古井戸が終わり、始まる(2)

いしうらまさゆき[第2回]
2015年11月8日


「加奈崎芳太郎ジァンジァンラストソロナイト」にて(1999年12月22日、ジァンジァン=東京・渋谷)

「加奈崎芳太郎ジァンジァンラストソロナイト」にて
(1999年12月22日、ジァンジァン=東京・渋谷)



渋谷ジァンジァンの閉館
 ぼくが大学に入学したのは1998年。若貴時代の相撲ブームだとか、音楽では小室哲哉のメガヒット時代だとか、今思えばまだまだ昭和の匂いや線香花火の最後の輝きのような勢いもあった時代だったと思う。一方で前年には山一や北海道拓銀の破綻だとかバブル崩壊後の残務処理もあり、時代が今まで通り前向きには進んでいかないだろう、という不安なムードも生まれつつあったように思う。
 ぼくはそんなとき、大学でもメインストリートを歩くような気分にはなれなかったし、気取った雰囲気から距離を置きたい気持ちが強かった。4年間、携帯電話を持つことすら拒否して、友達から連絡が来なくなった(デジタル・ディバイドなんて言葉もあったけれど、こんな形でのコミュニケーション疎外が生じた初めての世代だと思う)、なんてこともあった。周囲のように要領よく社会を乗り切り、人を蹴落としていく、なんてのも趣味じゃなかったし。そんな気分と符合したのが自分の親の世代(団塊一寸下)が夢中になったフォーク・ギターや1970年代のフォーク・ソングだった。もちろんそんな世相を反映してか、「ゆず」に代表される「路上(弾き語り)ブーム」もあったけれど、その音楽や詩には、人間存在や生きていくことと向き合おうとする深刻さが感じられず、余りしっくり来なかった。そんなこんなで学校のはぐれ者だったぼくは、似た者同士が集まる自然発生的なギター・サークル「スナフキン」に集まり、誰が聴くでもない唄を歌っていた。今思い返しても、実にダメな感じだったように思う。
 そう、そのサークルにいた先輩のSさん。テレビで観た古井戸の加奈崎芳太郎のことがお互い気になっていた。ぼくはその前に1991年に忌野清志郎のプロデュースした『Kiss Of Life』というアルバムを手に入れていて、良く聴いていたものだから、そのアルバム以外に何の予備知識もないまま、渋谷のジァンジァンに向かったのだった。

「加奈崎芳太郎ソロナイト」は1999年のラストまで20年以上にわたって行われた

「加奈崎芳太郎ソロナイト」は1999年のラストまで20年以上にわたって行われた



 渋谷ジァン・ジァンは渋谷の山手教会の地下に1969年7月にできた小劇場である。歴代の出演者には淡谷のり子、高橋竹山から古井戸、泉谷しげる、はっぴいえんど、浅川マキ、などがいたし、1999年当時にも美輪明宏、宇崎竜童、早川義夫、灰野敬二、下田逸郎、山崎ハコ、そしてイッセー尾形や寺山修司の公演が行われるなど、いわゆる「60年代的」で「アングラ(アンダーグラウンド)」なサブカルチャーの色彩を色濃く残す場所だった。とはいえ、すれ違うのも大変な程の渋谷のスクランブル交差点を抜け、ネオンまぶしい公園通りを上っていくと、一瞬その入り口の存在に気付かないほど。どこだったかな、と行ったり来たりしたりもして。中に入れば、そこはまさに異空間だったように思う。
 初めて見た加奈崎ソロナイト。正直そう多くはない観客を前にして、売れる売れないとか確実にそういう次元ではなく、たった一人で、髪を逆立て、革ジャンでギブソン・チェット・アトキンスをアンプに繫ぎ、狂ったように掻きむしりながらシャウトしている姿があった。昔自分が書いた文章を一寸引用したい。

「世の中の不正やら、旧い伝統やら、ジョーシキなるものやら、自分の情けなさやらに、不満や疑念や不信や違和感を感じていた学生の頃。ソレラと本気で戦っている大人が果たしてどれほどいるのだろうか?なぜだかそんなことを、真剣に考えていた。そんな時出会ったのが加奈崎芳太郎の音楽。ストイックなまでの客観性を備え、人間の本能的なエネルギーを爆発させた音に、それこそ脳天を打ち抜かれるような衝撃を受けたものだ。何か答えをくれるような気がして通いつめた渋谷ジァン・ジァン、神がかったステージ、今も忘れられない。」

 そういえば再会ライブでチャボも言っていた。渋谷のフォーク喫茶・青い森で1970年に既に歌いはじめていた加奈崎の楽屋に、草鞋を履いた麦わら帽子の19歳のチャボが訪ねていった。その理由は「その店ねえ、にやけたバンドが割と出てたが、一人だけ汚ねえカッコしてたから・・・・・・それが大変魅力的でした!」。うーん。そこには全くブレというものがない! 声や音楽性ももちろんだけれど、生き様かな、そのときぼくの胸にずんずんきたのは・・・・・・。
 ぼくはSさんと、小劇場渋谷ジァンジァンが閉館するまで、加奈崎ライブ(*5)に通い続けた。
 1999年のラスト・ライブの時は、情けない話だが入場料を支払うお金がなくジァンジァンの階段でSさんと二人、地下から漏れ聞こえる音を聞いていた。すると唐突に酔っぱらったファンがドアを開けて登場し、階段の真ん中で往復ビンタされたり。そんな混沌とした渋谷の記憶。2000年代がスタートする直前の話になる。
 翌2000年2月には解体中のジァンジァンで古井戸2000名義のライブ(*6)が行われたが、打診していたチャボは現れず、橋本はじめと二人で気迫のステージを行った。

2000年2月のジァンジァンのスケジュール表。チケットには「古井戸ライブ」と記されている

2000年2月のジァンジァンのスケジュール表。チケットには「古井戸ライブ」と記されている


2000年9月、FFAレコードから『古井戸2000』としてCD化された

2000年9月、FFAレコードから『古井戸2000』としてCD化された


 加奈崎が東京での活動にこだわり続けたのは、ジァンジァンという「場」の存在が大きかったのだろう。その「場」が物理的になくなってしまう(*7)という現実を前にしてもなお、加奈崎は古井戸に決着をつけることができなかった。もちろん素晴らしいライブではあったのだが、当然ファンのもやもやは残ることになる。
 そして、決意の「さらば東京」(そのレコーディングにはチャボも参加した)にも歌われたように長年住み続けた東京をとうとう離れて、長野に本拠地を移してしまう。その後2001年、もう一度東京で歌ってほしいというファンが中心になって三鷹・武蔵野芸能劇場で行われたライブにSさんと一緒にスタッフとして参加させてもらう、という奇跡もあった。

*5:定例の「加奈崎芳太郎ソロナイト」が3カ月に1回のペースで行われていた。
*6:「古井戸再開ライブ」と銘打たれており、実際その後各地で古井戸2000名義のライブを行った。
*7:ジァンジァンという「場」の喪失は、単に60~70年代という時代の空気を真空パックした場所が無くなったことに留まらず、デジタルな仮想空間が新たな「場」として機能する時代に移行したという意味で象徴的であった。

どこにいる? 君は今どこに?
 しかし2002年、大学卒業前後になると、いよいよ世の中は世知辛くなっていた。加奈崎の歌に投影させながら感じていた社会への違和感はまさに現実のものとなっていた。ロスト・ジェネレーションなどと後年命名されることになる末期的な就職難の世代である。今思えば森~小泉~安倍ライン。規制緩和、民営化、自由競争、弱肉強食・・・・・・日本社会が新自由主義になだれ込んでいくタイミングだ。リフォーム会社に就職した友人が深夜1時まで営業を強要され、怒鳴られ続ける。こうした極度の成果主義で人間の尊厳は無視され、取り替え可能なコマ扱いされていく状況・・・・・・にわかに信じがたかったが、のちにこうした会社は「ブラック企業」と命名され、社会全体がブラック企業化していくことになる。こんな時代にまともな感性でいられる方がおかしいのかもしれない。さらに、2001年9月11日にはニューヨークで同時多発テロが起こり、続くイラク戦争に至る頃になると、無批判に称揚していたアメリカという国の正義への信頼も完全に揺らいでいった(加奈崎も「Brain」や「世界が壊れてゆく」で歌っている)。
 ぼくは結局その後、職場を7回変えたり紆余曲折があった。深夜12時に帰宅しようとすれば、朝イチまで仕上げろ、と仕事の発注がやって来たテレビの制作会社。初任給は10万円、茶封筒に入って、手渡しだった。激務にも関わらず21時以降に全ての社員を強制的に会社から追い出し、自宅での持ち帰り仕事を余儀なくさせた出版社。研修担当の女性は真隣に座っているのに、メールで仕事のダメ出しを食らわせてきた。絶対的な価値観が揺らぎ、経済合理性ばかりで人間性が破壊されていくような感覚を覚えていたぼくにとって、加奈崎の虚飾のない正直な歌には、なんとか人間でありたい(こんな風にいうのも変だけれど)、ヒューマンでありたいともがいていた自分に問いかけてくるものがあった。

「僕らはどうしよう どうすればいい 困った、困った」(「Brain」)

「僕はどこにいる? 君は今どこ? 僕たちはどうなるの? わかる? わかる? わかる?」(「月に腰かけて」)

「才(とし)をとった」(「OLD50」)

「俺達に許された たったひとつの贅沢 凡夫 凡夫」(「凡夫」)

「僕は大丈夫 僕は平気 どっかの誰かに ほめられなくても 生きてゆける」(「25/50」)

 再会ライブの「ちどり足」(*8)にも「どこにいる? 君は今どこに? どこで何してる?」という歌詞が付け加えられていた。どんな時も加奈崎の歌は「ちなみに今、君はどう思ってるの?」と自分の人間としての在り方を心の奥底に問いかけてくるようで・・・・・・。

「70年代的なるもの」へ
 唐突だけれど、2014年に経団連が発表した「選考にあたって特に重視した点」という資料がある(*9)。これなどに基づいて昨今の教育改革は進行しているのだけれど、そこには「コミュニケーション力」(82.8%)、「主体性」(61.1%)、「協調性」(48.2%)、「チャレンジ精神」(52.9%)、「リーダーシップ」(18.8%)なんていう項目が上位に躍る一方で、人間らしい特質だとぼくには思える「やさしさ」「思いやり」なんていう文字はどこを探しても見当たらない。辛うじて「感受性」はあったけれど、それを重んじる企業はたったの1.9%・・・・・・これでは就職するなら感受性を捨てろと言っているようなものではないか。これは昨今の文系不要論とかそういった無神経・無教養な議論にも直結するように思うのだけれど、何だか非人間的でとても不気味に思えた。
 そう考えると加奈崎芳太郎は、圧倒的にヒューマンで、ウェットな人だとぼくには思われる。そういう風に思えるところに惹かれ続けてきたのかもしれない。しかも、ヒューマンで、情に流されやすく、ウェットであることが、だんだん褒められも評価もされなくなった時代にあって。だからこそ余計に。そう考えると、加奈崎芳太郎の在り方や人間とは何か、を常に問い続ける姿勢に、ぼくはぼくなりの「70年代的なるもの」を感じ、それに今なおぼくはこだわり続けているのかもしれない。ほとばしる汗の匂いや、感情のぬくもりに、割り切れない心や切り捨てられない友情に。それらは身体性を廃したテクノな「80年代的なるもの」には決して属さない。RCは多分に意図的に「80年代的なるもの」たろうとしたわけだけれど。80年代に加奈崎の音楽活動が苦戦を強いられたことは、実によく理解できる。
 ラスト・ジァンジァンに一緒に通ったSさんとは「再会ライブ」を機に10年数年ぶりに「再会」した。彼も転職を繰り返しながら、ある種人間らしい生き方を求めて、紆余曲折があったという。「君は行く 僕は残る」(「陽炎」)に象徴的だったけれど、加奈崎はあくまで「待つ人」だったし、ぼくも地に足をつけて待つ、その生き方に共感してここまでやって来た。古井戸解散後の喪失感が、90年代までの加奈崎の音楽には纏わりついていたけれど、2009年(古井戸解散から30年目)の『Piano-Forte(ピアノ・フォルテ)』では男として、父として、世代のアンカーとして、慈愛に満ちた優しい目線が印象的だった。あと残すところはただ一つ、古井戸の歴史への決着・・・・・・と、これが待ちに待った挙句、ついに今回の再会ライブで果たされた。ではこれでもう全ては終わりなのか?というと・・・・・・「君はどうするの?」そんな問いがやはり心に残ったのだ。毎日朝は待っていなくてもやってくるわけだし。ぼくはやっぱりこれまで通り「70年代的なるもの」を追い続けることになりそうだ。人間的に生きる、ということを加奈崎芳太郎の歌を通じて模索してきたように。ぼくもぼくなりのやり方で、それを切り拓く時がやってきたのかもしれない。

*8:『古井戸の世界』所収の楽曲で1972年10月にシングルカットもされているのだが、Em B7 Emというコード進行にヴァイオリンが絡むアレンジは、直後の1973年にかぐや姫の「神田川」で引用されることになる。「神田川」はアルバムの中の1曲に過ぎなかったものだが、シングルカットして大成功を収めている。ヴァイオリンは両曲ともに武川雅寛(はちみつぱい)の演奏。
*9:日本経済団体連合会(2014)「新卒採用(2014年4月入社対象)に関するアンケート調査結果」2014年9月発表。(https://www.keidanren.or.jp/policy/2014/080_kekka.pdf)



2015年11月1日
古井戸が終わり、始まる(1)


いしうらまさゆき
1979年東京生まれ。シンガー・ソングライター、音楽雑文家。学習院大学を経て立教大学大学院修了(比較文明学)。1999年にソニー・ミュージックエンタテインメントのコミックソング・オーディションに合格。2011年に『蒼い蜜柑』(KAZEレーベル)でデビュー。2015年には4枚目のアルバム『作りかけのうた』(MASH RECORDS[ウルトラ・ヴァイヴ])をリリースした。レコード・コレクターとしても知られ、芽瑠璃堂マガジン「愛すべき音楽よ」も好評連載中!