[編集部便り]
ワールドボーイ(4)


極北編集部・極内寛人
2016年8月23日

『シリーズ20世紀の記憶「1968年」』

『シリーズ20世紀の記憶「1968年」』(毎日新聞社)

 同じ時代を生きる人間でも、その生育環境や職業あるいは個人の関心事項の違いなどによって、世界がまったく違った風景に見えてしまうのは仕方がない事であります。
 ある人にとって1968年とは、三億円事件があった年であり、オリンピックに関心のあった人には、この年予定されていたメキシコオリンピックでの活躍が期待されていたマラソンの円谷幸吉選手が、その重圧に耐えられず自殺した年だったはずです。アニメファンには『巨人の星』の放映が始まった年として記憶されているかも知れません。

 ウィキペディアで1968年の年表を見ると、国際政治ではベトナムのテト攻勢、同じくベトナム絡みで、米軍のソンミ村大虐殺事件、更にアメリカの大統領候補だったロバート・ケネディー暗殺、ソ連のチェコ侵攻、アメリカ大統領選挙でニクソンの当選などがめぼしいところでしょうか。
 眼を国内政治に転じても、当時は自民党佐藤栄作長期安定政権のまっただなかだったということもあってか、五〇年近く経過した現在の視点で見る限り、当時それほど特筆すべき事柄は何もなかったと言うのが公平な評価という感じがします。一年前の1967年、そして一年後の1969年がそうであったように、1968年もまた、当時の生活者にとっては、相変わらずの一年だったはずであります。

 ところが、今、手許にある『シリーズ20世紀の記憶「1968年」』(毎日新聞社)を眺めていると、上記のような印象を抱く事は、時代的要請に対する背信であり、怠惰の極みと深く反省を迫られそうな気持ちにさせられてしまいます。
 本著、表紙からもうすごい。「想像力が権力を奪う! ベトナム戦争が世界同時革命をリンクした」ですからね。更に表紙をめくれば、「あの頃キミは革命的だった!」「バリケードの中の青春」と、東大闘争時のカラー写真で煽って、全編、まるで東大日大などの学生運動を中心に社会が回っていたかのようなの印象を与えずにおかない内容になっています。

 自分の好みに似せて世界を語るのは仕方がない事だと思いますが、それにしても本著はあまりにも時代に対する公平性を欠いているように思えるし、「20世紀の記憶」と称して、広く一般性を装いつつ自分好みの世界観を披瀝流布するのはあまりにも傲慢に過ぎるのではないか、そんなふうに思えてならないのです。
 日本全国、農村漁村山間僻地、隈無く歩いて、当時の生活者に1968年の思い出を問えば、九九パーセントは東大日大闘争など記憶の歯牙にもかけない小事のはずですが、これを天下の大事に仕立て上げられ、後世に押し付けられてはたまりません。

 私にとって1968年とは、中学を卒業し一人上京し、選挙権もないのに社会人として税金を払い始めた年ですが、私に限らず、それぞれ十人十色の1968年があったことでしょう。
 『極北』の竹村氏の深夜放送の論考に刺激され、ワールドボーイなど紹介しつつ、自分なりの1968年を語るのも今回で四回目、期せずして〝押しつけの記憶〟への抵抗の記録にでもなればなどと思い始めている私なのでありました。

 そこで、ワールドボーイの四回目ですが、前回の予告通り、私の最初の職場、株式会社K電機の社員を紹介致します。話の順序として、社員の前に社長からゆきましょう。
 社長は四〇歳前後、銀縁メガネの丸顔二重顎に、オールバックの髪の毛をポマードで固め、恰幅のよい体躯はいつもネクタイスーツに包まれています。社員と一緒に摂る毎日の朝食の時でもこのスタイルを崩す事はまずありません。
 多汗症なのか、首筋、額、そしてメガネをずりあげ、眼の回りをハンカチで拭いながら会話するその癖は、太っ腹を装う割には神経質さを感じさせ、端から見ていても決して気持ちのいいものではありませんでした。
 彼のいるところ、必ず、香水やポマードなど人工の香りが仄かに漂うし、私はこれら社長のすべてにどうしても馴染む事が出来ないのでした。

 社長のそれまでの経歴も会社の来歴も分かりません。一五歳の私には他人の経歴や会社の来歴を詮索するような発想も習慣もまだ身につけておらず、そもそも関心の埒外でしたから。
 それでも、今にして思えば、志村坂上の本店の近くに構える一戸建てはほとんど旅館と見紛うほどだったし、近所には薬局を経営する実弟も家を構えておりましたから、これらの事から相当の資産家の家系だったらしい事は容易に推測出来ますが、我が株式会社K電機の株も全部同族で押さえていたようです。

 朝食時、社長が社員に振る話題は、接客の心得から電機業界まで商売絡みがほとんどで、機嫌がいい時には、例えば(サンヨーの製品に限り全品四割引きセールを展開した時など)「(安売りに負けて)悔しかったら、うちに買いに来い! と(秋葉原の電気屋に)言ってやれ!」などと、大ボラを吹くのを常としておりました(何故サンヨーだけ四割引きなのか、この連載が続けば、また記す事もあるでしょう)。
 それに、当時の電気屋はレコード販売を兼ねるのが普通で、我が社もその例外ではなかったのですが、そんな関係からか、社長は芸能関係者に人脈がある(らしい)事を自慢し、チャーリー石黒と一緒に食事をしたと言っては、その際、森進一をどうするこうすると〝打ち合わせ〟をしたかのようなホラを吹き、あたかも自分が彼に影響力を行使出来るかのような(誤解を社員に)して欲しいようなキワドい話をしていたのを覚えています。
 「君は話をするのが上手だから、まずは司会がいいかも知れないね。森進一は君が担当だな」などと、社長自身全然その気も(多分実力も)ないくせに、私にも将来芸能関係の仕事を考えている(と私が勝手に誤解してくれればこれ幸い)というような大見栄を切っては、まんざらでもない風情で一人悦に入っているのでした。

 家族構成は、両親、それに奥さんと小学校六年、三年の娘さんに一年の息子さんの三人。奥さんが私たち社員(多いときは八人)の毎日の食事の世話をしてくれていました。奥さんは多分三〇代の半ばと言った感じ。私に対してまだ中学校を卒業したばかりの子供を預かっているという思いがどこかにあったのでしょうか、健康の事などを含め色々気遣って下さるのが私にもわかりました。
 食卓では、あれこれ仕事以外の話題を社員に振っては、社長以上に彼女が会話をリードする事の方が多い。恰幅のいい夫に負けず劣らず、豊満な感じでしたが、夫と違って、身を飾るようなところもなく、エプロン姿しか私には記憶がありません。

 社長の人柄を一言で評するならケチ、これに尽きると思います。無用な高額中古外車を買ってみたり、必要以上に身だしなみに拘るなど、外見を飾る事には余念がないくせに、それ以外のところでは信じられないくらい細かいのです。
 〝カネが原因(もと)で、人殺しだって起きるんだ、覚えておかないといけないよ〟
 とか、つい昨日まで中学生だった私が、社会人になった事の緊張感を自覚させられるのは、いつもそんな社長の言葉によってでした。