石神井川に沿って

吉岡達也[第24回]
2015年12月8日

広徳寺(練馬区桜台)。紅葉が美しい

広徳寺(練馬区桜台)。紅葉が美しい

 秋以降、頻繁にやってくる痛風(特に左足親指周辺)の発作と突発的に起こるぜんそく気味の咳の発作に振り回されて、ライフワークのはずの「中山道歩き」が全く進まない。この2つのいまいましい発作は週末になると申し合わせたように悪化する。このため日曜になると息をひそめるように自宅で静養していることが通例となっている。
 実はアルコール類をある程度制限すれば、どちらの症状も一時的に緩和されるのだが、極端に意志が弱いため、そう長くは続かない。とりわけ一週間で唯一の楽しみであるTV番組「吉田類の酒場放浪記」(BS-TBS)の吉田さんの酒豪ぶり、「孤独のグルメ」(テレビ東京)の松重豊さんの食べっぷり、原作者・久住昌之さんの呑みっぷりを前にすると、ついつい「家呑み」が進んでしまう。その勢いで数日間飲酒が続くと当然のごとく発作が再発するのだ。
 その結果、週末は「中山道」ではなく、自宅周辺の石神井川に沿った遊歩道に限定されてくる。これは、いつ発作が起きてもすぐ帰れるようにという情けない選択ではあるが、これはこれでなかなか楽しかったりするものだ。石神井川遊歩道はとても歩きやすく、突然クルマが飛び出してくるような心配はあまりない。
 「石神井」の名の由来はいくつかあるが、有力とされるのが鎌倉時代以前に地元民が井戸を掘ろうとしたところ大きな石の剣が出てきたことから、これを神として祭ったことが始まりらしい。
井戸といえば、以前から練馬周辺では他の多くの地域同様、水の確保が最重要とされてきた。単に飲料用や農業用水としてだけではなく、舟運として物資輸送の点からも水は不可欠だった。このため戦国時代以前から水源確保を巡って様々な権利争いが行われてきた。水を制した者が地域全体を制したのだ。
 桓武平氏の血を引く豊島一族が石神井郷周辺で勢力を高めていったのは、鎌倉時代後期から室町時代前期にかけてのことだ。豊島氏は旧在地領主として石神井城(現在の石神井公園周辺)などを居城とし、練馬、板橋一帯を支配していた。その後新興勢力の太田道灌が江戸城、川越(河越)城などを着々と築城しつつ勢力を拡大。豊島泰経の石神井城は太田道灌の軍の攻撃によって1477年に落城し、その後南武蔵の勢力図は大きく書き替えられることとなった。その後の江戸・東京の歴史に少なからず影響を与えたことは間違いない。

石神井川。その水利をめぐって戦国期から多くの争いが続いた

石神井川。その水利をめぐって戦国期から多くの争いが続いた

 さて、私の自宅に近い「氷川神社」(練馬区氷川台)はいまも地元の氏神様として知られている。最寄り駅の東京メトロ有楽町線・副都心線「氷川台駅」の名はここからきている。社伝によると創建は1457年。室町幕府関東執事の渋川義鏡が古河公方・足利成氏との戦(いくさ)に向かう際、石神井川脇で泉の沸き出している場所を見つけ、「お浜井戸」と名付け祠(ほこら)を建てたのが氷川台における「氷川神社」の由来だという。その後江戸時代中期に現在の位置に移され下練馬村の総鎮守となった。やはりここでも「井戸=水」がキーワードとなってくる。

高稲荷神社(練馬区桜台)。大蛇伝説が残る

高稲荷神社(練馬区桜台)。大蛇伝説が残る

 一方で地元民は様々な伝説を作ることによって、貴重な水源の確保を行ってきた。「お浜井戸」に近い「高稲荷神社」(練馬区桜台)には、こんな言い伝えが残る。かつて神社一帯は大きな沼であったが、主(あるじ)の大蛇が村の若者を沼に引きずり込んでしまった。そこで隣接の高台にその霊を祭ったのが神社となったという。どうやらこの伝説も、水を守っていくために生み出されたものと考えられる。つまり、恐怖心をあおって外部の者を大事な水源に近づけないための知恵だったのだろう。
 かつてあたり一面に畑が広がっていた練馬周辺にも徐々に開発の波が訪れる。最初の転機は1923(大正12)年に発生した関東大震災だ。浅草で被災した十一ケ寺(快楽院、宗周院、仮宿院、受用院、称名院、林宗院、仁寿院、迎接院、本性院、得生院、九品院)など、都内中心部にあった歴史ある寺院が次々に練馬へと移転した。
 中でも江戸期の文人・大田蜀山人作とされる「恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」(おそれいりやした、びっくりした)で知られる臨済宗の大寺院「広徳寺」は、関東大震災を機に下谷から現在の練馬区桜台へと移った。広徳寺は1590年、徳川家康の江戸入府に合わせて小田原から移転したという歴史を持つ。境内には徳川将軍家兵法指南役である柳生家一族の墓などがあり、紅葉が美しい寺院周辺を歩くだけでも厳粛な雰囲気を感じる。
 高度経済成長期以降、練馬はベットタウンとしての性格を見せる。周辺には次々に住宅やマンションが建てられた。現在では畑を見る自体珍しくなったが、石神井川の両岸にはずらりと桜が配されるなど、身近に自然に接することができる。毎年花見の時期には数多くの人々でにぎわいを見せるスポットだ。
 ごく身近な地域にも、知られていない数多くの歴史が眠っている。石神井川をとってみても、水量こそ往時に比べてずいぶん減ったものの、長年ここに暮らした人々の生活を支えてきた存在として改めて思いを馳せることができそうだ。
 ――「水」「水」……と書いてきて、ついつい「水割り」の名水を思い浮かべる自分がいる。症状はまだまだ好転しないようだ。