[編集部便り]
ワールドボーイ(7)


極北編集部・極内寛人
2016年10月16日

辛い思い出が甦るレコードだ。

辛い思い出が甦るレコードだ。

 今回も、前回同様、店員の紹介を続けたいと思います。退職した「課長」の後任として本店をまかされた「係長」(二〇歳)は、長野県の高校を卒業し、やはり新卒、住み込みで入社した生え抜きでした。
 小柄で気さくな感じは、高校時代、陸上競技部に所属し、長距離をやっていた——、それだけの説明で、何となく人柄のすべてがわかるような爽やかさがありました。
 私が入社した時点で、既にお店は相当厳しい経営状況にあり、結局、彼も三ヵ月後の八月には「課長」同様の理由で退社してしまうのですが、かかる会社の実情が具体的に私にもわかってくるのは、「係長」の退社の意向が漏れ伝わった八月初旬でした。

 お店の労働条件の過酷さは既に何回も触れてきた通りですが、その過酷さがどこからのものなのか、私はわからなかったし、考えてもみませんでした。これが社会と言うものであり、働くとはこういうものだ、これが普通なのだと解釈し、その過酷さを当然のように受け入れていたのです。
 ところが、六月頃、それまで取引のあった、東芝、三菱、ナショナル(現パナソニック)、サンヨー製品のうち、極力サンヨーを重点的に営業するようにとの「社長」の指示があったのです。
 多分、問屋さんへの支払条件などで、サンヨーから特別に優遇して貰う見返りとして、相当無理をしてでもサンヨーを売らざるを得なかったのではないかと思います。逆に言うと、サンヨー以外の問屋には「見放されかけていた」のかも知れません。その兆しは目に見えて顕著になっていました。本店の外装、内装、ともに東芝一色なのに、並ぶ商品はほとんどサンヨーという奇妙な恰好になってきたのです。それに、それまで頻繁に顔を見せていた東芝の営業担当の会社を訪ねてくる回数が目立って少なくなったような感じがしました。
 一〇名足らずのお店ですから、こういう事は雰囲気として何となくわかるのです。まだ中卒三ヵ月の私でしたが、この頃からお店が決して安泰ではないことに気付き始め、軽い緊張を感じるようになりました。さすがに、危機の意味、それがどういう結果を自分に齎すのか、今後どうなるのか、そういう深刻なところまでは考えが及ばなかったので、所詮、入社三ヵ月の子供の域を出ませんでしたが、労働環境の過酷さに理由があったこと、自分の置かれている状況がはっきりわかってきたのでした。ただ、不思議な事に、そこから抜け出そう、逃げ出そうと言う発想にはまったくなりませんでしたね。

 サンヨーの製品に限り、全品定価の四割引きセールを始めると社長が言い出すと、そのためのポステング用の小冊子作りの夜なべ作業を(四割引きと記したチラシをアタマに、何枚かのサンヨー家電のチラシを重ねて小冊子にしてホチキスで留める)、通常の仕事の終了後、遅い夕食(午前零時前後)を済ませ、その後、更に一時間ほど寝に帰る時間を遅らせ、そのまま社長宅の食堂に残ってみんなで、何日間か、やる事になるのですが、その時の「専務」や「部長」の会話の端々に会社の窮状をうかがわせるものがありました。

 家電は(極力)サンヨーしか扱わない、ということは、ある意味、象徴的なことにすぎず、現場で仕事をする店員にとっては、それに留まらず、いろんなところに影響が出てきました。
 例えば、当時の電気屋がレコード店を兼ねていたということは既にお伝えしましたが、レコードは委託商品なので会社に余裕がなくなると、どうしても回転率のいい「売れ筋」商品しか置かなくなり、委託商品は精算前に返品してしまう傾向が強くならざるを得ないのです。そうすると、店頭に残るのは、その時動いている商品のみで、段々商品数が少なくなってくるのは仕方がありません。
 お客さんの視点から言えば、同じ「売れ筋」の商品を購入するにしても、多くの商品が並んだその中から〝選んで購入した〟という気持ちになりたいはずですから、たとえ何年間も売れ残って店頭に取り残された商品でも、それらは「売れ筋」商品の背景として〝無用の用〟の価値を持って店頭に並んでいるはずなのです。それを〝一定の期間が過ぎて動かない商品は全部返品してしまえ〟ということになると、「売れ筋」の商品だけが、貧相に丸裸のまま店頭にさらされる事になり、実に見栄えが悪くなるし、商品の点数は段々すくなくなってきます。
 当然、お客さんからは、〝レコードボックスがガラガラだ、スカスカだ〟と言うことになり、〝俺の部屋の方がレコードの枚数が多いぞ〟などと、辛辣な皮肉を私たち店員に言うお客さんまで現れてくる始末です。

 弊害はそれだけではありません、返品が多いと、新譜が出た際、事前予約しておいても、こんどは問屋が(返品率が高い事を理由に)委託制限をして、なかなか思うように配布してくれないのです。そうなると、もう救いようがなく、委託ではなく、注文でいいからまわしてください、といくらお願いしても、文字通り、〝そうは問屋が卸してくれない〟状態になるのでした。

 その上、会社の窮状を決定的に思い知らされる事件が起こりました。この頃(今ではすっかりお馴染みの)、CBSソニーというレコード会社が立ち上げられたのです。この会社はサイモンとガーファンクルなど、大物スターを抱えていましたが、「商品は総て注文扱いとし、返品を受け付けない」という、出版界の岩波書店みたいな〝殿様商売〟だったため、毎月のやりくりに苦しい我がK電機の「社長」は〝取引をしない〟と表明したのでした。つまり、うちの店では当時大ヒットしていたサイモンとガーファンクルなどの曲は購入出来ないのです。
 既述のように、そうでなくても品揃えの貧弱さを客に揶揄されるような悔しい思いをしているのに、あろう事か、客に、売れ筋商品の在庫を問われても〝取引をしていないので注文は受けられない〟と頭を下げねばならないのですから、これには私も随分辛く悔しい思いをしました。

 しかし、一番辛かったのは本店をまかされていた「係長」ではなかったでしょうか。本店及び支店三店舗のうち、倉庫を兼ねた修理品専門の高島平支店を除く、他の二店及び本店の(前夜集計した)客注商品や、前日売れた商品の補充注文を、平日の毎朝10時までにコロンビア、ビクターなどの各問屋さんに電話でするのですが、それを担当していたのが「係長」でした。返品の多さを責められ、希望通りの注文数の出荷が難しい旨の説明に、毎回、電話を前に平身低頭、〝そこを何とか〟と弁解しながら懇願している「係長」の姿を見ない日はないというような状態になっていたのです。

 今、振り返って見ると、そんな「係長」に〝トドメを刺した〟のが、既述のCBSソニーとの契約問題だったような気がします。客には陳列商品の少なさを嗤われ、問屋には返品の多さを責められる——、店員がそんな〝板挟み状態〟にあるにも関わらず、その事への配慮がないばかりか、返品出来ないことを理由に、売れ筋を多く抱える大手の新レコード会社と契約をしないというわけですから、もう耐えられなかったのでしょう。

 私は、八月の初め頃、お店をやめる事になった旨、本人から直接伝えられ、その数日後にはもういなくなっていました。〝おまえも考えたほうがいいぞ〟これが「係長」から私への〝餞(はなむけ)の言葉〟になりました。
 「係長」退職に関して、「専務」から〝頑張るぞ〟と務めて明るく元気づけられた記憶があるくらいで、私自身、お店からの説明は何も受けませんでしたが、当時と現在では、就労意識が違うのか、全員〝生え抜き〟〝住み込み〟で一心同体でしたから、その中から退職者が出るということは、結構〝堪える〟のでした。

 「係長」の退職は、私のお店の立場を大きく変える事になります。当時、私は商品の配送が必要な時には配送車の助手席に座る事もありますが、基本的には、戸田ボートレース場近くのお店で、店長の補助のような仕事をしていました(店長と補助の私の二人だけのお店です)。しかし「係長」の後任として、この戸田ボートレース場近くの店の店長が本店を任される事になったため、何と中卒四ヵ月しか経っていない私が、戸田ボートレース場近くのお店——正式の支店名は忘れましたが、大きな五叉路が近くにあったので、そこから「戸田五叉路店」と言われていたように記憶していますが、ここの店長にされてしまったのでした(補助に高校生のアルバイトや大学生がつく事もありましたが、いずれも私より年上だし、気を遣いました)。

 本店を任された戸田五叉路店の店長は、新潟県新発田市出身で、私より一年早く、中学を卒業し上京していました。本店の店長が16歳、私も(既に誕生日を過ぎていましたから)16歳、いよいよ、我がK電機は、新撰組の末期症状というか、人材不足でドンドン〝出世〟が早まり、〝要職〟の若年化が加速してくるのでした。