安倍流“民主主義”とリンカーン(4)

たけもとのぶひろ[第104回]
2016年5月2日

 「式辞」において安倍首相はいとも気軽に、当然その内容を熟知しているかのような調子でもって、「自由で民主的な国造り」という言葉を口にしました。また彼は、米国議会での演説においても、民主主義など当然熟知しているかのごとき言動でした。しかし、彼は何も知りませんし、知りたいとも思っていません。正直いうと、大嫌いなのですから。
 そういうぼく自身、十分に理解しているかどうか、疑われます。それについての決まり文句は知っていますが、自分自身の言葉でどこまで説明できるか、怪しいものです。心の底から合点がいっていないというか、隔靴掻痒の感をなしとしません。

 安倍氏の米国議会演説ということに “縁” みたいなものを感じたりするところから、アメリカ民主主義について、その原点と言うべき「独立宣言」および「ゲティスバーグ演説」に立ち返って考えてみたいと思います。今回は前者について検討します。

 通称「独立宣言」は、日常的にはUnited States Declaration of Independenceと書かれているらしいのですが、この文書の本当のタイトルは、これとはまったく別のものです。”ペン字で書かれた文書“ の現物写真が残されています。
 ところが、奇妙なことに、現物写真は二枚あって、タイトルが違う。別々なのです。最初見たときに、どうもヘンだなぁ、と思ってからのちは、どうしてもそのことが気になって。 “いったい、なんでや?” と。その問いに、あたかも導かれるようにして、ぼくは「宣言」の中へと入っていったのでした。その二つの題名を次に示します。今回の「安倍流 “民主主義”(4)」についての問題提起になるにちがいない、と思うからです。

独立宣言(1)

【1】独立宣言

(2)草案(一部)

【2】 草案(一部)

 米国公文書館所蔵の「独立宣言」題名(現物写真)二種は以下の通りです(但し、②は「草案(一部)」と表記されています)。
 ①「 In CONGRESS July 4,1776
 The unanimous Declaration of the thirteen united States of America 」
 ②「 A Declaration by the Representatives of the UNITED STATES OF AMERICA,
 in General Congress, assembled 」

 ①②ともに「大陸会議」(1776.7.4)において採択された「宣言」です。
 ①について、とりわけ目をひくのは the thirteen united の部分が “極端に小さな文字” で書かれている点です。①案を支持する人たちは次のように主張したに違いありません。 united を強調したくない。united なんて実体がないではないか。だいいちCongressにしてもまだ2回目だし、とてもUNITED なんて大文字でうたうことはできない。「合衆国」は実際には存在しないのだから。現段階では別々の13のStates が満場一致で宣言する unanimous Declarationというのが事実ありのままだし、正直にそのまま表記すべきではないか——と。
 ②の特徴は、なんと言ってもthe UNITED STATES OF AMERICA の強調です。独立を宣言する主体の違いです。①の宣言主体はthe thirteen united States ですから13州、「複数」です。これに対して②の主体は(by the Representativesとあっても)事実上 the UNITED STATES OF AMERICA であり、現在のアメリカ合衆国と同じく「単数」扱いです。The unanimous Declaration からunanimousを除いて A Declaration としている点からも、宣言の主語を単数と考えていることが明らかです。 ②の支持者としては、UNITED を強調したい、ということだと思います。
 ①は states 派、②はUNITED派、というのがぼくの命名です。このように命名すると、当時のアメリカ独立戦争勢力のなかにあったであろう分派闘争みたいなことの様相が、ようやくわかった気分になったのでした。それを明月堂書店の末井社長に話すと、アメリカ史の教科書では ①を「Federalist(中央集権的連邦派)」②を「anti-Federalist(地方分権的連邦派)」と命名しているとのご指摘でした。自分の無知にはがっかりしましたが、同時に自分で考えて探り当てた部分もあって、その点では悪い気がしませんでした。

 そのあたりのことを考えながら入っていった「独立宣言」(以下「宣言」)の内容を見ていこうと思います。「宣言」は、次の四つの部分から構成されていると思います。

1 立場——「自然の法・神の法」
2 理論――独立戦争論
3 歴史――イギリス本国のアメリカ植民地支配
4 結語——独立戦争宣言

 上記のうち1は、前置きとして「宣言」の趣旨を述べ、その思想的立場を鮮明にしたものです。2は、1の立場を理論的に展開し、独立戦争の正当性を主張します。3は、イギリス国王及びイギリス議会のアメリカ植民地統治について、その罪状を列挙しています。英国本国とアメリカ植民地との関係の歴史です。4の「結語」は、英領アメリカ州政府(植民地連合)のイギリス本国からの離脱の表明、「自由で独立した国家である」ことの宣言です。
 今回、ぼくは、とくに2および4における彼らの主張をたどるなかで、民主主義とはそもそもどういうことか、その本質に関わることを考えたいと思います。

 まず2です。「宣言」は「独立戦争の正当性」を主張します。その理論的根拠については、自然法思想の説く「自明の真理」にあるとします。「自明の真理」とは何か——それを論理的に整理すると、①②③④⑤とつながる “一本の筋道” として理解できると思われます。

 ①Menの創造――造物主による人間の平等
 ②Menの権利――Rightsの平等
 ③ Governmentsの目的――Rights の確保・実現
 ④ 権力の正当性――Men の同意
 ⑤ Peopleの権利――革命権
 以下において順を追って見ていきます。

 ①を原文について見ると、 all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, となっています。
 少し砕いて説明的な訳をすると、こうなります。「自明の真理の第一は、すべて人間というものは平等に造られている、ということだ。どこが平等なのかというと、人間なら誰しも生まれてくるときから、他に譲り渡すことのできない、幾つかの権利というものを身にそなえて生まれてくる、そういうふうに造物主は人間を造っているということだ。」それが、神の被造物としての人間Men(=自然状態の人間natural persons) というものの在り方だというのです。誰彼の区別なくすべての人間が人間としての権利(能力・自由)を備えて生まれてくるのであって、そもそも権利というものは、生まれてから後に付与されたり取得したりするものではない、ということです。

 神はそういうふうに人間を造っているのだ、と。これは大きい、いや決定的ですらあります。何百年もの間、ぼくらは儒教文化のなかで生きてきましたから、「身」とか「分」とかの感じ方が身に染みついています。「身分」「身の程」「分際」「分限」などの言葉を思い浮かべれば、かの国の「宣言」の人たちとぼくらがいかに違うか、得心がいくと思います。早い話が、いま書いたばかりの「平等」ということにしても、単なる言葉でしかないのがぼくらの実状ではないでしょうか。

 人間観がまったく違います。「宣言」の人たちは、誰彼の区別なく生まれ落ちたその時から人間は、同じ権利を身に備えている、と言うのですから。では、彼らの言う「権利」とはどういうものを意味しているのでしょうか。上記②に曰く。
 Rights, that among these are Life, Liberty, and the Pursuit of Happiness.
 ここに挙げられているのは、生存権(生きる権利)、自由権(あらゆる抑圧・束縛から自らを解放する権利)、幸福追求権(幸福を追求する権利)の三つですが、原文にはcertain un-alienable Rights とあるところから、Rightsとは、思想・良心・信教・集会・結社・言論・出版などのFundamental Human Rights をも含む、すべての権利を意味しているのでありましょう。それが、彼ら「宣言」の人たちの言うRightsだと思います。

 上述の通り、彼らによると、Men はすべて、生まれながらに不可譲の権利を賦与された存在として造られています。しかし、賦与されているからといって、それらの権利(能力・自由)が自分のものとして確保されているわけではありません。Men に賦与されているそれらの権利は、どのようにして自身のものとして確保・実現されるのでしょうか。上記③はこう指摘しています。
 That to secure the Rights Governments are instituted among Men,
 これらの権利を自分のものとして確保し実現するために、Men は自分たちのなかから政府 Governmentsというものを立ち上げるのだ——と、「宣言」はそう述べています。

 「宣言」の文章のなかで Governments の登場の仕方には、しかし、いきなり出てきたかのような “唐突感” みたいなものが感じられるのではないでしょうか。どうしてでしょう。ひょっとしたら、生存権・自由権・幸福追求権ないし基本的人権というときに、ぼくらが無意識のうちにイメージしているのは、単なる「人」「ひとりの人」のそれだからではないでしょうか。

 ところが、「宣言」が考察の主題としているのは、all Men です。all Men, created equal by their Creator です。しかも、その all MenのRights ( Life, Liberty and the Pursuit of HappinessのRights)についてなのです。
 これらの権利は、もちろん一人ひとりの問題です。ですが、「宣言」の人たちは次のように考えたのではないでしょうか。一人ひとりの問題たりうるには、それよりも前に all Men の問題となっていなければならず、したがって、まず Governments among Menを立ち上げるのが物事の順序というものだ、と。

 政府 Governments の目的・使命は、ですから、Men’s Rights の実現です。ただ、政府がその使命を果たそうとすれば、それを可能にする力・権力 Power が必要です。
 Government’s Power なくして Men’s Rights を確保・実現することはできません。では、この Government’s Power の正当性は何によって担保されるのでしょうか。「宣言」の人たちは、④にその答えを示しています。
, deriving their just Power from the Consent of the Governed,「政府・統治権力の正当性の根拠は統治される者の同意にある」と。

 同じことを言い換えてみます。被支配者側の人間 the Governed ( Men )が同意しない政府権力Government’s Powerは正当な権力として認めない。政府権力Government’s Power の正当性を判断するのは、支配者the Governorsではない。それを決定するのは被支配者側の人間 the Governed ( Men )である。等々。——「宣言」の人たちはそう明言しています。

 繰り返しになりますが、 all Menは、Creator から、誰彼の区別なく平等に賦与されているRightsを自分自身のものとして確保・実現するために、Government という組織とそのもとでのPowerの行使を必要とします。つまり、逆に言うと、Government とそれのPower の正当性を認めて支持するのも、正当性を否定して廃止するのも、その主体はあくまでもthe Governed = Menだ、ということです。

 そうだとすれば、ここにthe Governed = the Governor という等式が成立するはずです。Men がこのようにGovern という行為の対象であると同時にその主体でもある——そういう等式が成立するとき、Men という概念は People の概念へと姿を変えるのではないでしょうか。こうして新たに People という概念が成立するという、上記⑤の部分について述べているのですが、「宣言」の当該部分を以下に紹介します。

 whenever any Form of Government becomes destructive of these Ends, it is the Right of the People to alter or to abolish it, and to institute new Government,
「いかなる形態の政府であれ政府たるものが、これら(人間の権利に関わる、生命・自由・幸福追求など)の目的に対して破壊的にふるまうときは、いついかなる場合でも、その政府を改変するか、廃止するかして、新しい政府を立ち上げなければならない、これこそが人民の権利である(後略)」。

 「統治されることは統治することでもある」「統治される者は統治する者でもある」「〜でなければならない」——この逆説めいた命題を成立させているのは、既述の④における、deriving their just Power from the Consent of the Governed の、Powerの正当性の根拠を述べた部分です。
 これを踏まえて言うと、Peopleは、Power(=Government) に対して、Consent(=Yes)の場合は問題ないのですが、Dissent(=No) を突きつけたときは、旧権力(政府)を倒して、それに代わる新しい権力(政府)を組織する権利を有する、ということです。

 「宣言」の起草者トーマス・ジェファーソンは、以上にみてきたように、ジョン・ロックの自然法思想に拠ることによって、「独立戦争=革命戦争」の理論化を為し遂げたのでした。その革命論は、顧みてざっくり言うと、「自然状態の人間の権利としての自由平等」「人民主権と権力の信託」「自然権侵害に対する人民の革命権」——これら三つの命題に要約することができるのではないでしょうか。

 このような理論武装に基づいて「革命戦争=独立戦争」を宣言しているのが、4の「結語」部分です。その冒頭部分を以下に示します。
 We, therefore, the Representatives of the United States of America, in General Congress, Assembled (……….), do, in the Name, and by the Authority of the good People of these Colonies, solemnly publish and declare, That these United Colonies are, and of right ought to be Free and Independent States :
 「ゆえに我々アメリカ合衆国の代表は、大陸会議に結集し、これら植民地の善き人民の名前において、またその権威にかけて、厳粛に宣言する。これらの連合した植民地は現実に自主独立の州であるし、また当然そうであるべきものである、と。」

 今回の最初に「宣言」の二つのタイトルについて解説した部分を思いだしてほしいのですが、この4行は、United派(中央派)とStates派(連邦派)の両派の妥協の産物ではないかと推察されます。
すなわち、We, the Representatives of the United States of America, in General Congress, Assembled, ( ……….) declare の部分は、United派(中央派)の「宣言」タイトルそのままですが、他方、these(United)ColoniesとかFree and Independent Statesとかの表現は、States派(連邦派)の主張を容れて、植民地各州の存在を主張している——ぼくには、そんなふうに読めるのです。

 また上記4行の後の文章を見ると、Free and Independent StatesないしIndependent Statesが用いられています。これらの表現は、13州の各州政府と人民がおのおの自分たちでイギリス本国から独立しようとしていることを示唆している——と、そんなふうに理解してよいのではないでしょうか。

 ぼくの見立てを言うなら、次のようなことになります。
 ①「独立宣言」(1776.7.4)段階の両派の分派闘争(?)はStates派(連邦派)が優勢だったのではないか。② the thirteen united States of America の中のunited は、一つの連合体というよりも、むしろ各州の自主性を重んじた、ゆるやかな共同戦線というか共闘会議みたいな、そういうイメージではないのか。③さらに言えば、United派(中央派)はどこかしら州政府中央から権力を下ろしてくるような、中央集権的な印象がある一方、States派(連邦派)はthe good People of these Colonies とあるように、人民のなかから自主独立の権力を構築しようとしている点で、「独立宣言」の理論に忠実なのではないか。などです。
 とはいえ、「宣言」が発せられたのは、戦争が始まったばかりの1776年のことです。それから7年にわたって戦われた戦争があり、それを終結させたのは「パリ条約」(1783年)でした。結果は、「イギリス本国の敗北=英領アメリカ植民地13州の独立」「United States of America(アメリカ合衆国)の誕生」でした。その時からさらに80年が経過し、ゲティスバークの演説が行われるわけです。民主主義の歴史を画する、リンカーンのこの演説は次の回に考えます。