天皇について(27)

たけもとのぶひろ[第79回]

由利公正

由利公正

■御誓文起草にいたる諸事情と貢献者たち

 薩長など武力倒幕勢力は、慶応3年12月9日、王政復古の政変を断行し、公然と「公議=政府」を名乗り、諸事万般について「御一新」を行う旨、宣言しました。ただ、宣言はしたものの、どのような内容の「御一新」を行うか、その「統治理念=国是」みたいなものは提起するには至っていませんでした。国の基が定まらないとなると、国内統治の正当性を主張できないばかりか、諸外国に対しても新政府の正当性を承認させることができません。したがって、この時点における新政府としては、旧幕軍に対して完全な軍事的勝利をおさめ、もって全国制圧の事業を成し遂げることが先決問題でしたが、その一方で、掲げるべき「国是」の内容を吟味し確定していく作業もまた、差し迫った課題でした。

 新しい国家を立ち上げるに等しい、このプロジェクトは、そもそもの話、言い出しっぺはだれなのか、また協議とか会議とか、その類いのものがあったのかどうか——それらのことはわかっていません。「御誓文の第一条」に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スへシ」とありますが、 “広く会議を興して・議論百出の末・公論を決した” というような形跡は見あたりません。

 それは、ひとつには、「公議=政府」を名乗ってはいても、いまだその体をなしていない段階でもあることから、物事を決定するプロセスとかシステムとか、その種のものはいまだ確立されていなかった、ということなのかもしれません。
 あるいはまた、「国是」の確定ということは、統治行為全体の “扇の要” みたいなところを確定しようとする営みだけに、公の場で議論すると立場や利害が衝突して決まることも決められない事態にもなりかねません。そういう懸念から万事を水面下で進める決断をくだしたのかもしれません。

 とはいえ、御誓文の起草に直接関与した人物はわかっています。越前藩出身参与・由利公正、土佐藩出身参与・福岡孝弟、長州藩出身参与・木戸孝允、の三名です。公卿参与の岩倉具視、議定兼副総裁の三条実美、両名の貢献もあったとされています。
 由利公正が原案を起稿し、福岡孝弟がこれに検討を加えて修正稿とし、木戸孝允が最終的に総合的な判断のもとに決定稿を作成しています。なお、由利公正と木戸孝允は両名とも、東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視のもとに作成原稿を提出しています。原稿の提出先が岩倉であった点から推し測るに、御誓文確定事業の言い出しっぺ・総元締めは岩倉具視だったのかもしれません。
また、福岡の修正稿が提出されなかったのは、もともと提出を期待されていなかったからではないでしょうか。

 木戸孝允の貢献は、実は「国是」の内容確定作業における総括役に止まるものではありませんでした。それは、松尾正人著『木戸孝允』(吉川弘文館)における次の指摘から読みとることができます。
 「この「国是」の検討については、総裁局顧問に任官した木戸孝允が、三月に「国是一定に関する建言書」を作成し、改めて具体化をはかった。新政府の「前途の大方向」確立の急務を喚起している。」
これによると木戸は、「国是」立ち上げ事業全体の推進役でもあったことが分かります。

 また先に、議定兼副総裁の三条実美の貢献もあった、と指摘した点についてここで触れておきたいと思います。他でもありません、「五箇条の御誓文」という「国是」のタイトリングについて、です。由利公正はこれを「議事之体大義」としていました。福岡はこれを「会盟」と改めました。「会盟」とは、諸候があい会して盟約を結ぶことを意味します。これを額面通りに受けとると、どうなるか。「天皇」はどこかへ吹っ飛んでしまい “幕藩体制下の諸候会議の盟約” になってしまいます。「会盟」は新政府の本質を反映していない、「誓」に修正すべし、と示唆したのが三条だとされています。もちろん木戸に異議のあろうはずがありません。――という経緯があって、「誓」が「御誓文」となり「五箇条の御誓文」となったといいます。したがって、「五箇条の御誓文」という「国是」のタイトルは、中身が決まってのちに固まったものだということになります。

 はじめにタイトルありきではなくて、最終的にタイトルが決まるまでのプロセスがあったという事実について、ぼくはなにかしら好ましい印象を受けます。「広ク会議ヲ興」すことができず、たとえ水面下の作業を余儀なくされたにしても、一方的に下されたものではないという点に救いがある、と感じました。

 御誓文について考えてきて “それにしても、どこかヘンだなぁ、訳がありそうだなぁ” と感じてきたことがあります。三人の起草者の出身藩がどうして越前藩、土佐藩、長州藩なのか、ということです。このことについて考えたいと思います。

 起草者三名は、昨日まで忠誠を誓っていた藩主を異にします。そこから、幕府・慶喜に対する立場にしても、新政府に対する考え方についても、異なるところがあるのが当たり前でしょう。列候会議から小御所会議にかけて、三者の帰属する藩がどのような立場をとっていたか、ここで簡単に見ておきます。
 福岡孝弟の土佐藩・藩主山内容堂は、生粋の公武合体論者にして慶喜擁護の佐幕派です。由利公正の越前藩・藩主松平春嶽は、旧幕府政権と新政府の仲立ちを模索する点で中立的な、しかしどちらかというと親幕府的な公議政体派と見てよいと思います。なお、両者は一致して、「慶喜の大政奉還による時局の収拾」を図ろうとしていました。
 木戸孝允は長州藩。その藩主毛利敬親は、当時、官位剥奪・謹慎処分に服する身であったため(「禁門の変」の報復処罰)、それらの会議には出席していません。とはいえ、当時の長州はすでに薩摩とのあいだで軍事同盟を結んでいましたから、長州藩の立場は薩摩藩のそれと同じく武力倒幕派として旗幟鮮明であったと言えましょう。

 このように起草者三名は、出身藩が違いますし、藩論も違います。思惑の違いだってあったでしょう。これらの違いについて、「国是」確定事業のキーマンたち――岩倉や三条や木戸――は、いったいどのように考えていたのでしょうか。彼らの政治的見通しみたいなものを以下に指摘します。
 第1に、旧藩以来の思惑の違いがある以上、その違いから常に反政府勢力が生まれる危険性がある。その危険性をあらかじめ阻むためには、その違いを超えた協力を取りつける必要がある。
 第2に、そのためには、あえて中立派や佐幕派など倒幕派批判勢力を、この「国是」確定事業に参加させなければならない。彼らの協力・参加は、必ずや新政府の権力基盤を盤石ならしめるに違いない。
 そして第3に、「国是」事業を始動、推進、総括して、最終的にその内容を確定するのは、薩長・倒幕派が担う新政府の責任でなければならない。

 このようにみてくると、「国是=御誓文」の確定事業というものが、新政府を立ち上げるプロセスにおいてどうしても避けて通ることのできない関所であったことがわかるような気がしてきます。この関所を越えることがいかに困難な事業であったか――後続のぼくたちでも推し測ることはできます。しかし、歴史の事実が示すように、木戸たちは、越えがたいこの関所を越えて、実際に「国是=御誓文」の内容を確定し、それをお披露目する儀式をもやり切っています。

 「五箇条の御誓文」へといたる筋道はこのようなものであったのであろう、というふうな、その程度の理解はできたと思うのです。ですが、実感としてはなかなか理解できない部分もあります。最後に、この点に触れておきます。

 「国是=御誓文」確定事業が始動して最終的にその内容が確定するまでのあいだ新政府軍は、引き続いて旧幕府軍との内戦状態にありました。慶応4年1月7日、徳川慶喜征討の大号令が下され、新政府軍は錦旗を掲げ、江戸へ向かって進軍します。そして、その東征のさなかに「御誓文」お披露目の儀式が行われたのでした。
それが現実ですから、佐幕派・親幕府勢力と倒幕派・新政府軍が内戦状態にある、その最中に、彼らは「国是=御誓文」起草の作業に従事していたことになります。
由利公正の越前藩は中立ですから、どちらについていたかは分かりませんが、福岡孝弟の土佐藩は佐幕派ですから幕府軍に属することになるでしょう。一方、木戸孝允の長州藩は新政府軍です。ですから、敵対関係にある者が同じ一つの事業に就いて力を尽くしていたということです。
 どうしてそれができたのか、ぼくが実感として理解できないのは、この部分です。この問いに直面するのは、後日を期したいと思います。

次回は、「五箇条の御誓文」の「第一条」を考えます。