安倍流“民主主義”とリンカーン(8)—内戦における「奴隷解放宣言」


たけもとのぶひろ[第108回]
2016年8月18日

「奴隷解放宣言」を起草するリンカーン

「奴隷解放宣言」を起草するリンカーン

 すでに触れたところですが、奴隷制度はとりわけ南部が中心でした。南部奴隷州は、「イギリスを中心とした自由貿易圏」に所属し、「奴隷制プランテーションのもとでの綿花供給地」としての役割りを担う方向で国づくりを考えていました。早い話が、合衆国連邦から離脱して、南部独自の南部連合国を結成すべし、という路線です。
 他方、北部自由州としては、旧宗主国イギリスからの独立は、政治的独立であると同時に経済的独立でもあらねばならず、その実現のためには、すべての権力を中央に集中し、なによりもまず経済の工業化をはかり、あわせて貿易における保護関税政策を前進させなければならない――そういう考えでした。

 このように合衆国は、南部奴隷州の農業立国路線と北部自由州の近代工業化路線へと分裂する危機をはらんでいた、あるいは、すでに分裂しつつあった、ということです。建国のそもそもの初め以来、合衆国はこの矛盾を抱えてやってきたのでした。
 では、どうしてこの矛盾が激突しないで来れたのか――両者の力が拮抗し、均衡を保っていたからではないでしょうか。逆に言えば、この均衡が崩れるとき、南部と北部は激突せざるをえません。そのあたりの事情について、『63章』は次のように指摘しています。

 「1840年代末の時点で奴隷州と自由州の数は、15対15の均衡を保っていた。ところがメキシコ戦争で獲得された新領土のうち、ゴールドラッシュの結果人口が急増したカリフォルニアが、1849年末自由州としての連邦編入を希望した。この後もミネソタとオレゴンの自由州としての連邦加入が予測されたため、連邦議会における南北の勢力のバランスが崩れることを恐れた南部奴隷州は強く抵抗した。」

 合衆国連邦は分裂の危機に直面しますが、このときは、なんとか折り合いをつけることができました。妥協の主たる条件は ① 南部諸州はカリフォルニアが自由州として合衆国連邦に加わることを認める、② 北部諸州は新たに制定する逃亡奴隷取締法のもとで、逃亡奴隷についてより厳格な送還義務を負う、この二点でした。歴史上「1850年の妥協」と呼ばれるこの相互譲歩によって当面の決裂と敵対は回避されたのでした。しかし、この妥協自体が物語っているのは、奴隷制度がもはや各州レベルの問題領域を超えてしまっているのが現実である以上、合衆国連邦を構成する州の全体が協力して解決するしかない——そういう政治の現実だったと思うのです。

 その後の1850年代、南北間の亀裂は拡大・深化し、軋轢は激しさの一途をたどります。そしてついにリンカーンが歴史に登場します。それまでの事の顛末は、次に示すいくつか指標をみれば明らかです。
 1854年 カンザス・ネブラスカ法成立(連邦編入をめぐる北部主導「ミズーリ協定」への南部の巻き返し)、同年7月 共和党誕生(反奴隷制を旗印とする完全な北部政党)
 1856年 「流血のカンザス」(奴隷制反対派と支持派の武力衝突)
 1857年  連邦裁判所「ドレッド・スコット判決」(南部寄り判決:黒人は合衆国市民たりえない、奴隷は合衆国憲法で保障された財産である、ミズーリ協定は憲法違反である)
 1859年  奴隷制反対の戦闘的活動家ジョン・ブラウン、ヴァージニア州ハーバーズ・フェリーの武器庫を襲撃、奴隷の蜂起を促す、決起鎮圧、ブラウン絞首刑
 1860年  11月大統領選挙、共和党穏健派 エイブラハム・リンカーン当選

 リンカーンが当選すると、ただちに七つの州(サウスカロライナ州・フロリダ州・ジョージア州・アラバマ州・ミシシッピ州・ルイジアナ州・テキサス州)が合衆国連邦からの脱退を宣言、翌1861年2月には「南部連合国」(大統領 ジェファソン・デイヴィス)を結成、合衆国は事実上「合衆国連邦」と「南部連合国」という二つの国家に分裂します。
 リンカーンは同年3月4日の「大統領就任演説」において、南部連合国に対して連邦への復帰を呼びかけます。合衆国連邦の州が全体で共同して奴隷制度問題の解決にあたろう、と。その際の論点を整理して示します。

 •すでに奴隷制度下にある奴隷州については、州政府の立場を尊重する。「私は、奴隷制度が存在する州において、それに干渉するつもりはない。私は自分にそうする法的な権利がないことを知っているし、そうしようとも思っていない。」「州の権利は侵されざるものであり続けます。」この点は、すでに奴隷制度を廃止している自由州についても同様で、州政府の立場は尊重されなければならない、ということです。

 •いまだ州になっていない領土(準州)における奴隷制度の採否については、どうか。州政府が存在しない以上、連邦政府全体の統治に関わる問題でなければなりません。したがって、各州政府は、当面する連邦政府マターについて相互に力を合わせて妥協点を探り、合意形成をめざす義務がある――合衆国連邦の統治はそういう制度設計になっている、リンカーンはそう考えています。
 奴隷制の採否をめぐる問題は、合衆国を奴隷州と自由州の敵対関係に二分しています。宗主国イギリスと戦って独立をかちとった合衆国連邦ではあるのですが、1世紀を経ずして早くも、「一つの国」たり得ているのかどうか、たり得るのかどうか、その存否・存亡を問われかねない情勢なのです。

 •リンカーンは第1次大統領就任演説において、こう訴えています。「もしアメリカ合衆国が正式な政府でないとして、単なる契約による州の連合体だとしても、契約を結んだ全ての当事者によらないで、契約によって平和裡にそれを無効にすることができるでしょうか? 契約の片方の当事者が、それを侵す、つまり破ることができるのでしょうか、つまり、契約を撤回するには、全ての人の同意が要るのではないでしょうか? (中略)このような観点から、いかなる州も単にその州だけの都合で、合法的に連邦から離脱することはできないということが導かれます。そして離脱する決議や条例は法的に無効です」と。

 •リンカーンが言いたかったことは、別言すればこういうことではないでしょうか。
 合衆国連邦はいまだ「一つの国家」「一個の統治主体」nation stateたりえていないにしても、それを目指し・それへの発展途上にある「連邦国家」federal stateである。ありうべき、この「一つの国家=全州」の同意形成を無視して、各州政府が勝手に「連邦」を脱退できるとしたら、合衆国連邦は成立しないし、存続できない。そもそも法は、各州政府に対して、連邦脱退の権限を与えていない。
 だからこそ、彼は演説を締めくくるにあたって、南部連合国諸州の人びとに向って、こう呼びかけずにおれなかったのではないでしょうか。 We are not enemies, but friends. We must not be enemies. と。

 しかし同年4月、南部連合国上記7州のうちサウスカロライナ州の軍が、リンカーンの呼びかけを無視し、連邦軍のサムター要塞(サウスカロライナ州所在)を砲撃します。内戦への突入です。当初は連邦脱退を躊躇していた四つの州――ヴァージニア州・ノースカロライナ州・テネシー州・アーカンソー州が、さらにその後に続き、連合国側に立って参戦します。この時点で、北部合衆国連邦23州、対する南部連合国は11州です。

 後発4州のうちヴァージニア州は、アメリカ屈指の有力州としてその名を知られています。南部連合国は、アラバマ州モントゴメリーに設定したばかりの首都を、そのヴァージニア州のリッチモンドに移します。隣接するメリーランド州の合衆国連邦首都ワシントンD.C. とは目と鼻の先です。

 内戦の初め北軍は、ヴァージニア州で干戈を交え南軍に敗北します。これがきっかけとなって、北軍に早期講和派が生まれます。奴隷制度の新しい地域への拡大を認めることで、南部連合国(=連邦脱退州)と妥協すべきだ、というのが彼らの主張です。
 リンカーンは早期講和・妥協による再統合に反対です。「戦争勝利による合衆国連邦の完全な再統合」「独立の堅持」――この「非妥協的結着」こそが、彼の戦争目的(戦略)でした。

 リンカーンの戦略を貫徹するには、勝敗が結着するまで戦争を継続しなければならず、戦争を継続するためには、それ相応の然るべき理由・大義名分というものが求められます。何のための戦争か、正義を語らなければなりません。ここで重大な役割を果すのが、「奴隷制度の廃止」という大義名分です。「奴隷解放のための戦い」という正義です。
 この合言葉を戦術として掲げる、そのことによって、合衆国連邦の再統合という戦争目的を実現する、それがリンカーンの戦略だったのだと思います。

 上述のように内戦の序盤、ヴァージニアを含む南部4州が次々と連邦を離脱する展開は、リンカーンにとってきわめて厳しい試練の連続であり、戦争は長期化をも含めて向後の見通しの立たない状況にあったと言います。必ずしも思わしくないこのような戦況のなかから、おそらくは、「奴隷解放=連邦再統合」構想とでも言うべき「内戦」の考え方が生まれたのではないでしょうか。「奴隷解放宣言」の “予備草案” なるものが閣議に提出されたのは、1862年7月22日だったというのですが、この件に関する実際の議論はもっと早い段階から始まっていて、7月になってようやく成案を得たということではないでしょうか。

 閣議予備草案からちょうど1か月後の同年8月22日、リンカーンは「奴隷解放宣言」についての自身の考えをあからさまに――というより身も蓋もない言い方で――明言しています。その言葉が残されています。少し長文になりますが、次に示します。

 「私は連邦を救いたいのだ。この闘争(南北戦争)における、私の最高の目的は、連邦を救うことであって、奴隷制を救うことでもなければ、滅ぼすことでもない。
 もし、ただ一人の奴隷も解放しないで、連邦を救うことができるなら、私はそうしたい。
 また、全ての奴隷を解放することによって、連邦を救うことができるなら、私はそうしたい。また、いくらかの奴隷を解放し、その他の奴隷は解放せずにおいて、連邦を救うことができるなら、そうしたいのだ(→それでもいいのだ:筆者)。
 私が奴隷制と黒人について事を行なうのは、そうすることが連邦を救うのに役立つと信じるから、行なうのである。」

 此処まで言うか、と思われるでしょうか。此処まで言わないと、どこの何がどのように問題なのか、わかってもらえないのが、合衆国連邦・北軍の現実だったのではないでしょうか。というのも、リンカーンにとって内戦とは、奴隷解放という主義主張・イデオロギーのための戦いではなくて、合衆国連邦の独立を死守するのか、離脱解体を許して一国の独立を失うのか、黒白を争う戦いだったわけですが、連邦政治のレベルでは必ずしも、そういう理解が得られていなかった、「リンカーン=奴隷解放」という等式は、現在の日本と同様、当時のかの国においても大衆的な常識だったのではないでしょうか。

 これに関する今日の解釈を――当時も似たようなニュアンスの言論が為されていたのではないかという含みで――以下に二つ紹介します。
 ①「大統領に当選したリンカーンは、奴隷制度の新しい地域への拡大を認めることで脱退州と妥協すべきだ、という意見を斥けた。彼は、既存の奴隷州の奴隷制度を廃止することは当面不可能であるが、その拡大を阻止しなければ自由の国の面目が立たない、と考えていたからである。」(『アメリカ』)
 ②「開戦後数か月間、リンカンは奴隷制に言及するのを避けた。リンカンが大統領として奴隷制問題を最初に切り出したのは1862年3月だった。このとき彼は、各州による自主的奴隷解放、奴隷所有者への補償、解放奴隷の国外植民、という保守的な解放を考えていた。(リンカンは急進的奴隷解放案には与せず)9月22日、奴隷解放予備宣言を公布した。
(中略)ついに南北戦争が連邦維持のための戦争から奴隷解放のための戦争に変わったのだった。」(『63章』)

 とまれ、合衆国連邦の独立という戦略目標実現のために、奴隷解放という戦術をとる――1862年に「明言」したリンカーンの立場は一貫しています。上記の「明言」が「宣言」になるのが同年9月22日です。「明言」は、「連邦を救う」という至上目的との関連で「奴隷解放」ということを考えるとしたら、理論的には三つの可能性があるとしています。
 ①「ただ一人の奴隷も解放しない」で連邦救出の目的を達する場合。
 ②「全ての奴隷を解放する」場合。
 ③「いくらかの奴隷を解放し、その他の奴隷は解放しない」場合。
 リンカーンが実際に選択したのは③の路線でした。どうして③なのか、解放するしないの基準は何なのか――これを知るには、合衆国連邦・北軍側を構成する州の事情というものを考慮する必要があるようです。

 先述の通り南部連合国は、最初に反乱を起こした7州に、ヴァージニアを含む4州が加担して、南軍は全部で11州です。後から参戦した4州、ヴァージニア・ノースカロライナ・テネシー・アーカンソーの北側には、デラウェア・メリーランド・ウエストヴァージニア・ケンタッキー・ミズーリの5州が直接州境を隔てて対峙しています。これら5州は、地理的には「境界州」と呼ばれますが、制度の内実からは「残留奴隷州=奴隷制実施州」と呼ぶのがよいのかもしれません。これらの州は、奴隷制を維持しながら、南部連合に参加せず、連邦に留まっていたのですから。

 リンカーンは、これら五つの州への対応に苦慮します。これらの州は、合衆国連邦にありながら、奴隷制を実施しています。しかも、連合国と境を接する境界州となると、いつ何時、連合国側に寝返って連邦を離脱するやも知れません。境界州=残留奴隷州の奴隷制については、そのあたりの事情を配慮して、これを認めるほかなかったのだと思います。また、憲法が保障する「財産権の自由」をも考慮しなければなりませんでした。奴隷は財産だったのですから、大統領といえども、財産権を侵して奴隷制を廃止する権限はありません。ですから、境界州の奴隷は解放できないし、解放しない、ということです。

 しかし、これは合衆国連邦の領土に限っての話です。反乱軍(南軍)の占領地、つまり南部連合国の領土11州については、話は別です。大統領は軍の最高司令官として、軍事大権を行使し、「戦鬪に必要な措置」を講ずることができる、との規定を適用すればよいのですから。——リンカーンは、この大統領の軍事大権を行使することにより、反乱軍占領地=南部連合国11州の奴隷に限って解放したのでした。つまり、彼が選択したのは、上述の、奴隷解放の理論的可能性のうち第三の道、「いくらかの奴隷を解放し、その他の奴隷は解放しない」場合であった、ということです。それ以外の選択肢は、理論的にはともかく現実的には、あり得べからざるケースだった、ということです。

 このように、奴隷解放宣言の向う先が南部連合国領土の奴隷制に限られたのは、連邦内の「境界州=残留奴隷州」の事情が大きく影響していました。それだけではありません。いつどのようなタイミングでこの「宣言」を発するか、の点についても、連邦内境界州への配慮を欠くことができませんでした。なぜか。連邦軍が不利な戦局面における奴隷解放宣言の発布は、奴隷制を実施している境界州5州の心理にマイナスの影響を及ぼし、彼らをして連邦側から離脱させかねない恐れがあったからでした。リスクが大きすぎます。

 リスクを避けて北軍が奴隷解放宣言をやりきるには、戦闘勝利・北軍優勢の局面をつくりだすしかありません。緒戦より苦しい戦いを強いられてきた北軍にとって、それはもちろん容易ではなかったでしょう。しかし、苦戦してきたからこそ北軍は、「宣言」が間違いなくもたらすであろう大いなるリターンに期待せざるをえないのでした。
 リターンとは、言うまでもないことですが、南部連合国領の黒人奴隷のことです。彼らを奴隷の身分から解放したうえで、兵士として獲得し、戦線に動員するということです。

 戦闘勝利・北軍優勢の局面を切り開くことができたのは、内戦勃発以来およそ1年半後の1862年9月17日のことでした。メリーランド州は「アンティータムの戦い」において北軍が南軍を圧倒して勝利したのです。メリーランド州は前述したとおり、境界州=残留奴隷州です。事と次第によっては南部に寝返りかねません。しかも、そのメリーランド州に合衆国連邦の首都ワシントンD.C. が所在しているのです。もしこの会戦を落とすと、首都が敵地の中に孤立してしまいます。此処で負けるわけにはいきません。それもあってのことでしょう、内戦始まって以来の戦いとなりました。両軍合わせて約2万3000人の “歴史的流血” を出した戦闘として、その名を知られていると言います。

 南軍を後退せしめたアンティータム会戦の5日後、1862年9月22日、リンカーンはかねてより準備の「奴隷解放宣言」(予備宣言)を発します。
 「1863年1月1日に、アメリカ合衆国に対して反乱状態にある州内に、奴隷として所有されている全ての人は、当日または当日以降、永遠に自由となる。 大統領は前述の1月1日、当日、合衆国に対して反乱を起こしている州が存在する場合には、かかる州を布告によって指定する。」
 そしてこの予告通り、リンカーンは(同年同月同日の時点で連邦側にいまだ戻ってきていないすべての)反乱州を指定し、その州の奴隷を解放する宣言にサインしました。
 「奴隷解放宣言」(本宣言)は短いのですが、歴史的重みを感じさせます。曰く。
 「私は、ここに指定された州で、奴隷として所有されている全ての人が、今後、自由となるべきことを命令し、宣言する。」
 「宣言」でもって解放された黒人奴隷は、北軍に志願して南軍と戦いました。北軍の黒人兵士は、内戦終結までの総数で18万人とも20万人とも言われています。
 南部反逆州に限って「奴隷解放」を呼びかける戦術は、リンカーンの期待どおり、連邦軍=北軍の戦力強化に大きく貢献したということです。

 以上で見てきたのは、大統領就任演説のときのリンカーンが何を考えていたのか、そして「南北戦争=内戦」に突入し苦戦を強いられるなかで構想した “「奴隷解放=連邦再統合」戦略” とでも言うべき考え方の中身はどういうものだったのか、といったことでした。

 とまれ、リンカーンは1863年元旦、奴隷解放本宣言を発しました。そしてこの年の半ば、7月最初の3日間、南北戦争史上最大の激戦地となったペンシルバニア州はゲティスバーグの戦いにおいて、文字通りの死闘を制します。この戦いを境に、北軍=連邦軍が内戦を勝利に導いたとされています。この大きな転換点となった戦いの4か月後の、同年11月19日、同じそのゲティスバーグ死闘の地において、「国立戦没者墓地奉献式」が催されます。その式典においてリンカーンは、大統領として・軍の最高司令官として、演説を行います。かの有名なフレーズを含む演説です。
 次回は、その演説の中身から学びつつ、リンカーンという人について思いをはせたいと思います。ようやく肝腎のテーマ「ゲティスバーグ演説」にたどりつくことができました。