安倍流 “民主主義” とリンカーン(16) リンカーン像の再構築⑥リンカーンの悲劇—the people or government?


たけもとのぶひろ[第116回]
2016年11月27日

ミュージカル「ハミルトン」

ミュージカル「ハミルトン」

 リンカーンについての考察をまとめるところへきて、これだけしつこくああでもないこうでもないと、あるいはこうかもしれない、と考えてきて、にもかかわらず、まだ言い足りない思いが残ったテーマについて書いています。今回は、 “またか” と思われることを承知の上で、「ゲティスバーグ演説」の結語部分のうち、いわゆる民主主義の定義とされている、あのテーゼについて、さらなる理解の挑戦を試みたいと思います。
 我ながら、牛が藁を喰うているようなものやなぁ、と。彼らはいったん噛み砕いて呑み込んだ、胃の中の藁を、またまた口の中に出してきて噛んでいるでしょう、あれです。ぼくの頭も、牛の胃腸のように蠕動(ぜんどう)運動をしないと、物事が理解できないようにできているのかもしれません。理解というか消化というか。

 さて、『ゲティスバーグ演説』の結語のgovernment は、『演説』第2パラグラフのthat nation のソレを指します。くり返しになりますが、示します。
 Now we are engaged in a great civil war, testing whether that nation――can long endure. (――は省略した部分です)。ここにあるthat nation の nation は、リンカーンがソレの再統合のために戦っている「nation=国家」です。ところが、第1パラグラフにすでに a new nation とあり、第2パラグラフの この that nation は、文章上はそれを受けているわけです。

 しかし、冒頭のその a new nation を受けて “that” nation と表現してよいのでしょうか。ここでも、まず原文を引用します。(何度目かなぁ、ホンマに済みません。)
 Four score and seven years ago, our fathers brought forth on this continent a new
 Nation, conceived in Liberty, and dedicated to the proposition that all men are created equal.

 岩波文庫『リンカーン演説集』は、当該部分を以下のように訳しています。
 「87年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、すべての人は平等につくられているという信条に献げられた、新しい国家を、この大陸に打ち建てました。
 現在(いま)われわれは一大国内戦争のさなかにあり、これによりこの国家が、(中略)永続できるか否かの試錬を受けているわけであります。」

 1863年の演説から数えて87年前ですから、リンカーンは、1776年の「独立宣言」のことを言っているのです。「新しい国家を打ち建てた」と。以前に書いたと思うのですが、国家という新しい考え方( “a” new nation)をする人たちはたしかに存在していたでしょう。しかしそのことは、「独立宣言」の父祖たちが「国家を打ち建てた」こととはまったく別の事実です。

 1776年7月、「独立宣言」を発することによって、大陸における13の植民地は、それぞれが自由と主権を有する独立の「州」となり、直ちにそれぞれの州憲法の制定を始めました。他方、諸州を一つにまとめる動きの方はと言うと、「連邦の結成」という点では合意されたのですが、その合意を連邦の「憲法」と言うべきものに具体化し、さらにこの地上に実現するとなると容易ではありませんでした。起草・審議・加筆訂正・全州批准をなんとかクリアして発効に漕ぎ着けたのが、1781年3月とのこと、5年近い歳月がかかっています。それでもしかし、連邦はなかなか「国家」として機能しませんでした。

 なんとか国家らしい国家――つまり、単一の主権をもった「国民国家」nationができたのは、1789年、合衆国憲法とそれに基づく合衆国連邦政府(初代大統領=ワシントン)が発足してからのことだと言います。「独立宣言」から10 年以上かかっているのです。
 アメリカ植民地諸州はもともと分権的志向が強かった。Free and Independent Statesを「独立戦争=革命戦争」へと起ち上がらせたのが、『宣言』起草者のトーマス・ジェファーソンたちでした。それをまとめて「A Nation=United States of America」 を立ち上げたのは、初代大統領のジョージ・ワシントンとその仲間たちです。しかし、それでもまとめきれず Great Civil War となり、これを勝利に導き、「国民国家・合衆国の再統合」を実現したのが、時の大統領・最高司令官のエイブラハム・リンカーンでした。

 このように見てくると、「国民国家・合衆国の再統合」を果たしたリンカーンがその血を受け継いでいる「父祖たちour fathers」というのは、「独立宣言」を起草したトーマス・ジェファーソンたちのことではなくて、「合衆国憲法」を発効させ「合衆国連邦政府」を発足させたジョージ・ワシントンたちのことを意味するのではないか――そんな気がしてならないのです。

「独立宣言」の先人たちが宗主国イギリスからの独立を期して革命戦争に起ち上がったとき、戦ったのは13州の寄り合い所帯でした。the United States of Americaは、――いまでは「合衆国」という一つの国を意味しますから単数扱いですが――当時はstatesのそれぞれが「自由・独立・主権を有する州」であることを主張していましたから、文字通り13のstates が存在していて、それぞれがそれぞれにおいて戦い、その上でなんとかまとまって連合体(同盟)をつくろうとしていた。そういうことだったと思うのです。

 このことは「独立宣言」の最後のところを読めば、納得がいくと思います。彼ら曰く。
 We, therefore, the Representatives of the United States of America, in the Name and by the Authority of the good People of these Colonies, solemnly publish and declare that these United Colonies are, and of Right ought to be Free and Independent States.

 彼らはUnited Statesの代表者だと名乗っていますが、そのUnited States を United Colonies と言い換えてもおり、さらにその本質は Free and Independent States にあると宣言しているのです。
 宗主国イギリスと戦うのは、それぞれ自由・独立・主権を有する13の州です。しかし、その戦争に勝利して独立を達成するには、13の州が一つになる、一体化して戦わなければなりません。13州の「一致団結」Consentは、英国という一大帝国に勝利し、独立するための絶対的条件です。逆に言えば、「一」が現実には達成されていないからこそ、一致団結が、ひいてはいまだ見ぬ「国家」への求心力が、底流として流れていたのかもしれない、そう言ってもよいのではないでしょうか。

 言いたいのは、「一」となるより以前と・「一」となるプロセスと・「一」の実現とでは、テーマが違う、別の理論を用意しないと、現実の要請に応えることができない――そういうことだと思うのです。
 ・「一」となるより以前だと、中央の・唯一絶対の権力、などというものは存在していませんし、存在していない権力は発動できません。したがってまた、「国民」もいまだ形成されていませんから、動員できません。「独立戦争」において戦ったのは、植民地の被支配者人民です。被支配者人民——強いて言えば、13の州の人びとが、一致団結して戦ったのでした。もちろん、戦いに勝利し、政府 governments を立ち上げ、動かしていかねばならない、と展望しています。

 この点について『独立宣言』が触れている次の指摘は重要だと思います。
 That to secure these Rights Governments are instituted among Men, deriving their just Power from the Consent of the Governed,
「(生命権・自由権・幸福追求権など)これらの権利を確実に手に入れるために、人びとの間に政府というものが設けられる。政府権力の正当性の因って来たるところは、被統治者の同意the Consent of the Governedである。」

「政府・統治」government の如何を決めるのは、「被統治者人民」the governed=the people」の「同意」Consent でなければならない、というのが「独立宣言」の立場です。統治の決定権は被統治者にある、と言うのですから、完全な「下からの人民目線」であるべし、と主張しているわけです。

 これまでのぼくは、しかし、 governments, deriving just power from the consent of the governed(『独立宣言』)と government of the people, by the people, for the people(『ゲティスバーグ演説』)との、二つのセンテンスが、同じ思想を表現しているものと思いこんでおり、なんの疑問も感じていませんでした。

 ところが、すでに指摘したように、「下からの同意形成」をめざす『独立宣言』と違ってリンカーンの民主主義は、——『ゲティスバーグ演説』のかの定義では明示的でないのが残念ですが__選挙という「上から」の統治機構を通して、国民のあいだの共通性・共同性を組織し、よってもって国家・国民における「多数派形成」をめざす、というものでした。

 その場合、いったん多数を制したとなれば、「多数=全体」の等式が成立し、多数派は「全体の名において」「国民の名のもとに」政治を支配することができるのでした。
 リンカーンは、大統領に再選された日の挨拶のなかで述べています。「選挙はぜひとも行われねばなりませんでした。われわれは選挙によらずして自由な政府を持つことはできません」と。選挙では、勝って多数派をとる__結果がすべてです。majority rule というのは、そういうことです。

 しかし、「下からの同意形成」の場合だと、そうはいきません。結果もさることながら、問われるのはむしろプロセスです。同意の中身の如何は、それへと至るプロセスにこそあるからです。

 『宣言』起草者のトーマス・ジェファーソンは、ヴァージニア州の大プランターでもありました(彼は200人もの黒人奴隷を所有していたとされています)。ジェファーソンが理想とする未来のアメリカとは、「神により選ばれたる民=白人農民」のみからなる「農業共和国」だった、といいます。どういう国を、彼はイメージしていたのか、既出の『アメリカの歴史を知るための63章』から引用して示します。
 「その国では、直接民主政がおこなわれる小さな自治社会=区が政治の基本単位となる。区が集まって郡を、郡が集まって州を構成する。郡と州では代議制民主政がおこなわれる。民主政がおこなわれうるのは【人民の監視の眼が届く範囲】である州までが限度で、州が集まって構成される連邦の中央政府の権限は、弱ければ弱いほどよい。これがジェファーソンの農本主義的民主政である。それは連合規約の理念と相通じている。」(【】はぼく)。

 国家の統治government が民主主義の要件を満たしているかどうか__それを判断するのは「the governed=the people」です。政府はもちろん民主主義の要件を満たしていると主張するでしょう。しかし、政府のその主張に対して、同意consent か不同意dissent か、認めるか認めないかは、人民 the people の判断にかかっています。
 「被統治者の立場にある人民」においてその判断ができるためには、政治というものが見て・聴いて・体験することのできるところで、つまり「人民の監視の眼が届く範囲」で行われていなければなりません。

 ここでぼくが指摘したいのは、要するに、統治 government の主体 subject の違い、ということです。すなわち、「同意形成」の政治であれば、「被統治者人民 the governed= the people 」が政治の主体でなければならないと考えるわけですが、「多数派形成」の政治だと、結局は「政府統治者 the governor= 政府the government 」が政治をやっているのだ、ということにならざるをえません。 行き着くところをもっと単純化して言うと、
the people か the government か、ということになるのではないでしょうか。

 そして、これまでの議論を図式的に復習して言うと、前者がジェファーソンの『独立宣言』であり、後者が『合衆国憲法』ないし『ゲティスバーグ演説』だということでした。このように明らかに立場を異にしているにもかかわらず、リンカーンはジェファーソンたちをour fathersと呼んでいます。違和感を覚えます。
 リンカーンがour fathers と言うなら、すでに指摘したように、独立戦争を勝利に導き、「合衆国憲法」(発効 1788年)のもとで、「アメリカ合衆国という国家」(A Nation=United States of America) を発足させた、むしろジョージ・ワシントン初代大統領とその仲間たちの名を挙げてくれたほうが、納得しやすいのですが、どうしてそうなっていないのか、よくわかりませんでした。

 ところが、11月21日の新聞を読んでいて “もしかして” と閃くものがありました。ぼくが見たのは「アレキサンダー・ハミルトン」という人物についての記事です。
 かの独立戦争の際、総司令官ワシントンの副官をつとめた人物だそうですから、また合衆国憲法の事実上の起草者と言われている人でもありますから、当然、アメリカ建国の父たちの一人です。また、10ドル紙幣にその肖像が印刷されている人物として、米国では知らない人がいない、そういう人だそうです。そしていま現在、ブロードウェイで大ヒットを飛ばしているミュージカル「ハミルトン」(https://www.youtube.com/watch?v=eOdWU-EnOEk)のモデルでもある、と。

(ちなみに、この芝居はミュージカルの世界最高峰とされている「トニー賞」2016年版において、16部門でノミネートされ、11部門で受賞し、現在もチケットの入手が困難なほどの大ヒット中、と報道されています)。【注】

10ドル紙幣を飾るハミルトンの肖像画

10ドル紙幣を飾るハミルトンの肖像画

 初代財務長官に任命されたハミルトンは、まず「中央集権的な強い政府」を立ち上げ、これをエンジンとして、工業の保護育成政策、関税の設定および統一的国内市場の形成、財政金融制度の整備(連邦中央銀行・合衆国造幣局の設立、ドル硬貨発行)など、「上からの近代化」を一気に推し進めました。

 ハミルトンたちフェデラリストはそのほとんどが、北部の、知識階級エリートとか裕福な商業階級とか、の出身です。この種の人間は、自分のことを、「統治の任に当たるべく・神によって選ばれし者」である、と思い込んで生まれてきています。 dignity, grace, intellectuality, pride, justice, morality などの徳性はもとより身に備わっており、だから他者からはrespect とtrust の眼で見られて当たり前、というのが彼らの感覚だそうです。

 「強い政府」「法の支配」に拠らざるところで「国家の統治」を云々することはできない、というのが信条の彼らにとって、教育を受けたことがない大衆、無知の大衆、モラルの低い大衆など、端から員数外なのでしょう。そもそもそういう大衆をして統治に関わらせること自体が問題であり、投票とか選挙にしても、その権利獲得の条件をもっともっと厳しくする必要がある、とまで言うのですから。ハミルトンの哲学からすると、デモクラシーはよろしくない、危険思想だ、ということにならざるをえません。

 以上が、ハミルトンの「中央集権主義・国民国家・米国近代化」論の略図です。ワシントン初代大統領は、このハミルトンを財務長官に起用して政権を発足させたのでした。(ちなみに、ジェファーソンは国務長官に任命されています)。
 しかし、「合衆国憲法」の事実上の起草者の思想がここまで反人民的だとすると、 “建国の父” であろうが何であろうが、リンカーンとしては違和感があったのではないでしょうか。これだと、思想的なつながりの生まれようがありません。

 リンカーンは、合衆国憲法にしてからがそうですが、ワシントンやハミルトンについても、あまり立ち入って言及していないような気がします__ぼくはそういう印象です。そこのところを飛び越して、直接「独立宣言」の父祖たちにつながりたい、そこにつながるのが正解なのだと、リンカーンは直観したのではないでしょうか。
 彼は、必ずしも問題をなしとしませんが、ともあれ民主主義を定義した人物として世界のその名を知られている人です。一方、ハミルトンは、民主主義を危険思想と見ており、その点ではいまだ「近代 “未満” の感覚」だったのではなでしょうか。ジェファーソンについても、似たような指摘はできるのかもしれませんが。

 中央集権か地方分権か、国民国家か州共和国か、と問われれば、歴史は前者に軍配を上げるでしょう。しかし、国家government か人民the peopleか、との問いの前に立つとき、にはかには即答できない躊躇を感じるのはぼくだけではないと思うのです。

リンカーンは、ハミルトンの「中央集権主義・国民国家・反民主主義」について、the peopleの government を認めない点で、それなりに一貫している、と見ていたのかもしれません。それにひきかえ自分は、と顧みる彼の心には、なにかしらわだかまるものがあったのではないでしょうか。
 思うにリンカーンには、「中央集権の国民国家」government と「民主主義と人民の権利」the people とを、なんとかして同時に実現できないものかと悪戦苦闘していた、そういうところがあるような気がするのです。彼自身、それが “見果てぬ夢” に終わることを予感しつつも、ということです。

【注】
「ハミルトン」への関心を喚起してくれたのは、朝日新聞11月21日朝刊の小さな記事「人気ミュージカルの俳優に「謝れ!」」(中井大助)です。以下に要点を示します。
 •11月18日、次期米副大統領ペンス氏がニューヨーク・ブロドウェイのミュージカル
「ハミルトン」を観劇した。
 •終演の際、黒人の役者がペンス氏の観劇に感謝したうえで、次のような発言をした。
 「私たちは、あなたの新政権が私たちや、私たちの惑星、子供、親を守らないことを不安に思い、警戒している」「この作品が、米国の価値観を維持し、私たち全員のために働いてくれるきっかけになったと願う」と。
 •ところが、翌19日朝、当のペンス氏ではなくて、ミュージカルを観てもいない第三者のトランプ次期大統領がツイッターで反撃した。「私たちの素晴らしい将来の副大統領が、ハミルトンの俳優によってハラスメントを受けた」「劇場は常に安全で特別な場所でなければならない。ハミルトンの俳優たちはとても失礼だった。謝れ!」と。

 この後は補足です。
 •ハミルトンの人生は波瀾万丈でした。英領西インド諸島のネイビス島にて、内縁関係の両親の間に生まれ、13歳にして孤児となるも、苦学力行、現在のコロンビア大学に入学、間を措かず中央政界の論客となってから後の立身出世については、本文で書きました。家庭も子沢山で、おまけに情事でも名を馳せたものの、最後は政敵アーロン・バーとの決闘で被弾、49歳の若さで死亡しました。ハミルトンは銃に弾を込めず、空砲を撃った、最初から相手を殺す気がなかった、と言われており、大いに世間の同情を買ったそうです。
 •ハミルトンを演じた主役は、リン=マヌエル・ミランダ、両親はプエリトルコ出身。配役の多くはラテン系・アフリカ系のマイノリティー。音楽はジャズとかラップ。これでは、移民が大嫌いの人種差別主義者のトランプとしては、面白くないのも当然でしょう。しかし、それにしても、過剰反応が過ぎるのではないでしょうか。