安倍首相の8月15日―「全国戦没者追悼式・式辞」(3)

たけもとのぶひろ[第100回]
2016年3月17日

終戦記念日/式辞を述べる安倍首・

安倍首相

 安倍式辞・第3節の二つの文章のうち前者について、それもその一部について、今回は考えます。あらためて問題の文章を次に示します。曰く。「皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。」
 ぼくが引っかかるのは「自由で民主的な国に造り上げ」の部分です。同じ文言でも、日本国憲法の理念としてうたわれているのなら――その結果についての評価は別にして――理念の次元においては、そのまま素直に受けとめることができると思うのです。ところが、ぼくはこの文言を額面通り受け入れることができません。なぜか?

 この文言を述べているのが安倍首相だからです。安倍氏の属する自民党は、すでに2012年4月、「日本国憲法改正草案」(以下「自民党草案」又は「草案」)と略記します)を発表しています。ということは、式辞の「自由と民主の国造り」が、「自民党草案」の文言を前提とした思想表現であることを意味しています。「草案」の論理に基づく「式辞」が、自分たちの政治を「自由と民主の国造り」だというのは、黒を白と言い張るに等しい、早い話が嘘をついて人を騙すようなものだと思うからです。

 なに? 「自由で民主的な」だと? 「自民党草案」は「全て国民は、人として尊重される」(第13条)とうたっています。ぼくは新聞報道でこれを知ったとき、この文言に強い違和感を抱きました。なんと「人として」とはなぁ!  よくもそこまで臆面もなく、言えたものよ、と。これはいったいどういうことなのか、考えたいと思います。

 「草案」第13条に対してぼくが否定的感情――嫌悪ないし軽蔑の感情を持ったのは、対極にある「憲法」13条冒頭の一文を記憶していたからにほかなりません。その一文に曰く。「すべて国民は、個人として尊重される」と。すなわち、憲法が尊重する国民は「人」ではない、「個人」である、と。「個人」としての国民である、と。草案の言う国民が、姓も名もない、何処の誰だかわからない「人」一般のことを言っているのだとしたら、そのわからない「人=国民」を、「草案」はどうやって尊重することができるのでしょうか。

 憲法の言う「個人」とは、誰の誰兵衛というふうに姓も名もある「一人一人の個人」のことです。この地上に二人といない唯一の生命であるがゆえに替えがきかない、そういう意味で尊い「個人」のことです。それぞれが「自分」というものを持っている、それだけの重みをもたされている、そういう個人のことです。
 日本国憲法は、自「国民」をそういう意味での「個人」であると考えています。だからこそ「尊重する」と宣言しているのだと思います。
 だから、要するに、個人というものはそういう存在として尊重しなければならないし、尊重されなければなりません。この「個人の尊重」ということを実現する権利が国民にはあるのだ、ということ――それを定めたのが「国民の基本的人権」の規定なのだと思います。

 憲法の掲げてきた「個人」の理念は、当たり前と言えば当たり前ですが、けっこうレベルが高いということですよね、きっと。国民とは、自分が個人であることを知っている、そして個人であらねばと思っている、自分が自分自身でありたいと願っている、そういう人間がイメージされているわけでしょう。別言すれば、自分自身で考えて選択し、決断、行動する――そういう人間の在り方がイメージされているのではないでしょうか、本当は。

 憲法は、その基本的人権の具体的な中身についても列挙しています。「生命、自由及び幸福追求」(第13条)、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第21条)などがそれです。ぼくがここで注意を喚起したいのは、我が憲法がこの「基本的人権」というものを人類史的視野のもとでとらえている点です。すなわち、基本的人権とは、わが国民が「人類から信託された」「永久に侵すべからざる権利である」と定義している点です。

 憲法第97条に曰く。「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
 この条文は、第13条・21条における、「国民」「個人」に固有の人権という考え方が、人類史のなかでどのような普遍的な背景を有するものかを、宣言したものです。

 ところが、「自民党草案」では、この第97条が全文削除されているのです。自民党案は、国民を「人として尊重」するにとどまり、「個人として尊重」するとは言っていません。もう少し言うと、自民党の考える「国民」は、「人として」は尊重されるけれども、「個人として」は尊重されない、自民党は「国民を個人としては尊重しない」、ということです。
 これでは、そもそもの話、「基本的人権」をうたう資格がありません。基本的人権とは、国民が「人から個人へ」と成長・進化する努力のなかで獲得した自由であり権利であるからです。彼ら自民党としては、憲法97条は迷惑千万、余計なお世話であるから「削除」するということなのでしょう。

 最初に触れたように安倍首相は、「自由で民主的な国を造り」うんぬんと述べています。しかし、このように「個人」も「基本的人権」も認めない安倍自民党が、どうやって「自由な国造り」をするというのでしょうか。
 そこで彼らは、みんなの見ている目の前で、下手な手品よろしく、問題のすり替えをやってのけます。すなわち、「草案」は、「個人としての国民」は認めないけれども、「人としての国民」は認めるのであって、その「人としての国民」には、憲法の言う基本的人権を認めて、最大限尊重する、と。だったら、憲法も「草案」も同じじゃないか、と思う人は手品に騙されたことになります。

 たしかに彼らの「草案」は、憲法とまったく同じ文言をうたっています。「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」(第13条)、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」(第21条)と。
 しかし、「自民党草案」のもとでのこれら基本的人権の尊重は、いずれも条件付きです。
前者の自由及び権利を尊重するのは、あくまでも「公益及び公の秩序に反しない限り」においてである、と断り書きがあります。また後者の表現の自由等についても、「公益及び公の秩序を害することを目的とした」活動並びに結社は、認めない、と同じ趣旨の制約を課しています。

 自民党は、ひとまずは、国民に対して憲法と同じ内容の「自由及び権利」を与えると約束します。しかし同時に、いったんはそのようにして与えた「自由及び権利」が、「公益及び公の秩序」に反する場合、あるいは「公益及び公の秩序」を害する場合については、その「自由及び権利」は保障の限りでない、認めない、と真逆のことをうたっています。
 彼らは与えると言っておきながら、事と次第によっては即座に取り上げるつもりであるということですから、早い話、「自由及び権利」なんて危ないものは初めから与える気などない、ということです。

 人類史から国民に信託された、永久に侵すべからざる「基本的人権」――それを、侵しているにもかかわらず侵していないかのような顔をして罷り通ろうとしているのが、自民党「草案」の立場ではないでしょうか。
 それにしても、しかし、彼らが “水戸光圀公の印籠” よろしく振りかざす「公益及び公の秩序」という観念が、「人類史の財産」とでもいうべき「自由及び権利」を蔑するほどの威力を備えているかどうか、少し考えれば誰だってわかることだと思うのですが。

 ちなみに「公益及び公の秩序」とは、「公の利益及び公の秩序」のことでしょう。これは要するに、「公」であることがすべての価値に優先し、すべての価値の源泉である――ということではないでしょうか。「国民」は「公」の担い手として「人」でありさえすれば十分なのであって、「個人」とか「基本的人権」なんかは、二の次三の次のあつかいでよい、くらいにしか思っていないのではないでしょうか、彼らは。

 同じことの繰り返しになるかもしれませんが、自民党「草案」のいう「公」とは、「自民党草案・前文」の文言に尽きると思います。すなわち「公」とは、
 Σ(長い歴史・固有の文化・良き伝統、国と郷土、和、家族や社会全体、美しい国土)。
 結局、彼らの言う「公」とは「日本」のことではないでしょうか。その「日本」においては、「国=人」なのであって、それが「一つの全体」を形づくっている。そこにそうして成立している「一つの全体」こそが「公」なのだ、「公」の “正体” なのだ、と。自民党の安倍たちが暗に示しているのは、こういうことではないでしょうか。

 そして、この「公=一つの全体」を決定するものは何か? 「国家」という名の「統治権力」です。「国家=統治権力」が、国民にとっては「上から」「外から」一方的に、「公益及び公の秩序」を決定し、そのもとへと「国民を動員」するということです。
 例を挙げます。「1億総活躍社会」のもと「戦後最大のGDP600兆円」を達成する。誰が何と言おうと、原子力は未来のエネルギーであり、安全性は二の次とし、再稼働を急務とすべしとする。これらの国家意思こそが「公益及び公の秩序」なのであり、これに反する・あるいはこれを害する自由及び権利は「認めない」、ということです。

 最後にここで、安倍自民党からありうべき “反論“ について簡単に見ておきます。安倍たちはこう反論するでしょう。憲法第13条だって、国民の「自由と権利」「基本的人権」が尊重されるのは、「公共の福祉に反しない限り」においてである、と制限する趣旨の条件をつけているではないか、と。

 しかし、残念ながら、自民党の「公益」「公秩序」と我が憲法の「公共」とでは、中身がまったく違います。既述のように、彼らのソレは国民の「上から」「外から」、国民の関与を排除し、決定ないし命令として下されます。安倍自民党・官僚群は、手中の国家権力によって「公」を私物化しており、その彼らの権益を守るために「公益及び公の秩序」を盾にとっているに過ぎません。

 では、我が憲法に言う「公共」とは何か。簡単に言えば、「個人とその社会生活」のことではないでしょうか。ここで前提されている社会とは、神聖にして侵すべからざる独立した個人の集まりですから、各自の意思・利害は相互に違っていて当たり前で、その部分部分の相違点に折り合いを付け、部分正解から全体正解へと向かっていくしかありません。
 そうして「公共=社会」全体の、そして全体を構成する個々人の幸せの量、つまり「公共の福祉」を向上させるべく努める。その方向をめざして、社会(公共)のなかの個々人が、それぞれに信託された「自由及び権利」を行使する。ここでは、社会(公共)と個人とのつながりが前提とされ、かつ成果と考えられているのでありましょう。

 「社会の福祉」と「個人の自由」とは、このように相互に密接に関係しながら展開してゆくのであって、それぞれの社会における諸個人の活動は、そのプロセスのなかで固有のルール――社会生活のルール__とでもいうべきものをつくりあげてきたのではないでしょうか。我が憲法が「公共の福祉に反しない限り」と制約条件をあげているのは、もう少しくだいて言うと、「公共の福祉を構築する社会のルールに反しない限り」ということではないでしょうか。

 別言すれば、自民党の「公益及び公の秩序」とちがって我が憲法の「公共の福祉」とは、国民に向かって「上から」命令したり、国民に対して「外から」注入したりするものではなくて、国民の一人一人が自分たちの「中から」決定し、自分たちの「下から」の権力でもって制御するものでなければなるまい――そういう考えではないでしょうか。
 つまり、基本的人権について「公共の福祉に反しない限り」「最大の尊重を必要とする」と規定している憲法の言わんとするところは、「公共の福祉」の内容についても、また「個人の自由及び権利」がそれに反するか反しないかの限界についても、もっと単純化して言えば、社会と個人の関係についても、その判断は「個人として尊重されるべき国民」にゆだねられている、ということではないでしょうか。

 安倍首相は上記のように、「式辞」第3節において、「皆様(御霊)の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ」うんぬんと述べていますが、このように見てきて明らかなことは、彼ら自民党には我が国を「自由な国に造り上げ」るつもりなんてまったくなかったし、これからもない、ということです。これらのことをすべて承知のうえで、安倍首相は「式辞」の文言を読み上げており、この点で国民を騙しているに等しい、と言っているのです。

 次回は、上述の「自由で民主的な国に造り上げ」の後半、「民主的な国に造り上げ」るつもりが、彼ら自民党にあるのかどうか――この点を考えたいと思います。