[編集部便り]
ワールドボーイ(5)


極北編集部・極内寛人
2016年9月9日

写真1植木等

【写真1】 植木等

 前々回、次は社員について書いてみたいと予告しながら、前回は社長にしか触れられませんでしたので、今回は予告通り社員について書いてみます。
 入社当時、社員は新人の私を含めて全部で八人、他に修理専門の下請けのような感じで出入りしている人が一人、そんな陣容でした。

 修理専門の彼は、かつてK電機で働いていたらしいのですが、何らかの事情で暫く前に退職し、その後は、修理の為K電機に持ち込まれる家電の一部を自分の方に廻してもらったり、K電機に代わって各家庭の出張修理を引き受けるなどして、生計を立てていたようです。
 年齢は社長と同年くらい、四〇歳前後、社長とは〝タメグチ〟です。そんなところから、二人の間の因縁浅からぬ関係を垣間みる事が出来ましたが、風貌は、極めて対照的で、見るからに不遇そのものと言った感じ、風采の上がらぬ事甚だしく、若ハゲで、前頭部に残った兎の尻尾状の丸い〝毛玉〟は、いかにも未練たらしく、見苦しいし、そもそも小柄痩せぎすなのに、何故かいつも不自然に大きな作業着に身を包んでいるので、ちょっと眼には家電の修理屋というより、やつれた実験着を纏った落魄の科学者といった風情でした。
 子供扱いの私に対しては、警戒心を持つまでもなかったのか、私と二人きりの時は、大抵社長の悪口です。社長も彼には手を焼いている風で、避けているのが傍目にも明らかでした。

 正社員の筆頭は専務27歳、群馬県の高校を卒業しk電機に入社しました。一番の古株です。お店と一心同体であり、忠実な家臣と言った感じ、多少話を先回りしますが、私の入社七ヵ月後の一〇月頃、お店の資金繰りの厳しさが隠しようもなく平店員の前にも顕在化した頃、彼は既に半年以上無給で働いていた事を知りました。お店がほとんど〝無休〟だった事は何回か記しましたが、専務はそのうえ〝無給〟だったのです。
 〝おまえの給料は心配するな〟と私を鼓舞する専務の言葉は、あるいは自分に言い聞かせていたのかも知れません。

 中学を出たばかりの少年を〝預かる〟という、それなりの配慮からだったのかも知れませんが、入社後一ヵ月間は専務と相部屋で寝起きし、二ヵ月目の一ヵ月間は部長、三ヵ月目の一ヵ月間は課長とそれぞれ部屋を渡り歩いて〝社会教育〟をうけた後、四ヵ月目から戸田ボートレース場近くに構えた店舗の控え室を兼ねた二畳ほどの個室が割当てられることになっていました。
 それで、私も上京後一ヵ月間はまず専務の部屋で寝起きをともにすることになります。といっても、二人とも、部屋に帰るのは午前零時〜一時台、朝の八時半には出勤ですから、文字通り一緒に寝起きするだけの話で、同居して学ぶようなことはなにもありませんでした。

 専務は軽トラックで、お得意さんを訪ねては注文を取って来る外回りの営業を主な仕事にし、更に店頭で売れた冷蔵庫、洗濯機、テレビなど大型製品の配送も担当していました。明るく開けっぴろげな性格で、高校では剣道部と応援団に所属していたと言うだけあって、小柄ながら、声も大きく動きもきびきびし、総てが大雑把、よく言えば、全身に〝健康的蛮カラさ〟が漲っています。腕時計はいつも二〇分進ませていました。その方が安心出来ると言うのです。風貌といい、会話から感じるイメージは、当時の映画、「日本一の無責任男」とか「日本一の○○男シリーズ」で人気のあった植木等さんにそっくりでした(写真1参照)
 しかし、そんな彼の駆け引き抜きの〝直情型営業姿勢〟が好感を得ていたのか、彼に惚れ込む贔屓筋も少なくなかったようで、かなりの顧客を抱えていました。
 カラーテレビなど大型の商談が纏まると、現在では専用の配送業者や設置業者が家まで運んだり設置したりしますが、先に記したように、当時はお店の店員が自ら運んで、今より格段に手間がかかったアンテナの設置や配線工事など全部やらないといけません。
 私も専務の軽トラックに同乗し一緒に出掛けて作業をするのですが、こんな時が私の一番の〝活躍〟のしどころ、私の〝見せ場〟なのでした。まだ一五歳〜一六歳、しかも脳味噌の軽い分、運動神経には割合恵まれ身体も軽く、アンテナの設置や配線など、かなりキワドい場所にも躊躇なくのぼって、手際よく仕事をこなす手腕が買われて非常に重宝がられたのです。

写真2、こんな感じの部屋ですね

【写真2】 こんな感じの部屋ですね

 作業が終わると大抵の家庭では、茶菓子を出して慰労してくれます。ここでお客さんに好意を持って頂き、次の営業に繋がるようにしなければならないので、これも重要な仕事の一部でした。ところが、これが結構苦痛なのです。
 当時はまたほとんどの家庭が和式の生活様式だったので、茶菓子をごちそうになるときは、当然、畳敷き卓袱台の部屋に通される事になります(写真2参照)
 〝○○さんはいいお得意さんなんだから、お前も可愛がってもらえるようにしないとダメだぞ〟
 などと専務に促され、正座しながら奥さんに
 〝宜しくお願いします〟
 と頭を下げるのですが、足を崩しなさいと、そこまで気を遣ってくれる奥さんはあんまりいません。
 〝こいつ、こんど中学を卒業して新潟から出てきたんです〟
 そんな専務の説明を受けて
 〝あ、そうですか、新潟の人は辛抱強くて頑張り屋ですからね。豆腐屋さんも新潟の人を採ったらしいけど、働きモンだと言って喜んでいましたよ。深い雪の中でジッと耐えて暮らしているからきっと辛抱強いンでしょうね〟
 などと、自説とも俗説ともつかない茶飲み話を長々と展開して終わる気配が見えません。いくら〝辛抱強い新潟県人〟の私も、足が痺れて、今、現に遭遇している〝この受難〟をジッと辛抱するのが毎度大変なのでした。

 私と同年の高校一年生だという、(丁度夕方の学校帰りで)まだ着替えも済ませていない、セーラー服姿の自分の娘を茶菓子の席に呼び寄せ
〝電機屋のにいちゃん、お前と同年なんだって〟
 と、私を紹介し、私と彼女の境遇の違いを説き、如何に彼女が恵まれているかを強調し、私をダシに、彼女の〝自覚〟を促すような場面に立ち会わされた事がありました。
 こうなると、
 〝へぇー、電機屋さん、偉いのね、じゃ、私も高校をやめて働こうかなぁ〟
 と、鬱陶しそうな娘さんの敵意の視線が私の方に向けられるのは仕方がありません。しかし、その棘のある言葉に母親が反応し、目の前で私を原因に親子喧嘩が勃発する始末、激しい言葉の応酬が続き、なかなか終息してくれません。そんなときは、足の痺れに耐える辛さの他に、わけもなく一方的に同年の女の子に嫌われてしまった淋しさにも耐えねばならないのでした。

 そんなエビソードのあったその日の帰り道、ハンドルを握る専務は、軽トラックの助手席で黙りこむ私が、落ち込んでいるとでも思ったのか、辛気な気分を吹き飛ばし、パァーッと私を励ますかのように、丁度カーラジオに流れていたビートルズの「フールオンザヒル」を、怪しげな英語で彼もラジオに合わせて口ずさみ始めたのです。
 〝フールオンザヒルのフールって、バカって意味じゃないんだね、ほかに意味があるんだな、きっと〟
 〝俺、高校三年の三学期まで大学受験をするつもりで勉強していたんだけど、色々あってね……、思うようにはいかないよな、うん……〟
 私を発端とする先ほどの親子喧嘩のやり取りが、専務の心にまで何がしかの変調をきたしてしまったのか、ガサツ・無神経・大雑把を売りにしていたいつもの専務とは明らかに違う彼がそこにいました。
 彼が私に〝身の上話〟めいたことを語ったのはこの時が最初で最後です。翌日からはまたいつもの〝健康的蛮カラ〟ぶりを発揮し、店員の先頭に立って、みんなを鼓舞する彼に戻っていたのでした。