天皇について(37)

たけもとのぶひろ[第89回]
2015年12月17日

西欧かした天皇という新政府の広告塔

西欧化した天皇という新政府の広告塔

■御誓文第五条、西洋文明の受容(続々)
 明治新政府は、御誓文第五条において「西洋文明の受容」を宣言しています。国策として謳った、ということです。教育や憲法(国会)などの場合、制度上のソフトをそっくりそのまま仕入れようとしてアレコレしたことはすでに述べました。今回は、「衣食住関連の情報から風俗風習の仕来りに至るまでのありとあらゆる知識」をどのように受容していったか、この点を見ていくのですが、前回でも指摘したように、「天皇」および「鹿鳴館」を中心に考えたいと思います。両者はともに、日本国そのものを欧化するための新政府の国策として――このことを目に見える形で内外に向かって周知徹底させるための “広告塔” として――の役割を課せられており、重視する必要があると思います。

 思いっきり西欧化した「明治天皇」を創りだして、新政府の広告塔として利用しようということを思いついた人間はおそらく大久保利通だったのでしょう。「明治天皇」とは、「作および演出・大久保利通」による明治天皇だということです。
 ひと言でいえば、どんな天皇か? フランスの「ルイ14世」みたいな――皇帝と言おうか君主と言おうか――とりあえずは、そういう絶対的存在へと日本の天皇を作り変える、それが大久保の思惑だったのではないでしょうか。

 キーンさんはその点を次のように指摘しています。「大久保の意図は、若き天皇をルイ14世にも比すべき一個の君主に仕立て上げることだった。しかも、その中継ぎの段階を経て、いずれは立憲君主制の樹立へと持っていくことが大久保の真意だった」と。
 大久保という人は、自分の定義する天皇が天皇であって、天皇自身がそのつくり出された天皇についてどう思おうが関係ない、と思っていたフシがあります。
 というのも、以前にどこかで触れたと思うのですが、大久保は西郷吉之助宛書簡(慶応元年9月23日付)の中で、第二次征長戦争に対する幕府の勅許申請を、もしも朝廷が許したとすれば、その勅許は「非義の勅許」であるから従う必要はない、と書いているそうです。道理に背いた非義の勅許は勅許でないとすると、道理・正義はどこにあるのか、だれが決めるのか、ということになります。もちろん、大久保の心の中にあるのだから、大久保が決めるということです。大久保は実際、天皇はなんとでもなるし、なんとでもできると思っていたのでありましょう。

 広告は見てもらってなんぼ、ですから、パッと見てアッ西欧文明と感じてもらわなければなりません。オーストリアのある男爵の証言(1872年夏)があります。いわく、「神々の子である天皇は、なかば水兵なかば大使といった風変わりなヨーロッパ風の制服を着ていた!」これをもう少し補います。「明治天皇の制服には、胸のところに特徴ある金モールの飾り紐が数本あしらってあった。その着想はヨーロッパ風だったが、それは明らかにオーストリアの男爵の笑いを誘った。類似のものが海外で見られるようになった後も、天皇は、ずっとこの制服を身につけていた。皇居の中でも天皇は毎朝、大奥を出る際に洋服に着替えた。この制服の場合もあれば、フロックコートの場合もあった。」

 次は、食事の洋風化についてです。「いつしか食卓にも、典型的な西洋料理や洋風の飲み物が並ぶようになった」とあり、詳細は注をもうけて『明治天皇紀』の記述が引いてあります。すなわち、「明治3年8月12日、延遼館で西洋料理を食べた。明治4年11月21日、品川沖艦上で昼食に西洋料理を食べた。明治4年11月より、牛乳を飲み始めた。明治4年12月17日、中古より宮中で守られてきた肉食の禁が解かれ、牛肉、羊肉を常食とするようになった」と。

 生活習慣・エチケット関係の欧風化も見ておきましょう。「明治天皇は外国の物を使いこなすだけでなく、外国の賓客を引見する際の儀礼にも速やかに順応した。賓客に応対する際には握手をし、微笑みかけ(これは当初、なかなか覚えられなかった)、関心のないことについても丁寧に質問しなければならないということを学んだ。熱心な宮廷の職員たちは、たちまち外国流の身のこなしを体得し、賓客を少しでも寛がせるように努めた。饗宴では西洋料理を出すように心掛け、外国の賓客が謁見の際に靴をぬぐのを嫌うことがわかると、畳の上に絨毯を敷くようにした。」

 「西欧化した天皇」という新政府の “広告塔” がある程度できあがると、人びとの前に連れ出して披露することを考えなければいけません。西洋の価値を全身に体現した天皇が、みずから「文明開化(欧米化)の時代の到来」を触れて回るのです。
 明治5年(1872)4月下旬、天皇の西国巡幸計画が布告され、ほどなくして巡幸出発日が5月23日と発表されます。建議書はこの巡幸を全国巡幸の皮切りと位置づけました。いよいよ広告塔の出動です。49日間にわたる巡幸はどんな具合であったか、キーン著『明治天皇』に拠って見たいと思います(中略部分もありますが、明示しません)。

「5月23日午前4時、天皇は巡幸の旅に出発した。この時、天皇が初めて着用した燕尾形ホック掛の正服は、のちに天皇の最も典型的な服装となった。
 天皇は、騎馬で皇居を出発した。浜離宮で小憩後、端艇で品川沖に停泊する旗艦龍驤(りゅうじょう)へ向かった。天皇に供奉する者は一行70余人と、近衛兵一小隊だった。龍驤に乗艦した天皇を、海軍の楽手たちが奏楽で迎えた。中央マストに高々と錦旗が掲げられ、信号旗がはためき、水兵たちの登桁が行われ、祝砲21発が放たれた。錦旗の掲揚を除いて、これらの儀式はすべて過去十年足らずの間に西洋諸国の海軍から学んだものだった。今や、いずれも日本海軍の揺るがぬ伝統の一部と化していた。
 巡幸の最初の訪問地は、伊勢神宮だった。25日午前9時、旗艦龍驤の率いる艦隊は鳥羽湾に碇を下ろした。天皇の行列は、ここから山田へ向かった。天皇自身は騎馬で進み、侍従が左右を守護し、近衛兵が前後を固めた。供奉する諸官は燕尾服を着用し、洋刀を腰に徒歩で従った。沿道に列をなして一行を迎えた民衆は、旧体制の大名行列を彩った華美な衣裳と比べ、その洋装、行列の簡易なことに驚いた。人々は路傍に跪き、あたかも神を拝むがごとく柏手を打った。この行列と歓迎は、巡幸を通じて各訪問先で繰り返された。」

 上記に引用略述したのは、明治5年天皇が巡幸の旅に出たときの冒頭部分です。これを読みながら思い出すのは、明治元年の東京行幸のことです。すっかり変わった点とまったく変わらなかった点があって、非常に印象的です。
 変わった点をまず見ます。明治元年の行幸のとき、移動手段は人力、つまり徒歩でした。天皇は鳳輦に乗っています。御簾の向こうに隔てられており中までは見えませんが、おそらく束帯姿だったでしょう。5年の巡幸のとき、移動は軍艦です。陸に上がると、天皇は馬に騎乗、燕尾服姿で洋刀を佩いています。徒歩で供奉する侍従・近衛兵たちも燕尾服、腰に洋刀です。百パーセント「文明開化」の身支度です。

 もうひとつ大きく変わったのは、天皇一行の総数です。行幸のときはたしか3300余人だったのが、巡幸のときは供奉する諸官が70余人、それと近衛兵が1小隊――というと3,40人くらいか――とありますから、総員百人余りだったのではないでしょうか。行幸のときは、親幕府勢力に対する尊皇派の政治的示威行動、といった意味合いからも大量動員となったのでしょうが、巡幸のときは、天皇を直に見てもらって、自分の目で見た天皇を通して新しい時代の到来を感じてもらう――というのが目的のはずですから、巡幸一行の人数は少ない方が目的にかなっています。その分、天皇が目立ちますし。

 変わらないのは、沿道に列をなして一行を迎える人びとの様子です。京都から東京へと行幸した明治元年のときも、東京から西国へ向かって巡幸した明治5年のときも、天皇が行くところ行くところ、どこでもだれでも、人びとは「路傍に跪き、あたかも神を拝むがごとく柏手を打った」と言います。

 と書くと、それはいかにも無知蒙昧な、民百姓町人の類いであろう、との印象を持たれかねません。しかし、それはまったくの偏見です。一例を示します。時は遡って文久3年3月11日のこと、孝明天皇は攘夷祈願のため賀茂下社・上社に行幸しました。公家高官はもちろん、将軍家茂もまた、将軍後見職徳川慶喜及び諸藩主、高家などを率いて供奉しました。折悪しく降り出した雨の中を、天皇の鳳輦が進みます。鳳輦が列の前を通り過ぎるとき、将軍家茂以下全員が馬を下り、傘を捨てて路上にひざまずいたと伝えられています。
 身分が高貴であれ下賎であれ人びとは、天皇を「見る」のではなくて、「拝む」ために参集し行列していた、ということです。地べたに跪き、平伏し、涙を流しながら柏手を打ち、拝む、といいます。これは、人間に対してすることではありますまい。神様に対面するときの所作でしょう。

 この国の人びとのほとんどは、天皇のことを神様同然の存在としてイメージしてきたのだと思います。イメージとして浮かぶ断片を並べてみましょうか。――神様の側近くにいて・神様の用事などをして神様に仕える人。神主様みたいな。といっても、ふつうの神社の世俗化された神主様ではなくて、この国を守ってくれる神々のなかの神・天照大神に仕える神主様みたいな人が、御所におられる、みたいな。そういう感じだったのではないでしょうか。

 したがって天皇は、此の世の人ではあっても、必ずしも此の人間世界のみの人とは言い切れない人。だから、「見る」なんて畏れ多いのであって、ただただ「拝む」「拝ませていただく」、畏敬と崇敬の対象――それが天皇という存在だったのではないでしょうか。
 そして、天皇はそのように神に近い存在であるから、みだりに人の目に触れてはいけないのであって、だからこそ御所の奥深くに身を隠すようにして来られたのだし、万やむなく鳳輦で移動したりするときも「御簾」によって遮蔽し、人目を避けて来られたのでしょう――おおよそこれらのことが、何千年とまでは言わないけれど、何百年もの時の流れのなかで信じられてきたのだろうと思うのです。

 ここで「信じられてきた」と言っても、聖書とかコーランがあるわけでもないですから、天皇への人びとの気持ちは “苦しいときの神頼み” とか ”お盆やお彼岸のときのご先祖様のお墓参り” のときの気持ちを、もう少し畏れ多くした、グレードアップしたくらいなものかと思うのですが。
 西国巡幸の際の鹿児島でのエピソードは象徴的です。
 「天皇が鹿児島を発った後、鹿児島市民は行在所(あんざいしょ)の拝観を許された。夜明け前から長い列を作った市民たちは、天皇が神代三陵を遥拝した際に膝の下に敷いた菰(こも、こもで織ったむしろ)の切れ端や、涼み台として使った御涼櫓装飾の杉の葉などを拝戴し、災厄払いの護符にした。」(この文章には注釈があります。「是の類、他の地方にも往々行われしを伝聞す」と)。

 天皇縁(ゆかり)の品だからといって、菰の切れ端や杉の葉を護符として有り難がる――そういう人びとに対して、西欧風に作り上げた洋風天皇を見せて回って、かのルイ14世もかくありなん、なんて心中秘かに思っていたとしたら、ばからしい話です。
 ルイ14世は無制限の絶対的権力をもって統治してきた帝王ですよ。一方、わが天皇は、人びとにとって “厄払いの護符” みたいな、それでいて有難い神様みたいな、そういう存在なのですよ。その天皇を絶対君主に変えるのは、木の葉をお札に変えるくらい難しいのではないですか。

 『日本語大辞典』(講談社)の「ルイ14世」の項を見ます。
 「1643~1715 幼少で即位し、1661年に宰相マザランの死を機に親政。コルベールを登用し、中央集権的絶対主義を形成。イギリス、オランダと主導権を争い、4次にわたり大規模な戦争を行った。文芸を保護し、モリエール、ラシーヌらが出て、古典文化が開花した。また、ベルサイユ宮殿を造営。内外に示したその威光のため「太陽王」と称された」とあります。

 大久保利通は天皇に向かって、このルイ14世を手本にしてその真似をしろ、コピーをやれ、と言っていますよね。しかし、神様同然のわが天皇がルイ14世並みの絶対権力を振うことができるでしょうか。太陽を神と崇める天照大神、その天照大神に仕えるのがわが天皇ですよ。そもそも権力とか統治ということ自体が苦手なのです。相手は自身が「太陽王」と綽名されるほどの絶対君主です。真似をするには、彼我の間の違いが決定的です。共通点は皆無です。どうやって真似をするのでしょうか。それ風の服を着て、剣ぶら下げて、馬に乗れば、なんとかなるとでも思っているのでしょうか。天皇を迎える「国民」にしてからが、まだ「赤子」「億兆」ですし、もう少しすると「臣民」「万民」くらいにはなるとしても、それでも(欧米で言う)「国民」と言えるかどうか、その下地すらできていないでしょ。万が一、天皇がルイ14世みたいな君主になったとして、この国の人びとが受け容れるかどうか、それはそれでまた別の問題ではないでしょうか。

 とまれ、文明開化(とくに欧米の知識・技術・科学・物質文明の受容)なくして富国強兵はありえません。その富国強兵は、日本を国家たらしめるために必要欠くべからざる前提です。そして、この大前提の富国にせよ強兵にせよ、国民の動員なくしてはかなえられないことくらい、だれだって知っています。そうすると、国民を動員するにはどうすればよいのでしょうか。答えは冒頭に挙げてあります。国民に西欧文明を受容させる、これしかありません。国民にそれを納得させる、そのために「天皇」という切り札を切る、それが大久保たちの立場だと思います。

しかし、大久保が「天皇」カードを切るというのは、天皇に「ルイ14世」のコピーをさせることが前提です。ただ、上述のように、この前提は成立しませんから、彼が頭に描いた絵図は無理筋だったことになります。
御誓文第五条は言います。世界の知識を求めて、それを皇基の振起につなげるべし、と。問題は、「世界の知識」を問う前に、まずわが方の「皇基」を問うてかからなければならない、ということではないでしょうか。 “受け皿” のことをよく知ろうともせずに、もっぱらその中に容れるものにのみ熱中しているかに見えるのは、いかにも心許ない限りです。