安倍流“民主主義”とリンカーン(10) ゲティスバーグ演説―リンカーンの引き裂かれた内面


たけもとのぶひろ[第110回]
2016年9月9日

リンカーン

リンカーン

 リンカーンは、「ゲティスバーグの演説」においてかのテーゼを語り、民主主義を定義しました。それは、新しく再結合するアメリカ合衆国の理念と目されるところとなり、リンカーンを世界史上比類なき栄誉の人としました。
 それはその通りだし、それでよいと思うのです。しかし、以上をもって「リンカーンのゲティスバーグ演説」の話を終わりにしてよいものかどうか、ためらいを感じます。

 「国立戦没者墓地の奉献式」というTPOを考慮しても、演説の調子は、あまりにも暗く沈んでいたのではないかと察せられるからです。伝えられるところでは、リンカーンは、わずか2分ほどの短いスピーチを、祈るような小さな声で述べたために、誰一人、その時その場ではその発言の重大さに気がつかなかったそうです。たまたま書き留めていた新聞記者が記事にしたらしく、有名になったのはその後からだった、とされています。

 ゲティスバーグの会戦では、史上類を見ないほど多数の戦死者を出しました。その犠牲者をその地に葬る儀式において述べた “弔辞” にあたるのが、ぼくらが問題にしている演説であるわけです。だから「暗く沈んだ」調子になるなと言っても、そうならざるをえないでしょう。しかし、それにしても、と思うのは、神信心がらみの言葉があまりにも多過ぎる点です。「神との約束に身を捧げる」という意味の単語dedicate が6回、献身・帰依・信仰を表わす devotion が2回、そして叙述の結語部分にunder God と来ます。

 リンカーンの信仰の論理でいくと、内戦は神への帰依・献身の行為そのものを意味することになります。戦没者は、神との約束に身を捧げ、神への責任を引き受け、大義に殉じて戦死したのであって、戦没者に対する畏敬の念を禁じえない――そういうことなのでしょう。しかし、彼は戦争の最高指揮官として、これまでの戦いを振り返り、かつこれからの展望を語るべき立場にあります。厳粛でなければならないのは当然だとしても、元気がないとか、暗いとか、どこか不安気だとか、その種の印象は与えるのは本意ではなかったと思います。いまだ戦争中だし、(結語にあるように)希望に向かってもいるのですし。

 「天性の演説家・文章家」として知られる、そのリンカーンが、小さな声で、あたかも神に祈りを捧げるかのように語った、との言い伝えについて、ぼくは、なにかしら得心のいかない違和感みたいなものを感じます。どうして、そういうふうに、神にすがるような話になってしまったのかなぁ? と。
 しかも、神への信頼・信仰というときの神信心は「キリスト教」を指しています。すでに紹介した通り、リンカーンはその「大統領第一期就任演説」(1861.3.4)において、my rightful masters, the American people と述べ、その「アメリカ人民」の特徴として「知性、愛国心、キリスト教」を挙げています。

 これでいくとリンカーンは、「キリスト教徒である」ことが「アメリカ人民である」ための必要条件の一つだと考えていたことになります。この場合、黒人兵士はどういう扱いになっているのでしょうか。奴隷解放宣言(1863.1.1)以前の黒人は、白人の所有物(財産)であって人間ではなかったのですから、キリスト教の信者たりえません。奴隷から解放されて兵士となった黒人は、(解放から参戦までの)わずかな日々の間に洗礼を受け、キリスト教徒として戦場に立ったのでしょうか。

 彼らのうち戦死した黒人兵者は、キリスト教徒として戦場に倒れたのでしょうか。また、幸運にも生き延びた黒人兵士は、キリスト教徒として「国立墓地奉献式」に参列していたのでしょうか。そもそも黒人兵士の生存者は、キリスト教徒であろうとなかろうと、式典に招待されていたのでしょうか。それとも、式典に黒人の姿はなかったのでしょうか。

 もしも、彼ら黒人兵士がキリスト教徒でなかったとしたら、リンカーンの演説は端から黒人兵士――戦没者にせよ生存者にせよ――の存在そのものを無視しているわけですから、著しく礼儀を欠いていると言わねばなりません。彼の演説は、上述のように、もっぱらキリスト教の信者に向かってのみ語られているのですから。

 ここで、すでに指摘した点にあらためて立ち帰らざるをえません。すなわち、リンカーンと合衆国連邦軍の指導者たちは、黒人を奴隷身分から解放すると宣言しただけで、「黒人=American People」とは明言していない、では、その場合の黒人とは何者であるのか?  という例の問題提起が、それです。

 リンカーンたちは、ここで巧妙なテクニックを使います。黒人を人民「である」と定義しない代わりに、「人民=the people」と「見なす」、「であると見なす」というのが、その手です。「見なす」とは「実際はどうであるかにかかわらず、こういうものだとして扱う」(広辞苑)ということです。つまり、彼らにとっては、「黒人は人民ではない」というのが当たり前の常識です。この常識を前提とした上で、しかし、事と次第によっては「人民として扱う」、彼らの利害の如何によっては「人民として処遇する」ということです。

 もう少し具体的に言うと、「当面する必要」(内戦の勝利)に迫られて、より根本的には「時代の要請」(新生合衆国の近代化・国民国家の形成)を受けて、いまだ人民たりえていない黒人を人民と「見なす」ことが、白人としては得策だった、ということだったのかもしれません。仮に、歴史上の事実がこれに近いものだったとすると、American People は、それそのものが上下の二段構造になっているのではないでしょうか。

 上段が白人Peopleで、下段は黒人People――というふうに。あるいは、筋目正しい「正系」人民 main people に対する、奴隷上がりの「傍系」人民 sub-people ――というふうに。American Peopleは、いくらthe people と呼称しても、もともと上下二段の人種および階級として画然と区切られて生まれており、この構造は今に至るもなんら変化していない、ということだと思います。

 いや、the people は単語として複数扱いですから、多様なつながり(関係・集団・共同体)を含むのは、それはそれでよいのです。ぼくが問うているのは、白人と黒人という二つの people が、人種として差別・被差別関係にあり、階級として支配・被支配の関係として固定されてきた点です。これら二つの people は引き裂かれたままで、その間を隔てる深くて暗い絶望の淵は、もはや埋めて平らにすることなど、およそ不可能であるかに思われます。こうした状況の、事の起こりは、アメリカ内戦における奴隷解放宣言・ゲティスバーグの戦い・そしてその総括としてのゲティスバーグ演説――このあたりにあったのではないか、そんな気がしてならないのです。

 リンカーンに直接かかわる話であることは言うまでもありません。そして彼は、以上のぼくの指摘など、十分承知していたと思います。承知していながら、それでも the black is the people と言い切ることができなかった。これを言い切ることができない以上、厳粛な祈りと明日への希いを一つにして語ることは、もとよりできる相談ではなかった、ということではないでしょうか。

 そもそも、白人が黒人を奴隷身分から解放すると宣言したからといって――黒人からすれば、奴隷から解放してもらったからといって――黒人は、直ぐさま人民になることができるでしょうか。宣言は1863年1月1日ですから同年同月2日から、黒人は人民になったでしょうか。
 黒人奴隷が人民になるとしたら、黒人が自分たち自身の力で人民になるのであって、それ以外の道はありません。したがって、解放されただけでは、黒人は人民ではない、人民たりえていない、ということです。

 事実、黒人はいまだ人民ではなかったのですから、人民たりえていなかったのですから、リンカーンがthe black is the people と明言できなかったのには、無理からぬところがあります。しかし、それでいいのか、よかったのか、と問う自身の、内面の声を、はたしてリンカーンは黙らすことができたでしょうか。

 だって、リンカーンがof the people, by the people, for the people と言うときのpeople は、今現在のpeople のみならず、未来のpeople をも同時に意味しており、その言葉にそういう含みをもたせていることは、彼自身、自らが創りだしたテーゼだけに、十分自覚していたわけですから。

 イギリス本国から新大陸に入植してきた白人は――何度も指摘してきたように――17世紀以来この方、self-government による自前のcommunity を立ち上げ、運営してきました。彼らはすでに、government of the people, by the people, for the people の何たるかを、身をもって体験してきており、その意味でれっきとした「人民」でした。その自信こそが彼をして、そのpeople’s government について、shall not perish from the earth ( この地上から消えてなくなるようなことがあってはならない) と断言させたのだと思います。また「独立宣言」において、彼らをして、イギリス本国人に向かって all Men are created equal ( by their Creator ) と言わしめたのも、この自信だった、と思うのです。

 黒人は白人に向かって、同じその真実――all Men are created equal――を突きつけなければなりません。もとはと言えば、イギリスの奴隷商人がアフリカ大陸の黒人を暴力的に拉致して、本国に連行し、奴隷市場でセリにかけたのが、事の始まりでした。新大陸の白人・イギリス人は、黒人奴隷を購入し、所有し、酷使してきました。
 黒人は、歴史のこの事実をなかったことにできないし、なかったことにできるはずがありません。人道上許すべからざるこの事実をまず白人に認めさせること――その一歩を踏み出すことによってはじめて、黒人は「自分のなかの奴隷」と訣別することができるのだし、「人民 the people 」の何たるかを体現することができるのだと思うのです。

 要するに、黒人は白人に解放してもらっても、実は、奴隷であることをやめることはできない、ということだと思います。自ら――のなかの白人的なもの・奴隷的なもの――と戦うことのない黒人に、「人民」への道はない、そういうことではないでしょうか。奴隷から解放された黒人において「人民 the people」が実現しないとすれば、どうなるか。government of the people, by the people, for the peopleなどというものは “夢のまた夢” とならざるをえないのではないでしょうか。

 大統領の責めに任じるリンカーンが新生合衆国連邦の将来をイメージするばあい、現実の選択肢としては、self-government の実績に鑑みて白人をmain-people とし、黒人を sub-people と想定するほかなかったのかもしれません。
 急進的な奴隷解放主義者などからは、ひょっとして厳しい批判――たとえば人種差別主義者だとか白人選良主義者だとか――があびせられたかもしれませんが、彼は甘んじて受け入れるほかなかったのではないでしょうか。

 リンカーンは第一期大統領就任演説に見られるように、長時間にわたって理詰めの論理を展開できる弁舌能力を有していました。そのリンカーンが、定かには聞き取りにくいほどの小さな声で、たったの2分、話しただけだった、ということが、どうしても解せなくてここまであれこれと推し測ってきたのでしたが、やはり推察の域を出ることはできませんでした。しかし、第二期の大統領就任演説(1865年3月4日)の、あたかもすべてを神に捧げるかのような文章から、さかのぼって「ゲティスバーグの演説」をふりかえるとき、やはり神なのか、との思いを抑えることができないのでした。

 「ゲティスバーグの演説」は1863年11月19日ですから、さかのぼると言っても「第二期就任演説」はわずか1年と3か月余り後のことです。奴隷制廃止・内戦勝利・新生合衆国建設がすでに時代の流れとなっていたことに変わりはありません。リンカーンにとって、奇しくも「人生の最期」となったこの時期、彼は、現実政治を一応の成功に導きながらも、また近代史における国民国家の構造を理論的に解明しながらも、神と直接対面する内面においては、アンビバレンツに引き裂かれ、葛藤し、ややともするとペシミスティックになりがちだったのではないでしょうか。「ゲティスバーグ演説」の当初から、です。

 合衆国の再統合・近代国民国家の建設・奴隷制度の廃止・自由の理念の提唱――これらは思想と歴史の要請に応えようとしたもの、との評価が定まっています。
 しかし、現実はどうだったか――リンカーン自身の生活感覚は白人一般と大差のないものだったでしょうし、黒人も直ちには奴隷状態を脱していないわけでしょう。
 手放しで喜べる状況ではなかった、ということです。

 見かけは万事うまくいっているからこそ、かえってそこに絶望が潜んでいることを、白人の指導者たちは自覚していたのではないかと、そんな気がするのです。
 リンカーンは奴隷を所有していませんが、「独立宣言」を起草したトマス・ジェファーソンは奴隷を所有していたし、「建国の父」ジョージ・ワシントンもヴァージニアの大農園主として、大量の奴隷を所有していました(遺言によって解放)。
 これが嘘も隠しもない実状だったわけですから、リンカーンとしてはまさしく“縋る念い” で神に対面しないではいられなかったのではないでしょうか。

「ゲティスバーグの演説」は決して “民主主義の定義“ に止まるものではないことを述べてきました。リンカーンをあと少し続けたいと思います。