科学、社会科学の対象設定やアプローチの仕方の違いをきちんと説明するのが、科学史や科学哲学の役割のはずである。しかし、そうした分野の“研究者”、あるいはそれらを大学で学んだはずの人たちの中には、その肝心な所を理解しないで、安易にソーカルやブリクモンの尻馬に乗って、“ポストモダン叩き”――“ポストモダン”とくくられている領域の設定がかなり雑であることについては、二二~二四回で論じたのでここでは繰り返さない――をして喜んでいる輩がいるようだ。そういう輩がネット上で、理系研究者崩れや自称理系人間などと野合して、とにかく学者・知識人の悪口を言いたいバカを先導して、ポストモダン=似非科学説や文系不要論を広めているように思われる。偉そうにしている(ように見える)哲学研究者や文芸批評家が、トンデモ科学を信奉していい加減なことを言っているかのようなプロパガンダを耳にすると、locust0138のような――文系であれ理系であれ大学でちゃんとした学問を学んだことのない――バカたちが嬉々として集まって来て、餌を撒いてくれた“研究者(崩れ)”を神のように崇める。まるで、コンラッドの『闇の奥』のクルツか、『地獄の黙示録』のカーツ大佐のように。
 この手の人たちは、自分たちがよく知らない哲学、文学(研究)、歴史学などの方法論や論文の書き方についてちゃんと学ぼうとせず、いきなり「ポストモダンを擁護するなど笑止!」、「トンデモを庇うお前もトンデモだ!」、「あんたたちの無内容な話など聞く必要などない」、などと偉そうで、攻撃的な物言いをするので、まともに対話することなどできない。 
 物事を単純に〇×を付け、×が付いたものに関連するものは全てトンデモ扱いするのは、楽かもしれないが、×を付けていい対象の範囲についてよく考えないと、自分の方がトンデモになってしまう。ネット上で論客ぶって威張っている人間の多くが、そうした〇×脳になっているように思える。
 サヨクやウヨクの人たちも――ソーカル信者たちとある意味よく似た仕方で――〇×思考をすることが多いが、それについては別の機会に論じることにしよう。