安倍流“民主主義”とリンカーン(1)

たけもとのぶひろ[第101回]
2016年3月31日

軍艦外交で開国を迫る黒船4隻

軍艦外交で開国を迫る黒船4隻

 「式辞」のなかで安倍首相は、戦後日本の自民党政権が「自由で民主的な」国造りをしてきた、と述べています。このうち「自由な国造り」については、前回、安倍たちの自民党とまったく無縁であることをみてきました。今回はそのあとの「民主的な国造り」について、「民主的」ということがいかに安倍自民党と無縁であるか、について検証します。

 最初に「民主主義」という言葉をみておきましょう。 democracyの接頭語demo-はpeopleを意味し、接尾語 -cracyは 統治・支配・政治を意味します。
 これについて「憲法」はこう考えます。国家(国民を代表する権力側)は憲法に対して遵守「義務」を果たさなければならず、国民(主権者の側)は憲法の定める「個人の自由及び権利」について自ら実現する「責任」を負わねばならない、ということになります。
 「国家には義務があり、国民には責任がある」。これが「我が憲法」の根本的な考え方です(留保条件はありますが)。

 他方、「自民党草案」は、自分たち「国家の側の義務」規定にはとくに触れることはせず、国民の「責任ではなく義務」について、あれもこれもと言い募る点が特徴です。
 「草案」は、「自由及び権利には責任及び義務が伴う」(第12条)というふうに、責任と義務を並べることで両者の違いを曖昧にしておいて、その上で「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」(第102条)と「国民の義務」を強調します。他にも、国旗・国歌の尊重義務、家族の尊重・協力義務、環境保全義務など、国民の活動を「義務」の縄で縛りあげることによって、「自民党草案」は、国民が「自から進んで責任を引き受けようとする」道をあらかじめ塞ぎ、よってもって「国民の統治権力」(=democracy)を奪おうと企図するものである――と、そう言わねばなりません。
 ですから、自民党総裁の安倍氏が「民主的な国造り」などとキレイ事を言うのは、笑止の至りです。

 安倍首相の「式辞」(2015.8.15)を読み解くためにこれまでは、「自民党憲法草案」の文言を引き、両者を比較参照しながら考えてきました。
 安倍氏が「式辞」第3節で述べている「民主的な国造り」という物言いを理解するには、しかし、氏の「民主主義」観を知る必要があります。ここで、そのための参照材料として「米議会演説」(同年4.29)をとりあげます。関係部分は以下の部分です。

 「私の名字ですが、「エイブ」ではありません。アメリカの方に時たまそう呼ばれると、悪い気はしません。民主政治の基礎を、日本人は、近代化を始めてこのかた、ゲティスバーグ演説の有名な一節に求めてきたからです。
 農民大工の息子が大統領になれる――そういう国があることは、19世紀後半の日本を、民主主義に開眼させました。
 日本にとって、アメリカとの出会いとは、すなわち民主主義との遭遇でした。出会いは150年以上前にさかのぼり、年季を経ています。」

 まず最初に、虫酸が走るほどの思いがしたのは、上記引用文の冒頭です。そこで安倍首相は、米国人の意を迎えようとの魂胆からでしょう、リンカーン大統領の名前――それも人々が、あだ名というか愛称として呼びかけてきた名前――を引き合いに出しているのです。
 リンカーンの本名は エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln ですが、日常的には愛称のエイブAbeで呼ばれ、また彼について語るときは尊敬の気持をこめてオネスト・エイブ Honest Abeと呼ばれたのだそうです。安倍AbeはリンカーンのHonest AbeとAbeのスペルが同じなことから、機智に富んだ軽い冗談くらいは言えるのですよ、とアピールしたくてジョークのつもりで言ったのでしょうが、比較するには相手が偉すぎます。相手はどんな国のどんな辞書にも出てくる、人類の歴史に輝く偉大な大統領ですからね。態度がでかすぎます。大統領の愛称を引き合いに出しておいて、そう呼ばれても「悪い気はしません」, but I don’t take offense. だなんて。Liar Abe のくせに。

 日本の首相は、圧倒的な強者にして大国のアメリカにすり寄ってきました。しかし、いくらなんでもその卑しさくらいはわかっているであろう首相としては、その迎合のマイナス分を取り戻したいのかどうか、あたかも対等であるかのように見せるために思わず背伸びをしてしまいます。優位に立つ米国人たちの目には、勿論、安倍首相のこの種の見栄っ張りの威張りん坊ぶりは丸見えになっているに違いありません。恥ずかしいことです。

 安倍氏の上記演説の引用部分を以下のように整理し直してみました。
 ①日本にとってアメリカとの出会いは、すなわち民主主義との出会いであった。 
 For Japan,our encounter with America was also our encounter with democracy.
 ②そして日本の民主主義との出会いは、150年以上も前のことで、その後は途絶えることのない成熟の歴史を歩んできた。
 And that was more than 150 years ago, giving us a mature history together.
 ③ 農民大工の息子であっても大統領になることができる――そういう国が現に存在するという事実は、19世紀後半の日本人を民主主義に目覚めさせた。
 The son of a farmer-carpenter can become the President……. The fact that such a country existed woke up the Japanese of the late 19th century to democracy.
 ④(また)日本人は近代化をスタートさせてからこのかた、民主主義の本当の土台というものは「ゲティスバーグの演説」のあの有名な一行にある、と理解してきた。
 The Japanese, ever since they started modernization, have seen foundation for democracy in that famous line in the Gettysburg Address.

 以上について順を追って考察してゆきます。安倍首相の「民主主義」理解がいかにいい加減なものか、したがって「式辞」第3節の「民主的な国造り」の「民主的」にしても、単なる言葉以上のものではないことが自ずと明らかになり、得心してもらえると思います。

 まず①について。これは日米関係の歴史に関わりますが、事実に反しています。
 150年以上も昔の日米両国の遭遇とは、ペリー黒船の浦賀来航を指すのでしょう。それが民主主義との出会いだったとは、聞いたことがありません。『山川日本近代史』から当該部分を引用して示します。
 「1853(嘉永6)年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。(中略)ペリーは翌1854(安政元年)年1月、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航し、江戸湾の測量を行うなど軍事的な圧力をかけつつ、条約の締結を強硬に迫った。蒸気の力で動く巨大な鋼鉄製の外輪船は黒船と呼ばれ、日本人の恐怖の的となった。幕府は、ペリーの強い姿勢と黒船の威力に屈して同年3月、日米和親条約を結んだ。」(上掲書11,12)

 それは一方的に米国に有利な不平等条約でしたが、その不平等の内容について立ち入る必要はないでしょう。当時の日本人としては見たことも聞いたこともない軍艦を率いてやってきて、目一杯威しあげておいて話をするのが民主主義のやり方かどうか、小学生の子どもでもわかるでしょう。安倍首相だってわかっています。では、なぜ、歴史の事実を曲げてまで、見え見えの嘘をつくのでしょうか。

 ②はこの問いに関わっています。
 安倍氏は話をつくります。――ペリーの黒船が来航したとき、はじめてアメリカ民主主義に出会って目覚めた日本は、その後ずっと途絶えることなく民主主義成熟の歴史を歩み続けてきたのだ、と。こういう話にしてしまえば、連合国アメリカと枢軸国日本との戦争とか、太平洋戦争と大東亜戦争との激突といった、両国が真っ向から対立する厄介な問題は「なかった」ことにすることができます。そして、歴史の真実を闇に葬り去ったあとは、太平洋戦史のなかでも類い稀なる戦闘を思い切り美化したお話でも作って、それを埋め草に使って埋めればよい、と言わんばかりのやり方です。

 安倍首相はこの演説のなかで、たとえば、梅林忠道大将が率いる硫黄島守備隊と米軍海兵隊との死闘について、「熾烈に戦い合った敵は、心の紐帯が結ぶ友になりました」などと、自らが信じてもいないことを口走り、米国の議会議員たちに向かって、「親愛なる、友人の皆さん、日本国と、日本国民を代表し、先の戦争に斃れた米国の人々の魂に、深い一礼を捧げます。とこしえの、哀悼を捧げます」なんて、例によって決まり文句を並べています。この美談めいた話を聞いた若い人たちのなかには、ひょっとして大東亜戦争などという戦争はなかったのではないか、と錯覚に陥る人があるかもしれません。わるい冗談ですが。

 しかし、それよりも何よりも、安倍首相の狙いは、日米関係史の改竄によって「我が憲法」の存在を無視せんとする点にある、と言えるのではないでしょうか。
 日本人がアメリカ民主主義に初めて出会った、と言えるのは、本当は、日本が連合国軍のポツダム宣言を受諾し、大東亜戦争の敗北を認めてから後のことです。連合国総司令部GHQ・最高司令官マッカーサーの日本支配が始まってから後のことです。日本は独立を失い、米国の属国として生き長らえるしか、選択肢はありませんでした。その屈辱と引き換えに我が国は、アメリカ流民主主義の考え方とやり方を教えてもらい、彼らの指導のもとで戦後復興の一歩を踏み出したのでした。

 年代記に「1946年11月3日 日本国憲法公布(47年5月3日施行)」とあります。我が憲法の制定は、米国とGHQ最高司令官マッカーサーの存在なしに考えることができません。しかし、「押しつけられた」がゆえに「みっともない」と感じる安倍首相の感覚はいかがなものでしょうか。はたして制定当時、日本人は「押しつけられた」「みっともない」憲法という感じ方だったのでしょうか。甚だ疑問です。

 「押しつけられた」「みっともない」憲法だと受けとめたのは、戦前日本の支配階級・旧い軍国日本のエスタブリッシュメントたちに限られたのではないでしょうか。庶民や労働者大衆は、たとえ「押しつけられた」「みっともない」憲法ではあっても、大日本帝国憲法よりは遥かに “まし” だと感じていたに違いありません。共産党ですら、米軍のことを “解放軍” 呼ばわりしていたくらいですし。

 敗戦直後のドサクサの時期を超えて、いわゆる戦後民主主義の時代になっても、世の中は全体として――左翼運動を含めて――大筋で言えばアメリカ民主主義の枠内で動いていたと言えるのではないでしょうか。彼らの気持ちの最大公約数は、――たとえ「押しつけられた」憲法であれ、中身が立派だったらそれでいいじゃないか、だいいちぼくらはこの憲法以上の憲法をつくる力がなかったし、ないのだから、というふうなことでしょう。

 安倍首相は、この手の話になることの不利を十分承知しています。だからこそ、アメリカ民主主義との出会いをペルーの黒船来航の昔にまでさかのぼらせる、なんて強引なことをやってのけたのでしょう。そして、GHQ最高司令官マッカーサーのもとでの憲法制定のみならず、アメリカ民主主義による日本再興にしても、アメリカ民主主義の功罪相半ばする戦後史についても、そうですが、これらの、ぼくらが目の前に置いて向き合わなければならない歴史上の諸事実については、丸ごとそっくりどっかへ持っていって隠してしまいたいのが、安倍首相のホンネなのではないでしょうか。臆病な嘘つきなのですね、結局。

 安倍首相「式辞」の「民主的国造り」における「民主的」がどういう意味で「民主的」なのか知りたくて、「米国議会演説」における氏の「民主主義」観を参照してきました。
 「演説」の当該部分を①②③④に分け、それぞれについて考察を加える目論見だったのですが、今回は最初の①②のみの考察に止まりました。③④は次回、リンカーンの「ゲティスバーグ演説」を中心に考えてみたいと思っています。