天皇について(36)

たけもとのぶひろ[第88回]
2015年12月10日

シュタイン(1815~1890)

シュタイン(1815~1890)

■御誓文第五条、西洋文明の受容(続)
 御誓文とは、繰り返し指摘してきたように「王政復古=天皇親政」の宣言でありました。
 この原理的立場から第五条の「皇基」という概念を思い切り単純化して図式的に示すとすれば、皇基の「皇」とは天皇のことで「基」とは赤子のことであり、「皇基」とは天皇と赤子の関係のはずです。したがって、皇基ヲ振起スへシとは、天皇と赤子の関係を強化しなければならない、ということになりますから、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スへシとは、世界の知識なら何でもよいと言うことではもちろんなくて、天皇と赤子の関係を強化するのに役立つ限りでの知識を世界に求めなければならない、ということにならざるをえません。にもかかわらず、例えば明治の教育界では、「皇基」などお構いなしで、欧米の「智識」——というか、きょうびの言葉で言えば情報を追いかけ回すだけで事足れりとしていたのが、現実でした。前回はこれらのことを見てきたわけです。

 ただ、「皇基」なんかそっちのけで欧米世界の情報を漁ってきて、その知識をそのまま日本で通用させよう、という情けない風潮は、なにも教育界の知識に限ったことではありませんでした。①まずは、政治・経済・軍事など国家の制度に関わる分野の、いわゆる欧米化=近代化に必要な知識です。②次に、衣食住関連の情報から風俗風習の仕来りに至るまでのありとあらゆる知識です。両者に共通するのは、欧米先進国のものならば、何でもかんでも有り難がって取り寄せようという姿勢です。

 ぼくたちはこの間ずっと、五箇条之御誓文の各条文を通して、幕末維新の志士たちが「王政復古=天皇親政」にかけた決意に思いをめぐらせてきました。それが最後の第五条にきて、誓言の趣ががらりと一変したかのような印象を受けます。天皇親政のあるべき姿を思いえがいていたところへ、いきなり「世界の智識」を取りに行く話になっています。「皇基の振起」という目的の限定はあるものの、対象の無限の大きさ・広さの前に圧倒され、この条文を聞かされた者の関心は外へ外へと持って行かれてしまうのではないでしょうか。
 事実、「王政復古=天皇親政」の誓言はどこへやら、人びとは我先にと「世界の知識」を求める時代の流れに身を投じていくことになるのでした。

 これを歴史の中で検証するのは、御誓文を論ずるこの場所を大きくはみ出します。御誓文発布のその時その場について議論するのではなくて、そののちの歴史に関わらざるをえないからです。それはそれだけでひと仕事というか、また別のテーマになってしまいます。ここでは、上記の二点①②について、象徴的な事例を挙げて簡単な事実を確かめるに止めたいと思います。①の事例としては、「憲法調査団の欧州派遣団」団長・伊藤博文の見識を取り上げます。②の事例としては、天皇と鹿鳴館を取り上げたいと思います。

 ①「欧州派遣憲法調査団」の団長・伊藤博文の見識について、時の流れを少しさかのぼったところから始めます。

 伊藤博文は明治14年10月、「政局」を仕掛けます。結果、「立憲政体の方針」が確定し、「明治23年の国会開設」の詔勅が下ります。明治23年には国会を開く、それまでには憲法を制定する、この二点を内外に向かって約束したのでした。年が明けると直ちに政治は憲法制定へと向かい、元老院では草案条文が提出され、議論は百出しますが、いずれの論者も、欧米先進国の憲法を——条文も制度もそれらに関する学説も、そのまま引き写してきて自説として主張し、それをそのまま日本の憲法にしようという、臆面のなさです。
 それらの国々と日本とでは、歴史も国情も違います。先方の憲法をそのままわが方の憲法に適用するなんて、通るわけがありません。事の推移をあらかじめ見越していたかのように伊藤は、寺島を “当て馬” に使って流れを自分に引き寄せるかのような動きをします。以下、キーンさんからの引用です。

「(明治15年)2月、元老院議長寺島宗則は次のような上書を提出した。参議伊藤博文をヨーロッパに派遣し、各国の憲法を研究させ、日本の憲法に適用するにふさわしい特徴を調査させたい、同時に、寺島自身が同じ目的で特命全権公使として米国に赴きたい、と。上書は承認され、伊藤はヨーロッパ派遣のために参事院議長を辞任した。」(この件での寺島渡米の事実はありません。上書提出は伊藤渡欧が目的だったと察せられます)。

 西園寺公望を含む9名の随員とともに伊藤博文・憲法調査団は、同年3月14日、ヨーロッパに向けて出発、ドイツではベルリン大学のルドルフ・フォン・グナイストやアルバート・モッセ、オーストリアのウィーン大学ではローレンツ・フォン・シュタイン、イギリスではハーバート・スペンサーなどに学んだとされています。しかし、たったの1年半で、幾つもの国の何人もの先生について、しかも外国語で、いったい何ほどの事を学ぶことができたでしょうか。調査と言っても、彼らが実際にやってきたことは、関連する多くの情報の中から見当をつけて、すぐ役に立つ “手本” を捜し出すこと、早い話が「情報の物色」作業だったのではないでしょうか。

 伊藤が特に感銘を受けたのはドイツのグナイストとオーストリアのシュタインでした。その感銘を記した書簡があるらしく、キーンさんは前掲書においてその要旨を以下のように伝えています。「伊藤は滞欧中、岩倉に書簡で次のように述べている。自分はグナイストとシュタインから、国家組織の大枠を学んだ。また皇室の基礎を永遠に定め、その大権を千載に維持する大眼目は得た。今や立憲君主の政体を確立し、君権を完全なものとし、これを立法、行政の上に置くべき時である。我が国には英国、フランスの過激な自由主義に心を奪われている者が多い。これらの人々を抑えるためには、自分の提案を採用する以外妙案はない、と。」

 これほど支離滅裂な話があるものかと驚く内容です。彼は言います。「皇室の基礎を永遠に定め、その大権を千載に維持する大眼目は得た」と。その「大眼目」とは何か。「立憲君主の政体を確立」することである、と言います。では、立憲君主政体の確立(=立憲主義)とは、いったい何をすることなのか、何を意味しているのでしょうか。「君権を完全なものとし、これ(=君権)を立法、行政の上に置く」ことだと言います。それが伊藤の答えです。しかし、これだと、法と法に基づく権力よりも上位に君主の権力が位置することになりますから、君主の権力は絶対です。法(憲法)はなんら君主の権力を縛ることはできません。拘束はもちろん、制限も制御もできません。つまり、伊藤が確立しようとした「立憲君主の政体」は、立憲主義に基づく政治体制ではない、ということです。

 上記引用文の最後に伊藤は、「我が国には英国、フランスの過激な自由主義に心を奪われている者が多い。これらの人々を抑えるためには、自分の提案を採用する以外妙案はない」と書いています。ここで伊藤が「英国・フランスの過激な自由主義」と書いているのは、過激でもなんでもない、立憲主義のことです。権力は法の定めるところに則って行使しなければならない、という考えは、憲法を定めようというほどの国なら、大前提の常識だと思うのですが、それがわからない。わからないからこそ、「立憲主義」のことを「過激な自由主義」などと言い、それを「抑えるため」の「妙案」を提案しようとしているのが、伊藤博文その人であるわけですから、これはもう支離滅裂以外のなにものでもありません。

 伊藤博文という人がこの程度の人であるというだけで話が済むなら、それならソレで仕方がないということなのですが、厄介なのはこの後です。伊藤たちがつくろうと意図した憲法、そして事実としてできあがった明治憲法は、立憲主義に基づかない憲法、もっとはっきり言えば、立憲主義を敵視するところから生まれた憲法だったということです。
似て非なる憲法というか、であるかのような憲法というか、いずれにせよ明治憲法は、不名誉な形容を免れることのできない憲法である、と言わざるをえないのではないでしょうか。憲法だけではありません。憲法がそうなら、その影響は君主にまで及びます。天皇もまた、であるかのような・ないかのような、実は名ばかりの君主たらざるをえなかったのではないでしょうか。天皇親政にしても、そうであるような・ないような、あたかもそうであるかのような政治としか言いようのないものだったのではないでしょうか。

 御誓文第五条の前半にあるように、世界に知識を求めると言っても、伊藤博文のように、——彼はおそらく、シュタインの薦めもあって、プロイセンの憲法を真似したつもりだったのでしょうが——自分の欲しいものを見つけて取ってくる、というのでは勉強にも調査にも何にもなりませんでしょ。
 伊藤はシュタインの日本招聘を提案するほど彼に感銘を受けたらしいのですが、そのシュタインは伊藤に厳しく注文をつけていたようです。曰く。「一国の法律制度はその国の伝統に基づいたものでなければならない」「もし他国の法律から借りるべきものがあるとしたら、まず、その法律の存在理由の源泉にまで遡らなければならない。その沿革を考え、しかるのちに自国に適応出来るかどうかを判断しなければならない」と。

 伊藤がシュタインの忠告に本気で耳を傾けようとした形跡はありません。それくらいの気構えがないとすれば、「皇基の振起」に資する知識を求めるなどという大任は、とてもとても果たせるものではないということだと思います。