安倍流 “民主主義” とリンカーン(15) リンカーン像の再構築⑤ リンカーンの悲劇—奴隷ないし奴隷制度について


たけもとのぶひろ[第115回]
2016年11月16日

リンカーン演説集(岩波文庫1957年)

リンカーン演説集(岩波文庫1957年)

 岩波文庫『リンカーン演説集』(高木八尺・斉藤光訳)の表紙は、リンカーンの写真とともに、以下の文章を掲げています。
 「奴隷に自由を与えることによって自らも自由を得ると確信し、奴隷解放という難事業の中心となって真摯に精力的に闘ったリンカーン(1809-65)。だが彼は第2期大統領就任1か月後には凶弾に倒れねばならなかった。この偉大な人物と思想、また民主主義の精髄は、本書に収められた演説、教書、書簡で余すところなく示されている。」
 ここで彼は、奴隷解放のために真摯に闘い、民主主義の精髄を説いた偉大な人物である、と要約されています。

 『演説集』は邦訳をはじめる前に「序」を設けており、その中で高木八尺さんがこの翻訳の出版の意義について触れています。なお、「序」の執筆は「昭和31年10月」と記されており、第1刷発行は奥付に「1957年3月」とあるところから、本書の翻訳と出版が、戦後民主主義真っ只中、安保闘争前夜に為された仕事であることがわかります。
 高木さんは、「デモクラシーの道標を要すること緊切である」「今日のわが国」において、その時代的要請にこたえているのが本書であるとして、次のように述べています。「血のにじむような彼の言明の中に、試練を通して昇華されたアメリカのデモクラシーの精神のもっともよい表現が、後代に伝えられたと解される」と。

 このように絶賛されると、リンカーンとしては照れくさいというか、面映いというか、身の置き所に困るのではないでしょうか。本当は少し違って実はこうなのだけれど、というふうには言い出しにくいでしょうから。
 すでにこれまでに書いてきたように、リンカーンの業績については “奴隷解放の父” とか “アメリカン・デモクラシーの提唱者“ とか、だいたい評価が定まっているようですが、善意からの美化(理想化)が過ぎて、贔屓の引き倒しみたいなことになっているのではないかと心配になるケースとか、あるいはリンカーン本人を置き去りにして虚像が独り歩きしているのではないかと疑われるケースとか、あると思うのです。そういうのって、彼にとってあまり居心地がよくない、はっきり言うと、居心地がわるい、これはもう ”悲劇“ と言っても許されるのではないか、ぼくにはそんなふうに思えるのでした。

 もちろん、百何十年も昔の話ですから、その間に世界史的にいろんな体験があり、問題意識なり問題そのものにさえ変化があったわけです。ですから、その時代の隔たりを踏まえた上での議論でないと、いけないと思うのです。ですが、リンカーンは彼が考えたようにしか考えることができなかったかどうか、というような問題は、やはり残るのではないでしょうか。あるいは、同じ問題であっても、いま考えるとこうも考えることができるのではないか、ということだってあるはずで、それはそれでそれなりの意義があるのではないでしょうか。

 常識として流通しているリンカーンは、岩波文庫『演説集』の上に掲げた文章と同工異曲で、奴隷解放および民主主義のために戦った偉大な英雄にして・暗殺の凶弾に倒れた悲劇の人、というのが一般です。しかし、それは虚像とまでは言えないにしても、実像は必ずしもそうではないかもしれないでしょ。
 そうではなくて——奴隷にしろ民主主義にしろ、それについてリンカーンが本当に考えていたこと、その本心、真実は、かくかくしかじかであったからこそ、時代の要請に応えることができたのだと、ぼくは考えたいのです。そのような考え方をするほうが、より生産的だと思えるからです。

 これまでのぼくの議論に付き合ってきてくださった方には、再述するまでもなく一目瞭然でしょう、ぼくははじめ通説のリンカーン像をイメージしながら論を進めていたのです。ところが、途中で通説を疑わざるをえない――リンカーン自身の――事実や発言に出くわすところとなり、自分を疑わざるをえませんでした。
 ひょっとしたら、これまで自分が書いてきたリンカーンは実はリンカーンではなかったのではないか、と。
 以後、リンカーン像を描き直す、再構築する必要を感じ、その作業を進めてきたのでした。リンカーンの議論を終えるにあたって、最後に、三つのテーマを設けて――「奴隷ないしは奴隷制度」について、「民主主義の定義」について、「世界を支配する神がいます」ということについて――考え、まとめとしたいと思います(まとまるかどうか、危ぶまれはするのですが)。

 最初に、奴隷解放について考えます。
 岩波文庫『演説集』表紙の文章冒頭の「奴隷に自由を与えることによって自らも自由を得ると確信し〜」の部分は、「議会に対する年次教書」(1862年12月1日)から引いてきたものです。「奴隷解放宣言」の発布が1863年1月1日ですから、その、ちょうど1カ月前の文章です。そこに「奴隷に自由を与えることにより、われわれは、自由なものに自由を確保することとなる」とあるのが、出典です。

 これを額面通りに受け取ると、どうなるか。「奴隷解放の父=リンカーン」という通説が罷り通ってしまい、虚像が説得力を持つわけです。しかし、歴史の事実はこれとはまったく違います。すでに詳述したところですが、順を追って復習させてください。
 • リンカーンが「奴隷に自由を与える」と言う以上、奴隷の居住する州が北軍合衆国連邦領土に属していようと南部連合国領土にあろうと、すべての奴隷に自由を与えるものと聞こえるでしょう。しかし事実は違います。奴隷の所属する領土(州)がどこに在るか、その地理上の位置によって、解放される奴隷と解放されない奴隷とに別れます。

 • どうしてそういうことになるのか。答えは、リンカーンが内戦をなんと考えていたかに
あります。彼にとって戦争目的(戦略)は「合衆国連邦の再統合=独立の堅持」です。その戦争目的を貫徹するために彼が考え出したものこそ、「奴隷解放宣言」というアイデアでした。それは、勝利のために欠くべからざる方策(戦術)であるのみならず、世界に誇ることのできる「大義」でもありえたわけです。なんと絶妙なことよ! 内戦に関するこの考え方こそ、リンカーンの揺るがぬ信念であった__そう言ってよいと思います。

 • 彼は、黒人奴隷を人間扱いしていないことが人間の道として許せないから、奴隷を解放しなければならない、なんて本気で考えたことなど、一度もないと思います。彼が考えたことはこうです。敵の兵力を減じ、味方の兵力を増強する必要がある、そのためには敵軍領土内の奴隷を解放したうえで、彼らを北軍の募兵へと導き、鍛えあげて北軍の兵士とし、前線へと動員する必要がある、と。そのためにこそ「奴隷解放宣言」を発する必要がある、と。こうして戦場に引きずり出された黒人兵士は、内戦終結までの総数が18万とも20万とも言われています。

 • ここにおいて、知らないままでは済まされないことがあります。奴隷は南部連合国領土のみならず、北軍合衆国連邦の領土にも存在していたのでした。奴隷制を実施しながらも合衆国連邦から脱退はせず連邦内に残留した州です。南部連合国領と境を接するベルト地帯に5州ありました。デラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ウエストヴァージニア、ミズーリなどです。境界州とも残留奴隷州とも呼ばれるこれらの州の奴隷は、当初より、解放宣言の対象から除外されていました。こういうことです。
 憲法は財産の所有権を認めています。奴隷は財産です。奴隷の解放は、奴隷所有者の所有権を侵して不利益を与えることを意味します。したがって連邦国内の残留奴隷州の奴隷は解放の対象たりえません。いわゆる「解放」をして兵士として前線に動員するのは、敵連合国領土内の黒人奴隷に限られます。

 • 以上のようにリンカーンの真意を解読してくると、彼の上掲「教書」の文章はいかにも不分明かつ不可解だと思います。翻訳の文章はこうなのですが。
 「奴隷に自由を与えることにより、われわれは、自由なものに自由を確保することとなる。――かくて与えるもの、保持するものの双方(の自由――翻訳者)ともに栄誉ありといえよう。」
 これを読まされていると、ぼくは正直言うて、おちょくられているような気分になります。
 “なんや、わけのわからんことを言うてるなぁ ホンマに!” とイライラします。 持って回ったような、奥歯に物の挟まったような、正直さに欠けること著しい文章だわなぁ、と。

 • この意味不明の文章――『演説集』の表紙に引用されたあの一文でもって、リンカーンが伝えたかったことは、本当は次のようなことだったのではないでしょうか。すなわち、「南部連合国領の奴隷に自由を与えることによって、われわれは彼らを戦場へと派兵することができる。この解放奴隷による兵力増強をもって、内戦に勝利するのだ。勝利すれば、合衆国連邦のすべての州に自由を確保することができる。近い将来再統合するであろう合衆国連邦のすべての州の自由に栄誉あれ!」(といったふうなことだったでは?)

 ここで取り上げたいのは、「第2次大統領就任演説」(1865.3.4)における奴隷ないし奴隷制度への言及部分です。暗殺される直前、1か月前のこの演説の中で、彼は戦争の原因について、二つの点を指摘しています。一つは利害関係としての奴隷ないし奴隷制度ということ、いま一つは「神の摂理」からして因って来たるところの「神の意思」「神の裁き」が奴隷制度の原因であるということ。(この二点のうち後者については、後に取り上げることとして、今回は前者についてのみ見ておきたいと思います)。

 まず彼は、奴隷ないし奴隷制度が「独特の強力な利害関係」であったこと――ここに「戦争の原因」があった、と述べています。次の箇所です。
 「全人口の8分の1は黒人奴隷でありまして、これはひろく連邦全体に分布してはおらず、南部地方に集まっていました。これらの奴隷は独特の強力な利害関係(インタレスト)をつくっていました。この利害関係が、いずれにしても、この戦争の原因であることはすべての者が知っていました。この利害関係を強め恒久化し拡大することこそ、戦争をも辞せずして連邦を分裂せしめようとした叛徒(=奴隷州・南部連合国)の目的でありました。一方政府(=自由州・合衆国連邦政府)は奴隷制度の領地(テリトリー)に対する拡大を制限しようとしただけで、それ以上の権利は主張しませんでした。
 両者とも戦争が現在のように拡大し継続するとは予期しませんでした。この戦いの終結とともに、あるいはそれ以前に、この戦いの<原因>(ルビ)となったものが消滅しようとは、両者とも予測していませんでした。」
ここでリンカーンが問いかけているのは、内戦(南北戦争)とはいったい何だったのか、ということです。それを知る手掛かりは、とりあえず彼の演説の中身ですが、そこから推して知りうべきことも含めて――またこれまでに論じてきたことも踏まえて――以下に整理しておきたいと思います。

 • 戦争の最高指令官であるリンカーンとしては、たとえ大義名分に過ぎないとわかってはいても、掲げる旗に大書して恰好のつくキャッチコピーみたいなもの――先に指摘した「大義」にあたるもの――が欲しかったのではないでしょうか。とくにイギリス、フランスなど、当時の列強国の向背も気になるところですし。リンカーンたちは、世界に向かって叫びました。 “我ら自由州の北軍は、奴隷の存在を許さない。人の道に反するからだ。南の奴隷州はその存在を制度化している。許せない。われわれは「奴隷解放」のために戦う。われわれの戦いは正義の戦いだ“ と。

 • それはそうなのですが、しかし、リンカーンの冷めた眼から見れば、事実はまったく違うふうに見えるのでした。要するに、問題は利害関係です。利害関係の衝突です。平たく言えば、南の奴隷州の利益は北の自由州の損失であり、逆に、北の自由州の利益は南の奴隷州の損失だ、ということです。
 “奴隷解放の正義” もヘチマもありません。自由か奴隷かが、単なるスローガンの対立にとどまっているのであれば、大事には至りません。しかし、この対立が利害の対立に因るものだとなれば、穏やかな話では済まなくなります。内戦にまでなってしまうのですから。挙げ句の果てには、60万とか62万とかの戦死者を出してしまうのですから。

 ③問題は正義の争いではなくて利害の対立にあったとします。その際、その利害の対立はどこまで非妥協的だったのか、妥協の余地はなかったのでしょうか。
 そもそも論から言うと、南部奴隷州は、万事についてまず最初に「イギリスを中心とした自由貿易圏」ありき、でした。イギリスの自由貿易圏のなかの綿花供給地として自らを位置づけ、そのための「奴隷制プランテーション経済」「農業立国路線」を目指すというのです。これだと、合衆国連邦を割って出なければなりません。「連邦からの分離独立」とそのための内戦は、南部にとって不可避の選択でした。

 • 他方、北部自由州を中心とした合衆国政府は、旧宗主国イギリスの植民地支配に抗し、戦い、勝利し、独立し、憲法を立ち上げ、そのもとで政府を動かしてきました。以後1世紀近い時間が経過しました。その間、彼らは領土を広げました。経済の工業化・近代化を進めました。彼らの資本主義はまだ生まれたばかりで、英仏など先進国の後塵を拝するポジションでしたから、保護貿易(関税政策)でもって自らを守りつつ鍛え、力をたくわえていく困難は必至でした。

 • ですから、リンカーンたちにとって喫緊の課題は、連邦諸州のあらゆる力・可能性を一つの中心に集めること、つまり「合衆国連邦政府の統治能力」を強化すること、これに尽きたと思います。内戦を勝利し、南部を合衆国連邦へと再統合し、強大な「国民国家」を形成しなければならない――その任を引き受けて全うする、それこそがリンカーンの歴史的使命だったのではないでしょうか。ひょっとしてリンカーンは、やがて大をなすことになる「アメリカ資本主義の曙光」を見ていたのかもしれません。

 ⑥歴史の事実には反しますが、仮に、奴隷州・南軍が内戦に勝利し、合衆国連邦から分離し、念願の「南部連合国の独立」を達成したとします。そして、「奴隷制プランテーション」「農業立国」「綿花輸出」「イギリス貿易圏」などを実際にやって見せたとします。
 うまくいったでしょうか。どうやっても無理だったと思います。「奴隷」にせよ「綿花」にせよ「農業立国」にせよ、これらはすべて、過去となってしまった、あるいは過去となりつつある、そういう時代の構成要素です。歴史の進行方向に逆らって、過去へと向かうことができたでしょうか。

 南部連合国は確信していました。綿花貿易の受益国であるイギリスは、必ずや南部連合国を承認してくれる、と。しかし、その目算は外れました。当時のイギリスは、綿花の在庫が過剰気味であったこととか、新たに綿花供給地が開発されたこともあって、南部奴隷州の綿花原料への依存度が低下していたらしい――それも “誤算” の原因の一つとされています。しかし、南部連合国が国際社会で承認されなかったのは、より根本的には、リンカーンが「戦術」としての「奴隷解放宣言」を「大義」として掲げたことによって、国際社会の支持を引き寄せる――少なくとも南部連合国へ流れるのを阻む――ことができたからではないでしょうか。

 リンカーンは「奴隷解放の国民国家」として名乗りをあげました。こうなると南部連合国は、「奴隷国家」の汚名を避けることができません。と、事の成り行きから言って、諸外国は、「奴隷国家」の承認を躊躇せざるをえないでしょう。「奴隷解放」をうたう「国民国家」が登場しているのですから。
 これでもってほとんど結着がついてしまった、と言えるのではないでしょうか。あとに残ったのは、 “なんや、これは!” という一声だけ、みたいな状況だったのかもしれません。
 リンカーンの先の引用文の最後に「この戦いの<原因>となったものが消滅しようとは」とあるでしょ。その中の「消滅」という言葉は、そういうふうな、なにかいわくいいがたい気分を表わしているような気がするのです。

 ここまで書いてきて、つくづく思うことがあります。リンカーンという人は実に「信念の人」なんだなぁ、ということです。数ある事実のなかから二つを選んで示します。

 一つは、リンカーンが尊敬する政界の功労者・元老院議員のジョージ・ロバートソンに宛てた書簡です。1855.8.15の日付があります。彼が暗殺されたのは1865.4.14ですから、10年前の彼の肉声を聞く思いがします。
 「思うに、われわれの前途には平和的な奴隷制度の消滅はないということであります。」
 「ただ今のわれわれの政治問題は「われわれは一国として相ともに永久に、長く、半ば奴隷、半ば自由の状態を続けてゆくことができるであろうか」ということです。」

 いま一つは、「スプリングフィールドにおける共和党州大会にてなされた演説」において語られたものです。1858.6.16 との日付がありますから、上記書簡から3年が経っています。趣旨は、内戦に備えざるを得ない、備えなければならない、ということです。演説の冒頭部分から引用します。
 「「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3,25)。半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家(ガヴァメント)が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません――家が倒れるのを期待するものではありません。私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。」
 連邦(合衆国連邦国家)が奴隷制度反対者のものとなるか、奴隷制度擁護者のものとなるか、二つに一つです。一つになるために二つは争わざるをえません。争いののち、はじめて一つが実現する――リンカーンにとって、内戦は避けることができない必然だった、ということだと思います。

 「まぁ、しかし」というか、「やっぱり」というか、一言にして言えば「凄いよなぁ」というに尽きます。世界史に名を残すだけのことはある、と。あれこれ言っても、結局はこういうふうに書くことができて、ああ、よかったなぁ、となにかしら安堵するところがあります。