[編集部便り]
どうでもいいことですが……。(10)

神宮外苑から富士山を臨むニワカカメラマン達

神宮外苑から富士山を臨むニワカカメラマン達

 調べてみたら、「編集部便り」を「どうでもいいことですが……」と題して前回掲載したのが昨年の4月19日、以後、毎週〝今週こそは〟と自分を鼓舞するのだが、結局、日々の仕事に追われ、ドンドン〝執筆優先順位〟が下がって、今週、来週、再来週と、気には掛けつつ先送り状態を続けて丸一年、とうとう今日まで中断してしまった。
 サボった時間は、後ろめたさや後悔で気が休まる暇もなく、いつもそれを意識しているせいか、あたかも昨日から続く焦燥のように、日々リアルに自分を責めるから、改めて振り返らない限り、一年も空白ができてしまっていたことにまったく気付かなかった。
 しかし、「編集部便り」がサボリを決め込んでいた間も『極北』への寄稿は続けられ、たけもとのぶひろ氏の連載は100回を越え、一冊に纏める話もボチボチ挙がるようになっているし、仲正昌樹氏の連載もそういう話題をする段階になりつつある。
 また、この間、新たに留学生アラレ姫が寄稿するなど、サボっていたのは「編集部便り」だけで、『極北』は孜孜として休む事なく仕事をして来たのであった。勿論これは関係者各位のご協力の賜物である。
 ところで「編集部便り」をサボっていた間も、一年前に話題にしていた駄犬ラッキーとの散歩は相変わらず続けてきた。もう6年近く続けている。
 これだけ毎日頻繁に散歩を続けていると、自分でも意図せず、無意識に散歩コースの近隣付近を観察しながら歩いていた事にふと気付かされることがある。実は、5~6年前には、散歩コースに建つ民家が一度解体されると、大抵その後にはマンションが建てられていた。ところが最近は更地にされ、そのまま放置されたり、駐車場にされる事が妙に多い事に気付かされるようになったのである。そんな時は、東京の空が少しだけ広くなったような気にさせられる。特に私が散歩コースにしている、若松河田付近、東京女子医大、戸山公園、国際医療センター付近は、東京23区内では一番海抜が高い地域らしく、ちょっとした建物が更地にされただけで、意外に広い眺望を得る事が出来るのだった。
 先月だったと思うが、国立競技場の建て替え工事に伴い、いったん更地になって、眺望がひらけた国立競技場跡地付近の神宮外苑から、「夕陽が沈む富士山をみる事ができるようになった」とネットで話題になって、にわかカメラマンが神宮外苑に殺到した時の様子を、多くの報道機関が取り上げていたけれども、富士山に沈む夕陽――、たったそれだけの景色を愛でるために、多くの人が殺到したのである。それは、高い建物によってそれまで得てきたものと同量のものを、実は我々が失っていたことに気付かされた瞬間ではなかっただろうか——、できれば、これを教訓に、そこからもう一歩発想を進めて、いっそのこと、このまま空をあけたままにしておいたほうがいいのではないか——、と主張して欲しいような気がするのだった。
 確かに一部では新築マンションの売れ行きの好調ぶりが喧伝されるけれども、それは限られた地域の事で、私の実感ではマンションの数以上に、アスファルトや砕石を敷いただけのニワカ駐車場が確実に増えているように思えてならないのである。多分、駐車場にするのは他に適当な(儲けの)手段がなく、次善の策なのだろうが、それならば、これを奇貨として、今後に生かす新しい発想が生まれて来てもいいような気がするのである。
 海面や大気の平均温度がほんのちょっと変化しただけで、地球環境に甚大な変化をもたらすとは、その筋の専門家からよく聞かされる話だが、自然界で小さな変化が大きな結果を生む事があるように、マンションから駐車場への流れは、住居問題に付随する小さな変化の一つかも知れないけれども、これを〝量から質への転化〟の兆しと捉えて、人口減少とそれに伴う将来の町作りのヒントに出来ないものだろうか——、そんなことをあれこれ考えるのであった。
 カエサルのモノはカエサルへ、神のモノは神へ、自然のモノは自然へ。つまりいったん人間が切り拓いた原野も、その必要がなくなったら自然に返せばいい。マンションから駐車場へではなく、そう言う土地は国が買い上げ、自然に返すべく、アスファルトを剥がして、植樹をすればいいいいのである。そのための樹木なら100本程度だけれども、私から献上したい、そんな妄想を抱きながらラッキーと散歩を続ける私であった。