天皇について(41)

たけもとのぶひろ[第93回]
2016年1月15日

鹿鳴館

鹿鳴館

■御誓文第五条、西洋文明の受容(続々)―鹿鳴館(補助線1&2&3)

 ちょっと長めの注釈というか補遺というか、書き加えておきたいことが出てきます。それの扱いに窮することが時としてあって困ってしまうのですが、「補助線」という項をもうけて、少し別扱いで書くことにしようと思いつきました。とりあえず、やってみます。

補助線(1) 英国人の人種差別・恫喝外交
 鹿鳴館(補助線1)では、伊藤博文・井上馨を中心とする当時の明治政府の「鹿鳴館的卑屈さ・へつらい」の出所について、加筆します。それについて、日本人として屈辱を禁じえないのは当たり前ですが、それの因って来たる所以は、英国人の恫喝外交における弱肉強食的・人種差別的「傲慢さ」にあることもまた歴史の事実です。この点について、三つの事実を指摘しておきます。

 •鹿鳴館の直前1883年までの英国公使ハリー・パークスの傲慢について
 パークスは1840年のアヘン戦争を目撃し、南京条約の調印(コーンウォリス号)に立ち会っています。何を言いたいか東洋の権威主義国家・中国の、英国にすれば無礼きわまりない「三跪九拝の要求」体験が、パークスにおける「黄色人種・儒教国家」の原体験だったということです。彼の結論は、先進国大英帝国の優越を背景に・威を以て威を制する「虚喝談判・威嚇外交」に如くはなし、というに尽きたのでありましょう。
公使として来日したパークスは、ですから、野蛮国日本に対し威嚇怒号・癇癪暴言をもって常としました。伊藤や大隈たち “開明派” 官僚政治家たちは、そのパークスを指南役として立て、自らは生徒の地位に甘んじ、おもねることで、むしろ彼の圧力を用いて自国自派閥の利を図ることのうま味を知ってしまった――そういうことではないでしょうか。
 •明治19(1886)年 ノルマントン号沈没事件と英国領事館審判の屈辱について
 同年10月24日、英国船籍の貨物船ノルマントン号が和歌山県沖で座礁沈没しました。英国人乗組員26名(独人を含む)は全員が救命ボートで脱出したものの、日本人乗客25人およびインド人水夫12人は全員が船中に取り残されて溺死しました(ジョルジュ・ビゴーの風刺画が「トバエ」9号にあります)。
 英国人の人種差別を非難する世論の沸騰にもかかわらず、神戸英国領事館・海難審判は同年11月5日、英国人船長はじめ英国人乗組員全員を無罪としました。
 治外法権を盾にとる英国をおもんばかって当初は抗議しなかった日本政府でしたが、怒りの世論に耐えきれず英国側に裁判のやり直しを申し入れます。横浜の英国領事館は、同年12月7日、ドレイク船長に怠務殺人罪で禁固3か月の刑を宣告します。
 “なんやて、たったの3か月とはどういうことや!  日本人の命を軽く見るのもいい加減にしろ” との人びとの怒りは当然です。その怒りと哀しみは、「ノルマントン号沈没の歌」(無名作家、当初は36節・後に59節、曲は軍歌「抜刀隊」の旋律)となって、広く国民の間で歌い継がれたといいます。
 •明治20(1887)年 ヴィクトリア女王即位50年祝祭式における日本皇室の待遇
 この点についてキーンさんは、『明治天皇』(三)の注釈において、『明治天皇紀』第六巻を参照しつつ以下のように述べています(項目化したのはぼく、ほかはそのままの引用)。
 「日本の宮廷が外国の王族を温かくもてなしたことに対して、それが十分に報いられなかったということはあり得る。明治20年6月、彰仁親王は天皇名代として、ロンドンで行われたヴィクトリア女王の即位50年祝祭式に出席した。
 (あ)親王は自分の名前が式典参列者名簿に欠けていることを知り、不愉快だった。(い)また割り当てられた宿舎の格式は、ヨーロッパ諸国の王族に劣っていた。(う)ウェストミンスター寺院での礼拝式に臨むにあたって国儀車は与えられず、わざわざ馬車を雇わなければならなかった。(え)寺院における親王の席次はシャム、ハワイ王族と一緒で、ヨーロッパ王室と区別された。
(あ)(い)(う)(え)――これらのこと(他の無礼な行為も含めて)から親王は、英国が未だに日本を「東洋の一孤島」に過ぎないと考えていることを知った。」
 大英帝国とその王室からみると、日本の皇室はタイやハワイの王室と同格であり、日本人は西欧の白人よりも格下で劣っているということです。文明開化を国是とし西欧近代に近づきつつある日本国の、その天皇名代としては、そのことが大いに不満であり、黄色人種として差別されていると感じないわけにいかなかったのだと思います。この問題は、1919年のパリ講和会議における日本による「人種差別撤廃法案」の提案とその否決にまでつながっていくのでありましょう。

補助線(2)「同化」の主語か客語かの問題
 キーンさんは、前掲書・第38章「江戸の舞踏会」において指摘しています。
 「日本文化の主流へと西洋文化を取り込むことは、たとえ仮装舞踏会のような一種特異な西洋文化であれ、やはり時代の中枢をなす出来事だった」と。
 この一文は、もしそれが歴史の事実に即していたのであれば、つまり、日本文化が自分たちの文化の主たる流れのなかに西洋文化を取り込んでいた、という事実がもしも本当にあったことだとすれば、「まったくの猿真似」(ビゴー)とか「卑しい物真似」(ロティ)などと、口汚く軽蔑されることはなかったと思うのです。
 いま一度くりかえします。日本人が同化吸収の行為主体(主語)として、「智識ヲ世界ニ求メ」(五箇条之御誓文・第五条)て西洋文化を日本文化の流れのなかへと取り込み、吸収し、自分自身のものにしていく、そのようにして西洋文化を日本文化へと同化していく――仮に歴史の事実がそういうことだったのであれば、それはたしかに「時代の中枢をなす出来事だった」と言ってよいと思います。画期的な出来事だったでしょう。日本の明治政府の主体性は担保され、貫徹されているのですから。
 しかし残念なことに、日本・明治政府の鹿鳴館・欧化政策において行なわれたことは、これとは真逆の事柄だったのではないでしょうか。西洋文化の圧倒的感化力・影響力のもとで、日本文化を西洋文化へと同化させる、あるいは同じことの別の表現ですが、西洋文化が日本文化を同化する、日本文化は西洋文化によって同化される、等々――これらの表現で共通している点は、西洋文化が主体(主語)であって、日本文化は西洋文化にとって劣位の、いわば “お客さん” みたいな位置(客語)にあった、ということだと思います。主人と従者、とまで言ってよいのかどうか、言わなければならないのかどうか、ぼくとしては微妙です。ただ、彼ら欧米人からすると、そういう感覚だったに違いありません。
 上記の文章についてキーンさんは、あたかもその例証を示すかのように、続けて書いています。以下の引用文を読んだとき、ぼくは日本及び日本人に対するキーンさんの好意みたいなものを感じて、正直ありがたいなと思いました。
 「磯田光一は優れた研究『鹿鳴館の系譜』の中で、例えば日本人が外国歌謡の歌詞や曲をいかに摂取したか、それも単なる模倣に止まらず在来の日本の音楽を豊かにし得るものなら何でも同化吸収したことを跡づけている」と。
 他の人たちが「猿真似」「物真似」と嘲笑しているのを十分承知した上で、彼は「単なる模倣に止まらず」「何でも同化吸収した」と書いているのです。

補助線(3) 真似とは? ――ジョサイア・コンドルの場合

ジョサイア・コンドル(1852ー1920)

ジョサイア・コンドル(1852―1920)

 「物真似」「猿真似」と蔑視されると、蔑視する側の人たちは「真似」をしたことがないのかとギャクギレしそうです。とんでもない話です。
 「まなぶ(学ぶ)」は「まねぶ(真似ぶ)」の変化だとされています。「教わる通りにする」ということです。「まなび=まねびて」「教わる通りにする」のですが、その通りではない、その通りにはいかないのではないか、その教えは間違いではないか、などの問いが生まれないわけにいきません。「学ぶ」ことは「問う」ことと不可分なのでしょう( 学問という営みがあるくらいですから)。人の営みに即して言うと、学ぶこと、真似ること、問うこと――この三つは、同時に重なり合い、あるいは循環しながら行なわれているのではないでしょうか。そして、そういうことをして生きていけるとしたら、どんなにおもしろいだろうか、と想像してしまいます。
 その、人も羨む実在の人物として、ほかならぬ鹿鳴館の設計者、ジョサイア・コンドルを紹介したいと思います。コンドルは、明治10年(1877)に来日し、工部大学校(のちの東大工学部建築学科)教師・工部省営繕局顧問の任に就きます。前述のように1880年、彼は鹿鳴館の設計・建設に着手しますが、時を措かず、その翌年には浮世絵師(戯画・諷刺画家)の河鍋暁斎の門を叩き弟子入りを許されています。暁斎は「画鬼」と自称するだけあって、実際に観ればわかりますが、鬼や化け物の鬼気迫る諷刺画を得意とし、その風刺が過ぎたのか明治3年には筆禍事件で逮捕されてもいます。コンドルは、選りに選って、その、曰く付きの暁斎の門下生として毎週土曜日、稽古に通い、「暁英」という号までもらっています(号のいわれは、「暁斎の暁」と「英国人の英」を合わせたものかと思われます)。
 コンドルの不思議はこれに尽きません。遠州流の華道を学んだというから、それだけでも驚くのに、日本の生花について英語で著書 The Flowers of Japan and the Art of Floral Arrangement を著したというのです。
 まだあります。彼は日本舞踊の稽古にも通っていたらしく、それが縁で、日本舞踊を踊る前波くめという女性と結婚し、この日本で死に、墓もあるそうです。
 もちろん建築家としてのコンドルの業績は、その道の人士なら知らない人はありません。
明治日本を代表するいくつもの―10も20もの―名立たる建築物を設計・建築し、かつ日本人の弟子を立派な建築家として育てています。
 英国人建築家として生きたコンドルですが、同時に日本の美の伝統から学びたい、その良さを知りたいという、その気持ちにはなんの混じりけもなかったのではないでしょうか。そのコンドルを指さして卑しい物真似だとか、生意気な猿真似だとか、軽蔑する人がいるとは、想像することさえできません。
 真似ることは、学ぶこと、問うこと、とともにあるのですね、きっと。
 どうして真似ることが否定的に見られるのでしょうか。
 他を真似るのは、むしろ、自ら学び問う側の、自ら学び問うことの怠慢ないし欠如の表れと目されるからではないでしょうか。
 真似る・学ぶ・問う――この三つが自分の中でめぐりめぐるとすると、どんなにかおもしろいことでしょう。そのおもしろさを、ジョサイア・コンドルは知ったのでありましょう。