天皇について(42)

たけもとのぶひろ[第94回]
2016年1月20日

三条実美(1837年ー1891年)

三条実美(1837年~1891年)

■御誓文第五条、西洋文明の受容(続々)―伊藤博文の天皇利用

 1883(明治16)年11月28日の開館式祝宴から1887(明治20)年7月29日の条約改正会議無期延期決定(井上馨外務大臣から各国公使への通告)までの、足掛け5年――これがいわゆる「鹿鳴館時代」です。極端な欧化主義によって条約改正(とくに治外法権の撤廃)を実現するのが目的でした。時代の幕開けを告げたのが井上馨なら、幕を引いたのも井上馨でした。表舞台はこの通りでしたが、舞台裏で時代を動かしていたのは、すでに述べたように、伊藤博文でした。

 鹿鳴館欧化主義における伊藤の直接の狙いは、上述のとおり条約改正でしたが、それにもまして重きを置いていたのは、明治の日本を近代国家風に改築ないし改装する、そのための制度改革でした。その重責を前にして、彼は自らに恃むところがありました。少し年代記をさかのぼってみましょう。

 1877(明治10)年に木戸孝允が病没し、西郷隆盛が自刃し、78(明治11)年には大久保利通が東京赤坂の紀尾井坂にて暗殺されます。明治三傑と称えられた三者、とくに最後の大久保利通の暗殺に直面した当時の人びとは、「幕末から維新へ」という一つの時代に幕がおろされたかのような感慨を抱いたのではないでしょうか。
 大久保暗殺の翌日の5月15日、伊藤は直ちに大久保内務卿(宰相)の後任ポストを襲い、岩倉具視と誼(よしみ)を通じることによって、大久保亡き後の権力基盤を固めたのでした。そして何をしたか。当時佐々木高行侍輔ら宮中勢力が唱えていた「宮内庁改革=天皇親政」路線の粉砕でした。その年の内のことです。これは、大久保暗殺を “奇貨” とした一種の「政変」だったのではないでしょうか。

 この「伊藤=岩倉」体制のもとで伊藤博文は、続けて権力闘争を仕掛けます。「明治14年の政変」(1881年10月11日)が、それです。当時、参議・大隈重信は「国会開設意見書」を提出し、1年以内の憲法制定・2年後の国会開設を主張していました。いわゆる急進的国会開設論です。またそれとはまったく別に、開拓使長官・黒田清隆は「北海道開拓使官有物払下げ」を申請していました(1400万円余の官営開拓事業をわずか39万円・無利息30年賦で薩摩藩政商・五代友厚らに払下げようとした汚職事件です)。
 払下げはすでに閣議決定を経て公式に発表されていましたが、にもかかわらず、大隈重信の猛反対および世論の攻撃を前にして政府は立ち往生を余儀なくされたのでした。伊藤ら政府首脳は、権力闘争に持ち込んで一気に主導権を握ろうとたくらみます。 “大隈の陰謀” みたいな話を作って撒き散らしたのです。いわく、大隈は民権派と気脈を通じ、官有物払い下げ事件の糾弾にかこつけて、実は政府打倒の陰謀を企てているのだ、と。

 決着は喧嘩両成敗です。大隈は辞職、黒田の官有物払下げは中止――これ以上の優れ技は考えられません。一挙三得という言葉があるかどうか、伊藤らは、一事をもって同時に三つの利益を得ることができたわけです。①まず、都合の悪いことを言い立てる人間(大隈)には詰め腹を切らせる。②同時に、事の発端となった不都合なこと(黒田の官有物払下げ事件)は有耶無耶のうちに葬ってしまう。③おまけに、大隈を退場させることで、大隈の「国会開設意見書」(=急進的国会開設論・イギリス流議院内閣制)も反古にすることができる。これをやってのけたのが、「明治14年の政変」(10月11日)です。

 翌12日、明治23年に国会を開設すべし、との詔が下ります。10年後の国会開設ということを、天皇が内外に向かって宣言した、約束した、ということです。これが「政変」の成果です。
 この詔勅は、1875(明治8)年の「漸次立憲政体樹立の詔書」を踏まえてはいますが、直接には伊藤博文・岩倉具視・井上毅らの「漸進的国会開設論」の勝利(=大隈重信の「急進的国会開設論」の敗北)を意味しています。以上は要するに、1878(明治11)年の大久保内務卿暗殺の翌日、その内務卿の地位を襲った伊藤博文が、権力闘争を勝ち進んで3年後の1881(明治14)年、またしても「政変」を仕掛けて勝利し、明治「政府の再構築」という一大政治事業を提起、その衝に当たることを買って出た、ということです。

 大久保内務卿の跡目を継ぐかたちとなってさほどの時を措かない時点で、伊藤博文は自身が果たすべき政治的使命について、またそれを完遂するための手順――制度改革の工程表みたいなもの――について、おおよそのイメージを抱いており、その手順通りに事柄を進めていったものと思われます。
 立憲政体確立(=憲法制定とそのもとでの国会開設)を自身のヘゲモニーのもとでやり切るためには、憲法および国会へと至る政治過程そのものを自分の思惑通りに動かす権力を握らなければなりません。では、何から手をつけなければならないか、二つあります。

 第1。日本を憲法と国会のある立憲政体の国にしょうというわけですが、正直な話、伊藤はそれらについてほとんど何も知りません。ですから、憲法と国会のある国に行って実地に学ぶ、見聞を広める、まずそこからだということです。「明治14年の政変」の翌1882年3月、伊藤の根回しもあってのことでしょう、伊藤に勅命が下ります。憲法調査のために欧州へ出張せよ、と。伊藤が欧州で何を学んできたか、についてはすでに紹介したので、再論しません。1年半余の出張を終えた伊藤の帰国が1883年8月3日――鹿鳴館開館式は11月ですから、鹿鳴館時代の開幕に間に合わせるかのような絶妙なタイミングでした。それよりも何よりも伊藤にツキがあったのは、少々不謹慎ですが、帰国直前の7月20日、岩倉具視が病没してくれていたことではないでしょうか。おかげで伊藤は、権力を独り占めにすることができたのですから。

 第2。その独り占めにした権力を行使して伊藤博文が断行した政体改革です。太政官制度の廃止、内閣制度の立ち上げが、それです。師の吉田松陰をして「周旋(政治)の才あり」と言わしめた伊藤の政治力がモノを言う場面です。
 権力闘争の発端は、太政大臣・三条実美が黒田清隆の右大臣任命を奏上した一件です。三条はあらかじめ伊藤の政体改革 ”戦略“ を察知しており、先手を打ってこれを封じ込め、むしろ太政官制度をさらに強化する方向に舵を切る目的で、「黒田(薩摩藩出身)の右大臣就任」のカードを切ったものと思われます。

 黒田本人もその気がないわけでないし、伊藤を含む周囲からも反対の動きが出て来ない、その状況を見極めた上で、三条は天皇にこの一件を奏上したのでした。が、天皇は黒田の右大臣就任に否定的でした。黒田右大臣人事を却下された三条は、黒田でダメならと、ダメモトで伊藤に要請しますが、謀をめぐらしている当の伊藤はもちろん謝絶します。右大臣人事が決まらないとなると、太政官制度そのものが破綻せざるをえません。
 破綻の引金を引いたのは天皇その人でしたが、引金を引かせたのは伊藤博文です。伊藤はかねてより天皇にしっかり根回しをして、持論とする「太政官制度の廃止・内閣制度への改革」構想について、天皇の理解と支持を得ていたものと察せられます。

 この政体改革について考える前に、制度の定義について見ておきます。まず「太政官制度」とは、左院(立法諮問機関)および右院(各省連絡機関)を配置したうえで、とりわけ「正院(=太政大臣・右大臣・左大臣・参議・各省卿)」を政治の中核とする、そういう仕組みの政治機構を意味します。また、それにとって代わることになる「内閣制度」とは、まず内閣総理大臣を置き、その統括のもとに9行政府(外務・内務・大蔵・陸軍・海軍・司法・文部・農商務・逓信)の長を国務大臣に任じ、全10大臣でもって内閣を構成して政治の運営に当たる、そういう仕組みを意味します。

 ところで、「太政官制度」から「内閣制度」への政体改革は、単なる制度の改革ではありません。それは、「政治の仕組み」のみならず「国のかたち」そのものについてまで変えてしまおう、との企みであって、普通ならクーデターも已む無しとする権力闘争になるはずのところを、無血の権力委譲で乗り越えてしまった――それが1885(明治18)年12月22日の政体改革でした。良くも悪くもこういうのを日本流と言うのでしょうが、ここではその議論をしません。この改革のどこがとんでもない大事件か、それを見てゆきます。

 •太政官制度の歴史的淵源は、唐の統治制度(=律および令)に倣った大宝律令(大宝元年=701年)に発するとされています。千百年以上の歴史を持つ統治制度の廃止は、その制度のもとに位置を与えられてきた旧秩序の支配たち――天皇および皇族、源平藤橘などその臣籍降下組、あるいは公家および武家の棟梁とか旧大名ら――から、その存在の根拠としての地位を名実ともに剥奪することを意味しました。

 ②象徴的なのは政権トップの首をすげ替えです。まず、太政大臣の地位を廃止するとともにその任にあった三条実美を斥け、新しい内閣制度における初代の内閣総理大臣の地位に伊藤博文を据えたのでした。身分からすると両者は、違い過ぎるほど違います。
 三条実美という人は、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の一つ・三条家の生まれとされており、華族令(1884年)の定める爵位から言っても五爵のトップ・公爵です。
 一方、伊藤博文は、貧農・林十蔵の長男として生まれたものの、百姓で食っていけないため親子して養子となります。養親は長州藩蔵元付中間の身分でしたが、その中間が足軽となって伊藤姓に改名したのを機会に、親子して足軽の身分を得、姓も林を捨てて伊藤を名乗ったのでした。伊藤博文が実際に最低身分の “名ばかりの武士” であったことは、のちに入門を許された、かの松下村塾においてさえ、伊藤は部屋の中に入れてもらえず、外に立ったまま講義を聞いていた、との伝聞からも察せられます。身分の低さでは誰にも負けない伊藤博文の爵位は、3位の伯爵、それもお手盛りです。
 政権トップの身分の違いだけで言えば、天と地ほど違う身分差をひっくり返して断行されたのが、明治18年の内閣制度改革だったということです。

 •この政体改革の特徴を見るために、1871(明治4)年の官制改革を振り返ってみたいと思います。そこでは、薩長土肥とくに薩長の下級武士出身の官僚が政治の実権を握り、いわゆる「有司専制」藩閥政府を確立した、とされています。下級武士たちは、幕末維新以来の政治の舞台でなにがしかの働きをしたであろう公家出身者を排除すべく行動したということです。公家出身者たちが表舞台から消えていくなかで、かろうじて政治生命を保ったのは、岩倉具視と三条実美の二人だけでした。1885(明治18)年の段階だと、既述のように岩倉は1883(明治16)年に病没していますから、公家出身政治家の現役は三条実美ただ一人です。その三条が太政大臣の職を投げ出さざるをえない局面に追い込まれたのでした。薩長出身の藩閥政治家たちの側から言うと、旧公家勢力を一掃し、名実ともに政治の実権を握り、政治の中枢を占拠した、ということです。

 ④さて、いまや内閣総理大臣となった伊藤博文は、長年にわたって太政大臣を務めてきた三条実美をどのように処遇したのでしょうか。ぼくは伊藤に対して、 “悪知恵の極限を行く絶妙な人事” との評価を献じたい気持ちです。伊藤の描いた絵は以下の通りです。
 内閣(=総理大臣および9国務大臣で構成する政治の中枢)の外側に宮内省をもうける。府中(政府)と別建ての組織として宮中(宮内省)を位置づける。その宮内省には国務大臣ではなくて内大臣をおく。内大臣は宮中顧問官として天皇の側近にあり常時輔弼の任にあたる。三条実美を内大臣に任じ、天皇の相談相手をつとめさせる。二人は宮中という檻の中に入れておけばよいのであって、できるだけ外に出さない。――この制度設計は、宮中をして府中の政治向きの話に容喙させない、そういう構造を目指しているということです。天皇が親(みずか)ら政治をする天皇親政は考えない、ということです。

 •伊藤博文は天皇から政治の権限を引き剥がしにかかります。一例を挙げれば、こういうことです。
 天皇をして公式に政体改革を認めさせるその日その時に、伊藤は、自分を初代の内閣総理大臣とする第1次内閣の閣僚人事をも決めてしまおうと考えます。そのためには、あらかじめ閣僚名簿を用意しておいて、あとは天皇の承認をもらうだけ、というふうに段取りをつけておかねばなりません。これらのことを抜け目なくやってのけた伊藤は、やはり師の松蔭が見抜いただけの “周旋力” の持主だったと言えるでしょう。

 キーンさんは『明治天皇』(三)において、1885(明治18)年12月22日の宮中会議の一部を紹介しています。「森有礼文部大臣」人事をめぐる天皇と伊藤のやりとりです。
 「閣僚の選定は、伊藤の推薦に従った。天皇は当初、森有礼の文部大臣就任に反対だった。森はキリスト教に偏し、とかく物議をかもす人物だから、というのがその理由だった。しかし、伊藤は譲らず、次のように言った。「臣が総理の任に在るの間は、決して聖慮を煩はしたてまつるが如きことなきを保す」と。天皇は、すでに伊藤に組閣を委任していた。しばらくの間、伊藤のやりたいようにやらせ、様子を見ることにした。今や伊藤は、天皇に次ぐ最高権力の地位に就いた。鹿鳴館の精神が凱歌を挙げたのだった。」

 天皇に向かって言ったとされる伊藤のこの言葉は、有り体に言えば啖呵を切ったに等しいのではないでしょうか。すなわち、「自分は内閣総理大臣であり、内閣総理大臣たる者は天皇から白紙委任状を托されたも同然の存在である、自分はそういう理解だ」と。
 その際に問われていたのは、文部大臣として森有礼が適任かどうかではないと思います。伊藤が天皇の懸念を聞き入れるか、自分の思惑を押し通すか――問題はその一点にあったのではないでしょうか。つまり、伊藤の啖呵は、太政官制度の内閣制への政体改革の意味するところを如実に物語っている――キーンさんの理解はそういうことだと思うのです。

 新たに「内閣」という政治の発動装置を立ち上げたのは、もちろんその先に、憲法制定・国会開設を見据えた上でのことです。12月22日の宮中会議は、明治日本の国づくりの仕切り直しを宣言したことになるのではないでしょうか。それが鹿鳴館時代の真っ只中、明治18年・1885年の出来事であったことは、実に象徴的だと思います。
 伊藤は、もともと御誓文路線は見限っています。王政復古だの天皇親政だの、時代錯誤の極みだと思っています。万事、欧米のやり方で行くしかない、と腹を据えています。治外法権廃止の外交問題のみならず、「国のかたち」(=内閣・憲法・国会)をも鹿鳴館欧化主義の精神でいくのだ、と。キーンさんが上記宮中会議の歴史的意義を総括して、「鹿鳴館の精神が凱歌を挙げたのだった」と総括したのは、そういう意味なのではないでしょうか。

 結局、伊藤博文は御誓文第五条を前後二つに分け、前半の条件部分(智識ヲ世界ニ求メ)のみを生かして、後半(大イニ皇基ヲ振起スベシ)を無視した、ということです。このことは、五箇条之御誓文のすべてを覆すことを意味したのですが。
 たまたま、不本意ながらそういう結果になったのではなくて、伊藤の政治の狙いはこの一点にあった、ということだと思います。御誓文なんて関係ない、宸翰なんぞ読むに堪えない作文だ、と。内閣は薩長藩閥勢力で固める、それがエンジンだ、そのエンジンを稼働して憲法や国会など立憲政体の、とりあえず装いくらいは整えなければなるまい、欧米並みの近代政治の構造物までは建てられなくとも、それに似せたものなら出来るだろう、と。

 伊藤のひそかな心づもりはそんなところだったのではないでしょうか。猿真似と軽蔑された鹿鳴館と同工異曲です。天皇は鹿鳴館が嫌いでした。「天皇は西洋文化に対する伊藤の手放しの傾倒ぶりにはついていけなかった」(キーンさん)のです。にもかかわらず伊藤は、その、嫌がる天皇を利用して鹿鳴館の馬鹿騒ぎをやってのけたのでした。今度は洋館を建てて飲み食いやダンスをするのとは、わけが違います。この国の、政治の、骨格をつくる、という大事業です。それが、たとえ天皇を天皇たらしめている基盤・骨組みを破壊することになろうとも、伊藤は「天皇の政治利用」を辞さない肚です。

 とまれ、幕末維新以来、尊王攘夷派の志士たちが高く掲げてきた「王政復古・天皇親政」の理念は、伊藤博文によって無きものとされました。その後も、その旗や幟だけは空にはためかせるままに任せていたかもしれませんが。というか逆に、よりいっそう旗幟鮮明にしたと言うべきかもしれません。

 これまで五箇条之御誓文の各条について、またそこから派生する諸問題について、考えてきました。ここでいったん区切ることにします。