天皇について(34)

たけもとのぶひろ[第86回]
2015年12月6日

明治元年東京行幸の図

明治元年東京行幸の図

■御誓文第四条、天皇の御代
 天皇とか天皇制というと、すでにわかったつもりになるきらいがあったのではないか——ぼく自身、省みてそんな気がしてなりません。ぼくはどうやら何も知らないに等しかったらしい、もう少し、未知のものに対して何かを見つけ出すような態度でもって臨むことができなかったのだろうか、と反省することしきりです。

 たとえば、慶応4年の大坂行幸の際、行在所(あんざいしょ)とされた東本願寺特別院において許されたという、大久保利通や木戸孝允なんかの謁見体験についても、そうです。そういうことがあったのか程度で、具体的にイメージしてみようともしなかったように思います。彼らの日記には、そのときの感激がいかばかりのものであったか、が書いてあるのですが、その感激ぶりについて、なかなか実感がわいてこないのでした。ただ、妙なことに、その、実感としてわからないことそれ自体が、いつまでも気になるのでした。
 日記にどう書いてあるか、当該部分を紹介します。

 まず大久保利通。「余一身の仕合(しあわせ)、感涙の外これなく候。藩士にては始めての事にて、実は未曾有の事と恐懼奉り候。」
 次に木戸孝允。「布衣(ほい、無位無官の者が着た狩衣)にて天顔を咫尺(しせき、近い距離)に奉拝せし事、数百年、未曾聞(いまだかつてきかざる)なり。感涙満襟」

 両者に共通しているのは、身分が旧藩士の端くれであるのにもかかわらず天皇への謁見が許されたこと、そのことからくる感激です。
 ここで『新明解』を見ておきましょう。感激とは「身に余る栄誉に浴したり 温情あふれる言動に接したり したことに抑えがたいほどの喜びを感じて、気持ちを高ぶらせること」とあります。 天皇とはいえ、いまだ16歳の少年が、大の大人をこれほどまでに感動させ涙を流させるなどということがあるものなのか! とぼくなんかは長い間、半信半疑というか、不思議の念をなしとしませんでした。

 しかし、当たり前のことですが、今にして思うと、大久保や木戸が拝謁したのは、16歳の少年である前に、なによりもまず天皇だったのでしょう。そして、その天皇というよりむしろ、天皇という存在自体が、幕末以来の尊皇主義者の二人にとっては、尊崇措く能わざる存在だったのではないでしょうか。
 しかも、ただ天皇一人に拝謁したわけではありません。天皇は高官を率い廷臣たちを従えていました。東本願寺特別院の謁見の間の様子を、アーネスト・サトウに拠ってみておきましょう。
 「一番奥まったところにある高座の上、黒い漆塗りの柱でささえられた天蓋の下に、簾(すだれ)をいっぱいに巻き上げて、天皇(ミカド)がすわっておられた。高官が玉座の左右にそれぞれひざまづいていた。 
 玉座の前の左右に、小さい木製の獅子の彫刻がすえてあった。これはすこぶる時代を経たもので、日本国民に大いに尊ばれているものだ。玉座のうしろには、多数の廷臣が黒い紙の帽子をかぶり、色さまざまの華麗な錦の礼服を着て、二列に並んでいた。」
 これは、英国特派全権公使ハリー・パークス一行を引見したときの様子ですから、大久保や木戸の場合は、おのずと違うでしょうが、天皇の名誉を辱めないよう、それ相応の場面が用意されていたものと察せられます。

 ここで前回の叙述を思い起こしてほしいのですが、その謁見の間には、天皇と大久保を中心に、あるいは天皇と木戸を中心に、 一回限りの “神的儀式共同体” とでもいうべき時空が現成し、あたりは、ある種、神域にも似た空気に支配されていたのではないでしょうか。
 その時その場に現われたであろう共同性が、いったいどうして神的儀式的なのか。それはもう、天皇という存在そのものが神的儀式的であるから、と答えるしかありません。

 厳かにしつらえられた神的儀式空間において、半ば神とさえ崇められている天皇とあいだに生まれた神的一体感を身をもって体験したこと、そのことを大久保は「未曾有の事と恐懼奉り候」と受けとめ、木戸は「感涙満襟」と記さずにはおれなかった――そういうことではないでしょうか。

 神的儀式共同性が成立するためには、神的存在としての天皇が、その時その場に存在して時空を共有し、かつ主宰しなければならないということです。逆に言えば、天皇が時空を共有しかつ主宰する、という条件さえ満たせば、いつどこででも神的儀式は成立するということだと思います。それが大がかりになると、場合によっては祭祀(祭り)とかの行事ともなるのでしょう。

 ぼくが念頭に置いているのは、明治と改元されて間なしの9月20日に出発の運びとなった「東京行幸」です。(もっとも、東京行幸の挙行は、元号としては慶応年間の、4年8月4日に、「海内一家東西同視」の大義のもとに布告されていたのですが。)

 その昔、京都御所を出発し江戸城に至るまで、なんと24日ものあいだ歩き続けた天皇の鹵簿(ろぼ、行列)があったという事実――この事実がもつ迫力に圧倒されます。
 彼らはどのように出発し、どのように迎えられたのでしょうか。また、その二十余日のあいだ、天皇一行はただ歩いていただけではありますまい。その道中、いったい何をしながら進んでいったのでしょうか。D・キーン『明治維新(一)』に拠りながら、これらの点をみてゆきたいと思います(中略はいちいち断りません)。

 まず、御所出発の様子です。
 「天皇の鳳輦(ほうれん、屋形の上に金色の鳳凰を飾った輿)は予定通り20日、東京へ向けて出発した。辰の刻(午前8時前後)、天皇は紫宸殿に出御し、ここで鳳輦に乗御した。天皇は三種の神器の一つ、内侍所(ないしどころ、神鏡)を奉じて建礼門を出た。岩倉具視、中山忠能、伊達宗城、池田章政、木戸孝允等を筆頭に、供奉の列に加わる者は三千三百余人にのぼった。行列は、道喜門(どうぎもん)で皇太后と淑子(すみこ)内親王の見送りを受けた。宮(=皇族)、堂上(=殿上人)、在京の諸候は南門外に整列して行列を見送った。沿道には老若男女が列をなして鳳輦を拝観した。沿道の民衆に雑踏狼藉はなく、粛然とした規律があった。沿道から柏手を打って拝む音が絶えなかった。」
 金色の鳳凰を戴いた鳳輦が行きます。前後を守護するお供はなんと三千三百余人。沿道の民衆は粛然とした規律のなか柏手を打ち、鳳輦のなかの天皇を拝んでいます。柏手を打ち、拝んでいるのです。これはもう、神事であり祭りであると言わざるをえないでしょう。

 そして到着地・東京の様子です。
 「明治天皇が東京に到着したのは、10月13日である。天皇に供奉する親王、公家、諸候は衣冠帯剣で都入りした。三等官以上の徴士は直垂帯剣で、いずれも騎馬だった。 天皇の行列は増上寺で小休止し、ここで天皇は鳳輦に乗り換えた。行列は芝から新橋、京橋、呉服橋見附を経て、和田倉門から江戸城に入った。楽士が管弦を奏しながら行列を先導した。在東京の三等官以上の役人及び諸候は、坂下門外に列をなして行列を迎えた。未の半刻(午後三時頃)、天皇は西城(西の丸)に入った。この日、幾千万という民衆が天皇の行列を拝観し、感涙して次のようにいったと言う。「図らざりき、今日一天万乗(いってんばんじょう、天下を統治する天子)の尊厳を仰ぎたてまつらんとは」と。」
東京でも、幾千万もの民衆が天皇の鹵簿を一目見んと参集してきて大騒ぎだったそうですが、鳳輦が近づくにつれ、ざわめきは水を打ったように静まり、みんな鳳輦(天皇)に向かって拝礼をくり返し、感動の涙を流していた、と伝えられています。

 さて、道中の天皇についてです。出発した9月20日の未の半刻(午后3時頃)、行列は大津に到着し、大津を行幸最初の宿(行在所・行宮、旅先の仮御所)とします。大津の宿の天皇について、キーンは次のように述べています。
 「この日、(これは実は東京行幸の途中立ち寄ったすべての土地で行われることになるが)天皇は沿道にあるすべての神社に幣帛(へいはく、お供え)を奉じるよう命じた。さらに高齢者に金を与え、孝子、節婦、義僕婢(ぎぼくひ、忠実な下男下女)また公益事業の功労者を表彰した。疾病、遭難、困窮者には施しを恵んだ。」
 その注釈として。「大津で下賜された金額の内訳が出ている。りきという女は姑に孝養を尽くした嫁の鑑であり、夫安兵衞の妻としてもよく婦道を守った。りきは、そのあっぱれな振舞いのために二千疋を下賜されている。ほかに合計358人の老人が下賜を受け、70歳以上には二百疋、90歳を越える一人には五百疋が与えられている。」

 功労ある者については褒め称えてその労をねぎらい、病いやお金で苦しんでいる者には施しを与えて慰める――これらのための出費は大変な額にのぼったことでしょう(大坂・京都の商人が負担したとされていますが)。
 それも大変ですが、この当時は、宿泊・食事にしてからが、三千三百人もの人間を一手に引き受けられるような規模の旅館はなかったでしょうから、分宿だったと思うのですが、その段取りなどは、どうしたのでしょうか。それとも、参勤交代とかの大名行列で、そのあたりのノウハウはすでにあったのでしょうか。

 とまれ、明治新政府の中枢を担う岩倉具視・木戸孝允・大久保利通ら総勢三千三百余人が、京都から東京までの道中を歩き通しました。 24日をかけた「海内一家東西同視」の行進は、新しい「天皇の御代」の始まりを告げるとともに、その来るべき時代の何たるかを天皇ご自身が身をもって伝える、またとない機会でもありました。
 その際、政府中枢がかくあれかしと願う天皇像の満たすべき条件とは、およそ次の三点だったのではないでしょうか。
 ①「億兆の父母」として天皇は、億兆「赤子の情」を知り、「億兆を安撫」する存在でなければならない。
 ②そのために新時代の天皇は、従来のような、畏怖の後光に包まれた・近寄りがたい・名ばかりの君であることをやめて、本当の意味で「億兆の君」たるの所を得なければならない。
 ③そしてこれら二条件を満たすためには、天皇は神的儀式共同体――行幸という名の祭り――の主宰者であらねばならない。
 これら三点をクリアーしてはじめて、天皇は「天地ノ公道」(御誓文第三条)を行くことができるのだと、そういうことだったのではないでしょうか。