「倫理学=人生訓」というベタな勘違い


仲正昌樹[第38回]
2016年11月2日

近く重版予定、仲正昌樹訳『完訳カント政治哲学講義録』

近く重版予定、仲正昌樹訳『完訳カント政治哲学講義録』

 前回、学者にとっての「知識」の本質は暗記ではないということを主張するために例として、「哲学者がカントの有名なフレーズを正確に覚えていなくても、特に恥じる必要はない。そのフレーズが使われている箇所が大体わかっていればよい。無論、正確に暗記できていればそれに越したことはないが、カント研究をする学者の必須条件ではない。…」と書いた。カントを例に出したのは、哲学と縁のない人でもカントの名前くらいは知っているだろうと考えたからであった、特別な意味はない。それくらいことは多少の常識があれば分かりそうなものだが、嫌儲板の2ちゃんねらーの何人かは、私が哲学オタクの質問にその場で答えられなくて恥をかいたのを誤魔化すために、これを書いたと妄想したようである。10月3日に嫌儲板に立ったスレッドに、ID:7BIui3+f0という人物が、以下のように書き込んでいる――コピペをしそこなって、意味不明になっている部分は省略しておく。

要するにこのおっさんは教授でありながらカントの有名なフレーズも暗唱できないくせに我らが嫌儲賢者にレスバトルを挑み論破されたのが悔しくて悔しくて、相手の見てない自分のブログで顔真っ赤にしてグチグチと独り言呟いてるわけだwww
負け犬の遠吠え乙www

 私がカントの有名なフレーズをめぐるレスバトルをどこかでやって敗れた、などという話がどこから出てきたのか? 記憶が混濁しているうえに、ネットから情報を適切な検索する能力も欠如しているとしか思えない。これを本気で書いているとすれば、ID:7BIui3+f0は大変な人生を送っていることだろう。
他にも、同じような主旨の書き込みをしている人間がいた。こういう連中は、自分自身がしょっちゅう悔し紛れの言い訳ばかりしているので、他人も同じようなことをしていると勝手に想像してしまうのだろう。念のために言っておくと、カントに関するトリビアな蘊蓄で、哲学や思想史の研究者に“バトル”を挑もうとするオタクに、私は未だかつて出くわしたことがないし、そういう話はあまり聞かない。他の思想家のオタクには、トリビア知識自慢したがる輩がいるようだが、私はあまりその手の連中と付き合いがないので、直接的に被害を受ける可能性は低い。
そもそも私はカントを専門的に研究しているわけではなく、あくまで、近代哲学・思想史を研究するうえでの基礎としてカントの主要なテクストを読んでいるにすぎない――2ちゃんねらーや、研究者になれない思想オタクには、「基礎的な文献として読む」ということの意味が分からないかもしれないが。カントの有名なフレーズを丸暗記して自慢する理由はないし、カントを特別にありがたがっているわけでもない。しかし、私がカントを盾に取って知識人自慢をしていると勘違いした嫌儲民が、ネット上に散見されるカントからの引用らしきものを引っぱってきて、私に“説教”しようとした。ID:iQ6ghcGz0曰く、

仲正教授はけんもめんを匿名の卑怯者と罵る
しかし、カントは言う・・・高慢な人は常に心の底では卑劣であると
はい、論破w

 ID:iQ6ghcGz0は更に続けて、以下のように述べている。

・我々は動物の扱い方によって、その人の心を判断することができる。
・高慢な人は常に心の底では卑劣である。
・私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。 しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。
byカント

仲正教授に贈る言葉 論語読みの論語知らず

【注釈】 古来、儒教の経典である『論語』をしたり顔で語ることはできても、その教えを実践できていない者の愚かしさから、 書物を読んでも表面的に理解するだけで真髄をわかっていない人をあざけっていう言葉。

これに便乗したつもりらしいID:lXYLTElg0という人物曰く、

この人はカントをしっかり読み直したほうがいい

 こうした、それっぽいフレーズを引っ張って来て、私をやり込めたつもりになれるのだから、うんざりする。カントに関する解説書を読んだことがないのは当然として、大学で哲学や倫理学の授業を受けたこともないのだろう。一番肝心のところで間違っている。カントの影響を受けた思想家や、カントのテクストと専門的に哲学研究者たちは、別に、カント自身がすばらしい人格者だと思っているわけでも、人間の心理を観察する達人だと思っているわけでもない。「哲学」は、宗教でも人生訓でも、儒教(儒学)のような実践倫理でもない。つまり、日々どのように生きるべきかを指南するものではない。「『存在する』とはどういうことか?」とか、「真理とは何か?」「人間はいかなる時に美を感じるか?」、といった、最も根源的な問いについて掘り下げて考える営みである。「哲学」に道徳哲学もしくは倫理学――両者は厳密に言うと違うが、ここでその区別に拘る必要はないだろう――と呼ばれる部門があるが、そこで問題になるのは、「自由とは何か?」「自律しているとはどういう状態か?」、といった問いである。「お年寄りを敬いなさい」とか、「ひと様の悪口を言ってはいけない」などと、人々を教え諭すものではない。「『お年寄りを敬わないといけない』という主張を正当化する論拠があるとしたら、それは何か?」を問うのが、道徳哲学である。無論、カントのような哲学者の議論に啓発されて、自分なりの答えを出し、それを日々の実践に生かしている人もいるだろうしそれは好ましいことだが、最初から、そういう効果を狙って、多くの人が感動しそうな言葉を多用するのは、「哲学」として本末転倒である。
 ID:iQ6ghcGz0が引き合いに出しているのは、カントの「哲学」そのものではなく、彼の人間観察あるいは個人的価値観を表明した言葉である。ネット上の「名言格言集」というサイトの「カント語録」というページから、適当にそれらしいものをコピペしてきたようだが、ID:iQ6ghcGz0は、これらの“名言”が、どのテクストのどういう文脈で語られたか言葉か確認していないだろう。原典をちゃんと確認するような人間が、カントの言葉を要約して翻訳した(らしい)ネット上の文章を、出典を明記しないままコピペしたりすることはないだろう。名言の類いに関して、そういう文献学的なことに拘る必要などないではないか、と言う人もいるかもしれないが、例えば、二番目の文に出てくる「高邁 Hochmut」というのは、日本語の「高邁」の普通の意味とかなりズレているだけでなく、ドイツ語の〈Hochmut〉の意味ともズレているので、元の文脈を参照しないと、カントが何を言わんとしているのか正確に理解できない。三番目の文については、ルソーとカントの「人間」観はかなりズレているので注意が必要である。また、最初の文は、「動物の扱い方」からその人の「心 Hertz」が分かるのは何故なのか、カントがそれをどう説明しているのか、把握しておかないと意味がない。ID:iQ6ghcGz0はどういうつもりで、この「動物」の文を引っ張って来たのだろうか? 自分たち嫌儲民を「人間以下=動物」と認めたうえで、私の嫌儲民に対する扱いが悪いのは、私が「(2ちゃんねらーでない、まともな)人間」もバカにしている証拠だ、とでも言いたいのだろうか?
 カント研究者の中には、カントの人格を尊敬しているという人もたまにいるが、それは個人的趣味の話である。カントという人物が、いわゆる“人格者”でなかったというのは、よく知られた話である。ルソーを読んでカントの「人間」観が変わったというのは有名な話だが、だからといってカントが、宗教者のように常に隣人愛に満ちた人間になったわけではない。その辺の事情については、中島義道氏の『カントの人間学』(講談社現代新書)で初心者向けに詳しく述べられている。
 いずれにしても、カントが道徳哲学者として偉大とされるのは、「道徳」を構成する重要な要素としての善意志、自律、定言命法、理性の事実としての道徳法則…などの概念と、それらの相関関係を体系的に展開したからであって、ID:iQ6ghcGz0がコピペしたような名言によって、道徳教の教団のようなものを作ったからではない。コピペした三つの文から推測すると、ID:iQ6ghcGz0は、“教祖カント様”は、傲慢になることなく、他人を敬いなさいというメッセージを発していたではないか、と言いたかったのだろうが、既に述べたように、私はカント信者ではないし、他人を敬いなさいという意味合いの名言を残した偉人はたくさんいる。カントを特別視する必然性などない。
 カント哲学を論語と同質のものと勘違いして、私に“道徳”を説こうとするID:iQ6ghcGz0等の主張は、取るに足らないものなので、この辺で終わりにしてもいいのだが、せっかくカントの話を始めたので、もう少しだけカントに即して、ID:iQ6ghcGz0等の振る舞いについて論評しておこう。カントは道徳哲学系の主要著作で、他者を単なる手段――自分が何かを成し遂げるための手段――としてではなく、目的それ自体として扱うべし、という主旨のことを述べている。これを平板化して理解すると、ID:iQ6ghcGz0流のカント教の教えになってしまう。当然カントは大上段からそうした教えを問いているわけではなく、純粋な道徳的行為があるとすれば、その行為は他者を手段として利用するものではないはずだ、という道徳的行為の本質をめぐる主張をしているのである。普通の人間の日常的な行為、取引をしたり、仕事をして賃金を受け取ったり、友人や恋人と一緒に何か楽しいことをする、といったあたりまえの行為は、何らかの形で他人を利用し、自分の目的を達成している。自分の幸福のために他人を利用している。純粋な道徳的行為は、日常における欲望の連鎖や相互作用を超えた所にあるのではないか、というのがカントの問題提起のポイントだ。そうした純粋な道徳的行為があり得るとカントが本気で考えていたかどうかについては、専門的なカント研究者の間でも議論があるところである。更に言えば、カントが目的として扱うべしと言ったのは、正確には、具体的に身体を持って存在する他人ではなく、その他人の「人格」の内に見出すことのできる「人間性」である。この場合の「人格」とか「人間性」をどう理解するかは、かなり難しい問題である。いずれにしても、カントの道徳的哲学の意味で、現実に他人を手段として一切利用していない人間など、この地球上に一切いないことだけは確かである。この点については、ちゃんとした哲学研究者の間では議論の余地がないだろう。
 カントのフレーズの切れ端を盾にとって、私たちをもっと敬えと要求する、ID:iQ6ghcGz0の姿勢は根本的におかしいのだが、そもそも、自分は匿名のままで、仲正昌樹という実在していることがはっきりしている人間を誹謗中傷し、悦に入っているような連中に、そんな高尚そうな話をする資格があるだろうか? カント自身がどう考えていたかは別として、他人に面と向かって対峙することなく、自分は影に隠れてその人物の悪口をいいふらしてダメージを与え、憂さばらしをするのは、他人を完全に「物扱い」する行為である。そういう卑劣な連中だからこそ、私の方も心置きなく、バカの思考パターンのサンプルとして利用させてもらっているのである――私以外の第三者を誹謗中傷している連中をサンプルにすると、その第三者に迷惑がられる恐れがあるので、なるべく私自身について誹謗中傷している輩をサンプルにしているのである。しかも私の方は、具体名ではなく、スレッド上で暫定的に割り振られる、ID名を挙げているにすぎない。ID:iQ6ghcGz0が、思想家ぶって“カントの教え”を広めたいなら、何となくよさげなフレーズを安易にコピペしてくるのではなく、少しは自分の頭で考えるべきだろう。