安倍流 “民主主義” とリンカーン(11) リンカーン像の再構築—①奴隷制度と奴隷解放


たけもとのぶひろ[第111回]
2016年10月2日

『リンカーン演説集』(高木八尺・斉藤光 訳、岩波文庫)

『リンカーン演説集』(高木八尺・斉藤光 訳、岩波文庫)

 先回の文章を読み返してみてぼくは、自分自身がリンカーンのテーゼ――government of the people, by the people, for the people――について、結局は the people について何もわかっていなかったらしい、ということに気がつきました。

 原因の一端は、リンカーンについての固定観念です。彼は「奴隷の解放」に文字通り命を賭けた政治家であるとともに、以後の世界に広く知られることなった「民主主義の定義」を宣布した人物である、というのがそれです。このこと自体は決して間違っていないと思うのですが、ややもすると、この認識はそれだけで彼が暗に “正義の人” であるかのような印象を与えてしまうのではないでしょうか。具合の悪いのは、それがリンカーンについての最終的答えになり、その答えに囚われてしまって、その先を問おうとしない嫌いがある点です。今から想うと、ぼく自身、その種の思い込みに囚われていたような気がします。

 このことに気づかせてくれたのは、『リンカーン演説集』(高木八尺・斉藤光 訳、岩波文庫)です。うかつなことに、つい最近までぼくは、リンカーンの「演説」を集めて翻訳した書物のあることを知りませんでした。この翻訳本には、主要演説以外にも、注目すべき演説や書簡などが収録されており、これまで分からなかった点を解明する手掛かりを見つけることができました。

 「これまで分からなかった点」と書きましたが、この表現では尽くせません。どのように分からなかったのか、もう少し書きます。ぼく自身のなかの(上述した)固定観念みたいなものが遮るのかどうか、リンカーンの演説がストレートに伝わって来ていないような気がしていました。だから、リンカーンという人物をしっかりと捕まえることができず、そのためにある種のもどかしさみたいなものを感じてきたのでした。リンカーンにせよthe people にせよ、結局は何なのだ、と問いの前に立つと、足がもつれて前に進むことができないというか、そういう感じだったと思います。

 上記『演説集』を得て、これまでどうしても得心がいかなくて悪戦苦闘してきた “糸のもつれ” みたいなものを、今は、ぼくなりに解きほぐすことができたような気がしているのです。そのことを叙述することができれば、これまでの錯綜・混乱を、あるいは整理することができるのではないか――そのような思いから出発して、ぼくの中の「リンカーン像の再構築」にとりかかりたいと思います。

 もともとリンカーンは、「独立戦争」の精神の流れ――奴隷の自発的解放・奴隷制度の平和的消滅――を受け継ぎ、当面は西部「準州」への奴隷制度の拡大を極力阻止する考えでした。このように制度そのものの存廃を横に置いて、制度の拡大か拡大阻止かを争っていたのは、その根底に、自由州と奴隷州、両州間の勢力均衡状態が、したがってある種の妥協が、存在していたからでしょう(すでに触れた1820年の「ミズーリ協定」がそれを可能にしました)。ところが、1854年、民主党元老院議員ダグラスの提案による「カンザス・ネブラスカ法」(=「準州組織法」)が成立、「ミズーリ法」は撤廃され、ここに奴隷制度の拡張伝播の道が開かれました。このときです、奴隷勢力の進撃を阻止するために、リンカーンが起ち上がったのは。

 リンカーンが奴隷制との戦いに決起した、その初心を窺うことができる、そういう性質の文章があります。彼の尊敬する政界の功労者元老院議員ジョージ・ロバートソンに当てた手紙が、それです。その最後の部分をここに引用します。
 「ただ今のわれわれの政治問題は、「われわれは一国として相ともに永久に、長く、半ば奴隷、半ば自由の状態を続けてゆくことができるであろうか」ということです。この問題は小生には重大に過ぎるものであります。願わくは神が慈悲をかけられて、その解決に導き給わんことを。」
 ここに「半ば奴隷、半ば自由の状態」とあるのは、マルコ伝 第3章第25節の「House Divided」の聖句と呼ばれている一節から示唆されたものです。その聖句に曰く。「もし家分れ争はば、其の家立つこと能はざるべし。」

 つまり彼は、当初より一貫して、奴隷「制度」について考えてきました。一国の政治・統治の問題として、政治制度・統治機構の問題として考えてきたのです。そのことが、ここに現れていると思います。この「制度」を彼はどうしようというのでしょうか。

 スプリングフィールドにおける共和党州大会(1858年6月)において、彼は演説しています。「半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。私は連邦が瓦解するのを期待しません。(中略)私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう」と。
 リンカーンがここで言っているのは、「全部自由州・奴隷州ゼロ」か、それとも「全部奴隷州・自由州ゼロ」か、このどちらかしかない、解決は all or nothing とならざるをえない、ということでしょう。この場合、「争うことをやめること」をどれだけ期待しても、はたしてやめることができるでしょうか。

 もちろんリンカーンは「全部自由州・奴隷州ゼロ」の立場です。ですが、「一部自由州・一部奴隷州=一国二制度」の現実を受け入れるしかありません。いったんは「奴隷州」の存在を受け入れ、その上で「奴隷州ゼロ」を目指すほかありません。リンカーンのその論理は、ぼくにはかなり無理筋というか、ごり押しのように思えるのですが。彼の発言を二つ見てみましょう。
 例1.「われわれの国家が建設された折には奴隷制度が布かれていました。われわれはある意味で奴隷制度の存在を黙認せざるをえませんでした。一種の必然であったのです。」(リンカーン・ダグラス論争 1858.7)
 例2.「我らも父祖と同様に、奴隷制度を拡張すべからざる悪と考えるべきです。しかしこの制度が既にわれわれの中に実際に現存しているという事実が、この制度の黙認と保護とを必然的なものにしているが故に、またその限りにおいてのみ、われらはこれを黙認し保護すべき悪と考えるべきです。」「われわれは奴隷制度を不正と認めますが、それでもこれを現状のままにしておくことはできます。つまりこの程度のことは奴隷制度が実際国家のなかに現存しているということから当然生じてくる必要からしてやむをえないからです。」(クーパー・インスティチュート演説 1860.2)

 以上におけるリンカーンの問題意識は、(自由州と奴隷州からなる)合衆国連邦の統治をどうするか、どうすればよいのか、ということです。奴隷州における既存の奴隷制度は「黙認せざるをえない一種の必然」であるというのが、彼の立場です。したがって、「黙認し保護すべき悪」として、あるいは「不正ではあるが・現存している以上・やむをえないから・現状のままにしておくことはできる不正」として受け入れるしかない、ということです。
 しかし、新しい領土(準州)に奴隷制を導入し、新たに奴隷州を立ち上げるとなると、これはもう、既に存在してしまっている奴隷州の場合とはまったく別の話になります。
 既に犯してしまった悪・不正と違って、いまだ実行に至っていない悪・不正の場合は、未然に防ぐことができるし、防がなければなりません。奴隷制度を新たに拡げてはいけない、悪をくりかえしてはいけない――リンカーンにこの危機意識をもたらしたのが、「カンザス・ネブラスカ法」だったわけです。

 先に引用した「クーパー・インスティチュート演説」のすぐ後を、リンカーンは、次のように続けます。「奴隷制度が、わが国の領地地方に拡まるままにし、更に自由州にいるわれわれをも圧倒するがままにしておくことができましょうか(a)、われわれの投票の力によって奴隷制度をとどめることができるというのに(b)。」(岩波訳では(b)(a)の順です)。
 ここでリンカーンは、「投票(選挙)」の力に訴えることによって、奴隷州の拡張を阻止することができるのではないか、と言っています。ただ、それは、たとえば「投票」行動によって戦うことができるだろ、といった程度の物の言い方だと思うのですが。
 つまり、奴隷州の奴隷制度拡大に対する共和党の過渡的対決方針として「選挙(投票)」を位置づけた上での発言とは思えないということです。

 同様の印象を受けるのは、奴隷制度を漸次的に廃止する州に対して連邦政府が補助金を出すというアイディアについて、です。上記演説の2年後、すでに内戦に突入している1862年の段階で、リンカーンは「漸次的補償つき奴隷解放に関して議会に与えた勧告」というタイトルの文書を発しています。その冒頭をここに引用します。
 「上院および下院の同胞諸君。私はここに両院による共同決議の採用を勧告する。決議の要旨は次のごときものである。
  決議、合衆国は、奴隷制度の漸次的廃止を採用する州と協力し、その州に財政的援
  助を与え、かかる制度の変革に伴う公私の不便・損害に対し、その各州をして任意                  
  に補償せしむべきことを決議する。
 もしもこの決議文の中に含まれている提案が、議会と国民の賛同をえない場合は、それまでのことである。」
 自分が勧告する「共同決議」案に対して、賛同が得られないときは「それまでのこと」とは、なんという言い種でしょう。

 おまけにリンカーンは、同勧告書の中で、戦争のための財政負担よりも奴隷買い上げ費用のほうが安上がりだと指摘しているのです。「今次の戦争の戦費はどこの州であれ州内の奴隷全体を十分な値で買い上げるにたるほどに達しようとしているのである」と。
 この調子からすると彼の危機感は、奴隷州・南部連合の攻勢は放っておくわけにはいかない、対抗するには「投票」という手もあるし「補助金援助」という策もある、ひょっとしたらその程度だったのかもしれません。

 上述のように、リンカーンは奴隷州の攻勢に対して、たしかに危機感を抱いています。しかし、その危機感がどれだけ本気のものであったか、怪しむにたる理由があります。ほかでもありません、奴隷州の奴隷制度に対するリンカーンの態度です。「黙認せざるをえない一種の必然」として許容するものの、それそのものが「悪」であり「不正」であることは間違いない、と言っています。不本意ながら既存の奴隷州は認めざるをえないが、新規の奴隷州は認めない、と言っています。これは、リンカーンが、既存も新規もなく奴隷州・奴隷制度を真っ向から断罪していることを意味します。

 1861年3月4日、リンカーンは第1次大統領就任演説を行ない、その冒頭、南部諸州の人びとに向って、こう明言しています。「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直接にも間接にも干渉する意図はない。私にはそうする法律上の権限がないと思うし、またそうしたいという意思はない」「新政権によってどの地方もその財産、平和、安全をいかなる意味においても危うくされることはない」と。
 にもかかわらず、その直後の同年4月、奴隷州・南部連合軍は自由州・合衆国連邦のサムスター要塞を砲撃し、内戦に突入します。この事実は、彼ら奴隷州が、奴隷制度に対するリンカーンの「断罪」を、自分たちの存在そのものを否定する “挑発“ と受けとめたことを意味するのではないでしょうか。なぜなら、奴隷制度を本質的に悪であり不正であるものとして断罪する立場は、奴隷制度を土台にしてその上に立つ南部のプランテーション経済そのものに対して、それを根底から否定することにならざるをえないからです。

 すでに指摘したところをいま一度くりかえします。奴隷制度に対するリンカーンの立場はマルコ伝 第3章25節「分かれたる家は立つこと能わず」です。「半ば奴隷、半ば自由の状態」は長続きしません。「それは全体として一方のものとなるか、他方のものとなるか、いずれかになるでしょう」と彼は言います。しかし、立場の相反する双方が争うことなく、いずれかに統一され結着する、などということが考えられるでしょうか。どう考えても期待できそうにない、このことを、リンカーンは期待すると言うのです。「私の期待するところは、この連邦が分かれて争うことをやめることです」と。
 なんという綺麗事を言うものかな、です。「全体として一方のものとなるか、他方のものとなるか、いずれかになる」ためには、この場合「争う」以外に道はありません。それくらいのことは、双方ともよくよく承知したうえでの話だったのではないでしょうか。

 そして、事実、内戦勃発となりました。それはけっして “青天の霹靂” なんかではありませんでした。リンカーンの気持ちは、予期せざる成行きと言うには程遠いところにあったと思います。むしろ、あらかじめ想定し、心の備えもできていたのではないでしょうか。
 “思惑通り” とまでは言いませんが。
 とまれ、リンカーンは、マルコ伝のかの聖句を初心とし、その初心を貫いて内戦を勝ち抜き、奴隷制度を廃止して “自由の国” アメリカを実現したのでした。

 最後に見ておきたいのは、奴隷制度ではなくて奴隷そのものをリンカーンがどのように考えていたか、という点です。
 奴隷解放宣言は、1862年9月22日に予備宣言があり、翌63年の1月1日に本宣言がありました。既述のようにリンカーンは、内戦勝利の戦術的必要から、戦場動員を目的とする奴隷解放を断行したのでしたが、内戦終結後の、もはや奴隷ではない解放された黒人については、彼はいったいどうするつもりだったのでしょうか。奴隷の将来についてはどのようなイメージを持っていたのでしょうか。

 前出の『アメリカの歴史を知るための63章』(明石書店)に、次のくだりがあります。
 「リンカーンが大統領として奴隷問題を最初に切り出したのは、1862年3月だった。このとき彼は、各州による自主的奴隷解放、奴隷所有者への補償、解放奴隷の国外植民、という保守的な解放を考えていた。」
 この文章は、すでに考察した「漸次的補償つき奴隷解放に関して議会に与えた勧告」を念頭に置いたもののようですが、そこには「解放奴隷の国外追放」という文言はありません
(1862年3月の「勧告」以外の彼の発言の中にあるのかもしれませんが)。

 ただ、このアイディアはリンカーンの持論らしく、内戦が始まるまえから同様の主張が為されています。二つ例を挙げます。
 一つは、「スプリングフィールドにおける演説」(1858年7月)で彼は発言しています。
 「私のもっとも望んでいることは、白人と黒人との人種の分離であります」と。
 いま一つは、「クーパー・インスティチュート演説」(1860年2月)のなかで、自説の正当性をより確かなものにしたかったのかどうか、かの「独立宣言」の起草者の発言を引き合いに出しています。
 「ジェファーソン氏がむかし口にした言葉に次のごときものがあります。「奴隷解放と奴隷の国外追放とを平和裡にすすめる力はなおわれわれの手にある。かように徐々に、悪制度は知らぬまに消滅してしまうであろう。そして奴隷のあとに自由なる白人の労働者が次第に交代してゆくであろう。もしこれに反して、この悪制度がおしすすめられるにされれば、前途の暗膽を思い人間の本性は戦慄を禁じえない。」(後略)」

 「解放奴隷の国外植民」「白人と黒人との人種の分離」「奴隷の国外追放」とあります。白人たちは、自分たちがアフリカ大陸から暴力的に拉致してきた黒人を、奴隷として市場で売買する、そこで購入してきた奴隷を白人は私有財産として使用・消費してきた、この奴隷制度下の黒人奴隷を、この際、州政府が、当該白人奴隷所有者から買い上げる、そのための資金は連邦政府が補助金でもって手当てする。白人の奴隷所有者は政府から金をもらうのだから、かつて購入した奴隷を売却するに等しい。奴隷の売買は、すでに1808年、議会がみずから禁止しているというのに、です。
 これが奴隷解放の名のもとに行われようとした事柄です。所有者に損はないとして、奴隷の方はどうなるのか、です。その答えが「国外植民」「国外追放」「人種の分離」だなんて! いまさら “アフリカへ帰れ” なんて、そんな選択肢があるでしょうか。

 進歩的で民主的な白人も含めて白人たちは、どいつもこいつも、黒人が奴隷であることをやめたからといって、彼らを “同じ” 人間としては見ていません。同じ人間とは言えないのだから、自分たちとは区別し、自分たちからは分離し、アメリカから出ていってもらわなければならない――彼らはそう言っているのです。リンカーンも、もちろん同断です。それが「私のもっとも望んでいること」だ、と言っているのですから。

 ところが、その同じリンカーンが、白人と黒人はある点――それが決定的な点なのですが――では、同じだ、平等だ、と主張しているのです。「スプリングフィールドにおける演説」(1858年7月)における発言です。その部分を以下に示します。
 「私は独立宣言はすべての人はすべての点で平等につくられたとは言っていないという私の解釈を申し述べました。黒人は皮膚の色においてわれわれと同じではありません。しかし独立宣言は、すべての人はある点で平等であると宣言しているものと思います。黒人は「生活、自由、および幸福の追求」に対する権利において平等であります。」
 これはいくら何でも、事実に反するでしょう。1858年段階の黒人は奴隷ですよ。黒人が奴隷であらざるをえないことの結果、彼らは「生活、自由、および幸福の追求」に対する権利を奪われているでしょう。他方、白人はその権利を自分のものにしています。言うところの、その権利は、人間であるのかないのか、という存在の基本に関わる権利、ですよ。その権利を、黒人は奪われている、白人は有している、まったく不平等ではありませんか。黒人と白人は「権利において平等であります」なんて、よくもぬけぬけと言えたものです。

 もし仮に、黒人奴隷が白人と同じ権利を有していたとしたら、「クーパー・インスティチュート演説」(1860.2.27)における次の発言部分は、ありえないし、起こりえないでしょう。
 リンカーンは次のように発言しているのです。曰く。「なるほど時には「現在の国家を組織した我らの父祖」(注:合衆国憲法制定者39人、修正制定議員76人のことです)とともにわれわれは奴隷制度は不正なりとの信念を宣言していますが、奴隷たちはわれわれのこの宣言すら耳にすることができないのです。われわれが何をいい何をなそうと奴隷たちは共和党の存在すらほとんど知らないでしょう」と。

 奴隷制反対の宣言につても、共和党の存在についても、黒人奴隷が無知であったとしたら、彼らは「独立宣言」が「all Men are created equal」と宣言している、その「all Men」の中には入れてもらっていない、ということです。
 黒人奴隷を見るリンカーンの眼差しは、呆れるほど冷たいですよね。自分たち白人の奴隷支配に対して、まったく罪悪感を感じていない。事実上、人間と思っていないのだから、悪いと思わない。ましてや反省や謝罪など、あるわけがない。黒人奴隷への差別感情は、白人の当然の常識なのでしょう。だから、リンカーンは「私のもっとも望んでいることは、白人と黒人との人種の分離であります」などと演説することができるのでありましょう。

 以上において明らかになったことは、残念ながら、government of the people, by the people, for the people と言うときの the people とは白人のことであって、黒人はthe people たりえない、ということです。
 ただ、それがわかっただけでは、人民 the people がわかったことにはなりません。次回は、リンカーンの人民 the people とは、何を意味するのか、結局は何のことか、そのことを考えたいと思います。